諦めず気が遠くなるまで繰り返す

『何事も諦めず気が遠くなるまで繰り返す!』

私は柔道の中でこの事を学ばせて頂きました。諦めず精進を続けている限り未来に続く道は必ずあるはずです。この歳になっても今尚、なかなか未来はスッキリとは見通せません。しかし日々に危機感を持って覚悟を決めて、走り続けております!


2017年

5月

21日

全部ダメでヘタだった!

「社長!申し訳ございません。皆は頑張ってくれたのに私は全然ダメで運営もヘタでした!」

これは、私に向かって頭を下げるS部長の言葉である。

話は遡る。

今月の頭、第3回フラワーホームカップ>>を開催させて頂いた。

フラワーホームカップは当社の「社会福祉の向上」と「地域社会への貢献」への取り組みの一環として、昨年度より開催させて頂いているグラウンドゴルフの大会で、毎回約200名の高齢者の方々が参加してくださっている。

本社の役員改選に伴い、フラワーホームカップの責任者を今回から変更することになり、丸竹NO,1のゴルフの腕前を見込んで、本社のS部長を責任者に指名した。

S部長は泉南市体育協会や泉南市グラウンドゴルフ協会の方々との打ち合わせや日程調整に始まり、大会までの約2か月の期間、日頃の業務の合間を縫うようにして東奔西走してくれた。

大会の前日、仕事が終わった後、もう外は真っ暗であったが、私はフト思い立って大会会場である、なみはやグラウンドに行ってみることにした。

横断幕を張る場所やテントのことなど諸々、もし本番で手間取ったら、段取り良く指示が出来るように下見をしておいた方が良いと思ったからである。

しかしグランウンド横の駐車場に車を近づけると、S部長の自家用車が止まっていた。

私はそのまま車を方向転換し、その場を後にした。

 

各協会の役員様やS部長を中心とし、またスタッフ一同の尽力により、事故もなく天候にも恵まれて、今大会も皆様に喜んでいただけた大会になったと思う。

翌日には一般参加者の方が、わざわざ本社の電話番号を調べてお礼の電話を下さった。

その後、S部長の労をねぎらおうと、私の机に呼んだわけであるが、彼は私の目の前に来るなり、

「社長!申し訳ございません。皆は頑張ってくれたのに私は全然ダメで運営もヘタでした!たぶん社長の思い描いていたような形にはなっていないし完璧ではなかったと思います。ほんとすみません。次回はもっと緻密に組み立てます。」というのである。

表情をみるとS部長が謙遜して言っているのではないことが即座に読み取れた。本当に心底落ち込んでいたのである。

私が大会全般を通して気付いた点を具体的に並べて、どれだけ「良かった」と評価しても、S部長の顔は曇ったままだった。

私が「そしたら、どこがダメだったのか?どこがヘタだったのか?」と聞いても、具体的に話せば責任転換や言い訳になってしまうと思ったのかもしれない、

彼は、しばらく押し黙った後「全部です!」と答えるだけであった。

私には分からなかったが、彼が思い描いた理想の形と比べて、満足いく結果じゃなかったのだろう。

実は私は「全部ダメでヘタだった!」と落ち込むS部長を見て、嬉しい気持ちになった。

もし彼が「妥協する人」であったなら落ち込むことも無かっただろう。「もっと良く出来たはずなのに」と思うからこそ、向上心があるからこそ、悔しくて落ち込むのだろう。

失敗して落ち込んでそのまま自信を失ってしまう人も居るが、彼はそうじゃない。落ち込む度に自分の中のマイナスな感情と戦い、省みて、考え、成長して行く人物である。

 

用意はしていたのだが今回は、あえてS部長にありがとうカード>>を手渡さなかった。

理由は、彼自身が満足していないのに、ありがとうカードを手渡すと失礼になるのでは?と思った。そして同時に、彼の今後の伸びしろに期待を掛けたからにほかならない!

