ー2015年ー

2015年

12月

27日

経営者意識の覚醒 2 

新規事業であるサ高住「フラワーホーム」を運営するにあたり、運営実施計画を緻密に策定していたつもりではあったが、竣工引渡しを受けてから今で約3ヶ月、全体の進捗状況を見渡すと、想定していた手順のようには物事が進まなかったり、計画していたスピードよりも遅かったり、目標の数値に届かなかったりなどがあり、また想定外の事も少なからず発生し、己の力不足と指導力の足りなさを歯痒く感じている。

 

しかしその逆で、想定していた以上だったこともある。

経営を行う上で必要とされる要素は「ヒト」「モノ」「カネ」「情報」の経営資源であるが、

例えば「ヒト」に関して言えば、賃金以上の強い意志と信念に基づく働きをしてくれている人材がいる。身を粉にして日々の業務に携わってくれている人材や、私が気付かなかった所や閃かなかったアイデアを提案してくれたり、有効打になるであろう企画等を次々に打ち出してくれる人材も居る。

確かに会社が求めるレベルに到達していない人材もいるが、向上心がある限り、今後の社員教育の如何によっては、その頑張りに期待が持てる。

「モノ」に関しても、装飾品等の私財や、私物のイルミネーションの提供を申し出て下さってまでも施設作りに貢献して下さっている方もいる。

「情報」に関して言えば、当社の足りない部分、出来ていない部分を御指導下さる方、業界の流れや市場動向の情報を提供してくださる方、地域の方の会合や親睦会等に呼んで下さったり、同業の各社をご紹介して下さったりと、関係先の「輪の広がり作り」までご支援して下さる方がいる。

その他にも、当社の社員ではないのに、当社のために心血を注いで励んでくれた多くの方々がいる。

師匠と師匠の会社のスタッフの方においては、どれほど私を導き、また当社を育て、応援くださっていることだろうか。

こうした方々に共通するのは、「フラワーホームを良いものにしたい」という思いや、丸竹や私を「伸ばしてやろう」という「義」の思いである。

 (※義 利害を捨てて条理に従う。公共のために尽くす気持ち。)

ご指導ご支援ご協力してくださる皆さまの「義」に対して「恩返し」するには、今度は私が「義」を持って経営を行い、フラワーホームや丸竹の事業を通じて社会に役に立つ貢献をし、そして賜った「義」を連鎖させて行くことしかないと思うのである。

 

前回のブログで、「今年に入り、心の持ち方の変化が生じ始めた。」という事を書いたが、その変化とは、今までは恥ずかしながら、得した時や好調な時や折々にしか思い浮かばなかった「感謝」が、損した時でも好調でない時でも、いや、むしろそんな時こそ強く感謝の念が湧き起こるようになったことである。

新規事業なので当たり前と言えば当たり前かもしれないが、冒頭に書いたように、現状は思い通りにいっていない事も多い。

思いがけないほど多くの方達のご厚情やご支援を受けてなお、思い通りにいかないのだから、もしも協力者も支援者も無く、孤軍奮闘状態だったならば、現状よりももっと思い通りにならなかっただろうし、目標の数値に届かなかったりしていたのだろうと思うと、

「もう、ホンマのホンマに有り難いなぁ!」と、天井に向かって、知らず知らずに手を合わせてしまうのである。

新規事業を展開出来るのも、従来の事業に関連する全ての方々のお力添えがあるからである。

昔の賢人の言葉に「商売は感謝に始まり感謝に終わる」という言葉があるが、その言葉の真髄をこの歳になって初めて知った気がするのである。

ようやく私も経営者としての本当のスタートラインに立てた心境である。

 

 

このブログが2015年の締めのブログとなります。

本年中は格別のお引き立てを賜り、まことに有り難く厚く御礼申し上げます。

来る2016年も重ねてのご指導ご厚情の程、よろしくお願い申し上げます。

益々の精進を重ねる覚悟でございます。ありがとうございました!深謝!

 

2015年

12月

20日

経営者意識の覚醒 1

本年より「第二の創業」をスローガンに創業時の原点に立ち返り、「もう一度、会社を0から作るのだ!」という固い決意のもとにスタートを切った訳であるが、日々仕事をしていく中で徐々に今までとは違う「心の持ち方の変化」が生じ始めた。

その事については次回のブログで書くとして、今回は40歳頃に私の中で起きた「大きな心の変化」について書こうと思う。

 

経営者を志した10代の終わりころから40歳頃までの約20年間は、「仕事イコール競争」だと思って生きてきた。

早くに経営者になった為、ハングリー精神や負けん気が強く、そのうえ心の中は「年齢が若いので舐められてはいけない!」という気持ちがいっぱいで、自分を大きな人間に見せようと不遜な態度を取ってみたり、生意気な口を利いたりなど、経営者というよりは「突っ張り」の延長線上でしかない無礼な人間だったように思う。

当時は、競争に勝つことでしか自分自身の存在価値を実感することが出来なかったのである。

昔の自分を思い出すと、恥ずかしくて赤面してしまう。そして同時に、私と関わりのある全ての方への感謝の気持ちで胸が一杯になる。

というのは、普通ならば誰からも相手にされないような生意気な人間であった私に、

「お前はただのアホじゃない!」とか

「お前のクソ生意気な態度は俺の若い時にそっくりやなぁ!」と言いながら、こんな私でも相手にして声を掛けてくださる方が沢山おられた。

「競争だ!」「戦いだ!」と四方八方に突っ張っていたつもりであったが、実情は皆さまの寛大さと厚情に支えられて生きていたのである。

 

その後40歳の時に周りの方からの助言と、自分でも考える所があり、自分という人間を見つめ直した。

すると、突っ張って生意気に虚勢を張り「舐められてたまるか!」という生き方は30代で終わりにしなければならないのではないか?!いつまでもこの様な人間でいては、ここから先、人としても経営者としても成長することが出来ないのではないか?!という考えに思い至った。

これから先、私に必要なのは「信頼の積み重ね」であると思った。

信頼を得るのは、経営者として真面目に仕事に取り組む姿勢であると考え、自身を改めた。

「信頼を得ること」に重きを置くと、私の関心は、競争で勝つことよりも三方良しの追求へと移行した。

すると次第に、会合などもあちらこちらから招待を受けるようになり、業務環境の変化が次々に起り、会社が存続出来ているのは「己の力」ではなく「まわりの支え」であることを自覚するに至った。

いつの間にか「仕事イコール競争」ではなくなり「仕事イコールお陰さま」と思うようになった。

 

(続く)

 

2015年

12月

13日

父との思い出

私の育った大阪府泉南市樽井は大阪府のほぼ南端にあり、車で南に約5分、西に約10分走ると和歌山県との県境に差し掛かかる位置にある。

大阪と言ってもかなりの田舎町である。

今でこそ、関西空港の対岸都市として大規模商業施設や高速道路・鉄道網等のインフラも整いつつあるが、市内の中心部より少し離れるとまだまだ田舎町の一端が即座に見て取れる。

和歌山との県境の山に少し入れば、昆虫の宝庫である。

自然のままの手付かずの森林が多く残っており、イノシシやタヌキ・キツネは言うに及ばず、オオタカの営巣地やオオサンショウウオの生息地が発見されることがあったり、まれに月の輪熊や鹿だって出る始末である。

 

そんな田舎であるから、私が子どもの頃には、半径500メートル以内の近所に昆虫採集を出来る場所が幾つもあった。

父と一緒に玉網と虫カゴを携えて、昆虫採集をした記憶もある。

当時の父は子供である私の目から見て、少なからず昆虫採集の名人であった。

私がいくら取ろうと思っても、偶然に玉網に入った時しか取れないのに、父が玉網を持つと、あっという間に虫カゴが一杯になった。

それどころかトンボは勝手に父の持つ玉網に飛び込んでくるし、蝶々は取ってくれと言わんばかりに父の面前をフワフワ飛ぶ。バッタも父に玉網で掬い取られるまでジッと大人しくしているのである。

これらの光景が当時、子供心に不思議でならず魔法でも使っているように見えた。

その後、確か小学3年生の夏休みだったと思うが、昆虫採集の奥義を父が教えてくれることになった。

まずトンボだが、これは縄張り意識が強く、いつも自分の縄張りをパトロールしながら円を描くように飛ぶ習性があると教えてくれた。

そのため玉網の棒の端を持ち、空に向けてクルクル回していると敵の侵入と勘違いして近付いて来て勝手に玉網に入るのだと教えてくれた。

蝶々は、草むらの同じコースを次々に飛んでくる習性があり、これを蝶道と言うらしい。

ここで待っていると採集するチャンスが次々に巡ってくると教えてくれた。

要は「追わずに待つ」という昆虫採集の奥義である。

またバッタは目が良く視野が広いので、真後ろから出来るだけ態勢を低くして、無理に近づかずに、息を止めて1メートル手前から刀を振り下ろす要領で掬い取るのだと教えてくれた。

 

父は当時、昼夜隔週交代の勤務体制の工場に勤務していたので、日中に睡眠を取る日も多く、あまり遊んでもらえる機会は無かったが、少ない休みを使ってこの他にも「釣り」「竹の子・キノコ・マッタケ狩り」「自然薯掘り」「栗やぎんなん拾い」「薬草の採集」などを私に教えてくれた。


2015年

12月

06日

はたらく

既存事業に加えて新規事業の立ち上げなどもあり、ここ数年は人生の中で一番よく働いているように思う。

そこで本日は「はたらく」ということの意味を自分なりに再確認しながら考えてみようと思う。

まず思い浮かぶのは、毎日働けるのは、やる仕事があるからであろう。

これは当社に関連してくださっている全ての方々のおかげであるから、本当に心の底から御礼を申し上げます。

次に思い浮かぶのは、働けるのは自分自身の肉体が健康であるからであろう。

これは健康な肉体を遺伝的に与えてくれた父母を含めてすべてのご先祖様に感謝申し上げると共に、日頃からの健康管理を怠ることなかれと再確認した次第である。

 

一般的に「はたらく」とは賃金労働のことを表していると思うが、もっと広い意味では対価(賃金)が発生しないものも「はたらく」である。

ボランティアをすることも「はたらく」であるし、子どもが親の手伝いをすることも「はたらく」であるし、友人のために何かをお膳立てすることも「はたらく」である。

そう考えると「はたらく」とは個人が出来る社会貢献の総称でもあろう。

真面目にコツコツと「はたらく」ことは、知らぬ間に社会の役に立っていることなのかもしれない。

 

よく言われている言葉で、

「はたらくとは、傍(はた)に居る人を楽(らく)にする」というものがある。

自分の「時間」と「労力」を使って手に入れた対価を、傍に居る人に「提供する」ということになる。

しかし、こちらが提供しているつもりが、形を変えた目に見えない対価を、実は自分が享受していたりする。例えばボランティアならば、自己の成長や社会的価値の創造などという対価を享受できる。

それに「お陰さま」「お互いさま」の文化のある日本では、人に提供したもの(金銭、物品、労力、義理、親切etc・・・)は人と人との間を循環しながらいずれ自分に帰ってくるものである。

人の為に何かをしているようでも、結局はそれが自分の為になるのである。

自分の利益のみを追求して働くのは、いつか虚しくなるのではないだろうか?

誰かの役に立ち、誰かに必要とされて、人間は初めて自分の居場所を得たと感じ満足出来るのではないだろうか?

企業も同じである。

昔は単に利益を生み出せば優良企業だったかもしれないが、現在、企業が置かれている社会的背景や経営環境を見渡すと、そういった次元で企業が評価される時代はもう過ぎつつあると思うのである。

現在では「社会の役に立っている企業か?社会から必要とされている企業か?」が今まで以上に重要視されるようになって来た。

その観点から、当社の新規事業である「サービス付き高齢者向け住宅 フラワーホーム」は、高齢者様へのサービスを通して若者の雇用を創出し、幾ばくかの社会貢献を果たすことが出来ればと思い立ち上げた次第である。

 

2015年

11月

22日

「すぐ!すぐ!すぐ!」「今!今!今!」

今回のブログのタイトルの「すぐ!すぐ!すぐ!」「今!今!今!」は、

年中、社員に言いまくる私の口癖である!

社員の方たちは、この口癖を聞く度にゲンナリしていることだろう。

 

私は、せっかちで短気である。

だから「あとで手が空いてからやろう」「明日やろう」「時間に余裕が出来た時にやろう」というのが出来ない性分なのである。

やらなければならない事を持ち越したまま布団に入っても、魚の骨が咽に残ったままのように気持ち悪く、それならば起きて、ちゃんと仕事を済ませてスッキリしてから眠りたいと思うのである。

体調が悪い時であっても、やらなければならない事を残したままだと、休む方が精神衛生に悪く、余計に体調が悪くなりそうなので休めない。

 

私は社員の方たちには、

「今日中にしなければならない事は午前中など時間の早いうちにしろ、

安全に係わることは後回しにするな、

ビジネスチャンスには賞味期限があるぞ、スピードが大事、

簡単な仕事だからと言って後回しにするな、簡単に終わるなら今すぐしろ、

お金に関することは後回しにするな」と言っている。

しかし体は1人につき1つしか無いのだから、どれもこれも後回しにするなと言ったところで、出来るはずが無いのも分かっている。

優先順位を付けて、順位の高い仕事から先に取り組んで行くのは、もちろんのことだが、

それでも私が、アレもコレも「すぐ!すぐ!すぐ!」と言うのは、

優先順位の低い仕事は「時間に余裕が出来た時にやればいいか」と思ってほしくないからである。

「時間に余裕が出来た時にやろう」と思っていても、そんなのいつになるやら・・・である。

時間に余裕が出来る時は、会社が下り坂になった時であろう。

 

時間は意識して作らないと出来ないものである。

どうしたら仕事の効率が上がるかを考え、ダラダラとなってしまわないように事務処理や書類整理などの仕事にも期限の目標を設けて、時間を意識しなくてはいけない。

そして優先順位の低い仕事は、暇になったらやればいい仕事ではなく、優先順位の低い仕事も、時間を作り出して、しなければならない仕事なのである。

後回しにしてしまった仕事というのは、視界に入らない状態にすると、そのままやるのを忘れてしまうことがある。

忘れないように大きく紙に書いて、やり終わるまで机の前に張り付けると良いのではないだろうか。

 

丁寧さが求められる仕事は丁寧に慎重にせねばならないが、ルーチンワークなどは効率やスピードを意識して、自ら時間を作りださなければならない。

重要度の高い仕事が優先順位の上位に来るのだから、それに注力するのは当然であろう。

しかし軽い羽でも多く積めば舟を沈めるという意味の「積羽 舟を沈む」という言葉があるように、

後回しにした優先順位の低い仕事が、いつの間にか積もって大きな事態になり、会社を沈めてしまう可能性だってあるのだ。

 

以上のような思いから、アレやコレやと、くちうるさい社長になってしまうのである。

 


①フラワーホームが全国賃貸住宅新聞様に掲載されました。

詳しくはコチラ>>


②フラワーホームが高齢者住宅新聞様に掲載されました。

詳しくはコチラ>>


③フラワーホームにて「人権講習会」を開催いたしました。

詳しくはコチラ>>


2015年

11月

15日

失敗談

人生には失敗はつきものである。

しかし失敗を通して学べることが多いというのも事実である。

また「失敗の繰り返しが人生である」と言っても過言ではないのが、人の一生ではないだろうか?

 

本日は、私の失敗談を紹介させて頂こうと思う。

それは今から25年程前の話である。

K株式会社というのがあった。(現在は業界再編と吸収合併がなされて、その名籍は無くなってしまった)

K社と当社は営業代行契約を結び、K社の担当T氏と私は、日本全国に当社の製品の代理店と販路を拡大すべくそれぞれ営業に飛び回った。

ところで当時は携帯電話が一般にも普及し始めたばかりの頃で、まだまだ高価なものであった。しかし当社は少ないギリギリの人数で営業していた関係上、業務の効率化を考え早くから導入していた。

K社は大手ということもあり、当社よりも数か月前には全営業マンが携帯電話をすでに手にしていた。

T氏と私は、まだ使い慣れない携帯電話を携えて、互いに競い合うように西に東へ出張を重ねる日々を過ごしていた。

 

それはT氏が仙台に居り、私が広島に居た日の朝に起った。

その日の午後、当社製品の入札があり、T氏より単価のオファーが私にあった。

私は事前に原価計算を済ませていたので、T氏に

「1枚当たり@2,000-/枚で入札してください。」と返答した。

T氏も「了解!」と手短に返事を返してきた。

当時の携帯電話の通話料金は今とは比べ物にならないくらい高額で、いつも出来るだけ要件を手短に話すようにしていた。

その後、夕方になりT氏より

「オファー通りに1枚当たり@1,000-/枚で入札して予定通りに落札しました。」と連絡が入った。

私は思わず自分自身の耳を疑い、青くなりながら何度もT氏に聞き直した。

しかし何度聞き直しても1枚当たり@1,000-/枚なのである。

そして結果、入札だったので単価を訂正することもできずに、この物件は赤字で納品することになった。

 

失敗は誰にでもあると思う。

しかし大事なことは、同じ失敗を二度繰り返さないことである。

その為には「なぜ自分達が失敗をしてしまったのか?」を厳密に検証する必要がある。

その失敗の原因が解れば後は簡単である。

「失敗した原因」を排除してしまえばいいだけのことなのである。

私たちが失敗した原因は、当日の朝、私は「にせんえん」と言ったが、携帯電話の電波を通してT氏に伝わったのは「せんえん」だったのである。

つまり「にせんえん」の「に」の部分の電波が飛んでしまっていて、T氏の耳に聞こえたのは「せんえん」だったのである。

この後、猛反省した私とT氏は、例えば2,000なら「にまるまるまる」と置き換えた上、互いに3回ずつ復唱を繰り返すことにした。

今ではメール等もあり、このような失敗は皆無であるが、当時は他社でも類似した失敗があったと幾度か耳にした。

さて皆さん!いかがでしたでしょうか?

