ー2013年ー

2013年

12月

21日

私の大きな勘違い

本年も残すところ後僅かとなりました。公私に渡り、何かと御厚情を賜りました由、心より御礼申し上げる次第であります。また来る平成26年も、重ねて御厚情の程、伏してお願い申し上げる次第であります。
一年間の反省の意味を込めて、今年最後のブログは、「私の大きな勘違い」で締め括らせて頂こうと思います。


今考えれば嗤ってしまうのだが、中学3年生の時の私は厚かましくも「俺は日本一柔道が強い」と本気で思っていた。
私の周りには私より強い者が居なかったし、大人にも勝った。
だから「全国大会で優勝出来なかったのは、たまたま運が悪かっただけで、本来の実力で言えば、俺がやはり日本一だ。」と自信を持っていた。
そんな私がスカウトを受け、天理高校柔道部に入学した。
入部初日に私は、自分が大きな勘違いをしていた事を嫌というほど理解させられた。
誰一人、私が勝てる先輩など居なかった。同級生の中ですら私は一番ではなかった。私レベルの一年生はごろごろ居た。そして皆が皆「俺は日本一柔道が強い」と意気揚々と天理に入学し、結果練習に付いて行くことさえままならなかった。
「井の中の蛙、大海を知らず」とはまさに俺たちのこと!!と、この時ほど痛感したことはなかった。

 

そんな私も上級生になり、再び慢心し始めた頃のこと。
たまたまその日は天理大学の柔道部で、私たち高校生は出稽古をさせて頂いていた。
練習が始まり暫くして私は、金義泰先生(当時6段 東京オリンピック中量級 銅メダリスト)に稽古をつけてもらうことになった。
開始直後、私が先生の道着を掴みかけた瞬間、気が付けば私は呆然と天井を見上げ倒れていた。
何がなにやら分からないまま立ち上がり、再びそりぁー!!と向かって行くと、また私は天井を見上げ倒れているのである。

普通はなぜ自分が投げられたのか、どんな技で投げられたのかは分かるものなのだが、この時は結局最後まで、どんな技で投げられたのかも判断が出来ないまま、5分間の間、数え切れないぐらい投げ飛ばされるだけで終わった。
柔道を分かっていた気になっていたが、自分が習得したと思っていた柔道は氷山の一角で、その氷山の下には遥かに大きく深い世界があるのだという事を痛感し衝撃を受けた。

 

仕事もそうだが、人は同じ世界に長くいて経験を積むと、その世界を知ったような気になって慢心してしまいやすい。

けれどもそれは井戸の中の世界を知っているだけであって、大海ではないかもしれない・・・という不安を常に忘れず、慢心することなく2014年も精進して行こうと、今年最後のブログを綴りながら、新たに身を引き締めている次第であります。

 

2013年

12月

15日

8割の力で勝負する

先般、長野五輪のスピードスケート男子で金メダルを取った清水宏保さんの記事を新聞で見かけた。その中の清水さんの語録で、「大舞台で勝つには8割の力で勝負することが大切になる」とあった。
「全力で頑張ります」という言葉が多用される中で、「8割」という数字に興味を引かれた。

実は私も同じような趣旨の事を、学生時代に天理高校柔道部監督 野村基次先生(当時5段、現8段 オリンピック柔道金メダル3連覇の野村忠宏選手の父)から教わった。
たまたま1年生の時のクラスの担任も体育の授業も野村先生だったので、結果として柔道部の練習以外の時間にもたくさん話す機会に恵まれ、多くの事を教えて頂いた。
野村先生曰く「本番で実力の100%を出すのは難しい。せいぜい実力の80%であろう。それならば初めから実力の80%で勝負をすると考え、残りの20%は余力として突発的なアクシデントや変化に対応する為に残せばいい。」と仰った。
36年前の話なので言い回しは変わってしまっていると思うが、言わんとしていることは清水宏保さんも野村先生も、きっと同じだろう。

 

「8割の力で勝負する」
これは事業計画や日々の業務にも通ずる。
■例えば、会社の余力。
社運を掛け10割のパワーを使って取り組んだ事業計画が失敗した時には、もう目も当てられない。しかし余力があれば、計画を変更することも、立て直すことも出来る。
■例えば、精神力・体力の余力。
仕事とは一生に近い年月続けるものであるが故、ある一時期にだけ奮闘して、その後燃え尽きては困る。40年50年とコンスタントに戦えるように余力を残しておく必要がある。
■例えば頭の中の余力。
熱意を持って仕事に取り組む事はもちろん大切だが、猪突猛進した結果、木を見て森を見ずの間違った方向に進んでしまう事もありえる。熱中している時であっても、頭の隅では冷静な抑え部分を保っておかなければならない。

 

ここで誤解して欲しくないのが、「8割の力で戦う」という事は、2割手を抜いて良いという事ではなく、本番で8割の力しか出せなくても勝てるように自身の分母(余力)を増やせという事なのである。

 

ところでビジネスの本番とは何だろうか?
プレゼンだったり、重要な会議だったり、大切な方の接待だったり、色々とあるだろうが、緊張もあり本番で100%の実力を出せる人というのは、なかなか居ないだろう。
しかし、「実力の80%しか出せない」ことを前提にして入念に準備をすれば、もし100%の力が奇跡的に出れば大満足の結果を得られるだろうし、80%の力しか出せなくても想定どおりだ。
自分の分母を増やすには大きな努力が必要だが、分母が増えれば本番で10割の力が発揮出来なくても、勝つことが出来るのだ。
それはどんなに心強く、気持ちに余裕を与えてくれることだろう。

2013年

12月

08日

コンプレックス

先般、父の家を訪ねた際に、父が「この本、持って帰ってくれ!」と一冊の本を差し出してきた。
その時は、たいして中身の確認もせず持ち帰ったのだが、帰宅後に本のタイトルを見てみて驚いた。「数学序説」と書いてある。

