祖父との思い出、刀作り

今年も奈良国立博物館で第六十七回 正倉院展が先般より開催されている。

正倉院展とは、東大寺の正倉院に収蔵されている8000点以上のお宝の中から、毎年約60点ずつ一般公開される人気の展覧会で秋の風物詩のようなものである。

毎年心待ちにしておられる方も多いのではないだろうか。

 


正倉院展のニュースを見て、祖父とのこんな思い出が脳裏に蘇えった。

私の子どもの頃の夢は、刀鍛冶であった。

きっかけは5~6歳の頃、刀鍛冶のドキュメンタリー番組を見て、まず刀鍛冶の装束に一目で心を奪われた。そして火花を散らして鉄と戦う姿を、戦隊ヒーローとダブらせ憧れを抱いた。

やってみたいと思えば、実際にやってみなくては気が済まないのは、子どもの頃からであった。

早速、刀作りをするために「何かいい材料がないかなぁ?」と勝手に探したのが、祖父の商売道具である大工箱だった。

一時期、私は母方の祖父の家に預けられていたのだが、祖父が工務店を経営していた関係で、五寸釘と言われる長さが15センチ以上はゆうにある大きな釘が、祖父の大工箱の中に沢山あった。

そのうえ辺りを見渡せば、祖父の大工倉庫には金槌、大きなハサミ型の釘抜き、おまけに火を起こすための薪(たきぎ)も揃っている。

私は早速、祖父の家の前の溝渠に渡してある鉄板の上に薪を山積みにして、五寸釘を中に入れ、マッチで火を起こした。

新聞を丸めた紙筒で息を吹きかけつつ、轟々と燃える火を気長に見守った。

そろそろだろうか?と見当をつけて釘抜きを使い、恐る恐る火の中から五寸釘を取り出すと、テレビで観た通りに真っ赤になっていた。

それを鉄板の上で金槌を使い叩くと、子供の力でも徐々に形が変わっていく。

しかしもちろんすぐには刀のような形には、ならなかった。

ようやく、なんとなく刀のような形のものが出来たのは、約1ヶ月後である。その間、10回以上は焚火を起こした。

現代では考えられない、恐ろしいレベルの近所迷惑者であった。

それでもおおらかな時代であったのか、もしくは孫可愛さか、祖父は私を叱るどころか手伝ってくれ、

「かっちゃんは良い刀屋さんになれるなぁ」と褒めてくれた幸せな記憶がある。

話はそれたが、これで刀作りは完成ではなく、まだまだ工程は続くので、まだまだ焚火も続くのである。

上記のように約1ヶ月をかけて、なんとなく刀の形が出来ると、今度は焚火に何度もまたソレを入れて赤くしてから、横の川溝の水の中に入れて冷やすことの繰り返しである。

これもテレビで繰り返し同じ作業をしていたのを真似た。

それから次は、研ぐことである。

これも幸いにして、祖父の大工倉庫には様々な砥石があった。

しかし子供の力では、そう簡単に研げるものでもなく、完成したと納得出来るまでには、そこからまた1か月くらいかかったような気がする。

祖父に手伝ってもらいながら合計約3ヶ月以上をかけ、苦労の末ついに作りあげた私の刀は、やっとこさ新聞紙が切れるようなものであった。

 

なぜ正倉院展の話から、このような話になったのかというと、

天平時代の約1200年前は、今と違って電気も高度な工具もなく、おそらく道具は、私が子供時代に刀を作ろうとした時のそれと同程度か、それ以下の物であろう。

手作業で砂鉄から鉄を溶かして型に流し込んで作る鋳造(ちゅうぞう)すること自体だけでも凄いが、それを金槌で叩いては延ばし、冷えては固めて何度も焼入れを繰り返して強度を高めて作品に仕上げていくのである。

それは私の子供だましのような経験から考えただけでも大変な時間と手間のかかる作業である。オマケに正倉院の宝物には、その他にもさまざまな宝物に透かし彫があり、その硬い鉄を鏨(たがね)で彫って雅で繊細かつ精緻な模様を作るのである。

今のように電動工具がない時代にである。

まさにほとんどが、鏨と金槌とヤスリだけで作られたのである。

その作業も想像を絶するものであろう。それに、今の技術を持ってしても解明できない工程までもが施されたものもあるという。

一つの作品を作るのに数年かかった物もあると言われている。

まさに「天平の甍(いから)は技術にあり」と言われる所以であろう。

 

今のような何でも便利になった時代に、電気も高度な工具も無かった悠久の天平人の生活や技術に思いをはせ、また浸ってみるのもたまには心が素直さを取り戻し良いものであると思った次第である。