これが私の数多い失敗談の中でも大きめであるが、ほんの一例である。


そしてこの話には後日談があり、「失敗仲間」となったT氏とは「失敗」という事柄を共有することによって近しくなり、その後も一緒に仕事をしていくうちに、同じ体育会系だったせいもあるが人生観を同じくする部分が有り、共感が生まれて、

K社を定年退職後に一昨年まで、当社の嘱託社員として65歳まで一緒に仕事をして頂いた。

「失敗は成功のもと」とよく言われるが、これはまさに「失敗から生まれた人の繋がりであろう」

  

※記載している落札価格は実際とは変更してあります



①フラワーホーム竣工式のご報告をUPしました。

詳しくはコチラ>>


②フラワーホームのプロモーションビデオとパンフレットが完成しました。

詳しくはコチラ>>


③フラワーホームがテレビ大阪で紹介されます。 

詳しくはコチラ>>



2015年

11月

08日

祖父との思い出、刀作り

今年も奈良国立博物館で第六十七回 正倉院展が先般より開催されている。

正倉院展とは、東大寺の正倉院に収蔵されている8000点以上のお宝の中から、毎年約60点ずつ一般公開される人気の展覧会で秋の風物詩のようなものである。

毎年心待ちにしておられる方も多いのではないだろうか。

 


正倉院展のニュースを見て、祖父とのこんな思い出が脳裏に蘇えった。

私の子どもの頃の夢は、刀鍛冶であった。

きっかけは5~6歳の頃、刀鍛冶のドキュメンタリー番組を見て、まず刀鍛冶の装束に一目で心を奪われた。そして火花を散らして鉄と戦う姿を、戦隊ヒーローとダブらせ憧れを抱いた。

やってみたいと思えば、実際にやってみなくては気が済まないのは、子どもの頃からであった。

早速、刀作りをするために「何かいい材料がないかなぁ?」と勝手に探したのが、祖父の商売道具である大工箱だった。

一時期、私は母方の祖父の家に預けられていたのだが、祖父が工務店を経営していた関係で、五寸釘と言われる長さが15センチ以上はゆうにある大きな釘が、祖父の大工箱の中に沢山あった。

そのうえ辺りを見渡せば、祖父の大工倉庫には金槌、大きなハサミ型の釘抜き、おまけに火を起こすための薪(たきぎ)も揃っている。

私は早速、祖父の家の前の溝渠に渡してある鉄板の上に薪を山積みにして、五寸釘を中に入れ、マッチで火を起こした。

新聞を丸めた紙筒で息を吹きかけつつ、轟々と燃える火を気長に見守った。

そろそろだろうか?と見当をつけて釘抜きを使い、恐る恐る火の中から五寸釘を取り出すと、テレビで観た通りに真っ赤になっていた。

それを鉄板の上で金槌を使い叩くと、子供の力でも徐々に形が変わっていく。

しかしもちろんすぐには刀のような形には、ならなかった。

ようやく、なんとなく刀のような形のものが出来たのは、約1ヶ月後である。その間、10回以上は焚火を起こした。

現代では考えられない、恐ろしいレベルの近所迷惑者であった。

それでもおおらかな時代であったのか、もしくは孫可愛さか、祖父は私を叱るどころか手伝ってくれ、

「かっちゃんは良い刀屋さんになれるなぁ」と褒めてくれた幸せな記憶がある。

話はそれたが、これで刀作りは完成ではなく、まだまだ工程は続くので、まだまだ焚火も続くのである。

上記のように約1ヶ月をかけて、なんとなく刀の形が出来ると、今度は焚火に何度もまたソレを入れて赤くしてから、横の川溝の水の中に入れて冷やすことの繰り返しである。

これもテレビで繰り返し同じ作業をしていたのを真似た。

それから次は、研ぐことである。

これも幸いにして、祖父の大工倉庫には様々な砥石があった。

しかし子供の力では、そう簡単に研げるものでもなく、完成したと納得出来るまでには、そこからまた1か月くらいかかったような気がする。

祖父に手伝ってもらいながら合計約3ヶ月以上をかけ、苦労の末ついに作りあげた私の刀は、やっとこさ新聞紙が切れるようなものであった。

 

なぜ正倉院展の話から、このような話になったのかというと、

天平時代の約1200年前は、今と違って電気も高度な工具もなく、おそらく道具は、私が子供時代に刀を作ろうとした時のそれと同程度か、それ以下の物であろう。

手作業で砂鉄から鉄を溶かして型に流し込んで作る鋳造(ちゅうぞう)すること自体だけでも凄いが、それを金槌で叩いては延ばし、冷えては固めて何度も焼入れを繰り返して強度を高めて作品に仕上げていくのである。

それは私の子供だましのような経験から考えただけでも大変な時間と手間のかかる作業である。オマケに正倉院の宝物には、その他にもさまざまな宝物に透かし彫があり、その硬い鉄を鏨(たがね)で彫って雅で繊細かつ精緻な模様を作るのである。

今のように電動工具がない時代にである。

まさにほとんどが、鏨と金槌とヤスリだけで作られたのである。

その作業も想像を絶するものであろう。それに、今の技術を持ってしても解明できない工程までもが施されたものもあるという。

一つの作品を作るのに数年かかった物もあると言われている。

まさに「天平の甍(いから)は技術にあり」と言われる所以であろう。

 

今のような何でも便利になった時代に、電気も高度な工具も無かった悠久の天平人の生活や技術に思いをはせ、また浸ってみるのもたまには心が素直さを取り戻し良いものであると思った次第である。


2015年

11月

01日

獅子奮迅

「仕事に取り組む姿勢」を社員たちに理解してもらうには、自分の背中を見せることだと考えている。

そのため獅子奮迅の働きを先頭に立ってしなければならないと常日頃から心掛けている。簡単に言えば日中の業務のみならず、朝の掃除から夜の戸締りまでである。

 

天理高校柔道部時代にこんな事があった。私が1年生の時のことである。

秋の国体が無念な結果で終わってしまい、3年生が戦列を離れて、1、2年生中心の新チームに変わり、来年度の全国大会を目指して練習を始めた矢先の出来事である。

当時の監督 故 加藤秀雄先生(9段)が、寮の一階の大広間に1、2年生の部員を集めて訓辞を述べられた。

「お前たちが全国優勝を目指すなら、執念を持ってとことんまで練習をやり抜くしかない」

「執念とは自分自身との戦いということだ」

「徹底的に練習をやり抜くことでしか全国優勝は見えて来ない」

「そのためには先生も、先生自身の執念というものをお前たちに見せてやる!」

というような内容であった。

加藤先生が話されていた時の鬼気迫る形相は忘れることが出来ない。

某大学で教鞭をとる、ある先輩(当時2年生)と今年になってこの話をしたが、その先輩もこの日の出来事を忘れていなかった。

そしてその日以来、加藤先生の指導は、指導者の先頭に立って、極限を私たちに求めるのに近い厳しさになった。

来年こそは!と並々ならぬ決意をされたことの一端なのか、大好きな酒も煙草も一切止められた。

そして生徒よりも早く道場に立ち、生徒よりも遅くまで道場におられた。その上、朝6時のトレーニングのみならず、夜10時以降の自主練習まで毎晩のように見に来られた。

まさに獅子奮迅とはこのことである。

 

自分は楽をして口ばかりの先生であったならば、私たち生徒は、あの苦しい練習を最後までやり遂げることなんて絶対に出来なかったであろう。

目標を達成することも出来なかったはずだ。

けれども先生の本気を鼻先に突きつけられたら、こちらも本気で対峙するしかなかった。

 

当時はただただ無我夢中で、言われたことに従っているばかりであったが、社会に出て、経営者となって働くようになり、あの当時私たち生徒が悲壮なまでに本気になれたのは、先頭に立つ加藤先生という獅子奮迅な牽引者がいたからであろうと思った。

 

当社の各事業部のリーダーたちには、逞しい牽引者になってもらいたいと願っている。

そのためにも私は誰よりも獅子奮迅な牽引者であろうと心掛けている。

 

2015年

10月

25日

貯金

仕事だけに限らず、スポーツや学問や趣味にも通じることだが、「努力と結果」のパターンを上げると

①   努力以上の結果だった時

②   努力並みの結果だった時

③   努力以下の結果だった時

この3つに、大別することが出来ると思う。

時として「運」や「偶然」が結果に多大な影響を及ぼすことがあるのも事実であるが、今回は「運」や「偶然」が作用した場合は抜いて考えてみたい。

 

私は、努力を続けていれば必ず、心と体が健康である限り「良い結果」に結びつくという信念を持って日々、企業経営に携わっている。

まず①の「努力以上の結果だった時」の場合であるが、過去に③のような「努力以下の結果だった時」が度々起っていたはずである。その度に重ねた努力がたとえ結果に繋がらずとも経験として残るはずである。その経験は重ねれば重ねるほど、スキルという名前の貯金になって行くと思う。

つまり努力以上の結果に繋がったのは、スキルという名前の貯金を使用したからではないだろうか?と考えるのである。

次に②の「努力並みの結果だった時」の場合であるが、これは貯金に例えると増減が無く、プラスマイナス0状態であろう。

そして③の「努力以下の結果だった時」の場合であるが、たとえ上手くいかなくても心が折れる必要も腐る必要もない。

そうそう簡単に、努力がダイレクトに結果に繋がるはずがない。今は未来に向けて貯金中と思えば良いのである。

「今」という「点」で見れば失敗に終わった結果も、長い目で見れば、次の未来に繋がるスキルという名の貯金なのである。

「結果に結びつかなかった努力」を積み重ねた貯金があるからこそ、①の「努力以上の結果だった時」のような日もあるのだろう。

  

野球界の王貞治さんが、こんな風に言っている。

 

『努力しても報われないことがあるだろうか。

たとえ結果に結びつかなくても、努力したということが必ずや生きてくるのではないだろうか。

それでも報われないとしたら、それはまだ、努力とは言えないのではないだろうか。』

 

2015年

10月

18日

健康という責任

周りの皆に、「まだ、そんなものを使ってるのか!?」などと馬鹿にされながらも、約4年半に渡り使い続けていたガラパゴス携帯が先般ついに壊れ、

そして遅ればせながら、私もようやくスマホに買い替えることになり、やっと世間のデジタル化に追いついた。(笑)

実は先んじてスマホに買い換えた同年代たちからは、端末操作が上手く行かず

「壁に投げつけそうになるぞ」とか「床に携帯をおいて足で踏みつけそうになったぞ」などと脅されていたので、先入観が先走り、ただ単に「端末の操作を覚えるのが邪魔くさかった。」というのが古い携帯を使い続けていた理由である。

やっぱり実際に買い替えてみると皆が言う通り、慣れるまでは悪戦苦闘した。

しかし、それとは反対に良い面もあった。

私のスマホには便利なことに万歩計が内蔵されていたのである。

何事にも凝りやすい性格の私は、この機能を見た瞬間にヤル気に火が付いた。

その日以来、最低でも健康のために一日5,000歩(目標は一日10,000歩)以上は歩こうと心に決めた。

 

ところで私は、若いころから怪我は多かったが、特に大きな病気らしい病気はあまりした記憶がない。どちらかと言えば子供の頃から少林寺拳法や柔道で体を鍛えてきたという自負もあり、体力と健康には自信があると思って生きてきた人間である。

それでも50歳を目前にした頃から、健康について幾ばくかの不安を抱くようになった。

というのも、たとえ健康自慢の達者な方々であっても、やはり50歳を越えたぐらいからガンや脳梗塞・心筋梗塞・糖尿病等の成人病を患う様子を多く見てきたからである。

40代のうちは簡単な健康診断で済ませていたが、もっと精密な検査をする人間ドックを受ける必要があるのではないか?と考えるようになった。また、そう考えていたタイミングに知人から、会員制で中間検査や簡易検査も含めると約3か月ごとに検査するプログラムが組まれている健康管理クラブの存在を案内された。

そしてその健康への不安を払拭すべく入会を決意して、定期的な健診を受けるようになったのである。

 

近年になってようやくであるが、健康というものが一番大切だと年齢と共に心から思えるようになって来た。

万が一にでも私の身に何かあったら、お得意様をはじめ、スタートを切ったばかりの「新規事業 フラワーホーム」の計画や社員・関係者の方を含め、当社に関連するすべての方に多大な迷惑をおかけすることになるであろう。

今のところ加齢による血糖値の高さは若干あるが、さほど気になるところは無い。念のため遺伝子検査をしたが遺伝的な糖尿病リスクも無かった。

しかしそれでも年齢的に50歳を超えると油断はやっぱり禁物である。

健康管理はどれだけやっても、やり過ぎということはないはずである。

そのためにも毎日、最低5,000歩は歩くことを心掛けて、(まだ打ちっぱなし2回とハーフで回っただけであるが)約25年ぶりにゴルフも再開した。

 

経営者という立場にある自分自身にとって、健康であるということは「果たさなければならない最低限の責任の一つ」だと、この頃になって強く思うようになった次第である。


2015年

10月

11日

落し物

先般、当社の女子社員が翡翠(ヒスイ)を拾った。

見ると、指輪の土台から外れて落ちた翡翠であろうと思われた。

落ちていた場所は、当社のシニア事業部が入るビルの駐車場とのことであった。

同じビルの中には当社のリラグゼーション事業部(エステサロン)も入っているし、他社の福祉事業所や整骨院、高齢者の集うカラオケサロンなども入っていて、落とし主は、きっとこのビルを利用している高齢者の女性だろうと思い、「拾得物のお知らせ」のチラシを写真付きで作った。

そして暫くの間、ビルの玄関にチラシを張り出すと共に、コピーをビル内の全店にお配りした。

なぜ?すぐに届けずに暫くお預かりすることにしたのかというと、泉南市には警察署が無く、隣町の阪南市にある泉南警察署まで高齢の方が取りに行くのは大変だと考えたからである。

しかし結果として落とし主からの連絡は無かったので、結局は警察署に届け出た。

 

このことがあって、実は子供の頃のある出来事を思い出した。

確か小学2~3年生の冬の夕方だったと思う。

近所の駄菓子屋さんに行った帰り道に家路を急いでいると、木枯らしに吹かれて何か丸まった紙のようなものが偶然、私の足元に転がってきた。

40年以上前の当時は道路も今ほど舗装も清掃もされておらず、一歩、路地裏へ入ればゴミが結構散らばっていた。そのため普段なら砂煙にまみれた紙クズなど気にも留めなかったと思うのだが、この時はなぜか気になった。

足元の丸まった紙をよく見てみると、それは千円札のようであった。

すぐさま拾い上げて確認し、本物だと分かると丁寧に折り畳み、ポケットの奥にしまい込んで、家へと走って帰った。

珍しく在宅していた父に

「千円札ひろったで!暫くの間は、おこずかいに困らんわ!」と得意満面で千円札を広げて見せた。

すると父は

「今日のお前は凄く運が良い日やな!良かったな!」

と言いながら、おもむろに自らの財布を取り出し、千円札を1枚引き抜いた。そして

「この千円札をお前にやるから、その拾った千円札は明日になったら交番に届けりや」と言った。

子どもの私にとって、父の言うことは絶対であったので、言われた通りに翌日、交番に届け出た訳である。拾得物預り書を警察から貰って、それを父に見せると、今度は

「半年たったら貰えるぞ。そしたらその千円札はお前のもんや。そしたら昨日渡した千円は返してや!」と言われた。

なんかややこしいな!と思ったが頷いた。

その後、半年経ってもう拾ったことさえ忘れかけてしまっていたころ、警察から引き取りのハガキが私宛に届いた。

翌日、父と共に警察署に千円札を受け取りに行った。

私が署員の方から千円札を受け取り父に渡すと、また父はおもむろに自分の財布から、もう1枚千円札を出して合計2枚で2千円にして、署員の方に

「赤十字か福祉か、何かに役立ててください」と言って差し出したのである。

子の前で良いところを見せようとする父の気持ちを察して、署員の方は私に向かって大層父を称えてくれ、私は素直に誇らしい気持ちになった。

実はこの話には後日談があって、大人になってから父とこの時の出来事を改めて話すと

「あれは俺が子どもの時に大人がやってるのを見て、俺も大人になったらいつかやってやろうと思ってたんや」

という事であった。 笑

 

2015年

10月

04日

ビジョンの確立

以前「3年先の利益」と言う題でブログを書いた。

今回はもう少し掘り下げて、「事業部ごとのビジョンの確立」について書きたい。

 

当社の場合は、テキスタイル事業部、フェルト事業部、フレスコ事業部、リラクゼーション事業部、シニア事業部の5つの事業部がある。

それぞれの事業部が各業界の中のどのランクに居るのか、消費者動向やニーズ、競合の情報を集めて精査のうえ、自社の事業部を分析しポジションを知る必要がある。

自社事業部のポジションによって、例えばこれからシェアの拡大を目指すのか、それとも差別化を図るのか、もしくは低コスト化を図り業界に存続して行くことを目標とするのか、あるいは業界の中の特定の狭い分野にだけ狙いを定め集中を図るのかなど、「どこへ行こう」としているのか営業戦略を立てて、「相応しい目的地」を決定していかなければならない。

またその次には「目的地までの道順と方法」の策定である。これもまた具体的に目に見える形としてしっかりと決めるべきであろう。

また共に同じ目的地を目指すメンバーと意識を1つにして力を結集させるためにも「すべての情報の共有化」が必要となってくる。

もしも目的地までの道順と方法がしっかりと共有化されておらず認識に相違が有ったとしたら、企業としてベクトルが分散化されてしまう。

そうなると目的地に到着するのは難しくなる。

ベクトルを1つにするために当社の場合は、具体的な方策に特化したレポートを、まず各事業部長から私に提出してもらい、それを基に事業部門別会議を重ねた後に、全体会議でさらに発表してもらい、そこでみんなの意見を集約し、改めて文書で中・長期ビジョンである事業計画の指針として配布することにしている。

また中・長期ビジョンである事業計画が進み出しても、絶えず「計画に対して進捗状況はどうであるか?」「今現在の経営環境と計画がマッチしているか?」等のチェックが計画の可否を左右するカギとなる。

 

今日の繁栄は明日の会社の繁栄を決して約束してくれるものではない。

私が若い時に、業界の先輩である故 小島清明氏(小島産業㈱元会長)から、

「貧しい会社は昨日の為に今日働き、繁盛している会社は明日の為に今日働く」

と教わったことがある。

この言葉(特に後半のくだりにおいて)から思うことは、ただ利益を出すだけでは企業に未来は無く、明日の繁栄の為に色々な費用(研究開発、人材教育、設備投資、販売促進等)を計上した上に、それらをまた適正に使った上で利益を生み出すことが、企業が生き残って行く道なのであろうと思う。

 

経営者そして各事業部のリーダー達が会社の未来を創造し、そして目に浮かんでいる会社の未来を、その他の社員やスタッフたち皆に可視化して示し、社内の皆が同じ景色を思い浮かべて同じ目的地を目指す、それが組織のあるべき姿なのだろう。

言葉にすれば数行のことだが、しかしなかなか難しいことである。

 

2015年

9月

27日

十五夜の告白

先般、土曜日の夕方から関連先も交えた会議が当社であった。

土曜日は女性社員が出勤していないので、手の空いた私が会議用のお茶菓子を買いに出た。

会社の近くにあるいつもの和菓子屋に行くと、入口のガラスに「月見だんご予約受付中」と張り紙がしてあった。

それを見てまた今年も、生涯忘れることが出来ない月見の日の出来事を思い出した。

 

私が物心付いた頃には、すでに母は闘病中だったこともあり、そして母自身が若かったこともあり、我が家では季節の伝統行事はほとんど行われなかった。

しかし何故だろうか、今となっては聞くすべもないが、お月見だけは母が一時帰宅している限りは年ごとに行ってくれており、幼稚園児の時からの月見の記憶がある。

当時、父は12時間隔週昼夜2交代制の工場勤務だったので、昼の勤務の時であっても仕事が終わる時間が遅く、私の起きている時間にはほとんど帰宅出来なかった為、記憶の中の月見は大部分が母と二人きりのものである。

母は一緒に月を眺めながら色々な話をしてくれた。

月の表面の模様がウサギの餅つきに見える話から、自分の生い立ちや子供時代の話まで、私の年齢に合わせた話をその都度聞かせてくれた。

 

中でも小学3年生の時の母と二人の月見は生涯忘れることが出来ない。

今思えば、絵に描いたような月見の風景だったように思う。

満月の見える窓を開けて、小さなテーブルの上に、近所で採ってきたススキを生けた花瓶と月見だんごを盛った皿が飾られた。

当時は今と違い、泉南は大阪の田舎ということもあり空気も澄んで、街灯や照明類も少なかったので、今よりも月が煌々と神秘的に光っていたように思う。

 

母は月を見ながら、私を生んで暫くしてから「重い病気になったこと」から語り始めた。

 

母の入院する病院へ祖母に連れられてお見舞いに行くことが日常的に多かったので、子供ながらに母が簡単ではない病と闘っていることは、漠然と分かっているつもりでいた。

しかし改めて母の口から直接「すごく重い病気に罹っていること」、「物心のつかない内から何度も親戚に預け、私に寂しい思いをさせていること」、「たとえどんなに苦しくてもなるべく自宅に居て私と1秒でも長く一緒に居たいと願っていること」、「これから医学が余程進まない限り、私が大人になる頃まではもう生きていないと思うこと」などを聞かされた。

この世が終わって自分自身も消えてしまうと思えるほどの衝撃を受け、全身が震え出しそうな不安に襲われたこと、哀しみが溢れ出そうになったことを今も鮮明に思い出す。

自身が決壊しそうになり、私は母に

「何も聞きたくない、何も見たくない、何も考えたくない」と言った。

双眸に涙を浮かべ泣くのを堪えている母の顔を見ていると言えなかったが、「母が死んだら一緒に死にたい」と本当は言いたかった記憶まである。

しかし気丈にも母は、泣き出しそうになる私に「男の子は私が死んでも泣いたらアカン」と言い放ち、最後に「ごめんね」と一言ポツリと言って無言になった。

 

この後、母は年々、腎機能が低下して入退院の頻度を増していき、ここから数年先には人工透析を始めるまでに進行して行った。

そしてこれが最後の自宅での「母と二人の月見」になった。

 

2015年

9月

20日

PRしよう!