大層なタイトルだと思いながらページを開けてみると、「この本は大学教養における数学の教科書とする意図を持って書かれ-」と前書きに書いてある。

本論を少し読み進むと、まず私が高校3年生で学んだ数ⅡB最終の基礎解析程度は常識的に知っていることが前提に書かれているようで、私はすぐにページを閉じ、本を投げ出した。
どうやら父は、この本を買ったものの撃沈し、私に寄越したようだ。

中卒の父にコレが理解出来るはずがない。
私も以前に「心理学大全」いう本を買ってページを開けると「この本は大学教養・・・」から始まった難解な論説が書かれており、そっとページを閉じた経験がある。
さすが親子、行動が似ているなと呆れながらも感心した。


実は「心理学大全」だけではなく、他にも買ったものの少し読んだだけで放置している本が沢山ある。買ったことすら忘れている本も入れれば相当な数だろう。
どうして私はこんな馬鹿ばかしい行為を繰り返してしまうのか?と突き詰めて考えた時、やはり学歴の事があるように思う。
高校時代は柔道しか頭になく、勉強は二の次にしてしまった。

そして大学も中退だ。
やはり学歴に対するコンプレックスはある。
コンプレックスがあるから、少しでも難しい知識を身に着けようと日頃から思っている。
だから難しいタイトルの本を見ると、そこには新しい知識が一杯書いてあると思い、探究心にスイッチが入る。そして私は元来せっかちな性格なので、ろくに内容を確認せずに早々と買ってしまう。しかし買ってみたものの、そこには自分のスキルを遥かに超えた事が書かれていて撃沈する。

この繰り返しなのである。
その上、恥ずかしながら私は、ええ格好しいなので、難しい題名の本を読んでいる人は恰好良い、イコール、人が知らない事を知っていると、もっとカッコいいと思い、その結果として、本屋で難しい題名の本を見つけると、ついつい購入してしまうのである。
「難しい本を買った」ということと「本の題名」に自己満足するが、実際に本を読み始めると自分自身のスキルの無さに自己嫌悪に陥るのだ。


調べてみると、私のこのような行為は「欲求」なのだそうだ。
「成長への欲求」や、「承認への欲求」なのだそう。
そして欲しいものが手に入らないと、人は代わりの物や行為で埋めようとするのだそう。
私の場合、学歴が手に入らないので、代わりに難しい本を買う行為で欲求を解消しようとしていたようだ。もしかしたら父も、そうだったのだろうか? 笑

 

ところで、やはりコンプレックスをオープンにするのは、弱さを見せることでもあり、恥ずかしいし勇気がいる。「弱みは見せるな!」という考えもがあるが、私はこうしてオープンにした方が、気持ちがスーっとするのである。

 

2013年

12月

01日

試合前夜

私の人生の中で昭和54年3月31日(土)の夜ほど、緊張のあまり寝付けなかった夜は、かつてなかった。
というのは、翌日の4月1日(日)が第一回全国高等学校柔道選手権大会の当日だったからである。
この大会は、高校柔道において戦後初めて行われる春の全国大会であり、前々年の昭和52年に開催が決定してからというもの、全国の柔道強豪校が優勝を目指して火花を散らしていたのである。
ご多分に漏れず天理高校柔道部でも加藤秀雄・野村基次・松本薫の三名の先生の指導のもと「どんなことが有っても第一回の優勝を飾り、さらっぴんの優勝旗を絶対に持って帰るぞ!!」と、猛練習をスタートさせたのであった。

 

当時の練習を思い出すと、今でも体が震える気がする。
35年近くも前の話なので、私の学生時代と現在とではもう随分違うだろうが、あの当時は1年間の内に355日くらい練習があり、休みは10日くらいしかなかったように記憶している。
平日はまず朝5時55分に起床、6時から立ち技を1時間・寝技を30分、準備体操と打ち込みを入れると合計約2時間弱みっちり練習するのである。
その後、朝食を取り掃除をしてから登校するので、毎回始業時間にギリギリ滑り込むような生活であった。
帰寮すると今度は午後3時30分より打ち込みを約30分間、また立ち技・寝技を各1時間、研究を30分、その頃には気力のみで体を動かして筋力補強を30分と合計4時間余り繰り返すのである。
この時点で、準備体操を入れると約6時間すでに練習している訳で完全にヘトヘトなのだが、これではまだ一日の終わりを迎えることが出来ず、午後10時の点呼後には、最後の力をなんとか振り絞って、また約一時間の自主筋トレを行うのである。
しかし平日は学校が有るのでまだこれくらいなのだが、土・日や長期の春・夏・冬休みは朝練を入れると3部練習になり、朝から晩まで練習漬けである。
当時、学校が休みの日は楽しみの日では無く恐怖の日であり、休みなど来てくれるな!と真剣に思ったものである。ちなみに修学旅行先ですら、柔道部は朝練があった。

 

話しを始めに戻そう。
全国大会を翌日に控え、私は布団の中でまんじりとも出来ずに居た。
心が奮い立って武者震いをしたかと思えば、次の瞬間には緊張して足が竦んだりした。
明日の為にも早く寝なければならない!と焦れば焦るほど、逆に目が覚めていく。
他の選手たちも同じ気持ちだったのか、あちらでも、こちらでも寝返りを繰り返している。
「おーい。起きてるか?」
そう声を掛けると「起きてるで」「俺も」「俺も起きてる」「寝られへん」と次々に声が上がった。
結局、誰一人寝れずにいた。
早く寝なければ・・・と思いながらも、気を紛らわす為に雑談していると、それに気づいて松本薫先生が部屋に入ってこられた。
「おまえら!緊張で寝られんのか?」
喋ってないで早く寝ろ!そう叱られると思って身構えたが、続く言葉は予想と違った。
「眠られんのやったら、別に眠らんでもええやないか!」「朝まで適当に遊んでたらええのや!」「お前らは、あれだけ練習したのやから、もう一日や二日くらい眠らんでも絶対に優勝できる!」「心配せんでいい!先生が保証してやる!」と言い残して部屋を去って行かれた。