 

2017年

5月

12日

障害者について 3

当社が製造事業部門で、障害者の雇用を始めるようになって数年経った頃、たしか平成7年頃の話である。

大阪府立砂川厚生福祉センターの先生の紹介で、大阪府立佐野養護学校(当時)から、I君という20歳の男子卒業生を真空パック工場で雇って欲しいとのご依頼があった。

I君は身体的には何の障害も無いのだが極度の自閉症であり、お母さんとは何らかのコミュニケーションが有るらしいが、母親以外の人とは一言も話さないし、担任の先生とも入学以来、言葉はおろか目も合わせたことが無いという事であった。

その後、I君は担任の先生に付き添われて面接のために来社してきた訳だが、事前に聞いていた通り一言も話さないばかりか、確かに目も合わさない青年であった。

自閉症の方の雇用は初めてだったので不安はあったが、ハンディキャップがある人に対しても雇用の機会を創出していく事が、経営者の「義」であり社会的責任と考えていたので、その場で採用を決めた。

当時の真空パック工場の責任者であったM工場長と対応を協議した結果、「最初は特別なことはせず、すべてに渡りごく普通に接しよう」「その後、状況を見ながら判断して行こう」という事で意見が一致して、いよいよ出勤初日を迎えたのであった。

 

桜の季節、I君はお母さんと共に出社してきた。

「息子が慣れるまで暫くの期間、私も8時間、工場に居ても良いでしょうか?」という事前の申し出があった為、他の社員達にも事情を話し、皆が快諾していた。

椅子を勧めてもお母さんはI君のすぐ傍に立ち、息子の作業に間違いがないか、終業までの8時間、見守り続けた。

このような事は初めてだったので私は少し困惑した。

翌日も、その翌日も、お母さんは椅子を断り、I君の作業を傍で見守った。

途中から気づいたのだが、トイレもI君の休憩時間に合わせて行くほどであった。それほど片時も息子から目を離さなかった。

お母さんのやり方が正しいのか間違っているのか、そんなことは私には分からない。

しかし、悲壮なまでの責任感と全身全霊をかけた愛情を、私は見たおもいだった。

お母さんは5月になっても毎日工場に来てI君を見守り続けた。

この頃には、工場の隅の椅子から彼を見守っていた。

日によっては午前中に家事や用事を済ませてから来る日もあったが、毎日朝から夕方まで工場で過ごすのは大変なご苦労だったと思う。

I君のコミュニケーション能力については1か月経っても何ら代わり映えしなかったが、業務内容については単純作業という事もあり何の問題も無く、他の社員と変わりなく働いた。

お母さんは6月になっても毎日工場に来ては片隅に座っていた。

ある日、私はお母さんに「もう見守る必要がないのでは?」と言うと、

「すみません。家に居ても心配で心配で何も手につかないんです。ここで息子を見守ってる方が、気持ちが楽なんです。」と返ってきた。

 

梅雨が終わって、夏が本格的に始まっても、お母さんは毎日工場に来た。片隅の椅子に座って本を読んだりしながら、合間合間に顔を上げて、I君を見守っていた。

私はその姿を見る度に、母の子に対する慈愛の深さに驚くと同時に、亡き母を思い出して郷愁を覚えた。

 

その年の秋になって繁忙期に差し掛かると、真空パック工場は猫の手も借りたいほど忙しくなった。I君のお母さんは相変わらず工場に通って来ていた。

そこで私は「人出が足りなくて困っています。お母さん、出来れば当社で短期アルバイトとして働いてもらえませんか?」と声を掛けさせてもらった。

人手に困って出た言葉であったが、お母さんは「ほんとにいいんですか!?」と快諾してくれ、その日から一緒に働いてくれた。

この後、数日してI君にある変化が訪れた。

それまでは一日中、たとえお母さんとでも、社内ではほとんど無いに等しかったコミュニケーションが、仕事中にお母さんとは何らかのコミュニケーションを若干しているのである。

私にはそれがI君の小さな進歩に思えた。

秋も終わり、冬が始まり、正月も過ぎ、春の気配を感じる頃、I君はまた少し変わった。

「おはよう」と声を掛けると、今まで完全に固まっていたI君であったが、目は合わせないが小さく頷くようになったのである。

春になり真空パック工場の繁忙期は終わったが、もうそのままお母さんはパートとしてI君と一緒に働いてもらうことにした。

I君は、畳の目を数えるような変化ではあったが、少しずつ少しずつ変わって行った。

それまでずっと無表情だったのが、声をかけると口角を少し上げるようになった。また一瞬ながらも、こちらの顔を見ながら頷くようになった。

2年半が経つ頃には、毎朝「おはよう」と声を掛けると、何らかの唇の動きを見せて、一瞬こちらに視線を向けて若干の笑顔を見せてくれるようになった。

3年が過ぎた頃、I君のお父さんが転勤することになり、I君もお母さんも退職することとなった。

退職する最後の日に、私が一か八か握手を求めると、I君は手を差し出してきた。

たかが握手かもしれないが、最初の頃のコミュニケーションを思えば考えられないことであった。

私が手を握ると、I君はまたうつむいてしまったが、間違いなく握り返してきた。

そのI君の姿を見てお母さんは泣いていた。私も感動して涙が出た。

I君の成長が嬉しかった。最初の頃、きっと不安な気持ちで工場の片隅の椅子に座り続けたお母さんが今喜んでいる姿が嬉しかった。

この時の経験が、今も継続して障害者雇用に積極的に取り組んでいることに繋がっている。

当時、「障害者本人の個性に、周りが寄り添う気持ちさえあれば、その個性は良い方に変化して行く」という事に確信を持つに至った次第である。

 

