あともう少しだけ若いころ働いておけば・・・

「立花、若い頃はいくら遊んでもいい。どんな事にチャレンジしてもいい。しかしなぁ~、あともう少しだけ若いころ働いておけば良かったなぁ~と、最近になって時々思う」

 

これは、師である東建コーポレーションの左右田鑑穂社長に、この春お会いさせて頂いた時に掛けて頂いたお言葉である。

 

ここで左右田社長のエピソードを一つ、紹介させて頂きたい。

すでに何度か書いているが、私が左右田社長に御縁を賜ったのは、天理高校2年生、17歳の時である。その後、大学を中退し、刈谷市にあった左右田社長のご自宅で、しばらくお世話になっていた時期がある。

左右田社長が30代前半、私が20歳ぐらいであった。

その頃、左右田社長はギター(確かギブソンとかリッケンバッカー)を嗜まれていて、毎晩のように仕事の後にはスタジオに練習をされに行き、そしてその後には決まって何軒も飲み歩きをされ、私も、そのどちらにもお連れ頂いていた。

そんな一見いつも通りの日々が続いている中、左右田社長は、自身の体調の異変を感じられたのか、体温を計ってみると39度~40度近い高熱であった。

学生根性が抜け切っていない私は、「熱があれば仕事は休み」くらいにしか考えていなかったが、高熱が出ていると判明したその後も、左右田社長は普段と変わらず仕事を続けられ、なんとその後もいつものように「ギター」と「飲み歩き」に私をお供に出かけられた。

その後も熱の下がらぬ日が続いたのだが、左右田社長は、いつも通りの日々を続けられ、傍目にもいつもと変わらぬように見えた。

しかし2週間ほど経っても熱が下がらないので、2~3日検査入院をされることになった。

入院中も病室には会社から書類の山を持ち込み、仕事をされていた。

色々な検査が行われたが、結局どこも悪い所は見つからず、熱が下がらないまま社長は退院され、会社に戻られた。

 

当時、東海ラジオ局の方が、左右田社長が番組を提供されていた関係で、本社をよく訪ねて来られていた。

ラジオ局の方の「大丈夫ですか?」の質問に、左右田社長は高熱があるにもかかわらず笑って

「知恵熱ですよ!薬代わりにお酒を飲めば治りますよ!」と御答えになっていた。

 私は、社長のその返答を聞いて、なんてカッコイイのだろうか!と、大変昂奮した。

もともと精力的で並外れた体力があったから寝込まずに済んだという事もあるのだろうが、40度近い熱が出てしんどくない人間なんていない。

しかし左右田社長は、本当はしんどく苦しくても、なんてことないように振舞うことが出来る精神の強靭さも持っていた。

寝込む間も惜しんで豪快に遊んで、人の何倍も働く強靭な男!

ここ一連の社長の姿を間近で拝見していたハタチの私は、左右田社長が「超人」か「ヒーロー」に見え、ますます憧憬の想いは高まり、左右田社長のような男になりたい!と単純に心から思った。

青二才だった私は、それ以上のことについては思考が及ばなかったが、50代の経営者となった今、改めて私が想うことは、

経営者というのは、入院をしている最中も、遊んでいる最中であっても、どんな状況に置かれようとも、会社のことが常に頭から離れず、会社と自分とは切り離すことの出来ない一体のものになっているという事。

入院中ぐらいゆっくり休んだ方が良いと頭では分かっていても、仕事をせずにはおれない経営者の性(さが)。

会社を成長させればさせるほど、自身の肩に背負う多くのモノは重さを増し、気を緩め精神を解き放つことなど会社を辞める日まで来ないのである。

そして「己に対する厳しさと信念」を持っていれば持っているほどジッとしておれず、仕事と向き合わずにはいられないのである。

私が50代近くになってようやく至った心境に、左右田社長は遙かに若い時から到達され、今日に至るまで一度も仕事に対して力を抜くことなく、信念にブレが生じることもなく、邁進され続けているのである。

 

冒頭の「あともう少しだけ若いころ働いておけば良かった・・・!」は、このようにして一分の隙も無いほど猛烈に生きて来られた左右田鑑穂社長のお言葉である。

 

(結局高熱は、確か1か月は掛からなかったように思うが自然に治癒された。)

 


丸竹ホームページに、新たに「災害用備蓄衛生用品」のページを追加致しました。

詳しくはコチラ>>