『何事も諦めず気が遠くなるまで繰り返す!』

私は柔道の中でこの事を学ばせて頂きました。諦めず精進を続けている限り未来に続く道は必ずあるはずです。この歳になっても今尚、なかなか未来はスッキリとは見通せません。しかし日々に危機感を持って覚悟を決めて、走り続けております!



2019年

5月

14日

甲子園

先月、45年来の親友だったN君が亡くなりました。

彼とは地元中学校の同級生で、同じクラスになったことは一度もありませんでしたが、中学1年生からの付き合いでした。

友人になったきっかけは、校内体育祭で騎馬戦をすることになり、隣のクラスにいた体格の良い彼に私の方から「騎馬戦の馬を一緒に作ってくれへんか?」と声を掛けたことが始まりでした。

あと一人、I君という同じくらい体格の良い子にも声を掛けて3人で土台の馬を作り、その上に学年で一番体重の軽かったU君に乗ってもらいチームになりました。

結果、校内体育祭で私たちの馬は3年間負け知らずでした。

 

当時のスポーツ少年の誰もが「巨人の星」や「柔道一直線」を観て憧れていたように、中学卒業後は、N君は当時の野球強豪校 和歌山県箕島高校の野球部で甲子園を目指し、私は奈良県天理高校の柔道部で日本武道館を目指しました。

学校は違いましたが共に一流選手を目指して頑張る者同士として、互いに励まし合いながら、高校生になっても付き合いは続きました

その後、彼は肘の怪我と肝炎を患い、甲子園出場の夢は断念しましたが、社会人になって以降も野球を続け、地元の強豪草野球チームでピッチャーとして大活躍しました。

卒業後の数年間、彼は父が営む精肉店を手伝っていましたが、平成元年にその関連性を生かして、泉南市で焼き肉店を開業しました。

その名もずばり、青春の夢を託した「焼肉 甲子園」です。

持ち前の何事にも一生懸命で明るく優しい人柄は、多くのお客さんに親しまれました。

また、精肉店に生まれ育ったこともあり、肉の品質に関してはたいへんな目利きでもあった為、あっという間に近隣の市町村からも大勢のお客さんが押し寄せる泉南で一番の繁盛店になりました。

 

ある日、こんなことがありました。

当社に東京から来客があり、その日の夕食(接待)を甲子園に予約させてもらいました。

予約時間に甲子園に行かせてもらいました。が、不思議な事に本来なら予約なしでは座れない繁盛店なのに、ましてや夕方の最繁時だというのに客は私達だけです。

そこで私は、「今日はお客さんが少ないから、飲食時間120分を超えてもいいか?」と聞くと、「明日の朝までかめへんで!今日の客はタッチャン達だけやから! 今日は定休日やから、久しぶりに誰も来ないから、ゆっくり食べてや!」と言うのです。

私はその言葉を聞いて初めて、この日が定休日だったことを知りました。

定休日にもかかわらず、私の東京からの来客の接待と聞いて、一言も定休日には触れず、予約を受けてくれていたのでした。

帰りに店先を見ますと、確かに、のれんが掛かっていませんでした。

申し訳なさと、そしてN君の人柄と、親友としての気遣いに頭が下がりました。

後日、N君に尋ねると「つれの仕事の接待やったら、店しめれるかいな!」と話してくれました。

この一つを取ってもN君の人柄が偲ばれますが、他にも沢山のエピソードが思い出されて、胸が一杯になります。

 

最後に「焼肉 甲子園」に行ったのは1月の末頃だったのですが、帰り際に店先で、N君が「タッちゃん、握手しよう?」と声を掛けて来ました。

体調の悪さを年末から聞いていたので、私は親友を励ます意味で、「お前が病気を克服して元気になったら、記念に握手しょうや!病気がなんぼや!野球の練習に比べたら軽いもんやろ!」と断わると、「ホンマやな!箕島の練習に比べたら屁でもないわ!よっしゃ分かった!待っといてくれ!」と返ってきました。