「良い物や良いサービスを安く提供すれば、口コミだけで、お客さんは自然に集まる。」

という時代は、もう終わったと思う。

それが通用するのは、他社がどうしても真似ることが出来ない独自の商品やサービスを持っている一部のトコだけだろう。

昔は口コミが人々の主たる情報源であったが、現在はWEBにCMに新聞広告、折込み広告、ダイレクトメール、ポスティングやら情報洪水の時代である。また、グローバル化された現代の市場は供給過多である。

そんな中、口コミだけを頼りに慎ましやかに口を閉じたまま、自社の商品の良さを分かってくれるお客様を待つやり方は、もはや通用しなくなった。

せっかく良い物や良いサービスを生み出しても世間に知ってもらわなければ無いも同然。また一度は知ってもらえても忘れられてしまうと、無いも同然。

そう思い、当社はPR活動にも力を入れている。

 

例えば年末になると挨拶を兼ねて出来る限りの皆様方に社名入りの「卓上カレンダー」と一年のお礼の文をご送付させて頂いている。卓上カレンダーならば年初より1年間に渡り使ってもらえるので、効果的に社名をPRすることができると思うからである。

次に初夏前に社名入りの「扇子」をご送付せて頂いている。昔ながらの物ではあるが、近年、地球温暖化が進む中、夏場において結構な人数の皆様方からご好評をいただいている。

ある日、電車の中で見知らぬ人が当社の扇子を使われているのを目にし、思わず「ニャー」っと笑んでしまった経験がある。

もちろん上記以外にも2か月に一度、商品パンフレットを社名入りの「アメニティ」などと一緒にご送付させて頂き、常に皆さまの記憶の中に留めておいて頂けるように努めている。

需要が出来たときに、パッと丸竹の名前が一番に浮かんで頂けるのが目指すところである。

企業PRは継続することが重要であろう。

また更に多くの方々に自社のことを知ってもらうためのPR活動としてHPとブログが欠かせないアイテムである。

HPは情報を求めている人に24時間365日PRをしてくれるものなので、営業所を1つ構えるぐらいのつもりで予算をかけて肉厚の内容で製作している。

(情報量をかなり多くし過ぎてしまい、欲しい情報の在処が見つけにくくなってしまったのが難点だろうか!?)

また企業HPだけでは説明しきれない「社会に対する姿勢や理念」「私の人となりや考え」を知ってもらうのにブログが役立っている。

 

当社のHP等を見て、親切なお得意様から

「こんなことまでに書いてしまうとノウハウを真似されませんか?」と、ご心配を頂くことがよくある。

しかしノウハウを隠すあまりに自社のPRが適切に出来ず、お問い合わせや商談が無かったら意味が無い。

それに同業他社も日々「見直し」や「技術の向上」に邁進しているであろうから、ノウハウを隠していても、数ヶ月、数年で賞味期限切れになるだろう。それならば自社のノウハウを潔く公開して優位性を広くPRした方が良い。

ノウハウを公開した時点で、類似品が次々に出てくるのは覚悟の上なので、さらにその上を行く製品やサービスの開発に次から次へと間断なく取り組んで行かなければならない。

 

それと新規事業のサ高住「フラワーホーム」であるが、今年の春頃に事前案内ハガキを全国発送させて頂いた。加えて進捗状況を都度都度HP上でお知らせさせて頂いている。

進捗状況や建設の過程も含めて、開設に向けての様子を多くの方々に見て頂くことで、少しでも関心を持って頂け、記憶の片隅にでも留めて頂けたら有り難いと思う。


 

フラワーホーム進捗状況のご報告をUPしました。写真を多数掲載しております。


詳しくはコチラ>>


2015年

9月

13日

自分の背丈以上のことはしない

 

「ある面、堅実すぎるのかもしれませんけども、自分の背丈以上のことはしない。大きな多額の投資をしなければいけないような事業には、できる限り参入しない。スケールは大きく計算は緻密に、というのが私の経営の信条だと思います」

 

これは尊敬する師である東建コーポレーション(株)の左右田鑑穂 代表取締役社長兼会長が先般【ナショナル・アントレプレナー・オブ・ザ・イヤー2014】(起業家表彰制度)のファイナリストの表彰を受けられた時の受賞スピーチの一部分である。

 

さて当社は創業60周年を期に、「第二の創業」という命題のもと、新規事業である総合訪問ステーション「フラワーナース」を7月から開始した。

サービス付き高齢者住宅「フラワーホーム」の方は、11月のオープンに向けて現在建設中である。

ところで最近よく皆さまから「土地と建物でいくらぐらいの費用が掛かりましたか?」、「これだけ大きな投資をするにはすごく勇気が必要だったでしょう!?」、「一世一代の大勝負に打って出ましたね!?」等のご質問やご感想をよく受けるようになった。

今回はこれらのご質問にお答えする形でブログを進めたいと思う。

 

まず「一世一代の大勝負」・・・とは、少しも思っていない。

師のスピーチにもあるように、新規事業が上手く行かなかった場合に、会社が傾くような自分の背丈を超える規模の事業はしてはいけないと心得ている。

どう転んでも屋台骨が揺るがない範囲内の経営に納めなければ、お客様や社員、スタッフ、当社に関連する人々への責任が果たせない。

博打打ちは「どのようにして勝つか」としか考えないが、経営者はそれに加え、ウンザリするぐらい負けた場合のことも考えて、その勝負がいくら魅力的であっても企業生命を奪ってしまう可能性のある勝負ならば、してはいけない。「大きくなる」ことより「続けること」の方が大切であると私は考えている。

 

次に投資したことへの勇気であるが、これについては、私にとって全く勇気では無く、むしろ不安からである。

内外の景気動向や市場競合状況で厳しい経営環境になった時のことを考えると、会社の柱となる事業を増やしたいと考えるのは当然で、何もしない事の方が私にとっては不安なのである。

単一事業に特化して専門性を高めながら事業展開をして行く道もあるが、どの業界にも必ず「回復、拡大、後退、悪化」の景気のサイクルがあるので、一つの分野の事業収益の低下をその他の事業が支えることのできる多角経営の方が、不安症の私はより安心できる。

また新規事業であるサ高住の方の視点から考えると、既存事業の収益があるぶん軌道に乗せるまでの期間も余裕を持って構えることが出来るし、想定外の事態にも広い度量を持って対応することが出来る。また建築基準法で定められている基準以上の高層マンション並の耐火性能を備えたり、ストレッチャーに対応できる大型エレベーターを設置するなど、お金をかけるところにはシッカリかけて、ご利用者様の安全面や満足度に努めることが出来る。

 

この新規事業が、低迷してしまった既存事業の打開策としてのものや、自分の背丈を越えた事業であったならば、今ごろ私は不安だったかもしれない。

しかしそうではなく、より一層堅実に経営し、私の信念である三方良しを体現化して、「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」で当社に関連する全ての人々の幸せを追求して行くためである。

8年来の計画が実を結び、いよいよ11月からはサ高住が本格スタートする。

身の引き締まる思いでありながらも、いま私は新たな船出を前に希望に燃えている。

 

2015年

9月

06日

戻りたくなぁい~!!!

先月、私の出身校である天理高校のプチ同窓会があった。

柔道部だけの集まりならば年に数回はあるのだが、今回はラグビー部も合同でということで、卒業後に初めて再開する同級生も多数いた。

20名ほどの小さな集まりではあったが、懐かしさが込み上げ、学生時代の昔話や近況報告に大輪の花が咲いた。

私の記憶の中の皆の顔は、ニキビ面、脂顔、赤ら顔の「青年の顔」だったが、

35年ぶりに会った皆は、しっかり「オッサンの顔」になっており、めいめいに味のある皺が刻まれていた。

各々の人生の道のりを語り合えば合うほど、その皺の1本1本が、卒業後に皆がそれぞれに活路を探し求めながら、多くのものを背負いながら、真剣に人生を歩んで来た証であるように思えた。

自分が経験しなかった道も、同窓だからこその飾らないアリのままの話を聞けて、教わることや考えさせられることも多かった。

 

物故者への黙とうから始まった会であったが、幹事の「乾杯!!」の掛け声と同時に参加者全員が18歳に舞い戻り、まるで高校の休み時間のような雰囲気となった。

大人になってから付き合い始めた者同士では絶対に使用できないような当時の酷い「あだ名」が飛びかい、また失礼な言い回しの連発であり、言いたい放題であり、「究極の無礼講」という表現がぴったりの状態へと突き進んで行った。

しかし一人として怒り出すような洒落っ気の無い者は無く、誰からともなく

「傍目から見たら、疑問に思うくらいの仲の良いオッサンたちの集まりだろうな!」と言い出す始末であった。

しかし年齢とは残酷なものである。

自然の摂理で、一次会の2時間を過ぎるころには、53歳の男たちの体力とテンションには陰りが見え始め、2次会からは酒がお茶に変わり、爆発したような大騒ぎも消え失せ大人しくなり、2次会はカラオケボックスに行ったが、誰ひとりとして一曲も歌わなかった。

そして近くに座った者同士で、3歩進んで2歩下がる状態の四方山話となった。(笑)

その時、誰かが皆に向かって

「学生時代に戻りたい人いる~?!」と声を上げた。

もちろん・・・

「絶対に戻りたくなぁい~!!!」

見事に全員が声を揃えた。(大笑)

 

しかしこの皆の「絶対に戻りたくなぁい~!!!」という答えには、自分自身の学生時代を否定する意味合いは皆無といってよい。

「クラブの練習より辛い仕事は未だかつてしたことはない」とか、「試合のプレッシャーに比べれば仕事のプレッシャーは軽いものだ」と皆が本気とも冗談ともつかない調子で言い合っていたが、その言葉通り、厳しさや苦しさの凝縮と言って過言ではなかったクラブ活動をやり遂げたことが自負と自信になり、それがあるからこそ今現在の自分があると皆が感じているのである。

そしてその環境を与えてくれた母校に感謝する気持ちを皆が持っている。

「絶対に戻りたくなぁい~!!!」は、卒業後、皆それぞれに信念を持ちながら歩んで来たこれまでの道のりと今現在の自分自身を最大限に肯定する言葉なのである。

 

この後、体力がまだ少しながら残っていた者が数名(笑)、老体に鞭を打ちながら3次会に「赤ちょうちん」へと向かった。

そこでの話題も、もっぱら学生時代の話であったが、最後は「健康」についての話で締めくくられた。

 


*この度の会を発起し、お世話頂いた幹事の皆様に深謝申し上げます。ありがとうございました。


2015年

8月

29日

上司目線で報・連・相

今やホウレンソウ(報告・連絡・相談)は小学生でも知っているような言葉だが、いざ振り返ってみると忙しさを言い訳に、おざなりになっていることが多いのではないか?

11月のフラワーホームの開設に向けて、8月からは新入社員も毎月のように入社してくるので、今回のブログは、仕事の基本中の基本、ホウレンソウ(報告・連絡・相談)について特に気になる点を上司目線で書きたい。

 

①   報告

部下が増えれば増えるほど報告の数は増え、その報告を把握するだけでも毎日結構な時間を費やすことになる。上司が短時間で正確に状況を把握出来るように、報告の仕方を工夫して欲しい。

例えば「結果を先に明言する」「内容を整理し簡潔にする」など。

そしてこれは人によると思うが、私の場合、報告は口頭より書面の方がありがたい。

時間に追われて仕事をしている時に、報告を聞くために手を止めるのは、せっかちな私の精神衛生上よくない。ジリジリしてしまう!書面だと自分のタイミングで見られるので都合が良い。

しかし、クレームやミス、トラブルが発生した場合、何を置いても即刻報告するべき。

目途がついてから報告しよう、上司が忙しそうだから後で報告しようなど思っていては、手遅れになったり、事が大きくなったりしてしまう。

また、報告は問題があった場合や、大きな案件についてだけ行えば良いのではなく、上司から何か仕事を頼まれた(任された)ら、もうその時点で報告は義務なのである。「報告が無いのは問題のない証拠」とは、ビジネスの上ではならないのである。

 

②   連絡

ホウレンソウの本来の内容とは違うが、

会社として行うお礼等の連絡は、決して後回しにせず、必ず翌日以内に行うように常々社員に言っている。同じ「ありがとうございます」という言葉でも、翌日に言うのと、一週間後に言うのとでは気持ちの伝わり方が全然違う!

「ありがとうございます」にも鮮度があって、日が経つに連れて、内容の伴わない空っぽの文言になってしまう。

 

③   相談

すべての諸問題の解決や目標達成の糸口は「相談」から始まると思っている。

だから上司は部下の相談に出来るだけ耳を傾けたいと本音では思っているが、相談に来る部下は一人だけではなく、時間に限りがあるのが現実である。

したがって、あらかじめ相談する内容を精査し、項目別に整理し、簡潔明瞭に話して欲しいと上司は思っている。そして自分自身が成長するチャンスと心得て、都合の悪いことであっても包み隠さず相談して欲しいと思っている。そうでなければ上司は正しい判断が出来ない。

また単に「どうしましょう」と聞かれるより、「こうしようと思うのですがいかがでしょう」という風に相談してくれると上司は嬉しく感じるものだ。

また、小さな案件であっても相談を受ければ、人はその結果が気になるものである。

相談した限りは、報告をおざなりにせず確実にするべきである。

 

「仕事の責任」について考えると、「遂行する」「結果を出す」ということは言うにおよばず、ホウレンソウ(報告・連絡・相談)を適切に行うことも責任&義務なのである。

社員やスタッフ一人一人のホウレンソウを徹底すれば、会社の運営や業務は円滑に進み、組織としてのポテンシャルをもっと発揮できるであろう。また組織の円滑なコミュニケーションは、「結果を出す」ということにつながる重要な要素でもあろう。

 


現在建設中であります当社の新規事業、サービス付き高齢者向け住宅「フラワーホーム」が、

産経新聞様の8月22日号に掲載されました。

 

詳しくはコチラ>>

2015年

8月

23日

戦争と平和

今年は戦後70年の節目に当たる年という事もあって、私の購読している3紙(産経、読売、日経)も終戦記念日前後には連日のように、「平和の大切さと戦争の悲惨さ」を訴えていた。

 

ところで私が小学生の頃に「戦争を知らない子供たち」という歌がたいへん流行していた。

その当時、大好きだった怪獣映画「ゴジラ対ガイガン」の挿入歌にもこの歌が使われていたので今でも口ずさむことが出来る。

 ♪戦争が終わって僕等は生れた

 ♪戦争を知らずに僕等は育った

 ♪戦争を知らない子供たちさ~

私もこの歌の通り戦争を知らない。8月15日と言えば「終戦記念日」よりも先に「お盆」をイメージしてしまうほど、戦争とは無縁で、戦争のことについて真面目に考たことの無い子供であり若者であった。

戦争とは現実味の無い、どこか遠い別世界の物語のような気さえしていた。

そんな私が初めて戦争を間近に感じるきっかけとなったのは、20代の時に見た中井貴一氏が主演の「ビルマの竪琴」という戦争の映画である。

 

映画の終盤のワンシーンに、ビルマの僧衣を着た主人公の水島上等兵が、山野を一人で延々と歩くシーンがある。

その道々で水島の目に飛び込んでくるのは、無数の日本兵の遺体だった。

無残に朽ち果てて、色々な虫がたかり、ウジ虫が体のあちこちから湧く日本兵たちの遺体の山。

日本より遠く離れた異国の地ゆえ葬る人もおらず、ましてや供養する人もいないのである。

水島は衝撃を受け、この方たちの遺体を葬らずに自分だけが日本に帰ることを申し訳なく思い良しとせず、この地に留まり生涯を掛けて供養することを決心したのである。

そのため水島は、「一緒に日本へ帰ろう」と訴える仲間の隊員たちのもとから姿を消した。

帰国の為、船に乗り込む隊員たちのもとにビルマ人からインコが届けられた。

そのインコの送り主は水島であった。

インコは「アア、ヤッパリジブンハ、カエルワケニハイカナイ」と鳴いた。

ビルマにたった一人で残った水島は出家し、本物の僧侶となったのである。

 

私はまず、映し出される大量の死体のリアルさに驚き、言葉を失った。

それから「アア、ヤッパリジブンハ、カエルワケニハイカナイ」との言葉から、水島が一切の迷い無くビルマに残る決心をしたのではなく、「帰国したい想い」と、「自分の使命と義理人情を果たしたいという想い」との狭間で葛藤しながら、それでもやはりビルマに残る道を選択したことに心を打たれ、そしてとても納得した。

というのも私は子供の頃から、父方の祖母に連れられて週に1回ペースでお墓参りに行っていた。そのためか子供の頃なぜか「先祖供養と僧衣」に憧れて、将来、お坊さんになりたいと思ったこともある。そのような訳もあってか、この映画を見た時、遺体の惨たらしさに戦争の悲惨さを覚えると共に、もし自分が水島であっても、同じことをしただろうという確信にも似た衝撃が心に走った。

 

私は幾らか昂奮しながら、映画の中の「日本兵の死体の山」の話を母方の祖父に伝えた。

すると祖父は、たった一言

「それくらいの事は普通に毎日あった」と呟き、沈痛な表情で宙を見つめた。

「えっ?!」

と私は思わず目から鱗が落ちてしまうぐらいの驚きであった。

祖父がラバウルへ出征しS21年に帰国した話は知っていた。

それでもやはり「私が想像する祖父や祖母たちが経験した戦争」と「テレビ画面で見る戦争」とは同じものとは思えず、戦争映画を見ても「ソレはソレ」「コレはコレ」で、今目の前にいる祖父とは結び付かなかったのである。

しかし違うのである。

戦争を知らない世代の人間には「映画の中の話」としか思えないような出来事が、当たり前に毎日起こっていたのが戦争なのだ。

押し黙った祖父の姿を見て、私はようやく初めて戦争を「現実のもの」として感じることが出来、

恐ろしいと思った。

 

2015年

8月

09日

寄り道考

現在、週に一度のペースで歯の治療に通っているのだが、歯医者に行くのが楽しい。

優しくて綺麗な女性の看護師さんが居る・・・

のではなく、楽しみにしているのは歯医者の後の寄り道である。

歯医者が入っている大規模商業施設の中に大型書店がある。普段わざわざ本屋の為だけに出掛けるということは無いので、歯医者の後に寄り道して、アレやコレやと見て回るのが、とても面白い。

 

日頃、何か情報を得たいと思った時にはネットで調べたり、詳しい人に尋ねたりするが、そういった能動的な情報収集とは違い、本屋から得る情報は受動的である。

旅行本のコーナーで、最近の流行なのか女性一人旅のガイドブックを複数見つけて、「俺なんて一人で食事屋に入るのも苦手なのに最近の女性は凄いなぁ~」と感心したり、ビジネス本のコーナーで『成功する人は、2時間しか働かない』というタイトルを見掛けて、「うそつけー!?」とツッコんでみたり、週刊誌のコーナーでは『ケチで愚かで偉そうな森喜朗元総理の利権を潰せ』という辛口な新潮のタイトルに苦笑いしたり、暮らしのコーナーでは『日本人だからこそ、"ご飯"を食べるな』のタイトルに首を捻ったりと(健康長寿には肉・卵・チーズを食べろとのことらしい)、ありとあらゆるジャンルの情報が止めどもなく飛び込んでくる。

このような書店での受動的感覚は少なくとも私の感性においては、ネットの検索では決して体験できないのである。

 

ところで書店を見れば、その地域の特色が分かるらしい。

子供が多い地域では漫画や児童書のコーナーが大きく、ビジネス街ではビジネス書や歴史物の品揃えが豊富で、オシャレな街ではアート系コーナーが充実しているなど。

また「本棚を見れば、その人が分かる」という言葉もある。

そんなわけで、ここ最近の歯科通院で購入した本の一部を上げてみたい。

  • 本田宗一郎という生き方
  • 最新版 すぐに役立つ文書・書式大辞典
  • 手紙上手
  • さすが!と言われる1分スピーチ
  • ビジュアルカラーコーディネート (毛布の色味についての研究のため)
  • 図解 日本の神々
  • 小野田寛郎は29年間、ルバング等で何していたのか?
  • 「フルベッキ写真」の暗号
  • ムー(UFOなどのオカルト月刊情報誌)
  • 本当にあった生ここだけの話(月刊4コマ漫画雑誌)


いかがでしょう?