その言葉を聞いて一瞬にして自信を取り戻したことを、今も鮮明に思い出す。
「そうか、俺たちは1日ぐらい寝なくても、優勝出来るほどの練習をして来た!」
「だいじょうぶ。俺たちは日本一練習をした!」
そう安心すると眠気が襲って来た。
その後は、みんなが催眠術に掛かったように朝まで爆睡出来た。
そのお蔭もあり翌日は冴えた頭と体で全国優勝をさせて頂くことができた。

 

あの苦しい練習漬けの日々を、逃げ出さず最後まで遣り通したという経験は、今でも私の自信になっている。その経験があったから今でも、どんなに苦しい時や忙しい時でも諦めず、毎日繰り返せるのである。

 

2013年

11月

24日

同業他社

合気道の始祖で、植芝盛平翁という方がおられる。この方の本を学生時代に読んだことがある。
その中に、合気道の最大の奥義は「たとえ自分を殺しに来た人とでも友達になる事」と書いてあった。
柔道にも同じような意味の言葉がある。
講道館柔道の理念である「精力善用」「自他融和共栄」
これは、相手を敬い感謝をすることで信頼し合い、助け合う心を育み、自分だけでなく他人と共に世の中を繁栄させようという意味合いである。
私が初めて学んだ武道は少林寺拳法なのだが、その創設者である宗道臣翁の言葉にも同じようなものがあった。
「不殺活人」という言葉だ。
拳法は人を傷つけたりする為のものではなく、己の身を守り、他人を助けるため、そして社会に貢献するためのものであるという言葉だ。
柔道、合気道、少林寺拳法の理念に共通しているのは、競合相手を排他するのではなく受容し、共存し、共に栄えることによって、社会に貢献しなさいという事だ。

学生時代に柔道をしていた頃は、これらの言葉の意味は理解出来ても「ただの理想論だ」ぐらいにしか思えず、たいして深くも考えずにいた。
現役時代はとにかく「勝つ」ということしか念頭に無く、これらの言葉は自分自身にとって深い意味を持つものではなかった。
実際にこれらの言葉が、私にとって意味を持ち始めたのは、社会に出てからである。
ましてや身に染みて理解できたのは社会に出てから10年以上経って30代に入ってからである。

 

 

30数年に渡り、経営者として歩ませて頂いていると、何度も好況不況の波を経験することになる。
私が30代だった頃の日本は、バブル経済の崩壊に伴い、ほとんどの産業が不況の真っただ中だった。
当社も御多分に漏れずイーブンポイントぎりぎりで、毎年なんとか年度末を乗り越えている状態であった。
そんな折、誘われて嫌々ながら参加した異業種交流会の席で、私は「自他融和共栄」の意味を初めて本当に理解することになった。
中小規模の外食店のオーナー同士が、食材の「共同買い付け」をして、仕入れ値を下げているという話を聞いたのだ。
また中古車販売業者のオーナー同士がチラシや広告を共同で作り、お互いを販売促進しているという話も教えてもらった。
まさに「敵対した競争」ではなく「融和した共栄」である。
同業他社は「すべて敵」であり、「一生交わることもない」くらいにしか思っていなかった私にとってこの話は雷に打たれたような衝撃だった。
善は急げ!で思い立ったらすぐ行動するのが私である。
翌日には、敵対する同業他社のN専務に思い切って連絡をして訪ねて行った。
N専務の最初の一言は「よう敵のところに一人で来たな」だった。
先制パンチとも取れるお言葉を頂いたので、どうなる事かと思ったが(笑)、その後は敵?である私の話を真摯に聞いて頂け、受け入れて頂いた。
そして共同買い付けやパンフレットの共同制作を一緒にさせて頂けることになった。
それどころか、若手の私を「応援してやろう」と仕事も沢山回して頂いた。
20年以上経った現在も共同での買い付けやパンフレットの制作は続いていて、有難いことにスケールメリットを生かした生産が出来ている。

柔道の現役時代は理想論だと感じていた「自他融和共栄」という言葉だが、今の私にとっては身にしみる程、大きな意味を持つ言葉である。

 

2013年

11月

17日

清須会議

現在、三谷幸喜監督の映画「清須会議」が、巷で話題になっている。
何度も書いているが、私は子供のころから日本史、その中でも特に戦国時代が大好きだ。
それ故この作品は見逃せない!

 

ところで私が初めて歴史に触れたのは、たぶん小学1~2年生頃にNHKの人形劇で見た南総里美八犬伝だったと思う。子供の頭なので難しい部分は理解出来なかったが、ただ単純に八犬士を「カッコいい」と感じていた。
小学5年生の時、日本史の教科書に戦国武将が登場した以降は、私のヒーローは戦国武将達になった。
歴史に本格的に興味を持ち始めたのは、その頃からである。
高校生の頃には、柔道の試合の度に自分を戦国武将に置き換えて、気持ちを奮い立たせていた。(→コチラ
そして社会に出て独立してからは、歴史本をビジネス本として読むようになった。
リーダーの姿や組織作り、戦略や戦術、外交術、内政などは企業運営の参考になるものが実に多い。

 

さて清須会議に話題を戻そう。
これまでの日本史は全て「戦」の勝敗が歴史を動かしていた。
そんな中、初めて「会議」により歴史が動いた、それが「清須会議」である。
もちろんただ純粋に話し合いが行われた訳もなく、会議が始まるまでには「根回し」があり、智謀、策謀が渦巻いた激烈なる頭脳戦があった。
この会議での勝利を足掛かりに、秀吉は「天下統一」への道を切り開いて行くのだから、歴史好きの私としては、この会議がどのように描かれているのか楽しみで仕方ない。

 