その後も何度か携帯電話では話しましたが、会ったのはこの日が最後になりました。

訃報を夜に聞いて翌日の朝に自宅へ伺い、静かに眠るN君の布団の中に手を入れて握手をしました。

N君は、野球で甲子園に行くという少年時代の夢は叶いませんでしたが、平成の始まりから終わりまで30年間の長きに渡り、野球を経営に置き換えて「焼肉 甲子園」と命名した自分の店を繁盛させ続けたことによって、その夢を達成したように思いました。

 

N君、長い間お疲れ様でした。そしてありがとう。

 

2019年

4月

28日

有ることが難しいもの

2004年6月、天理高校柔道部の一つ先輩である石井兼輔先輩(生涯の縁>>)が、国際武道大学 武道学科の教授に就任されました。

当時、そのお祝いの会が出身地(兵庫県洲本市・淡路島)で開催される為、先輩は帰島されることになりました。

私と、一つ後輩である兵庫育英高校柔道部 有井監督も、その帰島に同行させて頂きました。

関西空港にて3人で合流後、フェリーに乗りました。

淡路島の洲本港に船が到着すると、「祝 石井兼輔先生 教授御就任」と書かれた横断幕を掲げる人々が目に入りました。

大変な歓迎ぶりで、市議会議長、市教育長、市農協理事長、恩師、同級生等(約50名)の皆様方が、石井先輩の帰島を待ち受けていらっしゃいました。

下船と同時に先輩は握手攻めにあいながら、「ありがとうございます」と何度も手を握り返し、涙を浮かべられていました。

その様子に私や有井も涙が出ました。

その後、宿泊する旅館で暫くの休憩後、夕方から先輩の幼馴染の料亭で祝賀会が始まりました。

冒頭で石井先輩の就任報告があり、順番に御来賓の皆様方のごあいさつへと移行して行きました。

その時、乾杯の音頭をとられた御来賓のごあいさつが、未だに心に残っています。

要約してみます。

「普通の乾杯は、皆さまの健康と石井君の教授就任を祝して乾杯というのが普通かもしれませんが、今日は敢えて乾杯とは言わず、『石井教授ありがとう!』と言わせて頂きます。

なぜならば、ありがとうは『有り難い』から変化した言葉で、『有ることが難しいもの』であり、当たり前ではない奇跡だということです。

石井君は到着直後から『ありがとうございます』と何度も我々に言ってくれていますが、私は『有ることが難しい祝賀会に感謝しています!』と聞こえていました。

つまり私たちは『奇跡!(有ることが難しい)奇跡!(有ることが難しい)』と、寿ぎ合っているということだと思いました。

日常の出来事も、今生きていることも、自分という存在さえも、全て『当たり前ではない有り難いこと』の連続なのです。」

そう仰ると、高らかとグラスを掲げ「石井教授ありがとう!」と乾杯の音頭をとられました。

この後は例によって例の如く、来賓の西嶋先生(兵庫県柔道界の重鎮)を始め、ほとんどの方が柔道経験者だったので、体育会系によくある無礼講になったので内容は書けません。(笑)

最後は石井先輩の謝辞で締め括られました。

「自分を育ててくれた淡路島の皆さまに感謝の想いを伝えたく、戻ってまいりました。

明日、少年柔道教室の講師をさせて頂くことは、地元への恩返しだと思って一生懸命務めさせて頂きます。ありがとうございました」

と締められた瞬間に、一同割れんばかりの拍手が起こりました。

 

ちなみに、「有り難い」の反対語は何だと思いますか?

「当たり前」なのだそうです。

今、自分を取り巻くあらゆる事項を、「当たり前」と見るか「有り難い」と見るか、

その見方ひとつで、人生は冷え冷えとしたものにも、暖かなものにも、変わるように思います。

●当社シニア事業部が運営する、サービス付き高齢者向け住宅フラワーホームが、

週刊住宅様2019年4月15日号に掲載されました。

 

※記事を拡大する(PDF)>>

2019年

4月

14日

新しい時代へ

もうすぐ平成が終わり、令和という新しい時代を迎えます。

30年前、「新しい元号は『へいせい』であります」と、小渕官房長官が白木の額を掲げる様子を、私は不動産会社のテレビで見ていました。

 