私という人間を分かって頂けましたでしょうか? 笑!

 


今月1日に開催されました「第4回 石井竜太選手少年柔道教室」の詳細をUPしました。

詳しくはコチラ>>



2015年

8月

02日

3年先の利益

先般来より東芝の不適切な会計問題が新聞やテレビを騒がせいる。

今回のブログは、この問題を自分自身に置き換えて少し考察してみたいと思う。

 

まず不適切な会計に手を染めてしまう動機は、大きく分けて4つあると思う。

1つ目は、起死回生までの時間稼ぎ。

2つ目は、改善策を考えるのを放棄して赤字や超過債務を隠蔽することにより、倒産・廃業へ向かう企業生命の延命工作

3つ目は、経営者の名誉欲や意地による自己中心的な「虚飾の花」であろうか!?

4つ目は、それらの混合。

次に不適切な会計問題が起こった社会的背景を考えてみると、「グローバル化」という言葉に代表される所のいわゆる欧米型利益最優先の経営や、社会が企業を評価するための基準が国際会計基準へ移行していること、短絡的実利主義の蔓延が原因ではないだろうか!?

つまりグローバル化の結果、国際化、多様化した株主から短期的な利益を求められることが、今回の問題の背景にあるだろう。

 

苦し紛れの逃げ道として不適切な会計に手を染めてしまえば最後、企業にとってどのような結果を招いてしまうかは今回の報道を含めて見てみても、経営者ならば誰でも簡単に想像がつくであろう。しかし大企業であっても、苦肉の策でこのような会計問題が起きてしまうのだから、監査システムが充分ではない中小企業では尚のことである。

そこで、当社がこのような事態に陥らない為に取り入れている方策を説明したい。

 

まず当社は非上場企業であるゆえ、株価や投資収益性等を市場から問われるということが無い。そのため、目先の利益には一切囚われないことを社外に公言している。

またほぼ毎年行っている新規商材の投入を初めとして、特にここ数年は将来の経営資産の増強を目指して投資に次ぐ投資を行っている。

将来に向けた中長期的な戦略(下記の事業年表参照)をもって、技術革新・研究開発・新規事業開拓・人材育成(研修・資格制度や通信制各種学校への進学)などに重点を置き、3年先5年先の利益を考えた「今は損して、将来の得取れ」の方針で会社を経営している。

しかし結果として、お蔭さまで何とか16期連続黒字経営であるが、投資金額が多いが故、どうしても利益が少なくなる。

次に当社の内部監査制度であるが、自己都合の慣れ合い監査にならない為にも、経営学のMBAを取得した社外取締役制度(1名)を導入し、またその方に監査役も兼任して頂いている。そして単に監査役という位置付けでは無く統括監査役として1か月に2度の来社をお願いして、毎月、個別会計や稟議書の監査、日報を通しての業務形態や運営方針まで5つある事業部の精査をお願いしている。

その他にも税理士の先生に月に1度の来社をお願いし、月毎集計の個別精査と統計的な資金傾向の読み解きをお願いしている。

経営の透明性を高めるために外部の独立性の高い監査が必要だと考えてのことだが、それだけではなく、異なる分野の知識、経験、価値観に触れることで刺激になったり、単眼的見方をせずに済んだりなど、経営の大きな助けになってくれている。

 

最後になったが、企業が追求すべき『最大の目的』は金銭的利益ではなく、当社も「企業理念」にしているように、平たく言えば「会社で働く人たちの物心両面で幸せ、将来に対する安心」そして「会社に関連する全ての人たち、ひいては社会全体の繁栄」であろうと思う。

しかし矛盾するようだが、その目的を実現するためには金銭的利益が必要である。

目的(皆の物心両面の幸せetc)と、目的達成のための手段(金銭的利益)は、コインの両面のように表裏一体であるから時として、自分が見つめているのがコインの表なのか裏なのか分からなくなる時がある。

いつの間にか最大の目的が金銭的利益に入れ代わり、入れ代わってしまったことすら自分では気づかないまま突っ走ってしまうと、今回のような不適切な会計や隠蔽が起きてしまうのかもしれない。

そうならない為にも外部の独立性の高い監査が必要、

そして「経営者の使命」や「企業の目的」について、時にじっくりと考えてみることが必要だと思う。

私の場合、ブログを書く時間が、それらを見つめ直す良い時間となっている。

 

 

事業年表

①真空パック工場 移転増設(2010年度)

*2009年に比べ生産量約50%増産

②全社完全LED照明化(2011年度)全ての照明類

*2010年に比べ電気代約10%削減

③太陽光発電 1期工事 (2012年度)

*2011年に比べ電気代約20%削減

③太陽光発電 2期工事 (2012年度)

*2011年に比べ電気代約40%削減

④真空パック工場 最新鋭省電力化機器の導入(2013年度)

*2012年に比べ製造コスト約10%削減

⑤クリーニング工場 最新鋭省電力化機器の導入(2014年度)

*2013年に比べ製造コスト約15%削減

⑥重量機器(フォークリフト)最新鋭省電力クリーンエコ車の導入(2014年度)

*2013年に比べCO2約25%削減(1台あたり)

⑦フェルト工場 最新鋭省電力化機器の導入(2015年度)

*製造コスト削減値算出中

⑧シニア事業部 訪問総合ステーション「フラワーナース」(2015年度)

*看護、介護、デイ、ケア事業の開設

⑨サービス付き高齢者住宅「フラワーホーム」(2015年度)

*住宅賃貸事業の開業(11月予定)

⑩フラワーホーム併設「フラワークリニック」(2016年度)

*クリニックの診療開始(2月予定)

 

 

現在建設中であります当社の新規事業、サービス付き高齢者向け住宅「フラワーホーム」が、

週刊高齢者住宅新聞様の7月22日号に掲載されました。

詳しくはコチラ>>

 


2015年

7月

26日

二宮金次郎と母

新聞の記事で見かけたのだが昨今、二宮金次郎氏(本名 尊徳)の社会的功績に改めて光が当てられ、再評価されているらしい。また記事には、一度は銅像を取り払った学校も再設置したり、無かった学校は新調したりと、全国で様々な形の動きが起り始めているとあった。

それに伴い書店でも関連書籍が目立つようになり、文部科学省も昨年から全国の小学校に配布している道徳の教科書に二宮金次郎氏を再登場させたらしい。

 

さて15年ほど前の話であるが、当時、入会させて頂いていた都内の異業種交流会で、同年代の者ばかりを集めた世代別の分化会が有った。

その席上、「各々が通った小学校に二宮金次郎像が有ったか?無かったか?」という話題になった。

都会生まれの会員が冗談交じりに、

「田舎の学校には有ったらしいけど、都会の学校には無かった」と言い出した。

そこで、有ったか?無かったか?挙手することになった。

私は迷わずに「有った」に挙手した。

“田舎の学校には有った”という先ほどの会員の言葉通りの展開に、「やっぱり!」というような顔でみんなが私に愛嬌のある笑顔を向けてきた。

垢抜けた都会の人達は、だれも「有った」に手を挙げていなかったので、私自身も「やっぱり!!」と笑った。

 

私が通った小学校は、大阪府の南部に位置する泉南市立樽井小学校という所である。

今でこそ関西空港が設置され、新しい道路や高速道路、各種インフラも整い大規模商業施設も多くあり、俗にいうところの「田舎」ではなくなったが、私が小学生だった頃(昭和40年代初頭)は、海や川も近くにあり、見渡すばかり茄子やキャベツ、玉ねぎ畑の「ド田舎」であった。しかしその分、海、川、山野を遊び場とし、伸び伸びと育ったものである。また田舎ならではの「釣り」「蓮華や土筆摘み」「竹の子狩りやまったけ狩り」「秘密基地ごっこ」「川の関止めごっこ」等、楽しかった思い出がたくさんである。

それと今では都市伝説みたいな話だが、小学校の校庭には、立ち入り禁止なっていたが戦争当時の防空壕があった。

ちなみに都会にほとんど金次郎像が無かったのは、戦時中、軍事物資の不足を補うための「金属供出」が原因で、校庭から消えて行ったらしい。

 

「二宮金次郎像」と聞けば、毎回想い出しては笑みが零れそうになる母との記憶がある。

小学校の入学式の日、母に付き添われて初めて校門をくぐった。

すると設置されてある二宮金次郎像がすぐ目に入った。

私はその像を指差し「これ何?」と尋ねた。

すると母は

「これは本を読みながら道を歩いてて、車にひかれて入院した二宮くんの像や!」

「本を読みながら歩いたら怪我するで!」

と教えてくれた。

それを聞いて私は「ヒャッ!」と驚き、絶対に歩き読みはやめておこう!と子供心に誓った。

その後、小学4年生の時に道徳の教科書で初めて本来の二宮金次郎氏の事を知り、その時も

「ヒャッ!!うそぉぉ!!?」と驚いて、面白可笑しい気持ちになった。

「おかん!俺をだましたやろ!」と嬉々として責めたかったが母は入院中だった為に、代わりに父へ事の顛末を報告し、父息子で大爆笑した思い出がある。

母はたぶん本当の事は知っていたとは思うが、「苦労しながら勉学し成功した人よ」と言うより、「本を読みながら歩いてて車にひかれた人」と言う方が、大人の言うことを聞かないうえ、注意力散漫の悪ガキだった私には効果があると考えたのだろう。

さすが母親、効果覿面であった。(笑)

 

ちなみに最近の二宮金次郎は座っているらしい!

 

2015年

7月

20日

あともう少しだけ若いころ働いておけば・・・

「立花、若い頃はいくら遊んでもいい。どんな事にチャレンジしてもいい。しかしなぁ~、あともう少しだけ若いころ働いておけば良かったなぁ~と、最近になって時々思う」

 

これは、師である東建コーポレーションの左右田鑑穂社長に、この春お会いさせて頂いた時に掛けて頂いたお言葉である。

 

ここで左右田社長のエピソードを一つ、紹介させて頂きたい。

すでに何度か書いているが、私が左右田社長に御縁を賜ったのは、天理高校2年生、17歳の時である。その後、大学を中退し、刈谷市にあった左右田社長のご自宅で、しばらくお世話になっていた時期がある。

左右田社長が30代前半、私が20歳ぐらいであった。

その頃、左右田社長はギター(確かギブソンとかリッケンバッカー)を嗜まれていて、毎晩のように仕事の後にはスタジオに練習をされに行き、そしてその後には決まって何軒も飲み歩きをされ、私も、そのどちらにもお連れ頂いていた。

そんな一見いつも通りの日々が続いている中、左右田社長は、自身の体調の異変を感じられたのか、体温を計ってみると39度~40度近い高熱であった。

学生根性が抜け切っていない私は、「熱があれば仕事は休み」くらいにしか考えていなかったが、高熱が出ていると判明したその後も、左右田社長は普段と変わらず仕事を続けられ、なんとその後もいつものように「ギター」と「飲み歩き」に私をお供に出かけられた。

その後も熱の下がらぬ日が続いたのだが、左右田社長は、いつも通りの日々を続けられ、傍目にもいつもと変わらぬように見えた。

しかし2週間ほど経っても熱が下がらないので、2~3日検査入院をされることになった。

入院中も病室には会社から書類の山を持ち込み、仕事をされていた。

色々な検査が行われたが、結局どこも悪い所は見つからず、熱が下がらないまま社長は退院され、会社に戻られた。

 

当時、東海ラジオ局の方が、左右田社長が番組を提供されていた関係で、本社をよく訪ねて来られていた。

ラジオ局の方の「大丈夫ですか?」の質問に、左右田社長は高熱があるにもかかわらず笑って

「知恵熱ですよ!薬代わりにお酒を飲めば治りますよ!」と御答えになっていた。

 私は、社長のその返答を聞いて、なんてカッコイイのだろうか!と、大変昂奮した。

もともと精力的で並外れた体力があったから寝込まずに済んだという事もあるのだろうが、40度近い熱が出てしんどくない人間なんていない。

しかし左右田社長は、本当はしんどく苦しくても、なんてことないように振舞うことが出来る精神の強靭さも持っていた。

寝込む間も惜しんで豪快に遊んで、人の何倍も働く強靭な男!

ここ一連の社長の姿を間近で拝見していたハタチの私は、左右田社長が「超人」か「ヒーロー」に見え、ますます憧憬の想いは高まり、左右田社長のような男になりたい!と単純に心から思った。

青二才だった私は、それ以上のことについては思考が及ばなかったが、50代の経営者となった今、改めて私が想うことは、

経営者というのは、入院をしている最中も、遊んでいる最中であっても、どんな状況に置かれようとも、会社のことが常に頭から離れず、会社と自分とは切り離すことの出来ない一体のものになっているという事。

入院中ぐらいゆっくり休んだ方が良いと頭では分かっていても、仕事をせずにはおれない経営者の性(さが)。

会社を成長させればさせるほど、自身の肩に背負う多くのモノは重さを増し、気を緩め精神を解き放つことなど会社を辞める日まで来ないのである。

そして「己に対する厳しさと信念」を持っていれば持っているほどジッとしておれず、仕事と向き合わずにはいられないのである。

私が50代近くになってようやく至った心境に、左右田社長は遙かに若い時から到達され、今日に至るまで一度も仕事に対して力を抜くことなく、信念にブレが生じることもなく、邁進され続けているのである。

 

冒頭の「あともう少しだけ若いころ働いておけば良かった・・・!」は、このようにして一分の隙も無いほど猛烈に生きて来られた左右田鑑穂社長のお言葉である。

 

(結局高熱は、確か1か月は掛からなかったように思うが自然に治癒された。)

 


丸竹ホームページに、新たに「災害用備蓄衛生用品」のページを追加致しました。

詳しくはコチラ>>



2015年

7月

12日

大人の精神 子どもの精神

 先月17日、選挙権年齢を「20歳以上」から「18歳以上」に引き下げる改正公職選挙法が、参院本会議で全会一致で可決、成立した。

実に約70年ぶりの改定だそうである。

しかし少年法の規定はそのままで、あくまでも20歳以上が成人であり、19歳以下は未成年である。19歳以下の飲酒や喫煙は、健康被害と非行化防止の理由から見送ったとの記事を新聞の一面で見た。

私はこの記事を読んでいて、あることを思い出した。

 

話は約35年前に遡るが、天理高校3年生の時に同じクラスに、アメリカからの留学生がいた。

彼の名は(故)森下二郎ジェームスといい、アメリカ国籍でロス生まれロス育ち。そして実は彼の父親は、ロサンゼルスの天理道場創設者 森下 敬吾(7段)であった。

3年生で同じクラスになるとすぐ、彼の片言の日本語と、ほとんど通じない私の英語で話すようになり、一月も経たない内に打ち解けて、気が付くと仲間になっていた。

休み時間に毎日のように話題に上るのは、「アメリカの女の子」の話で、私の数々のアホな質問に彼は付き合ってくれた。笑 

青春の1ページである。 

彼は、私の18歳の誕生日が近いことを知ったある日、

アメリカでは18歳から選挙権があること、そして飲酒も喫煙も18歳から出来ることを教えてくれ、

「タチバナはアメリカだったら、モウおとなダヨ!」

と笑顔を向けてくれた。

その時、私は、日本では選挙権が貰えるのは20歳からだと話し、

「18歳で酒飲んで、タバコ吸えば、アナタもワタシもポリスにツカマリマス!」

と返答し、二人で大笑いした記憶がある。

このように親交を深めて行った訳だが、ただ一つ、私が何度聞いても答えてくれなかった質問があった。

それは

「アメリカ人の二郎ジェームスから見て、当校の英語の先生の発音はどうか?下手くそではないか?」という質問であった。

英語の成績が悪かった私は、本場の発音で話すジェームスが先生の発音に低評価を付けるのを聞いて痛快な気分を味わいたいという よこしまな心があったのだが、いつ聞いても、彼は眉を上げてニコリと笑うだけで、決して先生を否定するような事を最後まで言わなかった。

今思えば、彼はすでに精神が大人であり、反して私は、精神が恥ずかしいまでに子供であった。

 

「10代は投票するには未熟すぎる」「18歳では、まだ子供で正しい判断能力がない」

こうした意見があるのは、私の18歳の頃を考えれば、もっともだと思うし、ジェームスが見せた思慮から考えれば、18歳は未熟だという声に反対したくもなる。

 

色々と書き連ねたが、我が国では18歳から政治に参加出来るようになった。

若い人たちの間でも政治が身近なものになり、10代の意見を政治に反映するため若者の投票率が上がれば、将来を担う若者の為の長期的な政策を打ち出す人が増えてくるはずである。

こうなれば明るい日本の未来が見えてくだろう

と期待したいところである。 

 

2015年

7月

05日

私について

私は、PDFを天地が逆向きのまま添付してしまったり、洋服のデザインをよく確認しないまま購入し自宅に帰れば全く同じ服を持っていたなど、人並み外れた大雑把な部分もあるが、自分の拘りがある部分については、大変な神経質である。

特に掃除については病的に神経質で、

1か月に何度も空気清浄器やエアコンを分解掃除するし、1日に何度も窓ガラスや机の上を拭く。

「あっ!玄関の前の草が伸びている」と気づき、それが気になりだすと、いても立ってもいられなくなる。

事務所に落ちている髪の毛1本を発見し、それが気になりだすと、どんなに忙しくとも、クルクルローラーを片手に持って歩き回らずにはいられないのである。そうしているうちに、他にも掃除をしなければいけない場所を連鎖的に発見し、そうなるとそのままにはしておけず社員たちを駆り出して、自分が納得するまで掃除をしてしまう。