障害者について 1>>

障害者について 2>>

第3回フラワーホームカップを開催いたしました。

詳しくはこちら>>

2017年

4月

26日

片田舎の経営者が世界情勢について考える

いま新聞・テレビを始めとし、マスコミが朝鮮半島をめぐる緊迫した情勢を連日伝えている。

そこで本日は、第3次世界大戦も起こりかねないと言われ始めている情勢を、私の若干得意とする歴史の知識から、稚拙ではあるが紐解いてみたい。

 

いま金正恩を取り巻く情勢と、過去ヒトラーを散り巻いていた情勢は、似ているところがあると感じる。

それを説明するにはまず、第2次世界大戦について綴ってみたい。

私が学生時代に学んだ世界史の教科書では、ドイツのヒトラーの膨張主義と反ユダヤ主義が原因で、ヨーロッパから世界を巻き込んだ第2次世界大戦は始まったと書かれていた。もちろんヒトラーが危険な主義や発想を持った人物であることに間違いはないだろうが、もう1段掘り下げて考察してみると「ではなぜ?」この主義や発想が生まれて第2次世界大戦の開戦に結びついていったのかが見えて来る。

それは以前読んだ歴史書に書かれていたことだが、第1次世界大戦の責任をすべてドイツに負わせて莫大な賠償責任を課したベルサイユ条約が、ドイツ国民を徹底的に疲弊させ、その疲弊が国民に、ヒトラーの思想は危険だと気づきながらも付いて行かざるを得なくさせた。そして国のすべてを巻き込んだ膨張主義へと突き進み、第2次世界大戦の開戦へと結びついていったと書かれていた。

ここでヒトラーを金正恩に置き換えて今の情勢を考察すると、似ているところがあると感じる。

戦争の大義は双方にあり立場が変われば戦争の評価も変わるので、大義の善悪については横に置いておくとして、過去の朝鮮半島をめぐる対立の歴史を考えてみると、日清戦争は日本と中国による朝鮮半島の取り合いだし、日露戦争だって日本とロシアによる朝鮮半島の取り合いである。そして今なお朝鮮戦争は休戦しているだけで終戦はしていない。

他国の思惑によって振り回され、その結果 国が疲弊し、疲弊から脱却しようとして自分の国家と軍隊の優秀性を国民に信じ込ませ、軍隊によって解決を見いだそうとしたヒトラーが、私には金正恩と重なって見えるのである。

 

しかし戦争の一番の犠牲者になるのは、いつの時代だって一般人なのである。

武力を行使し、互いが傷付け合い殺し合う戦争は絶対にいけない。

日本には「おたがいさま」という言葉がある。

文化も価値観も何もかもが違う者同士が分かり合うのは難しいことだと思うが、各国が「おたがいさま」や「共存共栄」の精神で寛容さを持ち、譲り合えるところは譲り合い、武力ではなく話し合いで解決を図れないだろうか。

綺麗ごとだと言われるかもしれないが、私は心からそれを願っている。

 

2017年

4月

20日

知恵をしぼる

こんな出来事があった。

確か私が小学5、6年生の夏のある日の夕方、母の入院するN病院にお見舞いに行った時の事である。

母の病室のベッドのそばにゴキブリが現れた。

気の強い母であったが虫類にはめっぽう弱く、姿を見た瞬間に悲鳴を上げた。

私は即座に雑誌で叩きのめして退治したが、病室の隅々を見回すと、あちらこちらに小さなゴキブリがいた。

看護師さんに言いに行くと「明日、掃除のおばちゃんが来たら言っとくわ」と、にべもない返事である。

子供心にも怖がる母を思うと、このまま事を放置してはおけないと思った。同時に私は病気の母の「一大事」だと思った。

そこで私は殺虫剤を撒くかバルサンを焚こうかと考えた。

当時、私たち家族は、木造の古い長屋の賃貸住宅に住んでいたので虫の発生が多く、年に数回はバルサンを焚いていた。そのため子供ながらにも使用方法は熟知していたのである。