1989年〈昭和64年〉1月7 日に昭和天皇が崩御されました。

私は当時26歳になったばかりで、朝一番から、父の会社の従業員や下請けさんが前日に生産した毛布用紡績原糸をトラックに積み込んで、営業活動を兼ねてお得さまへ配達に回り、午後は自分個人で開業していた不動産業の営業活動に回るのが日課でした。

天皇陛下の崩御を知ったのは、朝の配達中、トラックの車載ラジオの放送でした。

そして午後になり不動産業で訪ねた三栄土地建物(有)の事務所の中で観たテレビ放送で、初めて新元号の平成を知りました。

これが私の平成の幕開けです。

「昭和が終わるんだなぁ」と少しばかり感傷に浸る気持ちもありましたが、「あっけなく、あっという間に終わった」という感想が正直なところでした。

そしてその平成も、もう終わろうとしています。またしても私の感想は、「あっという間だった」というものです。

光陰矢の如ごとしで、月日が経つのは矢のように早いです。

 

世の中は今、ものすごいスピードで変化して行っていると感じます。情報収集すればするほど、インターネットが登場して以降の変化の凄まじさを感じます。

いま世界は、第四次産業革命の中にあります。

そのうえ日本は、どんどん少子高齢化・人口減少社会へと変化しています。つまり「経済の前提」が変化して行っています。

私のような田舎の中小企業の経営者は、まだダイレクトには、その変化を受けていませんが、起こりうる経済の変化を想定し、新しい施策を講じ続けなければならないという危機感は感じています。

私が過去の30年で経験し積み重ねて来た「経営の知識」が、これから先の10年、20年にも通用するかと考えれば、通用しないと思います。なにしろ「経済の前提」が変化して行っていますから。

ですから時代遅れの経営者にならない為にも、勉強し続けること、情報を取り入れ続けることが大切だと感じています。

 

IT社会になり、今は様々な情報が即座に手に入るようになりました。

あらゆる分野から様々な情報を取り入れて、取捨選択を繰り返しながら、良いと思うことはスピーディーに実行に移して行くつもりです。

また情報を発信していくことにも、近年は注力しています。

新年一発目のブログで書いた「ESG課題への取り組み>>」についても、当社HPに追加でページを作成し、フッターにもロゴを配置するなど、より多くの方の目に留まるように工夫しました。

https://www.marutake-corp.co.jp/company/esg.php

過去私は、陰徳こそが美徳だという価値観を持っていましたが、今は違います。

自分達の行動や考えを情報発信することが大切だと身にしみて感じています。

 

令和まで、あと2週間と少しです。令和はどんな時代になるのでしょう。

今後も健康に気を配りながら精進を重ねる覚悟です。

本ブログを持ちまして平成30年度の御礼と新年度のごあいさつとさせて頂きます。

昨年度は、多くの御協力を頂きまして誠にありがとうございます。

どうぞ変わらぬお引き立てのほど、よろしくお願い申し上げます。ありがとうございました。

 

2019年

3月

31日

ご住職との一期一会

御朱印を収集するのが、数年前からブームになっているらしいです。

「御朱印女子(ガール)」という言葉まで生まれて、神社や仏閣とは程遠かったイメージの若い女の子も、今ではあちこちとお参りに伺う中で多く見かけるようになりました。

しかし「スタンプラリー感覚で集めるのは本末転倒」などの排他的な批判もあるみたいです。けれどたとえブームであっても、今まで神社仏閣に興味が無かった人たちが各地を訪ね歩き、積極的に一期一会の経験をする事は、喜ばしいことだと私は思います。

 