付き合いさせられる社員の方はさぞかし大変であろうと思う。

特に側近の取締役たちは、気の休まる日が無いのではないかとさえ思う。(感謝しています)


掃除だけに限らず、「何か」が気になり出したらそれを解決するまで気が納まらず、明日までに返信をしなければいけない書類の山に追われている時でも、書類に手がつけられない。

もちろん明日までに書類を仕上げるのは大前提で、それより先に気になる問題を解決し終えて、そこから書類に取り掛かるものだから、仕事が終わったのは明け方だった・・・なんてこともよくある。

計画の瑕疵に気が付くと、例えその瑕疵がほんの些細な事でも、その解決策を見つけられるまで気になって気になって眠れなくなる。

気になることを後回しに出来ないこの性質は、精神的にも肉体的も苦しくて、自分自身でもほとほと嫌になる。

・・・と、このような話を友人にしたところ、

優先順位1位は何か?と考えるようにしたらどうだ?」と言われた。

しかし私にとって、大きな計画を共なった事業も、目の前の書類も、玄関の草抜きも、どれも優先順位1位なのである。

「些細な瑕疵や、今すぐする必要のない掃除にこだわって、そこばかりに神経が行ってしまうと、木を見て森を見ずにならないか?」

と言われたが、『大事は小事より起こる』という「ことわざ」もあるように、小さな事でも気が付いた時にスグ対処せず後回しを繰り返していれば大きなことへ影響するかもしれない・・・と思うと、何も後回しに出来ず、結局は同時進行で時間に追われながら全部ヤルしかない・・・となるのである。

そう嘆くと友人は

「どうしようもないな。体を壊すなよ」と呆れて笑ったが、

よくよく考えてみると、体に無理をしてでも「優先順位 全部1位」を続けてくることが出来たのは、今まで健康であったからだ・・・とハッと気が付いた。

そしてこの性質をすぐには変えることが出来なくても、そろそろ「健康」だけは優先順位1位に考えようと思う気持ちになった。

以前にも書いたが、徳川家康が江戸幕府300年の礎を築くことが出来たのは、家康が健康に気を使う人物で長寿であったということが一因として否めない。

長く健康に生きれば、そのぶん多くの時間が手に入る。

多くの時間が手に入れば、その分やりたいことが出来る。

今年度4月から丸竹は「第二の創業」と位置付けてスタートを切ったばかりである。そのことから考えても、経営者である私が健康な精神と体であることが「丸竹100年の礎」になると確信を持った次第である。

 

ちなみにブログも、書きたいことが同時にいくつも浮かび、どれも後回しに出来ず、ワードを5、6個開けて、それを同時進行で数行ずつ数回に分けて書いている。



 

今月1日より無事、

『総合訪問ステーション フラワーナース』の一般受付を開始いたしましたことを、

お知らせ申し上げます。


詳しくはコチラ>>


2015年

6月

28日

信念のない仕事は空疎である

先般、『南海難波駅で陸上自衛隊が大型不発弾を撤去!』という記事を新聞で見かけた。

第2次世界大戦中に米軍が落とした不発弾の中でも強力な部類であり、1トンもある爆弾であるらしい。

破片は半径1キロメートルの範囲で飛散する可能性があり、半径300メートルに渡り立ち入り禁止にし、住民を一時避難させた状態で撤去作業が行われたと記事に書かれていた。

過去にも不発弾の記事は何度も見かけたことは有るが、今回はいつも市内に出る時に利用する南海電車いうこともあって関心をひかれ、紙面を読んだ後、ネットで詳細を調べてみると、驚きの事実を知った。

 

まず信管は経年劣化により生きてはいないと思うが、爆発の可能性はゼロではないこと。

そしてもしこの1トン爆弾が爆発したら地面に数十メートルの大穴が開くこと。

過去5年間だけでも256.7トンの不発弾が全国各地で見つかり処理されたこと。

防衛省の推計であるが、まだこの他にも全国で未発見の不発弾が2,000トン以上有り、今後も全国各地で処理が行われること。

また過去に不発弾処理中に爆発して、負傷者が出たことがあること等である。

 

幸いにも不発弾処理は陸上自衛隊 第103不発弾処理隊 猪原卓也隊長の指揮と隊員の方々のご尽力のもと無事に回収された。

が、不発弾処理は自衛隊員の任務といえ、地面に大穴が開くほどの爆弾の処理とは何と危険な命がけの仕事であろうか!?

昨年、「仕事とは」でも書いたが、自衛隊や消防隊員や警察官の方々は、命を落としかねない状況の中でも自らの危険を顧みず、自分の職務を遂行されている。

この歳になって考えることだが、自分自身がもしこの立場になったら命を顧みず勇気を持ってこのような仕事に従事することが出来るであろうか?と思った。

その時、頭に浮かんだのが「信念」という言葉である。

「国民の安全を守る。そのことにより社会に貢献する」という信念。

この「信念」なしには、いくら命令されても、いくら給料をもらったところで遂行できないだろう。

 

信念が無ければ仕事は単なる労働である。

自分の人生の大半の時間を費やす仕事が、「単なる労働」で「単に生計を立てる手段」とは虚しい。

信念のない仕事は空疎である。

では信念とは何なのだろうか?

自分が仕事を通して何をしたいのか?そのマクロ的な目標。

それが信念だと私は考えている。

私自身の信念は「三方良し」である。

自衛隊員の方々のように「命を顧みず」とまでは出来なくても、私は私の仕事と役割に信念を持って邁進し、少なからず社会に貢献出来るよう精進を重ねて行かなければならないと、この度のニュースを見て、改めて誓った次第である。

 

今回、色々調べた中の余談だが、不発弾処理を行った場合の特殊勤務手当は出動1回につき5,200円と定められているそうだ。

崇高な信念をお金の金額に換算するのは良くないとは考えますが、あまりにも安すぎるので国会議員の方々・防衛省の首脳の方々。

特殊勤務手当の増額を要求いたします。

 

中小企業庁の「平成26年度補正 ものづくり・商業・サービス革新補助金」の採択事業に、

当社の新規事業計画(前切り自動梱包機の導入による土木用フェルトの製造コストの低減)が採択されました。

 

詳しくはコチラ>>

 

2015年

6月

21日

全員営業

「不確実性」という言葉が、現在の激しく変化する経営環境の代名詞として多用されるようになる中、この厳しい環境を乗り切る為の「生き残り施策」として、「全員営業」という言葉が、規模の大小を問わずどこの企業でも、以前にも増して益々声高に叫ばれるようになってきた。

ご多分に漏れず、当社でも社員数が増え始めた10年ほど前より、色々な形で取り組みを行っている。

そこで今回は、「全員営業」について今後の深化を重ねるため、現状を考察してみたいと思う。

 

<社長の営業>

まず「全員営業」と言うからには、社長である私が自らの汗で先頭に立つことはもちろんで、金額ベースでも目下私が当社のトップセールスマンである。

以前にも書いたが、人と人の関係には「真実の付き合い」と「実用の付き合い」があると私は考えている。用件が有っても無くても顔を出したり、連絡を取ったりして、相手のことを心に掛けるのが「真実の付き合い」、反対に用事がある時にだけ付き合いをするのは、私の造語だが「実用の付き合い」と呼んでいる。

営業の基本は「真実の付き合い」だと考えているので、もうお取引が無くなってしまった会社の方々、廃業された方々、退職された方々にも、現住所の解る範囲で年に約1~2回、手土産やパンフレットを持参し、感謝を込めて現状報告をしに行かせて頂いている。

亡くなられた方にはそのご家族に、命日の月に毎年お花を送らせて頂いている。

これらの行為が直接的な利益に結びつくわけではないが、困っていた時に力添えをしてくださったり、助け舟を出してくださったりした事もあり、あちらこちらに「繋がり」があるというのは会社を経営して行く上で心強いものである。

また、たった一言でも当社を評価する言葉を外側に向けて話して下さった方たちのことを、不肖失礼ながら当社の「営業マン」「営業ウーマン」だと思わせて頂いている。(スミマセン!)

 

<事務職の営業>

情報を共有すれば、事務職員の電話対応一つとっても、「伝言」ではなく「営業」にすることが出来る。実際に当社の総務部長は、注文の電話を同じ担当者から何度も受けているうちに世間話を交えるようになり、そうなれば接待させて頂こうという話になり、そんな訳で営業職に係らず一般職も交際費を使えるように変更した。

 

<工場職の営業>

当社のよく売ってくれる営業マンたちは各製造部門の責任者でもあり製造業務にも就いているが、工場で働く皆が皆、外に出て営業するわけではない。

例えば、当社には1日に10台以上の入出荷のトラックが工場に来る。

製造事業の目で見ればトラックの運転手さん達はビジネスパートナーだが、サ高住事業の目で見れば、運転手さん達もどなたかを紹介してくれるかもしれないお客様の一人である。

そこで当社に来られる運転手さん達に、汗を拭いてもらうための社名入タオル等と一緒にサ高住のパンフレットを工場の出荷担当者から手渡しさせて頂いている。

また工場の社員が直接お取引先に配達に行かせて頂く場合にも、ちょっとした粗品(今の季節なら扇子など)と共にパンフレットを添えさせて頂く。

また工場に来られたお客様に、気持ちの良い挨拶をすることだけでも、営業マンの後方支援であり間接的営業であると思う。

 

今月の自分の仕事を遣り終えたからお給料が入るのではなく、お客さまが商品やサービスを購入して下さったからお給料が入る。そう意識を変革することで、社員のすべて誰でもが、心からお客さまに「ありがとうございます!」と感謝して言える、そんな「社内体制作り」が今後の必須課題であり、「全員営業」ひいては企業経営の要諦であると思う次第である。

 

 

「こども110番の家」をさせて頂くことになりました。詳しくはコチラ>>

 

2015年

6月

14日

「牛のよだれ」と「やってみなはれ」

先般、旧知の間柄の元銀行マンの方のご訪問があった。

その方は地元の某銀行を、支店長職を最後に5年前に定年退職され、その後に嘱託勤務で本店管理部に3年間、奉職された方である。

来意は、「40年超に渡りお世話になり育ててくれた地元社会に何らかの形で社会貢献できればという思いから、在職当時、御縁の深かった方々の考えや生きざまや経営方針等をレポートか人物伝の形として残し、後輩行員や新しく事業を始める若い人たちに贈りたい。そのため昨年より取材活動を行っている。」

とのことだった。

私が、そのような大儀のお役に立てるかどうかはさておき、わざわざ訪ねて来て下ったことに感謝して、私の想いを少しお話させて頂いた。

 

まず前置きとして私の座右の銘は「諦めず気が遠くなるまで繰り返す」であり、みんなから「仕事の仕方も、性格も、嫌になるくらいしつこい」と、よくご批判を受けることからご説明した。

とくに経営幹部にとっては、細事に渡り「かなり口煩くしつこい社長」だと思う。笑。

次に「現状維持は退歩」と考えるが故に、成長意欲を持って常に新しいことを求め続けていること、しかしそれは身の丈を超えないように心掛けていること、変化変革はスピードを持って取り組むようにしていることなどをご説明した。

するとその方は

商売人の知恵の代表である2つの言葉<商売は牛のよだれ><やってみなはれ>を引き合いに出して、私を評価してくださった。

  • <商売は牛のよだれ> 商売は牛のよだれが切れ目なく長く垂れるように、気長く努力せよということ。
  • <やってみなはれ> サントリー創業者鳥井信治郎の言葉で開拓者精神を示したもの

 

しかしその方が帰られると、私の気分は次第に塞ぎ始めた。

というのは、自分の日頃の考えや行動であっても、それを言葉にして外に出した途端、説教臭い話になったり、実寸大以上の殊勝なものになったりして、自分で口にした言葉であるのに、自分に見合っていないような居心地の悪さを感じたのである。

居心地の悪さが心につむじ風を起こし、それが台風になり、最後はもう自省の嵐である。

私は口癖のように「たえず見直し!」を言い続けているが、果たして、それがどの程度実行出来ているのか?

ユニクロなどは予算達成・経営目標達成のために、週に一度のペースで決算して、その新鮮な数字が示す現状を読み取って、迅速に計画の見直しを行うらしい。

それに比べて我が社は、どうだ?

 

あれこれ殊勝なことを言い、東奔西走したところで、決算期毎に良い数字を残せなければ、経営者としての存在価値は無いぞ!

と、もう一人の自分が私を責めるのである。

 

2015年

6月

07日

野球場の母

会社の近くに墓地がある。

ご先祖さまのお墓がそこにあるので、休日には、よくお墓参りに出掛ける。

その墓地の隣地は大きなグランドで、学校が休みの日には、野球をする少年達や、指導者、保護者たちの姿があふれている。

そのお墓参りの途中、感動して涙が止まらなくなる情景を見た。

 

私がお墓の水汲み場で、バケツに水を汲んでいる最中、

野球のユニホームを着た小学校3~4年生くらい少年が、泣きながら走ってきたのである。

どうしたのだろう?と思って見ていると、私と目が合った少年は、

「おっちゃん、助けて!」と言うのである。

変質者でも出たのかと思い、咄嗟に持っていた草刈用のカマを片手に緊張が走ったが、

その後、間髪を空けず2~30m後ろから姿を現し追いかけて来たのは、少年と同じ野球のユニホームを着た中年男性であった。

私自身も小学生時代からスポーツを続けてきたので、状況は瞬間的に理解できた。

この少年は何らかの理由で、練習途中で逃げ出したので、コーチが追いかけてきたのだろう。

私が何かをする間もなく、コーチが少年に追い付き、襟首を掴み、叱責が始まった。

襟首を捕まれてなお、泣き叫びながら逃げようとする少年と、大声で叱るコーチ。

この情景を、子供の頃から私は何度見てきたであろうか!?

自分の少年時代とも重なり、次第に懐かしい気持ちが込み上げてきて、目が離せなくなった。

モンスターぺアレントという言葉が浸透しだした頃から、私が子供の頃は当たり前だったこのような原風景は、もうほとんど見ることがなくなってしまった。

保護者の過敏で過剰な反応を怖れて、このように子供を全力で叱れるコーチも少なくなってしまった。

残念な世の中になってきたような気がする。

 

しかしこの話には、まだ続きがある。

実はコーチの後に続いてもう一人、少年を追って来た人物がいた。

40代ぐらいの女性で、きっと母親であろう。

その女性は少年が怒られている間、一言も発せず息を潜めて二人を見守っていた。

3分ほどで叱責が終了し、コーチは少年に

「涙を乾かしたらグランドに戻って来い」というような事を最後に言うと、立ち去った。

二人になると母親は、涙をこぼす息子に近づき、何も言わず抱きしめた。

泣く子を抱きしめながら、母親も一緒に泣いていた。

しばらく二人で泣いた後、母親は息子の手を引いてグランドの方へ去って行った。

その母と少年の姿が、亡きお袋と自分の少年時代と重なって、恥ずかしながら墓の前で、私は涙が止まらなかった。

 

私が見た一連の情景は、時代の価値観の変化に伴い、今の時代においてほぼ忘れ去られてしまった原風景、しかし実は一番理想的なコーチと保護者と子の姿ではないだろうか!?

母親はコーチを信頼して我が子を託し、コーチは責任感を持って少年を預かっているからこそ真剣に全力で叱る。

コーチは情熱で少年を引っ張り上げ、母親は愛情で少年を下から支える。上から叱責されながら、下から慰められながら、その両方の手に助けられながら、少年は高い壁を乗り越えて行く・・・

 

そんな胸に焼きつく素晴らしい情景であった。

 



平成27年全日本柔道選手権大会5位の石井竜太選手「少年柔道教室」が本年も開催されます。

詳細が決定致しましたので、お知らせ申し上げます。

詳しくはこちら>>


2015年

5月

24日

神頼みの男?!

私は、時間を見つけては神社仏閣参り・地蔵さま参り・お墓参り等によく出掛けている。

年間を通せば50回くらいは出掛けているであろうか。

そして社内にも、神棚の(天照大神さま・天之御中主神さま・高御産巣日神さま・神産巣日神さま)から始まり、母校の天理王命さま、会社の東西南北を護っていただく四神さま(青竜・白虎・朱雀・玄武)、鬼門さま(巽の金神)、阿弥陀如来さま、えべっさん、観音さま、お不動さま、笑鬼さま、

果ては、なぜかある日突然、会社の外壁に出現した七福神さま(誰かが置いたのであろうか?)や親鸞聖人さま・蓮如上人さま・達磨大師さま・弘法大師さま・天女さま等まで、御鎮座されている。

その他にも、鬼門封じや方違いのお札、風水の縁起物までもが沢山ある。

常に、車やカバンや机の中にもお守り類を入れている。

ありとあらゆる場所に手を合わせる対象が御鎮座されているので、一日に何度も手を合わせている。

また、外出先で道端の道祖神さまや神さま、お地蔵さま等を見つけると手を合わすし、

行者さま、神名流し、托鉢僧の方々に遭遇すれば、一期一会を感じて幾ばくかのお布施をさせて頂いている。

 

そのようなわけで、よく人から

「なぜ神様がこんなに沢山あるのですか?」

「仕事以外に何か宗教活動をされているのですか?」

と質問を受けることがあるので、その答を此処に書いてみようと思う。

 

*1「なぜ神様がこんなに沢山あるのですか?」

私自身が買ったものやお知り合いから頂いたものも数点あるが、ほとんどがご先祖さまの代からのものである。

かと言って、それらが私の持ちものになった訳ではなく、

あの世のご先祖さまのものを、私がお預かりしているだけなので、粗末に扱ったり処分したりなど、勝手放題は出来ない。

それは先祖からの名前や土地に関しても同じ事が言えると思う。

 

*2「仕事以外に何か宗教活動をされているのですか?」

私の人生の本分は、あくまでも会社経営者である。

いっさいの宗教活動はしていない。

 

*3「お墓参りに、よく行きますか?」

頻繁に行く。

今この世に私が存在しているのは、そこに眠るご先祖さま達のお陰である。

感謝の気持ちから、自然と足が向く。

 

 

自分が綴ったものを冒頭から読み返してみると、いかにも神頼みの男のようで恥ずかしくなってしまうが、実は手を合わせている間は、ほとんどの時が頭の中は『無』である。

それ以外ならば『感謝!!』と一言述べるか、私や私の周囲の人たちの『概念としての幸せ』を祈るぐらいである。

 

以前にも書いたように、万事を尽くしてからでなければ幸運は来ないと考えている。

だから努力ナシに幸運を期待するような事はしない。

しかし万事を尽くしていても、不運に見舞われることはある。

物心ついた頃から、母の病死を日ごと夜ごと怖れていた私の心には、不可抗力や自然的要因に対する根深い不安が棲み付いており、自分でも意識しないまま、その怖れから所構わず神や仏に手を合わせてしまっているのだろうか?


・・・と心の内を分析してみた次第である。

 

2015年

5月

17日

若者たちのチャンスの時代

とある新聞にあった社員の意識調査アンケートの結果を見てみると、

「定時に退社したい」、「責任を負いたくないから昇進はしたくない」、「給料は生活できる範囲でよくて多くなくていい」、「仕事上で車の運転はしたくない」、「休みは出来るだけ多くほしい」、「家族と過ごす時間が少なくなるので残業や休日出勤はしたくない」等の意見が上位を占めていた。

 

出世意欲が標準装備されていた世代の私の頭では、昇進したくない人がいるなんて考えもつかない驚きであった。とはいえ、休みが多く欲しい、残業したくないという気持ちは、自分も通って来た道だから分かる。

しかし、やはり仕事に対する価値観が大きく変化して来ているのを感じる。

その変化を「最近の若者は!」と偉そうに責めたところで、違う価値観を持った両者の溝は深まるばかりであり、どちらが正しい生き方かなんて正解は無いだろう。

しかし、意欲ある若者にとって、今はチャンスの時代なのである!