ところで秀吉は「戦わずして勝つ」事が多かった。
有名なところでは高松城の水攻めや鳥取城の兵糧攻めなどがある。和睦で勝った戦も多かった。秀吉は、もともとお百姓の出身である為、あまり戦は好まなかったようだ。今でいうところの草食系男子であったのだろうか?(笑)
冗談はさておき、「戦に勝つよりも戦わずに勝つことの方が上策」という考えの武将だったのだろう。
どんな強い者も戦えば互いに消耗したり怪我したりする。無用な戦は避けたいものである。
ちなみに講道館柔道には「自他融和共栄」という理念がある。
これは「戦わずして勝つ」よりも、もう一段掘り下げたもので「勝つ」のが目的ではなく「共栄」が目的である。
次回は、この事について書こうと思う。

2013年

11月

10日

明けない夜は無い

「スランプ」 これは仕事においてもスポーツにおいても、ある一定の成長期間を経過すると、誰もが体験する避けられない事であろう。
私がスランプを初めて本格的に経験したのは、やはり柔道であった。

 

スランプには原因の解っているスランプと原因の解らないスランプとの2種類がある。
原因の解っているスランプは原因がはっきりしているのだから、まずその原因を取り除くことに全力を注げばいい。
たとえ、それが一朝一夕に解決できないようなことであっても、あまり人のアドバイスや周囲の目を気にせず、最初は自分なりの考え(信念)でやってみることである。
誰しも直感があるので案外それで解決することが多々ある。
自分の考え通りにやってみて、それでもスランプを抜け出せないのであれば、その方法は間違っているのだから、貰ったアドバイスを参考にやってみる。
この順序が私のやり方であり、まず最初に自分の信念を通してみないと気がすまない。
最後の責任は自分自身に有るのだから、まずは自分の考え通りにやってみたいのである。
その為、先生や先輩が私にアドバイスを与えても、私はいつも半分聞き流しているように見えたらしく「体を斜めにして人の話を聞くな!」とよく怒られた。
そこで「先生!誤解です!左側ばかり鍛えたので、体が自然と斜めになるんです!」と言い訳していたデタラメな私である。
誤解の無いように申し添えるが、先生や先輩からのアドバイスや叱責には、納得した時には丁寧に「ありがとうございます」と頭を下げた。

 

次に原因の解らないスランプについてであるが、原因が解らないだけすごく厄介である。
しかし人の一生には何度かの肉体的・精神的な変わり目があって、それを境にして上り調子になる時と下り坂になる時があるようだ。
言い方を変えれば肉体的・精神的な「調子」が狂ってしまう時であろうか?
そして肉体的・精神的な変わり目は、ほぼ本人には自覚がない。
一年二年……と相当長期にわたってスランプが続くことがある。
そういうときは、何とかしようとアレコレ手を出して動き回るよりは、じっくりと腰を据え、肉体的・精神的な調子が回復するのを待つ方が良いと思う。
ジタバタしないことである。

丸竹コーポレーションの前身、初代「立花屋」の立花きくえおばあちゃんが、「明けない夜は無いし、必ず春はくる」と、よく言っていた。
人生には四季があり春夏秋冬と移り変わりを繰り返す。
何もかも上手くいく時期もあれば、何をやっても裏目に出る時期も人生には必ずある。
手が、かじかむような真冬には、本当に春なんてやって来るのだろうか?と信じられなくなるが、それでもやっぱり時間が経てば、春はやって来るのである。

2013年

11月

03日

三代目という十字架

現在の丸竹コーポレーションは、父の会社である繊維関係の会社と、私が立ち上げた会社である不動産事業(当時)&土木資材の会社、これらを合併させたものである。
以前にも書いたように、父が高齢になった為、私の会社が父の会社の事業も引き継ぐことになった。
私からしてみれば「吸収合併」であり、また私の代で事業規模の躍進を見させてて頂きつつあるという自負があるのだが、よく事情を知らない世間一般の方から見れば、やはり私は「三代目」なのである。
「三代目は身上を潰す」などの諺があるように、三代目という響きには、苦労知らずで軽薄なイメージが付き纏う。
会社を大きくさせても、「先代の基礎があったから」で済まされる。
事業に失敗すれば「やっぱり三代目は・・・」と馬鹿にされる。
どちらに転んでも良い評価を受けることが出来ない歯がゆさもあれば、創業者に優るとも劣らない重責を感じるのである。
これは、まさに三代目という「十字架」である。
しかし継がずに、自分が立ち上げた会社の事業にのみ専念するという選択肢を選ぶことも出来たはずなのに、最終決断をしたのは自分自身である。
だから先代からの事業を引き継ぐ決心をした時、 初代、二代の「徳と信用」を預からせて頂きながら三代目という十字架を戒めとして背負い、死に物狂いになろうとも会社を守って行こうと心に決めた

 

ところで現在の中小企業を取り巻く経営環境は、グローバル化とも相まって、日々変化を続けている。
時代の変化が穏やかだった頃は、昨日と同じことを真面目に今日も明日もこなせば何とかなっただろうが、色んなものが急速に変化する今の時代は、同じことをずっと続けているだけでは時代から取り残される。
先行きがますます不透明になって来ている昨今、経営者は、自社が今の業種で10年後も存続しているだろうか?という危機感を常に持っておくべきだ。
当社の主力商品は毛布だが、遠くない未来には、毛布の代わりになるテクノロジーが発明され、世の中の人達は毛布を必要としなくなるかもしれない。
極端な話だが、ありえることだ。

世の中は移り行くものだと認識して、常に「時代の先を読む」ことが、今の経営者の責務であると肝に命じなければならない。
あぁ、恐ろしい時代である。

2013年

10月

27日

戦え!