さて前置きが長くなってしまいましたが、私の、ご住職との一期一会を紹介させていただきます。

実は私もご多分に漏れず、掛け軸や御朱印帳を持ってあちこちを駆け巡る御朱印オッサンです。

ただし一時のブームに乗ったのではなく、両親の実家が共に信仰の厚い家系だった影響もあって、よちよち歩きの前くらいから、あちこちの神社仏閣を巡ったと聞いています。

このような環境の中で、私が中学3年生の頃、徳島県の四国八十八か所六番札所の安楽寺へ母方の叔父と一緒にお参りに行った際の話です。

本殿でお参りをさせて頂いた直後、「何をお願いしましたか?」とご住職に声を掛けられました。

私はその時期、天理高校柔道部に入部する事がほぼ決まっていたため、「天理に行って柔道日本一になりたい!」とお願いしたことを迷わず打ち明けました。

するとご住職は、「天理は野球や柔道の強い所やね。素晴らしい誓いやね!努力して日本一になるぞ!という自分自身への宣言を本殿でした訳ですね?」とおっしゃいました。

私は「日本一にしてください!」とお願いしたつもりだったので、「ちょっと違うけど!?」と心の中で突っ込みを入れながら、急に話しかけられたこともあり言葉を継げずにいました。

するとご住職は、

「柔道が出来る環境の全てに感謝し、努力を惜しまず精進すれば道は必ず開かれますよ」

「神仏の前では、まず自分自身が置かれている環境への感謝を伝えなさい。そして神仏に対して誓いなさい。そして日々安全にお守り頂けるようにと願いなさい」

「また難儀や事情や病気や不自由のある人は、自身も努力しますが不思議なお力も貸してくださいと願いなさい」といったような内容のお話をしてくださいました。

 

40年も前の記憶なので不正確な点もあるかとおもいますが、このご住職との一期一会の会話により、仏壇や神棚を始めとし、手を合わす際の心の在り方が変化しました。まさに「神頼み」から「感謝と誓い」に変化しました。

2012年に書いた「努力を極めてからじゃなければ運は来ない>>」のお話も、この時の会話が起因しています。

 

2019年

3月

18日

大地震と地方創生

ご存知のとおり、日本は北米プレート、太平洋プレート、フィリピン海プレート、ユーラシアプレートの4つのプレートがぶつかりあっていて、世界的にも地震が多い地域です。

地震と噴火が有ったからこそ出来たと言っても過言では無い成り立ちを持つ列島です。また今もプレートは活発な活動を休みなく続けており、世界で発生する大地震の大半が日本周辺で起こると言われています。そんな地震大国である日本に住む限りは、いつ大地震や噴火に見舞われてもおかしくないというのが現状です。

さて各種の観測網整備や学術データにより関西方面では30年以内に南海トラフでは最大でM9クラスが70%の確率で発生するといわれています。また関東・中部方面においては過去の地震周期と観測を勘案しますと関東大震災・東海地震・富士山大噴火についても、いつ来ても不思議では無いと言われています。

 

そこで地震は「忘れた頃にやってくる」ではなく、「明日にでも起こるかもしれない」事を前提に、早急に準備を進めて行かなければならないと思います。各家庭や各企業レベルの対策はいうまでもありません。

 

とりわけ私が恐怖感さえ禁じえないのは、一極集中している関東での大震災です。

首都周辺には全部で4つのプレートが入り組んでいます

今の東京一極集中型の状態で、もし関東大震災が発生したら、想像も出来ない程の壊滅的な打撃を受けて、国としての機能を最低でも数年間は失い、国が再生し再び立ち上がるまでには20~30年の歳月を要するのではないかと思います。

中央省庁や大企業の多くは東京に本社を置いています。

人口においても首都圏に約4千万人(日本の総人口の約3分の1)が暮らしています。

第2次安倍政権で掲げられた、東京一極集中を是正し、地方の人口減少に歯止めをかけ、日本全体の活力を上げることを目的とした「地方創生」も進みつつあると思いますが、なかなか是正を実感できないのが現状ではないでしょうか。

まず地方に安定した雇用がなければ人は転入して来ません。大企業の地方移転、または地域産業が活性化し、地元の中小企業が元気になり、安定した雇用を創出することが必要です。

安定した雇用を創出することは、地方創生うんぬん以前に、経営者の務めでもあります。

 

「大震災、いつかは来ると思っていたが、まさか今日来るとは思はなかった」では遅いと思います。

次世代の人達のためにも、一刻も早く東京一極集中を是正し、地方創生を進めていただきたいです。

私は私の場所で私なりに出来ること(盤石体制の企業を作り安定した雇用を創出すること)に一生懸命取り組む所存です。