私の時代は100人いれば100人とも出世意欲を胸の内で燃やしていた。

目の前に階段が在れば、それを上らないという選択肢は無く、少しでも早く!少しでも上に!と皆が思っていた。

けれども今は、そうではない。出世意欲を持たない者が増えれば増えるだけ、競争相手は減り、自身のチャンスが増えるのである。

雨後の筍のように次々競争相手が現れた昔とは違って、今の時代は意欲ある若者にとっては、たちまち頭角を現すことの出来るチャンスの時代なのである。

またこのような世の中では、意欲ある若者は貴重な人材なので、企業側も重宝してくれるはずであろう。

 

 

現在、とくに中小企業にとっては雇用のミスマッチもあって、求人難である。

当社は今のところ何とかギリギリの線で人員確保できているが、製造業や営業、介護系を希望する若者は少ないという今の状況が今後も続けば、近い将来、当社のように都心部から離れた場所にある中小企業は、労働人口減少とともに益々「人材不足」に脅かされることになるだろう。

出世を目指そうという人材には、その努力が、報酬や昇格となって適切に反映され将来の展望が描ける企業作りをする一方で、企業側も意識を変えて、

上記の意識調査のように、ゆとりを持って働きたいという人には、一人一人希望の働き方に沿えるような枠を用意して労働力を確保するという両面の対応で人材不足を解消していかなければならない時代なのかもしれない。

 

2015年

5月

10日

柔道を振り返る

先月、私の母校である天理高校の天理柔道会ホームページがリニューアルされた。

とにもかくにも、最初にこのリニューアルに係った関係者の皆様等、先輩、同輩、後輩の方々のご尽力・ご丹誠に心から深謝申し上げたい。

皆それぞれにご自分の仕事を抱えながらその合間にリニューアル作製の時間を捻出し、会議を重ねてくれたのであろう。

HPをクリックするごとに苦労の痕が感じられ、頭の下がる思いであった。

 

不肖ながら当社も十数年前よりHP等のPR活動を更新や再編を繰り返しながら進めているが、この作業には多くの時間と労力がかかり、我々アナログ世代の人間にとって、なかなかの苦行である。

たとえば「とりあえずのテストサイト」を完成するだけでも、それまでには立案・デザイン・内容精査・構成等で連日の徹夜作業になる。

冒頭にも書いたが、ましてや今回のHPのリニューアルに係った関係者の皆さまは、各々に別に職業をお持ちになりながらの作業なのである。

若き日から続く母校の柔道への熱い思いがあってこその賜物であろう。

 

柔道から教えてもらった事は「試合でいかにして勝つか」といったような技術的な面だけではなく、厳しさや礼節を通して「心構え」「生き方」「信条」など人生の指針となる多くのものを教えてもらった。

技も心も体も鍛えて頂いた。

母校での3年間の柔道生活は、人生の不条理や素晴らしさを集約するものであったし、社会の縮図であった。

だからこの3年間は、50歳を過ぎた今であっても、穴ぐらから奮起する度に我知らず戻っていく心の原点である。

きっと私のように母校での柔道が「人生の礎」となっている卒業生は多いだろう。

 

また母校の柔道を通して出会えた方々との交流やお付き合いが、私の「人生の宝」そのものになっていることは言うまでもないが、社会に出て以降も、柔道を共通の話題として縁が出来たお得意先や仕事仲間なども非常に多く、実際に柔道をしていた期間は短いが、私の人生から柔道は切り離せないものとなっている。

 

ローマは一日にして成らずという言葉があるように、多くの方々の努力の積み重ねが柔道を、また天理柔道を作った。

歴史の1ページ1ページは多くの辛苦の積み重ねから出来ている。

そのような歴史という土台の上で柔道を学ばせて頂けたことに感謝し、今度は私が、未来の人たちの土台の一粒にでもなれたらと考え、末端ながら応援させて頂いている。

 

2015年

5月

04日

全体会議

私のように辺鄙な場所に工場を作り事業を営む経営者は、都会に本社がある会社に比べて如何せん情報量が少ない。

もちろん新聞やネット等で情報を収集してはいるが、生の情報を得るために、なるべく時間を作っては都会のお得意さまを訪問してみたり、小まめに多方面の会に参加させて頂いたりしている。

とは言っても、やはり少ない情報量を基にした「自分の経験と感」だけを頼りに会社運営を行うことが多いので、どうしても独善的な経営に陥りやすい。

そうでなくても私の性格上、ワンマン経営になりやすい。

それが良い方向に進んでいる間は問題ないのだが、いつ「独断と偏見」で間違った方向に暴走しださないとも限らない。

だから自分自身をたえず見直し、自戒を怠ってはいけないと常々考えている。

そこで改善策の一つとして今年から始めたことがある。

 

まず当社のような中小企業においては社員数にもゆとりはなく、私は社長業の専門職というよりは、社内でどんな仕事でもこなす総合職という位置づけであろう。

また同じ理由で各事業部長たちも各部門の管理者というのではなく責任者であり、その部門の実務のすべてを自らの汗と行動で先頭に立って行う部門総合職であろう。

これが今の当社の現状であり、私が考える中小企業の生きざまである。

それ故、各事業部長全員が時間を合わせて集合するというのは難しく、全員が顔を揃えるのは今まで創業記念日くらいであったろうか!?

スケジュール調整が難しく、年度末の打ち上げ、盆年会、忘年会等も各事業部別に行っていた。

そんな訳でこれまで、経営の方向性を決める会議や懇談は各事業部長と個別に行っていた。


しかし「第二の創業」をスローガンに革新を行い、シニア事業部の立ち上げを進め始めた頃から新しい考えが芽生え始めた。

人数が少ないという中小企業の特性を逆に生かして、多少の無理をしてでも各事業部長に集まってもらい話し合い、各部門の情報を全員が風通し良く共有し、違う部門からでも、違った側面から見える意見を互いに出し合って、取り込んでいける環境を作ろうと思った。

そうすることで、情報量も発想も格段に増えると考えた。

また集まった情報を経営者である私が1人で抱え込むと、どうしてもワンマンになってしまうが、共有することで反対意見も聞け、増えた選択肢の中から、より良い選択が出来ると考えた。

そして互いの事業部に関心を持って意見を交し合うことで、組織としての一体感を強め、社内の一丸化を図りたいと考えている。

皆のベクトルが揃えば力を結束して全社的な機能の向上が見られるようになってくれるだろうと信じている。

 

そういう訳で、月に一回(第3金曜日)、事業分門を再構築した上で監査役や顧問の方々まで含めて皆さんに集まって頂いている。

 

2015年

4月

26日

落ち着かねば!

年度末に工場で機械の故障があった。

昨年、新規に導入したばかりの機械だった為、今回が初めての故障であった。それ故、修理経験者が誰もいなかったので、私も修理に立ち会った。

故障箇所を見てみると、ホームセンターでも売っているような汎用部品を調達すれば簡単に直せそうな感じであった。

そこで年度末でもあり繁忙期で納期も迫っていたので、機械メーカーの出張修理を待たずに自社で修理することにした。

ところが、うまく組み込めない。

そこで、私が機械メーカーの担当者に電話を入れて、メモを取りながら組み立て順序を教えてもらった。その後、社員にそのメモを渡し、念押しで口頭でも組み立て手順を申し送りした。

しかしどういう訳か私は、メモに書いてあった手順と全く逆の手順で社員に説明したらしい。

当然、社員は「社長!メモ内容と説明してもらった手順が、まったく逆ですが・・・!?」ときた。

当然である。しかし私の頭の中ではメモ書き通りに説明したつもりであった。

聞いて記憶していた内容に間違いは無かったのだが、口から出たことは全く逆の事を言っていたのである。

 

時々こういう失敗をしてしまうのである。

そこで今回は反省の意味も込めて、自分なりに失敗の原因を考えてみた。

 

まず、ご存じのとおり私は「おしゃべり」である。その上、頭から常に湯気が出ているほど、すごく「せっかち」で早口ある。

おまけに気が多く、会話の途中でも次々に別のことを考えてしまったりする。

口ではAのことを話ながら、意識は次に話すBの方に向いてしまったり、会話とは全く関係の無いことを考えてしまったりする。

口と頭が別作業をしているような感じなのである。

そんな事が多いので、会話がおろそかになり、間違った情報を言ってしまったりするのだろう?!

その他にも、会話の途中で頭の中で考えただけで、すでに話したような気になってしまう。

後で落ち着いて考えれば思い出して「あぁぁ失敗した」と気付くのだが、話している最中は先へ先へと関心が向いてしまい、気付かない。

幼稚園から大学中退まで(今もかもしれない)、学校の先生から言われ続けたことは、

「おまえ!ほんまに落ち着き無いなぁ!」である。

そう言えば、私はガチャガチャと落ち着きの無い子供だったので、親戚の年配者は未だに私のことを「ガチャ彦」と呼んで来る。

頭の中の文章を口に出す時には、意識はもう別の事柄に向いていて、そういう時は口が疎かになり間違った事を言ってしまう・・という失敗は、すでに子供の頃からだったように思う。


幸いに社内での通達事項や伝言は、ほとんど文書で申し送りするので、今までは大きな失敗はない。

が、今後起こらない保証は何もない。

しかし起こっていないのは、まわりの皆が私の性分を熟知し理解しフォローしてくれているからであろう。感謝感激!

それに甘んじることなく、私も良い年齢なのだから、いいかげん落ち着かねば!!

 

2015年

4月

12日

大塚家具の騒動について

一時期、新聞やTVを『大塚家具の父娘戦争』が毎日のように賑わしていた。

親子の恥をわざわざ株主総会という公の場に晒して、投票で賛否を問うような話では無かったように思うのである。

しかし見方を変えて見てみると、この問題が仮に親子の感情論抜きの「経営陣同士の戦い」に終始していれば、素晴らしい戦争であったろうにと思う。

なぜならば大塚家具は「大塚ブランド」を打ち立て革新的な販売方法で売り上げを伸ばしてきたが、

「時代の流れとともに変化する経営環境・消費者指向に今後どう対応していくべきか?」という、

大小を問わず全ての企業が模索していかなければならないテーマを問うていたからである。

 

ここで経営の勉強命題として、もしも私が大塚社長(娘)であったならば、どうするか?

考察してみることにした。


1、ブランドは一朝一夕で出来るものではなく、「高級家具といえば大塚家具」と皆が思い浮かべるほどしっかりと市場に根を下ろした大塚のブランドイメージを、安物を売ってむやみに低下させてはいけない。またこのことはブランドイメージだけでなく過去に大塚ブランドを購入してくれたお客様に対する企業としての責任と義務でもあろう。

そのためにも、一般大衆に向けた低中価格帯の「対抗ブランド」を新たにつくる。

そしてこちらのブランドでニトリやイケヤに対抗し、「大塚家具」は従来路線のまま高級志向でいき、威光ブランドを守る。

 

2、採算が微妙な富裕層人口の少ない地方の店舗は、対抗ブランドに変更する。

ただ大塚家具は広い面積の店舗がほとんどあるから丁寧な市場調査の上、富裕層の割合によっては面積を分け「大塚家具」と「対抗ブランド」の両方を構える。

ブランドの差別化を図るためにも完全に独立したそれぞれ別の店舗という体をとり、入り口や会計・接客方法を変える。

 

3、富裕層人口の多い主要都市(札幌、東京、名古屋、大阪、福岡)の既存店舗は従来路線のまま高級志向でいき、威光ブランドを守る。豊富な品揃えが大塚家具の強みでもあるので、対抗ブランドと面積を分けるなどはあえてしない。

 

4、採算が取れていない地方の店舗は即廃店させ、主要都市に残した従来店舗(3、)のなるべく近隣に、出来るだけ初期投資を抑えて対抗ブランド店舖を新に構え、一般大衆を取り込む。

 

こんな感じはどうだろうか? これなら創業からのイメージや企業ブランドも守れるし、今まではニトリやイケアに流れていた低中価格帯志向の消費者を取り込むことも出来るのではないだろうか。

 

 しかし、今回の騒動で結局は勝ち負けなど存在しなかったように思う。

最大の被害者は企業としてのイメージを落とした法人としての「大塚家具 株式会社」というブランドではないだろうか。

騒動の渦中においては、経営者としては最も忘れてはいけないはずのお客さま・仕入れ先・社員や株主の皆さまの存在は、忘れ去られていたように思う!

 

2015年

4月

05日

26年度 会計年度末を終えて

当社にとって3月は一般で言う所の12月である。

繁忙期の中でもピークの繁忙期であり、息つく間もないようなきりきり舞いの忙しい期間である。

 

なぜ3月にこのような盆と正月が一緒に来たような忙しさになるのかというと、

まず当社の主力製造品目である「毛布等のテキスタイル関連商品」が、その特性上寒くなる10月頃から忙しくなり始める。

また官公庁さまや一般大手企業さま向けに販売させて頂いている「災害用備蓄関連商品」のオーダーが、9月10月頃から集中し始めて、官公庁さまや一般大手企業さまの予算執行や会計年度末の都合上である3月31日に納期が集中するのである。

また「土木関連資材」のオーダーも年度末の関係上、同時期に納期が集中する。

 

この繁忙期を迎える為に計画性をもって徐々に在庫を作り置きしていくのだが、どうしても作り置き出来ないオーダーも多数発生する。

というのは商材に名入れするオーダーが全体の約60%毎年有り、オーダーが決定してからしか作れないのである。「災害用備蓄毛布」や「災害用備蓄衛生用品」の各地方自治体さまの名入れや、フェリー等の船会社さま船名入れなどが、その例である。

また「土木関連資材」にも工事現場名や大手ゼネコンさまの社名入れオーダーも発生する。

 

そのような訳で、3月中は、その日の勤務体制によるが2交代(8時間+残業4時間)もしくは3交代(8時間×3)、土日も操業で、ほぼ休みなく24時間の製造体制が続くのである。

しかしそれでも間に合わず、下請けさんや協力会社さんも毎日フル稼働の状態である。

また社員数を端境期に赤字を出さないギリギリの人数で運営している関係上、正社員の数倍になる人数の派遣社員さんや短期アルバイトさんの大量導入で毎年、安全第一を旨に何とか3月を乗り切るのである。

 

このように大量のオーダーに恵まれ、毎年繁忙期を迎えられるのは、お得意さまや販売代理店さまのご厚情と、当社の商材営業に対する血のにじむ様なご尽力のおかげに他ならないのである!

このご厚情やご尽力に少しでもお応えする為にも、オーダー頂ける商品はこの時期全社を挙げて限界まで受注させて頂き、また品質向上に最善を尽くし、納期徹底を貫徹するのが使命と考えております。

 

そしてあと一つ、経営者である私が忘れてはならないことがある。

全社員(アルバイト、パート含む)・下請けさんや協力会社さん・派遣社員さん等、当社に関連する全ての人々の頑張りに対する感謝である。

特筆したいのは、各事業部長たちの頑張り。

皆さんの頑張りは、ちゃんと見ています。気付いています。

本当にありがとう。頼りにしています。

 

お得意さま・販売店さま・社員の皆さんそして当社に関わる全ての皆さまのおかげで、今年度も会計年度末を終えることができました。

心より御礼申し上げますと共に来る27年度もよろしくお願い申し上げる次第であります!感謝!

 

2015年

3月

30日

ブログの効用

ブログを始めて約2年半、記事数は100を越えた。

もともと手紙をよく書く方だったので、その延長線上ぐらいの気持ちで始めたのだが、手紙とは違って一つの記事に対しても様々な人たちから色んな反応が返って来るのがただ楽しくて続けていたというのが、当初の正直な気持ちだ。

しかしそれだけではない様々な効用があった。

 

大阪の南隅の一社長の私を社長TVに取り上げて下さったり、さすがに私では力不足なのでお断りしたが若手社長育成の講師を依頼して下さったりなどもあって、私自身の事業に対する取り組みや考え方(理念・方向性)に対して手ごたえを感じることが出来た。

また公共のWebの場に、自分自身の思いや考えをさらけ出すことによって、経営者としての評価を頂けることが嬉しかった。当然、批判やお叱りもあるので、改めて自分自身を律する機会にも恵まれる。それがとても有り難くて嬉しい。

言い換えればブログを書くこと自体が毎回、自分自身を律するチャンスなのである。

 

また自分の中に漠然と存在していた意識を整理し、文章化することで、目標や問題点、考えなどを明確にして再認識することが出来た。

また、ブログを書くということは「人に自分自身の考えを話す力」も養えると感じた。

「考え」を文章化するということは、頭の中の考えをまずしっかり観察することから始まっている。

断片的だった思考や錯綜していた思考を一つ一つ整理して、考えを纏めて行く。

一度その作業を終えたテーマは、思考の整理整頓が出来ているので、人にスムーズに話せる。

そうして口頭なりブログなりで私自身の考えを表明することで、考え方や方向性を社員たちと共有しやすくなったと感じる。

経営者が営業方針や考えを現場に落とし込む際には、一度や二度伝えただけで浸透しないことに嘆くことなく、何度も何度も語り掛けなければならないと考えているが、ブログはそれに一役かってくれていると感じる。

 

また、ブログを始めてから有り難いことに私の理解者が増えたと感じる。

外見の印象から誤解されていた部分も、腹の内側をブログに綴ることで解けたことも多い。

また最近はネット社会なので、初対面であっても先にブログを読んで私の考えや性質を知ってくれている場合も多く、その場合、短い時間で人間関係が作れる。

 

正直、週一回のペースでブログを更新するとなると、面倒だなと感じたり、書く暇があったら寝たいなと思ったりもするのだが、一人々々に個別に私の考えや私という人間を説明させて頂くとなると、膨大な時間と手間を必要とするだろう。

それに比べたらブログは効率的で生産性が高いなと思い、ブログを続けている次第であります。

 

本日もこのような稚拙なブログにお付き合い下さいまして、誠にありがとうございました。

m(_ _ )m感謝!


2015年

3月

22日

ゴールは無い

通常どこの学校も、高校3年生は8月のインターハイを最後に、クラブ活動を引退する。(※国体に出る選手は10月まで)

しかし私の在籍当時の天理高校柔道部は、入学式初日から稽古があり、それがなんと卒業式当日の朝まで続くのである。

ちなみに修学旅行中も柔道部は朝練があった。

 

高校生活最後の試合である8月のインターハイを優勝で締めくくり、

帰寮したその日の夜の話である。


監督の加藤先生より「3年生は全員、寮1階のテレビ室に集まるように」との指示があった。

その時、我々生徒たちの間で、ある噂が広まっており、その話題で持ちきりになっていた。

「今年の3年生は今日のインターハイをもって引退で、明日からは練習に参加しなくてもいいらしい」との「うわさ話」であった。

というのも、以前にも少し書いたが、それまでは無かった春の全国高等学校柔道選手権大会が、私たちが3年生の時に初めて開催されることになり、「記念すべき第1回目大会の優勝旗を天理に是が非でも持って帰る!」ということをスローガンに、朝の練習が約2時間半(通常は約1時間)に拡大されたのである。前述の大会の優勝旗を手にした後も拡大された練習時間は元に戻ることなく、今日のインターハイまでそのまま続いていたのだ。

「俺たちは歴代でNO,1に長い時間、稽古をして来た。それに春夏連覇の目標も達成した。だから、その褒美として明日からの稽古は免除されるらしいぞ!!」

そんな噂に期待して、みんな胸を躍らせ、はしゃいでいたのである。

 

ところが、である。

優勝後のお祭り気分でいる私たちの前に立つ加藤先生は笑顔の一つも無く、鬼の形相を作っているのだ。

その顔を見て、浮かれ気分でいた我々の顔も次第に真顔に変わる。

そして先生は、いきなりこう言うのである。

「先生はおめでとうとは一切言わない。今日のことは、人生のただの通過点の一コマでしかない。それにもう終わったことだ。」

予想外の言葉に、こちらは呆気に取られた。

この日の為に3年間必死で頑張って来たのではないのか?!