久しぶりに柔道の夢を見た。
夢の中で、私は顔の分からぬ相手と試合をしていた。
この夢は、過去にもう何度も見ている。
けれども、ここ数年は見ることがなくなっていた夢を久しぶりにまた見た。
無我夢中で戦っている夢。

 

 

ところで書きながら一つ思い出した。
天理高校柔道部時代に恩師の松本薫先生(当時コーチ 5段、27歳)が、練習後の湯船の中で、こんな話をしてくれた。

 

「お前は闘争本能むき出しで練習や試合をしているが、あいつにだけは、あの学校にだけには負けたくない!と思っているうちは日本一には成れないぞ。」
「だれ某に勝つのを目標にするのでなく、自分自身と戦え!」
「例えばそれは、もうしんどいと思って諦める自分だったり、練習をサボってやろうと思う自分だったり、日本一になんて本当になれるのかな?と疑う自分だったり、そんな自分に勝て!」
「相手に試合で負けても、諦めない限りそれは本当の負けじゃなく、目標達成までの通過点だ。自分は出来ない・・・と自分で自分の可能性を諦めた時が本当の負けだ。」

最後に松本先生は、ちょっと照れ笑いしながら
「まぁ・・・この話は、俺がこの高校の生徒やった時、加藤秀雄先生がしてくれた話なんやけどな」と付け足した。

 

話はそれたが、柔道も経営も目標達成する為には、諦めず気が遠くなるまで繰り返すしかないのだ。

諦めないことは、自分自身との戦いだ。

 

今、事業部門の違う新しいプロジェクトを2つ立ち上げて、同時進行で軌道に乗せようと努めている。
それが今の大きな目標の一つでもある。
現在、自分自身の目標と戦っているから、久しぶりに試合の夢なんて見たのだろうか。
もしかしたら、いつも夢の中で戦っている相手は、自分自身なのかもしれない。

試合の夢なぞ見たからテンションが上がって来た。よし、今日も頑張ろう!

 

2013年

10月

20日

大阿闍梨 酒井雄哉(ゆうさい)師

先般、平成25年9月23日、天台宗総本山 比叡山延暦寺一山長寿院 大阿闍梨 酒井 雄哉(ゆうさい)師が享年87歳でご逝去されました。
比叡山に伝わる命がけの荒行「千日回峰行」を2度も満行された高名な大阿闍梨さまであるがゆえ、師の詳細は省かせて頂く。


さて、師とお会いさせて頂いたのは2回である。
1回目はお会いさせて頂いたというより、御見掛けしたという感じである。
22、3歳の頃(1983~4年ころ)だったと思う。
比叡山に参拝に立ち寄らせて頂いた折のこと。
突然まわりの人がざわめき立ち、道が開いた。
何かと思うと酒井雄哉師が、たまたまお通りになられたのである。
「生き仏さま」と手を合わせ拝む人もいて、漏れ聞こえて来た話でその方が「千日回峰行」の酒井大阿闍梨さまだと判った。
小柄で慈愛に満ちた優しそうな眼差しの中にも、当時、私のような若輩でも感じ取れるほどの凄いオーラ、そして何か底知れぬ深みを感じた。
そして何故かそのとき理由は解らないが、あらためて将来、この師とまたお会いさせて頂ける予感がした。

 

時は流れて約30年後、再びお会い出来る機会が巡って来た。
永正山 正通寺 16世 竹内彰典師が主宰をされている「無我の会」という異業種交流会がある。
私は、創設時より正会員として参加させて頂いているのだが、その総会において酒井大阿闍梨さまをお招きして講演を賜ることになったのである。
その事を知って以降は、総会の日を一日千秋の想いで待った。


 昨年であるが平成24年6月5日、その時は訪れた。当日、竹内師に願い出て、酒井大阿闍梨さまの控室にお伺いして御挨拶をさせて頂いた。
その際に少しばかりお話させて頂くことが出来た。

私が手を合わせると、数珠で頭を撫ぜて下さった。
30年前に予感した事が、現実となった瞬間だった。

 


「人は間違いを繰り返しながらも、諦めずコツコツと生きて行ったら、何とかなっちゃう!無理だと思うことも、やってみればできるものです。」


講演の中でお話されていたこの言葉は、光栄にも私の座右の銘である「諦めず気が遠くなるまで繰り返す」と共通するものがあり、強く印象に残っている。

最後にもう一つ、私が感銘を受けたお言葉を。


「一日を一生と考え、一日を中心にやっていくと、今日一日全力を尽くして明日を迎えようと思えるものです。」

 

今は只々、ご冥福をお祈りするばかりです。合掌

<中央>

天台宗総本山 

比叡山延暦寺一山長寿院 

大阿闍梨 酒井雄哉師

 

<右>

永正山 正通寺 16世 

竹内彰典師

 

<左>


2013年

10月

12日

歴史好きと自己暗示

私は子供の頃より歴史好きである。
こと日本史においては人から嫌がられるほどマニアックである。
今でも時間を見つけては、歴史本を読み漁っている。
歴史の研究は企業運営の戦略や企画を考える上において非常に有用なヒントが多く隠されている。


私が二十歳の頃の話しだが、私の師匠である東建コーポレーション㈱左右田鑑穂社長は新聞に「徳川家康」の研究を投稿されていたり、東海ラジオの「屋号あれこれ」という番組で屋号を鑑定する傍ら、歴史の検証や解説をしたりされていた。
ラジオ局の収録に何度かお供させて頂くうちに益々歴史に興味が湧いてきて、いつか私も本を書こう!と思っていたくらいである。

 

ところで人生には、勝負しなければいけない「ここぞ」という時があるが、そのような時には、私は自分を武将に置き換える。
私は見た目とは違い、意外と繊細な面もあるので(笑)、不安になったり考え過ぎたりしてしまうのだが、腹を決めて突き進まなければならない時には、「自分は戦国時代の武将だ!」と自己暗示を掛けることにより、肝が据わり一意専心出来るのである。
この方法は近年始めたわけではなく、子供の時分から、このような精神構造を持っていた為に、私の「自己暗示」は並外れて強烈で、思い出せばこんな事があった。

 

柔道の大会での事である。
私は完全に武将になりきっていた。
相手校の選手が明智光秀、亡き主君の織田信長が加藤秀雄先生。
私は主君のかたき討ちをして天下を取る羽柴秀吉。
試合が始まるとここが試合会場だという事も忘れ、柔道の試合をしているという事も忘れ、ただただ「主君の敵討ちー!!!」とばかりに攻めたその結果、柔道にはないような技を興奮のあまり使ってしまった。
審判の先生(伊藤剛先生 当時 大阪産業大学監督 当時6段)に「あまり無茶なことはしないように!」と注意をうけた。