しかし当時は今のように遅くまで開いているドラッグストアは無く、時間も夕方と遅かったこともあって、今から薬局を探して物を手に入れるのは難しいと思った。

しかしゴキブリに悲鳴を上げた母をそのまま置いて帰るのは忍びない。

なんとかしようと私は知恵を絞った。

考え出したのが、燻煙材を手作りすることであった。

 

まず、病院のお風呂場に行ってアルミ製の風呂桶を手に入れた。そして病院の裏庭に行ってヨモギの葉を風呂桶にたくさん集めた。(ヨモギが虫除けになるのは、祖父の戦時中の話から知っていた。)

病室に戻る途中にあったゴミ箱から覗くミカンの皮もついでに手に入れた。(煙を上げても良い匂いがするかな?と考えた私のアレンジである。)

それらと割り箸や雑誌を細かく引き裂いた物を混ぜ合わせ、新聞で包んだ。

空気が入りよく燃えるように風呂桶に割り箸を敷いて、その上に新聞紙で包んだ自家製燻煙材をセットした。

適当に理由をつけて母を廊下に出した後、自家製燻煙材にマッチで点火したのち、更によく燃えるように残りのマッチも散らばせて一緒に全部入れたのである。(焚火の仕方も、祖父に空き地で何度も焼き芋を焼いてもらったので知っていた。)

何分ぐらいの時間を空けたかはもう忘れてしまったが、結果、母の病室からゴキブリは1匹もいなくなった。

 

今考えると、叫びたいぐらい大迷惑な悪ガキである。

しかしその当時は、なんとしてでも母の病室からゴキブリを駆除したい一心だったのである。

(N病院の皆さま、非常識なことをしまして、今更ながらお詫びいたします。)

 

「知恵をしぼる」で、もう一つ。

私の母方の祖父は若い時から大変なコーヒー好きであった。

祖父は従軍中、戦地でも知恵をしぼってコーヒーを自作し飲んでいたそうだ。

祖父は昭和12年の日華事変(支那事変)から従軍し第二次世界大戦へと続き、昭和20年の終戦まで中国大陸や南方の戦線をあちこち渡り歩いたらしい。

南方のジャングルでは天然のコーヒー豆の木がいくらでも自生していたそうだ。その木から生豆を取り、食料の缶詰の空き缶を使って焚火を利用し焙煎した後に豆を石で潰して、それにお湯を入れて上澄みを飲んでいたのだと教えてくれた。

 

今回は「無いと諦める前に知恵をしぼろう」という事をテーマに書きたかったのだが、それ以前に「非常識過ぎる!」と怒られそうな内容になってしまった。

 

2017年

4月

09日

人生あっという間

つい先日、桜が散るのを惜しんだような気がするのに、いつの間にか、また桜の季節がやって来ていた。

50代になって、ますます時間の流れが速く感じる。

以前読んだある月刊誌の中に書かれていた、フランスの心理学者ジャネーの法則を思い出した。

その説によると「時間経過の心理的感覚は加齢に伴い、その年齢に反比例して短くなっていく」といったことが書かれてあった。

例えば40歳になると10歳の時に比べて4倍、また50歳になると10歳の時に比べて5倍も時間の流れを早く感じるらしい。

今年の誕生日で私は56歳になる。

10歳の時の1年間は、56歳の私にとっては2か月半に感じ、60歳になると2か月に感じ、70歳になると1か月と3週程度に感じ、80歳になると1か月と2週程度に感じるらしい。

そう考えると、「人生あっという間」と皆が口々に言うのも分かる気がする。

日本の男性の平均寿命である80歳まで生きると考えて、私に残された時間は24年。

数字だけ見れば、そんなに短くも感じないが、ジャネーの法則に当てはめて、10歳の心理的感覚で計算すれば『5年弱』が私に残された時間である。

ドキリとするぐらい短い。

過去に戻って、無駄に過ごした時間を取り戻したい気持ちである。

と言っても、光陰矢のごとしで、過ぎ去った月日は決して戻ってこない。

これまで良い事も、悪い事も、一生懸命にやった事も、無駄に時間を過ごした事も、数多くあり、その積み重ねの上に現在の私がいるのだが、過ぎてしまえば何もかも一瞬の出来事だったように思う。

この50代もきっと、あっと言う間に過ぎてしまうのだろう。

60代70代になって、今のこの50代の時間の過ごし方を間違えた!無駄にした!と後悔しないように、「今日という一日は、 明日という日の二日分の値打ちがある」と思いながら何事においても精一杯やっていこう思った次第である。

精一杯やった先の未来と、無駄に過ごした先の未来が同じはずがないのだから。

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