そんな我々の不満顔をものともせず、続いて先生から出て来た言葉が

「明日からは、第2回全国高等学校柔道選手権大会に向けて練習を始める!気を抜くな!3年生は今まで学んだ事を1・2年に教えてくれ。」

(おいぃ!!嘘だろー!!今日で引退できるんじゃないのかよー!!)

私たち3年生は膝から崩れ落ちるような気分を味わった。

いや実際に崩れ落ちていた者も居たかもしれない。天国から地獄とは、まさにこの事である。

うな垂れる私たちを見て加藤先生は

「先生の事を思い出すたびに生涯、先生を怨め!」

と言うのである。すごい言葉を言うものである。

先生の気勢に圧倒されて、不服を申し立てる気力は失った。

「柔道にゴールはない。柔道とは道衣を着て練習することだけではなく、その後も死ぬ日まで生涯に渡り精進するということだ。」

一同、加藤先生を見つめるだけで声も出ず・・・

 

30数年前の記憶を辿りながら書かせて頂いたので、表現には多少の相違点が含まれると思うが、こんな感じであった。

 

社会人になった後でも30代後半くらいまでは、先生の顔を思い出すと怖かった。

しかし40代に入ると、なぜか先生の顔を思い出すと嬉しくて、会いに行きたい気持ちになった!

しかし実際にお会いすれば、いつも私は直立不動であった。

 

経営者の私には定年がない。会社経営にもゴールはない。

目標や夢は有るが到達してしまえば、それもただの通過点に過ぎない。

野村豊和先輩がオリンピックで優勝され、金メダルを見せに来られた時も、加藤先生は、

「それがゴールではないのだ」という意味の事を仰って、金メダルを見なかったそうだ。

 

『生きている限り、大きな成功も失敗もそれはゴールではなく、通過点に過ぎないのだ。

だから良い時も怠慢にならず、悪い時にも諦めず、死ぬまで精進し続けよ!』

今そう心から思えるのは、卒業式の朝まで稽古をさせてくれた鬼の加藤先生のお陰なのである。

10代の時には分からなかった先生の想いが、今頃よく分かる・・・。

 

2015年

3月

15日

走りながら考える

平成27年2月12日にサービス付き高齢者専用賃貸住宅「フラワーホーム」の地鎮祭が行われ、同20日に建設着工と相成りました。

  地鎮祭の様子>>

 

また3月1日より「サ高住建設準備室」を改め、新規に「シニア事業部」と致しましたことをご報告申し上げます。

ご支援・ご厚情並びにご指導を賜りました各位また皆様方に、「お蔭さまと感謝の気持ち」を持ちまして心より御礼申し上げる次第であります。

また来る本年11月の開設に向けて役員・社員一同、益々の精進を重ねて邁進して行く覚悟であります。今後も引き続きのご支援・ご厚情・ご指導を改めてお願い申し上げる次第であります。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


さて、今回の「シニア事業部」であるが、このような新規事業部の立ち上げは約10年ぶりである。

今までにM&Aや既存事業部の再編、また新規事業部の立ち上げを随時行ってきたが、その都度、社員に絶えず言う言葉がある。

「走りながら考える」

誤解して欲しくないのだが、「走りながら考える」とは、いきなりスタートを切って、行き当たりばったりで突き進んで行くという意味ではない。

計画が頓挫したり失敗したりするリスクを極力小さくするために、まず徹底した事前リサーチを重ね、綿密な計画を立てる。そうした上で初めてスタートを切る。

そしてその計画から外れだした部分は、その都度たえず見直し、軌道修正をしながら臨機応変に対応していくということが「走りながら考える」の意味である。

私の経験上、スタート前に机の上でいくら完璧な計画を立てても、それをそのまま遂行することは、ほぼ不可能である。なぜなら計画は、ある一定の条件で算出された仮説にしかすぎないからである。

「計画時に考えていた条件」と「現実」に差異があるなんてことは日常的にある。

事業は生き物だから当然である。

だから計画を常に見直し軌道修正しながら臨機応変に対応して行くことが、事業運営にとって重要なのであると私は考えている。


あと一つ、私が新規事業の立ち上げの度に心している事がある。

それは「事業スタート時に無欠を目指そうするな」ということである。

旅支度と同じで、アレやコレやと揃えたくなる。「あれがあった方が便利だろう、もしもの時の為にこれも持って行こう、そうだ予備もあれば安心だ。一級品を買えば間違いない」と、装備が備わるほど心強くなる。また旅への思い入れが強ければ強いほど、色々こだわりたくなる。自分が納得するまで装備を車に詰め込み、「さぁこれで万全!安心だ!」とスタートを切る。

しかしこれでは初期投資は増加し、そこには不要な労力も発生するのである。

アレコレ揃えたものの、結局旅先で使わず無駄になったなんてこともよくある。

それとは逆で、その土地に行ってみて初めて分かることも多くあり、出発前には想像もしていなかった物が必要になったりする。

旅支度で資金を使い過ぎては、旅本番の資金が減ってしまう。旅先で計画外の出来事に襲われたのに、それに対応出来る資金はあと少ししかない!などの事態になってはいけない。

大企業であればトラクターにたっぷりの装備と資金を積み込み、万全の体制でスタートを切れるだろうが、資金に限りのある中小企業は身軽な状態でスタートを切った方が良い。

そして旅をしながら必要に応じて臨機応変に装備を整えて行けば良い。

その方が机で考えるより、はるかに正しい見極めが出来る。

会社経営には倒産か廃業という「終り」があっても、「ゴール」「完了」「完成」というような決まった形があるものでは無い。また運営は「いつまでも続けなければならない旅」のようなものである。

だから常に余力は温存しておかなければならないのである。


しかし旅行保険は必ず掛けておく。旅行保険は旅の前にしか掛けられない。トラブルが起こった後から保険を掛けることは出来ない。

事業を始めるタイミングでしか出来ないリスクヘッジというものもある。そこには惜しまず資金を投入するようにしている。

例えば当社の新規事業であるサ高住の場合、建築基準法で定められている基準以上の高層マンション並の耐火性能を有する構造で建設する。

そうする第一の理由は、もちろん利用者さまの安全を守り、安心して暮らして頂けるようにしたいからである。

第二の理由は、建築基準法は大きな災害や事故があるたびに改正されるからである。

耐火性能を上げればその分建築コストは高くなるが、法が改正されてから改修するとなると、遙かに高額な費用を要してしまう。後悔してもすでに時遅しである。

また当サ高住はストレッチャーに対応できる大型エレベーターを設置する。

その分建築費は大きくなるが、緊急時に即座に対応出来るようにしておきたい。

上記のように、後から簡単には備える事が出来ないものは、先の先まで考えて慎重に取捨選択しなければならないと用心している。

スタートしてしまってからでは、もう遅い。


2015年

3月

08日

営業とは?

30数年来の古い友人から、「営業とは何か?」と質問を受けた。

この友人は、大学を卒業後に営業とは全く無縁の職業を30年間勤めた人物である。

訳あって、52歳になってから営業の仕事をするようになった。

「立花にとっては何を今さらの話かもしれないが、俺は営業という仕事は生まれて初めてなんや!どうしたら売れるのか秘訣を教えてくれ!?」と言われた。

友人の声からは、彼が営業での行き詰まりを感じている状況なのが即座に伝わって来た。

「実は俺も未だに営業とは何かよくわからないというのが現状や!刻々と変化していく顧客のニーズや社会情勢また商材の流行り廃りについて行くために、自社の営業戦略を随時タイムリーに考えるだけで精一杯なんや!それに今日うまくいったことでも、明日はもう役立たないことがほとんどなんや!」

と答えた。

しかし本人の鬼気迫る気迫を前に、それだけでは納得してもらえないことは感じていたので、

「お前の役に立つか解らないが・・・」と、断りを入れてから話を始めた。

 

その時の内容に付け加えて、ここで改めて営業についての自説を書こうと思う。

情報の集積・把握、分析、顧客への伝達方法の工夫など、そういった具体的な内容はココでは省き、ヒューマン的なことに限定して述べたい。

 

ずばり営業とは、製品を売る前に「己自身」を売ることではないだろうか。

「買いたい」と最初から思ってくれているお客様は別として、私は営業に行っても8割以上が世間話だ。訪ねた先で仕事に全然関係のない世間話で盛り上がってしまい、結局仕事の話を一切しないまま予定時間が過ぎてしまって帰る時もある。

要は、はじめは様々なコミュニケーションの舞台を通して、まず自分に関心を持ってもらうこと。

ちなみに、私の場合は特に、柔道で潰れた両耳とマウンテンゴリラ並みのデカい図体がキャラクターとして、すこぶる役に立つ。

初めてのお客様との会話は、ほぼここから始まると言っても過言でない。

私に無関心なお客様は、私がどんなに熱心に商品説明をしても、関心の無い相手の説明などほとんど頭に入れてくれない。

逆に、私という人間に興味を持ってくれて、信頼関係が築けたお客様は、「あんたの商品なら、だいじょうぶ」と、商品の説明すら遮られたりすることもある。


それとコメツキバッタみたいにペコペコしながら媚びるような態度で契約してもらうのは、本当の営業ではない。そこに信頼関係は無いので、良い条件を提示する他社が現れれば、すぐに契約が終了してしまう。


また当社には営業だけを専門にやっている者は居ない。

普段は製造業務に就いていて、必要に応じて営業マンになる。

はじめは製造部門の人間に営業が務まるだろうか?と心配もあったが、商品の事を熟知しているだけあって、どんな質問にも即座に答えることが出来、そういった面が信用に繋がるのか、大変よく売って来てきてくれるので驚いたほどである。

 

ここからは経営者としての考えだが、経営者は営業マンが営業しやすいように、部下を信頼して権限を委譲することが必要である。

例えば当社の場合、能力のある社員には

「失敗してもいい。失敗したら私が全部責任を持つから、自分の思うようにやってみろ」

と常々言っている。(ここでの失敗は実は単純な失敗ではなく次へのステップなのである。)

権限を委譲する理由の一つは、金額や納期を初めとしたお客様の要望を「一旦、社に持ち帰って相談・・・」と度々なってしまえば、その営業マンは単なる伝書鳩という位置づけになってしまい、お客様と営業マンの間に信頼関係が築けなくなってしまうからだ。

 

最後に、『当社の商品を大変よく売って頂いたお得意様の営業マンの話』を2年ほど前にブログに書いたので、もう一度ここで紹介させて頂きたい。

お節介な人ほど有難い


2015年

3月

01日

幸せの共鳴現象

先般、会合(と言っても実は飲み会)があり、その日は、出発前に急な来客があった関係で時間ぎりぎりに最寄りの駅に着いた。

駅から目的の場所までは徒歩圏内であったが、歩きでは開始時間に間に合わない。

そこで「タクシー」と思ったのだが、見ればロータリーには客待ちをするタクシーが30台以上も並んでいる。

先頭のタクシーが客を乗せるまでには、1時間以上の時間を要したであろう事が、容易に想像がつく。

運転手さんの待機時間を考えると、1メーターの距離で利用するのは悪いなあ・・・と一瞬ためらったが、先輩諸氏を待たす訳にもいかず、やはりタクシーへ乗り込んだ。

そして肩身の狭い思いをしながら「近くの○○まで」と行先を告げた。

するとどうだろう。

舌打ちでも返って来たら、こちらも応戦していたが、運転手さんは笑顔で

「有難うございます」と言うのだ。

思いがけず快い反応が返って来たことに驚きながら

「長い待機時間なのに1メーターですみません。」と、とっさに返した。

すると運転手さんは、こうである。

「いえ!なぜか不思議と、1メーターのお客さんを乗せると、次は長距離のお客さんに当たるんですよ!だから私にとったら1メーターのお客さんは縁起の良いお客さんです」

営業トークであったかもしれないが、私はその言葉を聞いて運転手さんの心の在り方に感服した。

と同時にその言葉のお陰で、心苦しかったマイナスの気持ちが一転し、「そんな風に言ってくれて、ありがとう」と言いたくなるような温かい気持ちになった。

 

この運転手さんとの出会いで、天理高校時代に谷口先生という物理の先生から受けた素晴らしい授業のことを思い出した。

いきなりだが皆さんはテレビのチャンネルが変わる仕組みを御存じだろうか?

たとえばNHKの1chに例えて簡単に説明すると、まずテレビ側から1chの周波数の電波を、アンテナを通して空中に送信する。そうすると空中にある色々な種類の数千万と言われる電波の中から同じ周波数の電波は響き合いながら、引き寄せ合うのだ。その集まった同じ周波数の電波を今度はまたテレビ側が受信して1chを見る事が出来るのである。

物理的な言葉で言うと周波数の共鳴現象というそうである。

この授業の最後のまとめで先生は、人間にたとえて下記のような話をしてくださった。

 

谷口先生のお話

優しい気持ちを持っていると、 体から「優しい電波」が出ているので「同じ気持ちの電波」が引き寄せられて集まってきます。

この共鳴現象は「物理」でも「人の感情」でも同じです。

普段から「優しい電波」を出していると、自然に優しい気持ちの人がまわりに集まって来てくれます。そのことにより次から次へと「優しい電波」が人から人へと繋がり、そして、だんだん全体が幸せな状態になっていくのです。

これが「幸せの共鳴現象」です。


(100%の再現は出来ないが、大まかには、こんな感じです。謝<(_ _)>)

 

自分の些細な行動の積み重ねが、自分を取り巻く世界を作っている。

世界は自分の鏡であると再認識させられた次第である。

 

2015年

2月

22日

親は尊敬しない!?

昨年、求人応募で履歴書を見る機会があった。

その履歴書には「尊敬する人」は「両親」と書いてあり、その理由は「私を生んで育ててくれたから」とあった。

私はそれを見て、なんだか「うーん・・・」と言いたくなるような、もどかしい想いに襲われた。と同時に、ある思い出が脳裏に蘇えって来た。

 

私が中学2年生の時、T君という同い年の少年が近所に引っ越して来た。

T君の家は母子家庭で、当時の私の自宅近くにあった大手スーパーの男子寮の寮母さんとして住み込みで働くために、高知県から大阪へ、母と息子の二人で引っ越してきたのだ。

近所だったこともあって、クラスは違ったがすぐに友達になった。

多感な時期でもあり、「好きなタレントはだれか?」「好きな女性のタイプは?」「大人になったら、何になりたいか?」など、たわいもない話題で盛り上り、よく夜中近くまで、互いの家を行ったり来たりした。

T君の話の中に頻繁に登場するのは「うちのおかあさん」だ。

「尊敬する人はだれか?」という私の問いかけに返って来た答えも、迷わず「おかあさん!」だった。

母子家庭になった理由は解らないが、女手一つで頑張る母親の苦労を見ながら育ったT君の素直な感情から出た言葉であったろう。

 

ある日、遊びに誘うために私はT君の家を訪れた。

玄関に母親が出て来て、まだT君は帰宅していない事を告げられた。それから少し学校の事などを聞かれ話した。

その会話の流れの中で、私はT君の母親に喜んでもらおうと単純に考え

「T君は、おかあさんの苦労を見ているので、おかあさんを尊敬している・・・」

みたいな話をするとT君の母親は、

「ありがとうの気持ちを持つのは大切なこと。親だけに限らず誰に対してでも持たないとアカンよ。でも、親が子供の事を思って苦労するのは当たり前のことだよ!当たり前のことをしている親を尊敬しなくていい!」

と言った後、私に横顔を見せて

「子供に親を尊敬させたら親は(子育ては?)失格やな」と独りごちた。

当時、私はT君の素晴らしい思いを代弁するような気持ちでお母さんに伝えたつもりだったが、その場の雰囲気が重たいものに変わり、よく分からないが何か悪いことを言ってしまったのだろうか?と、自宅に戻ってからも心が塞いだ。

結果、その言葉は今も耳に残っている。


けれど今になってみればT君の母親の想いは、私なりの解釈だが分かる。

親の姿を見て子供が感謝する、その事は嬉しい。

しかし自分の子が、親の姿しか見えないような視野狭窄になってしまっては悲しい。

もっと遠くを世界を見渡せば、仰ぎ見るような大きな事をやり遂げた人物や、憧れるような人物が沢山いるはず。しかし苦労している親の姿が子供の心を占めてしまって、他に目が向かないのでは申しわけない。子供には、もっと大きな世界を持って欲しい。

と、こんな感じだったのでは、ないだろうか?

きっと母親の想いが通じたのだろう。現在T君は、関西の某所で美容室を2店舗構え、立派に成功されている。

 

余談だが、感謝の気持ちと素直な敬意の表現方法として、両親の誕生日を記憶してほしい。

私は両親の誕生日には、「おめでとう」の一言も言わずに電話をかけるくらいだが、長年たとえ出張先からであっても声くらいは掛けるようにしている。

しかし、社員の誕生日には必ず簡単な昼食会を開催させて頂いているので、親不孝な子供である(笑)。

 

2015年

2月

15日

自分改造計画

昨年末、「最近、おまえ元気無いなぁ!?」「どこか体調でも悪いのか!?」「心配事でもあるのか?」と聞かれることが何度かあった。

確かに私は心配症であるから、不安の芽は常に心の中にある。

新しい不安の芽が顔を出すたびにリスクマネジメントに追われ、一つ芽を摘み取っても、また次の新しい芽が顔を出す。365日その繰り返しである。

しかし経営とは、そういうものなので、それで心の元気を無くすようなことはない。

体調の方も、50歳から人間ドックを欠かしたことがなく、血液によるストレス度チェックでは自分の予想と全く違って、お医者さんから

「ストレス ゼロですね」と伝えられ、ものすごくビックリした!

心身ともに健康であるはずなのに、ではなぜ?「元気ないなぁ!?」と数人に言われたのだろうかと考えてみると、実は思い当たることがあった。

 

昨年「おしゃべり」のブログを書いたあと、自分でも反省して、

「自分ばかりが一方的に話したてないようにしよう!相手が話しに入りやすいように、間を空けるようにしよう!」と心がけていたのである。

そうすると、いつもはマシンガンな私の口数が少なくなる。

それが原因で「元気がない」と心配されてしまったのかもしれない

と思いついた後、おしゃべりの自己規制は、ほどほどにする事にした。笑

(規制解除の後は、元気がないとは言われなくなった)

 

それと、ふと思う所があり、自分は今まで元来からの「せっかち」な性格が高じて、人の話を最後まで聞かないうちにスタートを切ってしまったり、自分の意見を言ったりしてなかっただろうか?と自問すると、思い当たる節しかなかった。

今のところ大きな失敗は無いが、今後大きな失敗をしない内に

「相手の話を最後まで聞いて、全部完全に理解してから、自分の意見や話を言おう」と今さらながら反省した。

 

この「せっかち」な性格も出来れば改善したいものである。

エレベーターのボタンは扉が開くまで連打してしまうし、定食屋では最後の一口を飲み込まないうちに席を立ってしまうし、のど飴は口に入れた瞬間に噛んでしまって無くなるし、録画は早送りで見てしまうし、電話では、まだ相手が出ないうちから話し始めてしまうし・・・って、最後の一つは冗談ですが。笑!