それにより我に返り試合をなんとか続行出来たが、今のルールなら確実に反則負けである。

当時、その試合はテレビ朝日の中継があり、審判の先生に怒られる私の姿が全国放送されてしまった。
さらに試合後には、コーチの松本薫先生(当時5段)にも「お前の勝手やから誰の設定でも構わんけどアホな技をするな」と怒られた。
その印象がよほど強かったのか未だにOBの集まりでは、「お前は確か空手部やったよな?」とからかわれる始末である。

 

2013年

10月

04日

「怠慢」「誤算」「事故」

私は1度不安を感じると、もう何をしていても頭からずっと不安が離れず、不安で不安でたまらなくなる性質である。
不安が現実にならないように対策をして、初めてようやくホッと一息つける。
しかしそれでもまた別の不安が芽を出す。また対策をし、不安の芽を摘み取る。万全を期したと思っても、また新たな不安が目を出す・・・
私の会社経営の歴史は、不安との戦いと言っても過言ではない。

 

私は常々、経営者の頭の上には「怠慢」「誤算」「事故」という名前の3本の剣が、細い一本の糸で釣りさげられていると思っている。
そしてどれか1つでも重量が増せば細い糸は切れ、経営者にナイフが突き刺さる危険をはらんでいると思う。
「怠慢」は誰もが持っているだろうから、いかにそれを増長させないが大切であり、「誤算」と「事故」は、どんなに優れた人にでも発生する可能性があるわけだから、いかに被害を最小限に食い止められるか?が、その後の回復や発展へのカギとなる。
そこで、この3つに対する私なりのリスクマネージメントを書いてみる。

 

*まず怠慢である。
「怠け心」に打ち勝つための私の方法は、先日書いたガンジーの言葉を思い出すこと、そして柔道部時代の難行苦行の日々を思い出すことである。くたびれて怠けたい気持ちが湧いて来ても、「あの時よりマシ」と考えて乗り切るのである。

今になって思えば、柔道の修行では「人に勝つ」という事よりも、「怠けたい自分や諦めそうになる自分に勝つ事」を教えてもらった。

 

*次に誤算である。
誤算とは、誰の人生においても付き物である。おそらく誤算の無い人生なんて皆無であろう。

これは誤算した時のその後の対応が成否の分かれ目となる。
適応力を持って誤算に対応するには、初めから「誤算パターン」をいくつも想定し、その場合の対策も考えておくことである。

もちろん「最悪パターン」も想定する。そして「最悪パターン」が現実になった場合に、対応出来る余力もなく倒産の危機に陥るような案件ならば、初めから手を出さない方が良い。

また誤算が発生した場合は、「世間体」や「意地」に捕らわれず、中止する勇気も必要である。

 

*最後は事故である。
社用車での交通事故や労働災害や、果てはデーター消失などがあるが、これについては、運よく一度も起こらないかもしれないし、明日起こるかもしれない、神のみぞ知る分野である。
しかし経営者は、「これらは必ずいつか起こること」と前提にするべきである。
私は不安症であるから沢山の保険に入っている。実際それで大変助かったことがあるし、「備えあれば憂いなし」なのである。
私のように最悪を想定したリスクマネージメントは、時として単なる臆病と勘違されやすいが、私にとっては「転ばぬ先の杖」そのものである。


先月の話であるが、パソコンが壊れてデーターが飛んでしまった。
しかしその一日前に定期的なバックアップをしていたので、悲劇的なことが起こらずに済んだ。
私は、バックアップが消えてしまう事も考えて、記憶媒体の種類を変えてバックアップのバックアップもしている。
笑われるかもしれないが、杖は多い方が安心だ。

2013年

9月

28日

目立ちたがり屋

先般、母校の学生約十数名と会う機会があった。
食卓を囲みながら色々と話す中で、気づかされることが沢山あった。
驚いたことに、ほとんどの学生とは初対面だったのに、なぜか多くの学生が私の事を知っていた。
というのは会食が決定後、彼らは事前に私の事をHPやブログなどを見て下調べしていたのである。
我々現代のビジネスマンにとってそれは当たり前の事だが、自分のバンカラ学生時代と比べれば、今の子達はなんと洗練された身のこなしだろうと感心した。


今の時代、ITは人の暮らしやコミュニケーション、そしてビジネスに必要不可欠なものとなっている。

世の中がこんな風になる30年以上も前から、私の師匠である東建コーポレーション㈱の左右田鑑穂社長は、預言者のようにITの重要性を私に教示してくれていた。
30年以上前と言えばまだWindowsなんて存在せず、パソコンは高価で個人はもちろん大企業でも限られた部門でしか購入できなかった超アナログ時代。
そんな時代から東建コーポレーションの前身である東名商事の本社には、試験運用段階ではあったが、もうすでにコンピューターが存在し、社長はITの今後の有効性をたえず語られていた。

左右田社長のお話を聞かせて頂きITの有効性を感じていたものの経済的な問題もあり、当社がパソコンを導入したのは、社長に遅れること十数年以上後であった。


その後、当社は名刺の延長線上程度の簡単なものではあったがHPを製作した。
その当時は中小企業の製造業者でHPを作っていた会社は少なく、「問屋さん相手の商売で、なんでそんな物がいるの?」と不思議がられたり、私が若かったせいもあったのだろうが「目立ちたがり屋」と冷笑を浴びせられた事もあった。
また「ほかにすることがもっとあるだろう」と、年配の中小企業の社長にはお叱りまで受けた。

 

その後、当社のITの転機は今から約8年前。
左右田社長から「立花、次の段階を視野に入れるのならWebを今よりもっと充実させる事だ」とご指導頂いた事が、きっかけだ。
それを機に、名刺レベルの情報量であったHPの内容を充実させ、より詳細で新鮮な情報を発信するように努め、リニューアルを繰り返している。
その成果は確実に出ており、情報発信量の増加に伴い年々、ビジネスチャンスや取引先が増えている。
また本年度からはまだ1名ではあるが、4月よりWeb編集室も設けて、更なる情報発信を心掛けている。