2015年

2月

08日

連鎖

私の母校である奈良県天理高校は全寮制の学校である。

柔道部専用の寮があり、当時は3年生、2年生、1年生の1名ずつ計3名で一部屋を割り当てられていた。

体育会系は上下関係が厳しい。その厳しい縦社会の中で24時間体制の寮生活は、1年生にとってなかなか大変なものである。新入社員が課長と部長と一室で暮らしているようなものである。

部員達は、この規律ある寮生活を通して、我慢を覚え、社会性を養い、思いやりを知り、自立の精神を学び、その過程で色々な壁にぶつかりながらも乗り越えて、逞しくなって行くのである。

社会に出ても戸惑わずに縦社会の人間関係を築いて行ける術を寮生活から学ぶのだ。(⇒体育会系新入社員

私自身も、寮生活を経験していなければ、今とは違う自分であっただろうと感じている。

 

高校1年の真夏の日のこと。

普段は授業をしている昼間の時間も、夏休みの間は柔道の稽古が延々と続く。

大量の蝉がうるさく鳴き、柔道場の中はサウナのように蒸し暑く、息苦しい。

汗が噴き出て、油みたいにヌメヌメして、少し動くだけでもどんどん体が重く感じ、体力が消耗して行く。次第に足腰に力が入らなくなって、体がフラフラと揺れる。

疲労の極みの中、自分では精一杯やっているつもりでも、先生や先輩たちの目から見れば、手を抜いているように思われ、激が何度も飛ぶ。

「おい!コラ!立花!表に出ろ!!」

ついに同じ部屋の先輩に腕を取られ、柔道場の外に引っ張り出された。

座るように言われ、しぶしぶそれに従うと、後ろ首に向かって冷たい水が落ちて来た。

熱く火照っていた体がスッーと冷えて、気持ちが良い。

それから先輩は「体冷やせ」と言って、お茶を持って来て与えてくれた。

当時は稽古中に水分を取るのは良くないという風潮で禁止されていた。

だから内緒の水分補給である。

もちろん私は大喜びで一気に飲み干した。

こうして生気を取り戻した私は、先輩と一緒に道場に戻って、再び稽古を再開した。

動きが良くなった私を見て、先生は、「活を入れられたのだろう」と思ったのか、「水を飲んで来たな」とバレていたのかは分からないが、先生は何も言わなかった。

自分が先輩になった時は、後輩に同じことをした。

 

同じ釜の飯を食う仲なだけあって、上下関係が厳しい中でも根底には強い絆があり、困ったことがあれば先輩に相談して助けてもらったり、仕送りが先輩の誰かに届けば、それで私たち後輩は飯に連れて行ってもらえたりした。

先輩たちに施してもらった親切に、お返しをした事は一度も無い。

そのぶん自分たちが上級生になった時、後輩たちに同じ事をすることで恩返しとした。

 

卒業後30数年が経つが今でも天理OBの集まりで「部屋人会」(同室になった上下の者の集まり)というのが、年に数回ある。その時、ある後輩から

「先輩にしてもらったことを後輩にした。」

という話を聞いて凄く嬉しい気持ちになった。

そうやって、先輩に返すのではなく後輩に返していく事で、伝統という連鎖が今も繋がってきているように思う。

そうする理由は単純で、全国優勝という目標に向かって柔道部全体が共に強く、そして皆が共に良くなって行けばいいと思っているからである。

確かに全寮制の柔道部は厳しいが、そこに講道館柔道の最大の教育目標である「自他融和共栄」が、意識せずとも自然に生まれてくる仕組みと環境が寮生活にはある。

すなわち身近な「家族意識」の共有から「絆」が生まれて、その絆からみんなで強くなろうとする「目的意識」が芽生えて、ひいては柔道部全体への「集合体意識」へ変化していくという波及効果である。

 

苦しい事の方が多かった寮生活だったが、今思うと社会に出てから役に立つ多くの事を寮での暮らしで学ばせて頂いたと感謝の念に堪えない。

 

2015年

2月

01日

「あたりまえ」と「おかげさま」

法事が終わり、ご住職さんをお寺まで送らせて頂いた際の話である。

私が法事のお礼を述べると、ご住職さんは

「私の方こそお礼を言います。宗教離れが進む中、あなたのようにきっちりと作法通りの事をする人は大変ありがたい。私も毎日三食、食べて行かないと死にますからね」と笑いながら仰った。

その飾らないお言葉を聞いたとき、寺院経営も会社経営もプロセスは同じなのだろうなぁと感じ、つい失礼にも

「所詮、お寺も会社も飯を食っていけないと続けて行けませんからね」と返した。

すると

「その通りです。あなたの商売もなかなか難しいと思いますが、私の商売も難しいですよ。あなたは形のあるものを売りますが、私は形の無いものを売らなければならない」と仰った。

住職さんとの会話に興味を惹かれ、熱が入った私は

「実は私も形の無い物を売っているのですよ。まず会社と経営者である私を買ってもらわないと商品は売れません。あの会社ならだいじょうぶ、あの人から買った商品ならだいじょうぶ。そう思って頂けるように『信用』を売っています」と申し上げた。

するとお寺までもう間近だったこともあり、住職さんが

「あなたと少し話したいですね。もし時間があれば、上がってお茶でもどうですか?」と仰って下さった。

私は喜んでお言葉に甘えることにした。

以下、お茶を頂きながら住職さんから伺ったお話を、記憶を頼りに要約した。

 

住職さんは『教え』という形の無いものを売っている。

その教えの中の一つが、「あたりまえ」と「おかげさま」

たとえば五体満足である。健康である。する仕事がある。毎日食事が出来るなど今当たり前になってしまっている全てのことは、直接的、間接的な誰かの尽力があってこそのもの。

何気ない当たり前一つ一つに関心を寄せて、感謝しよう。

まず神様や仏様に手を合わすことから始めよう。

「おかげさまで毎日を過ごせています。ありがとうございます」

と心の中で唱えるだけでよい。

慣れてきたら、周りの人達に対しても簡単でいいから「おかげさまです」と感謝を伝えていこう。

これらは小さな行動かもしれないが、「あたりまえ」と思っていたことを「おかげさま」と感じる人が増えて行けば、世界はもっと良いものになり、平和へと繋がっていく。

お話は、このような感じであった。

 

今日も一日、私が仕事を出来たのは、私の周りの全ての方々のおかげであります。

おかげさまです! ありがとうございます!!

明日も頑張ります!!

 

2015年

1月

25日

どこまで行っても平行線

とある会合での事である。

隣の席になった方と挨拶を交わし、互いに自己紹介をした。

その方は、私が経営者だと分かると唐突に

「私は経営者に成る気もないし、経営自体も絶対無理です!」

「なぜならば経営は努力だけではどうしようもなく、天の理と地の利が味方してくれないと成功出来ないから、運を天に任せるような職業に人生を掛ける勇気もない」と仰った。

最初は謙遜の言葉なのか?と思ったが、どうもそうではないようで、経営という職業に批判的なのか?経営者という人種が嫌いなのか?

とにかく何が何だか解らず、不快な気持ちになった。

しかし大人気ない言葉を言う訳にもいかないし、

「百人いれば百人とも価値観も考え方もさまざまですからね」

とだけ返して、あとの言葉は呑み込んだ。

しかし、その方が発した「運を天に任せるような職業」という言葉への違和感が次第に私の中で耐え難いものになり、やはり私の考え方を述べさせて頂くことにした。


その時の話を、以下に簡単に書かせて頂く

■天の理

当社の経営理念にもあるように「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」の「三方良し」の精神で事業をさせて頂くことにより、返ってくる反響なり評価なりが、平たく言うと社会からの「報奨」であり、まさに「天の理」ではないだろうか!?

■地の利

人口密度や人の流れに対する会社や店の立地条件から始まり、その地域の住民特性・市場性のリサーチ、果ては近隣住民や近隣企業・同業他社との交わりを含めた企業の持てる社会性全般から生まれる利益が「地の利」ではないだろうか!?

 

つまり多くの経営者は、ただぼんやりと運を天に任せているのではなく、事前調査、事前準備をし、緻密に計画を立て、真面目に取り組み、人との関係を大切にし、責任を負い、日々努力することで良い結果(運)が来てくれるように道筋を作っているのである。そして悪い運に襲われませんようにとただ願っているのではなく、危機に襲われないように、襲われたとしても最小限の被害で済むようにリスクマネジメントをしているのである。

人事を尽くして天命を待つという言葉があるように、経営者として出来る限りのことをし尽くした後の結果を天に任せているのである。

ここまでしても不運に襲われる事もあるが、それは経営者でなくとも、どんな職業でも同じだろう。

 

以上のような経営者としての私の信念を述べさせてもらった。

するとその方は、「あなたが述べたような事は、すでに学生時代に本を読んで学んだから理解しているが合理的でない。だから、卒業後の進路を考えた時、経営者というリスキーな選択肢は無かった」という事を仰った。

「明日が解らないからこそ、挑戦も出来ます」と私が言うと、「見ない明日に自分を任せていますね!」と返って来た。仕舞いには、「お金儲けが好きなんですね?」と言われ、お喋りな私も閉口してしまった。

気を取り直して、「儲ける」と「儲かる」の違いを説明しようかと思ったが、会の時間も終わりに近づいていたので結局、平行線のまま挨拶を交わして別れた。

会場を出るとドッと疲労感に襲われたし、討論している最中はカチンと来た瞬間もあったが、こういう方は、実は私にとって非常に有り難い存在なのである。

なぜならば、世の中には人それぞれに色んな考え方や価値観があることは事実だし、生きざまも様々であろう。それらを多く知ることが経営者としての自分自身のスキルアップに繋がる。

それに私の年齢になると、面と向かって批判や反論をぶつけてくれる人が少なくなる。そうなると自分の考え方や価値観に独善的に酔ってしまいがちになり「裸の王様」になる危険が待ち受けている。

人に批判や反論をぶつける行為は多大なエネルギーが要るものである。そうしてまでも、私にご意見を下さる人の事を有り難い人だと思う。

そこで私の周りの全ての人にお願いしたい。

賛同はしてくれても迎合はしないで欲しい!そして、どんなことでも異論反論があれば、是非とも私の為に、その考えを聞かせて欲しい。

 

今回の出来事は今になって思うと、神様が私に訓示を与えて下ったのではないか?

今秋にサ高住の本格運用が開始されると、利用者様や新たな社員や関連業者さんなど、関わる人数が急増する。

関わる人数が増えるという事は、価値観が大きく違う人とも出会うという事、そしてそういう人達とも関わり合って仕事をするという事である。

その前に神様は、「世の中には色々な意見があるのだぞ!」「みんなの意見に耳を傾けて独善的になるなよ!」「人が増えるともっと大変だと心しろよ!」と、平行線の人物を通して私に教えて下さったのではないだろうか?と思った次第である。


2015年

1月

18日

お洒落と高齢者

サービス付き高齢者専用賃貸住宅(以下 サ高住と記載)の開設に向けて、商工会や協力者の方々から御紹介頂いた他社のサ高住に何度か視察に行かせて頂いている。

先般、当社の開設準備室長からの視察報告書の最後に、気になる一文が添えてあった。


『手の爪にピンクのマ二キュアをして、生き生きと最高の笑顔のおばあちゃんに出会いました』


その一文が妙に気になって仕方なく、翌日、開設準備室長に施設の担当者さまから詳しい話を聞かせてもらうように頼んだ。

以下、その施設の担当者さまの話の概略である。

「当施設では月に一回くらいのペースで、ネイルサロンに出張してもらっています。毎回3時間くらいの時間です。」

「大変評判がよく、何日も前から楽しみにされている方も多くいます。」

「当施設では入所者の約7割が女性で、その女性のほぼ半数がネイルサロンを利用されています。」

「おばあちゃん達はオシャレをすることで、すごく元気になりますよ!」

とのことであった。

 

指先というのは四六時中、目に入るものである。その指先が手入れされ、綺麗な色のマニキュアで飾られていれば、ウキウキした気分になり、単なる手指のお手入れという枠を超えて、心まで元気にしてくれる!ということだろうか?!

そこで、思い付いたのが当社のリラクゼーション事業部が運営するエステサロンである。

このサロンはネイルの施術も行っている。

まさかサ高住とエステサロンで関連する部分が出て来るとは予想外であったが、新規事業と既存の事業とを連携させることによって相乗効果を期待出来そうだと考え、早速、リラクゼーション事業部長とも打ち合わせを行うと、「是非ともやらせてほしい」との事であった。

 

現在、収集した情報を精査し運営内容の資料化とマニュアル化を順次行っている。その会議の中で、訪問先の施設や情報番組などで生き生きとした高齢者を見かける度に、それぞれが話題に上げ、「その笑顔は何から起因しているのだろうか?」と話し合うことが度々あった。

笑顔が生まれる直接的な理由はさまざまでも、根本は

尊厳を持ち、尚且つ自分らしく余生に希望を持って楽しめる環境が、お年寄りに笑顔をもたらすのだと思った。


以前「酒と高齢者施設」の記事の中でも書いたが、体が不自由になって高齢者施設に入所しても、心は若いまま、時にはお酒を飲んでワクワクしたり、お洒落をしてウキウキしたり、それらは一例に過ぎないが、そんな風にして日々の出来事を楽しむ心が持てる施設を作りたい。そして、一人でも多くの方に「長生きして良かった」と思って頂きたい。

そこには当社の理念でもある「三方良し」の姿がある。


※三方良し=売り手と買い手がともに満足し、社会貢献もできるのがよい商売であるという意味

 

2015年

1月

12日

外国人選手・外国人労働者

昨年の晩秋の頃の話だが、旧知の仲である経営者の来訪を受けた。

来意は、「経営者としての取り組みも虚しく、社員の高齢化と求人難による人手不足で生産性が低下し、経営が苦しい。倒産して人に迷惑をかける前に廃業しようと思う。ついては会社や社員、お得意さまごと買い取ってほしい」

との申し入れであった。

既存事業の技術力や販売力などを有効活用できる分野であれば返答を悩んだかもしれないが、ノウハウも人脈もない業種であった為、丁重にお断りさせて頂いた。

その際、少しでもお役に立てればと思って、人手不足の解消策として、外国人の雇用はどうか?と提案させて頂いた。

 

ところで昨今、日本では野球、大相撲、サッカー、ラクビー、陸上競技、柔道をはじめスポーツ界全般において、以前にも増して外国人選手を多く見かけるようになってきた。

また彼らの活躍に伴い「外国人選手が強すぎて、日本人の活躍の場がない。外国人ばかりが活躍して面白くない」との意見をちょくちょく聞く。

また、日本人選手が出場機会を奪われることによって実戦経験が積めず、国内の選手が育たなくなるとの声も聞かれる。

しかしそのことを嘆くよりも、今の日本人がどこかに忘れて来てしまったハングリー精神を彼ら外国人選手から見習うことに、価値があるのではないか。

 

スポーツ選手だけではなく、日本に働きに来ている外国人労働者についても同じことが言える。

母国を離れ日本で一旗あげてやろう!と思う外国人たちは、現代の過保護に育った日本人と比べると、モチベーションが高い。

出世なんて興味がない、いい車なんて必要ない、休みが多くて、早く帰れるラクな仕事に就きたいというようなハングリー精神を失った日本の若者にとって上昇志向の強い外国人の存在は良い刺激になるのではないだろうか。

 

実を言うと、ある時まで私は、外国人労働者は日本人に比べると勤勉さでは劣るだろうと、島国根性で偏見を持っていた。

しかし実際に外国人労働者を採用している知人の会社で、彼らが一生懸命に働く姿を見て以来、外国人労働者に対する意識が変わった。

しかしそうは言っても日本人にも色んなタイプの人間がいるように、外国人労働者にも色んなタイプの人間がいる。

しかし日本で出世できる外国人に共通していると思うのは、日本語を習得して、日本の文化に積極的に馴染もうとする人である。

卵が先かニワトリが先かのような話で、

日本語が出来たから出世できたのか?出世できるような努力家だったから日本語も習得出来たのかは分からないが、言葉を話せるということは、上司からの話やアドバイスも、言葉が話せない人より深く理解出来るということであるし、技術の習得も、そのぶん早く出来るという事である。

つまり、話せる人(出世する人)と話せない人(出世しない人)の差の一つは、情報量の違いなのではないだろうか?

そして情報量の違いが出世に現れる・・・というのは、もちろん日本人にも通じることである。


2015年

1月

05日

第二の創業

謹賀新年 

2015年 新年あけましておめでとうございます。

旧年中に賜りましたご厚情に深謝いたすと共に、本年も変わらぬご指導ご厚情のほど伏してよろしくお願い申し上げる次第であります。

 

さて本年、第一号のこのブログでは、当社の経営方針と抱負について書きたい。

当社は、本年から3年間という期間を定めて「第二の創業」をスローガンに革新を行う。

新規事業である「診療介護サービス付き高齢者専用賃貸住宅」の本格運用開始を本年の10月に控えて、変化の多いこのタイミングを最高の機会と捉えて、社内の制度や経営システムの精査も含め、なおざりになっている事項を思い切って全て見直して行くつもりである。

 

多くの方々のご支援の賜物で、当社は創業60周年を超え、企業のライフサイクルでいえば、成熟期に差し掛かろうとしているところだと思う。

「成熟期」の特長として、市場成長に陰りが出て売上は横ばい、利益は一定という状態であろう。

企業が成熟期に入ってしまえば挑戦者では無くなり、安定の裏返しで様々な「企業病」の症状が徐々に表れ始めるものである。

例えば、創業期のような「自分がやらないと誰もやってくれない。すべて自分がするのだ!」というような強い責任感と使命感が、社員数が増えれば増えるほど薄れ始め、「誰かがやってくれているだろう」と皆が他人任せになって行く。

次にはチャレンジして失敗する事を恐れ、平穏無事であることをなにより優先する「事なかれ主義」になる。

そして去年はこうだったから今年もこうだという「前例主義」が蔓延し始める。

こうなってくると、業績や結果を目的とするのではなく、去年と同じように無事に仕事を終わらせる事が目的になる。

金太郎飴のような一年一年に、次第に熱意も真剣さも減り、最後は企業全体のレスポンスの低下やスピードの鈍化が進行してくるであろう。

経営方針も今ある経営資源を守ろうとするあまり消極的になって行くであろう。

こういった成熟期の次に訪れるのは衰退期であり、何もせずにいれば、いずれは廃業か倒産に追い込まれてしまうのが道理である。

 

そうはならない為にも、今年から3年間は経営スローガンを「第二の創業」と位置付け、「創業以来のことだから」などに代表されるあらゆる聖域にも徹底してメスを入れて、革新を行う。

そして自社の強みを生かした経営戦略を立てて、「社会と顧客が求めるもの」にどう応えて行けば「三方良し」になるのかということを念頭に事業を構築する。

そして二度目の創業を行う心構えで、環境変化に積極的に対応することの出来る強い会社作りを社員とともに一丸となって行う決意である。

 

文末になりましたが、本年も、より一層のご支援を賜りますよう、社員一同心よりお願い申し上げます。