 

最後に一つ、前出の学生達との会話の中で気になったことがあった。
学生達は就職先を選ぶ際にも、Webを通して様々な情報を収集し、就職先の取捨選択をしているとのことであった。
決して大手企業ばかりを選り好んでいる訳ではないが、情報量が少ない企業を就職先に選ぶのは二の足を踏んでしまい、情報量の多い企業から選択しようとすると結果的に大手企業が候補に残る、との事であった。
これは消費者の心理とも共通する事柄であり、我々中小企業の経営者も真摯に耳を傾けなければならない声だと思う。
情報の発信そして発信の積み重ねが、いかに大切かを再認識させられた出来事で有った。

 

2013年

9月

21日

たえず見直す

私の第二の座右の銘である「たえず見直す」という言葉を、いつもよりもう一段掘り下げて考察してみた。
昨今の社会全体の仕組み、制度、組織、会社等を見渡すと、世の中の変化に対応出来ず、「時代遅れ」になってしまい、それが原因となってシステムエラーを起こしている事例が実に多くなってきたように思う。
その当時にはソレが、確かに最良であり最先端であったのだろうが、しかし時が流れ世の中が変化しても尚、時代遅れの構造やシステムを只々運用しているのをよく見かける。
たとえば会社単位で例を出すと、見直しをおざなりにして旧態依然のまま、扱う商品の変化もなく、長年に渡り営業活動の内容を変えることもなく、その結果、時代遅れになり、最後にはジリ貧に陥り、倒産や廃業を余儀なくされた会社をいくつも見てきた。

 

現在、日本では社会の構造改革が叫ばれているが、「社会」とは会社など組織全般の集合体である。そして「会社や組織」とは、私たち個人個人の集まりである。
それゆえ一人一人の確固たる意識改革からスタートしなければ、社会の改革は進まない。
一人一人が改革に目覚めて精進することによって、ひいては会社や組織に貢献し、その貢献が最終的には社会の利益に結びつくと思う。

 

 

・・・と話が大きくなってしまったので、もっと現実的な話に戻そう。
目まぐるしく変化し続ける現代では、昨日までと同じ事を忠実に続けていれば会社は存続出来るという時代では、もうなく、会社も時代に合わせて変化して行かなければならない。
繰り返すが、会社は個と個の集合体であるから、一人一人が改革を意識しなければならない。
「改革」の手始めは、身近な所の「見直し」である。
現状に甘んじることなく、どうすればもっと良くなるのか、問題点はないか、無駄はないか、たえず見直すこと。
そして時代の変化に気づくこと、その変化に合わせて行動することなどが大切だろう。

どこの組織や会社等においても、構造改革が必要なのは分かってはいるだろうが、実際に改革するとなると言葉だけが独り歩きして、遅々として進んでいないのが現状ではないだろうか。
見直し事や改革は、新しく何か事を起こすより大変な労力と時間を要するが、しかしそのまま放置することは怠慢であり妥協である。
怠慢や妥協を重ねた先には、会社の「倒産」という「奈落の底」が待ち受けていることを、経営者は肝に銘じなければならない。

 

2013年

9月

13日

社会的に存在意義のある会社

先般たまたま夜中にテレビを点けると、種苗会社で開発を担当さてる方のドキュメンタリーを放送していた。
私の座右の銘である「諦めず気が遠くなるまで繰り返す」と通じる部分もあり、大変感銘を受けた内容だったので、ここで紹介したい。

 

年に一度しか実らない収穫物の中から優秀な種苗を、特性(耐寒、耐暑、病害、降雨量、収穫量等)に応じて選び出し交配させ、また翌年も、さらなる優秀な種苗を作り出すために交配と選抜を繰り返す。

またその次の年も、その次の年も、その次の年も、その次の・・・
そのように気が遠くなる程の膨大な時間をかけ、幾度も繰り返すことで優秀な種苗を作るのである。
すぐには成果が出ない地道な作業である故、信念が無ければ、続けて行けない仕事であろう。
しかし、もはやこの開発者にとって仕事とは、「生計を立てる手段として従事する労働」ではなくなり、この開発者は「人類に貢献する」という使命を果たすために、仕事をしているように見えた。
というのは、「最終的には、この種苗を中国大陸へ持っていき、あの広大な大地に埋めてみたい」というのである。
なぜならば、日本は国土が狭く耕作面積は狭いが、優秀な種苗があるので収穫量が高い。

それに比べ中国は国土が広く耕作面積は広いが、優秀な種苗が無いので収穫量が低い。
だから優秀な種苗を中国大陸に持ち込み、あの大地で育めば莫大な収穫が見込め、今後の人口爆発による人類の食糧危機、そして飢えに苦しむアフリカ等の後進国の飢餓に貢献することが出来ると言い切るのである。

実際は国と国との利害、駆け引き、民族の価値観や思想背景の違いによる国民性、コピー品種の問題など、諸問題のハードルは高いが、それが実現すれば、必ずや「人類の食糧危機と飢餓」に貢献することが出来るであろうと私も思う。

 

それにしても、私が最も関心がわいた事は、社員がここまで「遣り甲斐」と「使命感」そして「信念」を持って仕事に打ち込める環境を提供しているのは、いったいどんな経営者なのだろうか?という事である。
私の目標の中に「我が社を、社会的に存在意義のある会社、働く価値のある会社にする」というものがある。
これをもっと具現化する為にも、開発者本人や経営者の方に、質問したいことが山のようにある。
是非ともお会いして、教えを乞いたいと痛切に思っている今日この頃である。

2013年

9月

05日

リスク分散について

当社の主力商品を大まかに分類すると、寝装寝具類(繊維)と環境土木産業資材(土木)がある。

建築関係のお得意さまからは「なぜ土木資材の会社が、官公庁向け災害用毛布を売っているのですか?」とよく聞かれ、繊維関係のお得意さまからは「なぜ繊維の会社が土木資材も売っているのですか?」とよく聞かれる。

 

これには訳があって、父の会社である繊維関係の会社と、私が立ち上げた会社である不動産(当時)&土木資材の会社、これらの会社を合併させた結果なのである。
父が高齢になった為、私が父の会社の事業も引き継ぐことになったのだが、その当時の繊維業界は需要と供給のバランスが崩れておりマイナス成長の時期であった。
そのため繊維事業の会社との合併は、不採算部門を抱えることと同じであった。

しかし不動産(当時)&土木資材の事業は黒字だったため、繊維事業を回復させる為の新たな設備投資をする事が出来た。

その一つを例に出すと、真空パック包装機を導入した。

それにより災害用などの長期備蓄出来る毛布を販売することが可能になり、繊維部門も息を吹き返し始めた。
そのうち「クリーニング事業を譲渡したい」という話が外部から来て、新たにクリーニング事業も始めることになった。
それを機に、私は「製造」に「サービス」の付加価値を付けることを考え、今までは販売したらそれで終わりだった毛布を、使用後に再びお預かりし、クリーニング加工したのち再真空パック処理を行い、元の状態に戻して購入者の元に返すという製品のライフサイクルに合わせた事業を開始した。
それにより業績が上がり、合併当初は不採算部門であった繊維事業が、今では土木建材部門を超え当社のメイン部門となった。

 

私は長期安定経営を目指すには各部門の見直しや開発と共に、多角経営は必要不可欠と考えている。

どの業界にも景気のサイクルはあり、良い時期と悪い時期はあるものだが、単一事業だとマイナス成長期に息切れしてしまう可能性がある。
しかし多角化経営であれば、苦しい時期にはプラス部門が会社を支えてくれるし、マイナス部門にテコ入れをし、同業他社と差別化を図る余力もある。
また1年単位で考えてみても、業界により繁忙期は異なるので、ある部門が端境期で人員が余っても、余った人員を援軍として繁忙期の部門に配置したりもできる。
しかし単一事業であれば、繁忙期に派遣を雇ったり、端境期には人件費がコストを圧迫したりするだろう。

 

ところで当社は介護付き賃貸住宅を運営する予定で現在開設準備中である。
本業とは関連のない新規事業なので驚かれることが多いが、ノウハウを充分に持った会社及び有資格者との提携業務である。
この新規事業も私の「不安」を少しでも取り除いてくれるリスクマネージメントなのである。

会社を支える柱は多い方が安心だし、リスクを分散出来る。
しかし柱を増やす為に、社運を掛けるような最大限のパワーを使うことは、してはならない。
新規事業計画は、軌道に乗るまでの期間や万が一の事も考慮して、余力を残して行うものである。

 

ちなみに当社の事業部門の変わり種で、エステテックサロンがある。
「なぜ美容と真逆とところにある社長が、エステを?」と、私の顔を見つめながら質問される事が多く、居心地が悪いのでついでに説明しておく。
エステは私の妹が独立し開業しようとしたのであるが、その際に女性一人では銀行から資金を借りられなかった為、渋々当社のリラクゼーション事業部という形にした。
赤字が続けば早々に撤退さそうと考えていたのだが、会社という形を取っている為、個人店では出来ないような思いきった戦略なども出来た結果、開業して以来一度も赤字の月は無く、予想外に会社に貢献してくれている。

 

2013年

8月

30日

経営者に終わりは無い

先日、人間ドックに行ってきた。
PET検査やCT・MRI検査などの精密検査を年に1回、その他にも内視鏡検査や超音波検査は半年毎、あと簡単な内科診察も含めると年に4回は、人間ドックの病院に行っている。
3年前に、健康管理のサポートをしてくれる会社の会員になった。
それまでは命と健康は永遠で無料と考えていたが、今は健康の維持にも「努力が必要である」と考えている。
バリウムを飲まされたり、麻酔を打たれたり、内臓に空気を入れられたり、ルームランナーの上で走らされたりなど、楽しい事は何一つとして無いので、本当は行きたくない。
しかし健康管理も経営者の重要な仕事の一つだと自分に言い聞かせて、検診時期の案内が届く度に、重い腰を上げている。

 

基本的には、経営者の心身が共に健康である限り、経営に終わりは無いと思う。
しかしその反面、怖いことに経営者の意思と怠け心により、会社経営を終わりにしてしまうことも可能なのである。
経営者にとって「自分は、いつまで経営を続けられるか?」は、絶えず頭の中に浮かんでいる課題であろう。

 

ところで先月受けた取材のプロフィールに、趣味を記入する欄があったのだが、困ってしまった。
私は好奇心が旺盛な方なので、過去いろいろとチャレンジしてみたのだが、何をやっても長く続かない。早いものでは一回限り、長くてもほとんど1年未満である。
私は俗に言うところの典型的な「飽き性」「せっかち」「短気」なのである。
だから趣味と言える趣味がない。
しかし無趣味にもメリットがある。
経営者の格言で「趣味の時間を持ちたいのなら、経営を諦めるしかない」という言葉が有るが、この課題は自身の性質が幸いして、無理せずクリア出来ている。

こんな何事も長続きしない私であるが、経営だけは別だ。
師匠である左右田社長が常々よりおっしゃられる「七転び八起き」の精神と、私の座右の銘である「諦めず気が遠くなるまで繰り返す」の実践で、挫ける事なく本年で約32年間、おかげさまで経営を続けさせて頂いて来ている。
今後も命の有る限り、続けさせて頂く覚悟である。
まさに経営は私自身にとって人生そのものであり、会社は肉体そのものなのである。
しかしこれとて、心身の健康があってこその話だと思うのだ。
健康管理は仕事の一環。
そう思い、ダイエットも続けていく所存である!!!?

 

2013年

8月

23日

何のために働く?

何のために働いている?
そう聞かれると大半の人は、自分や家族の為に働いていると答えるだろう。
なぜ努力するのかと聞かれたら、自身を成長させる為とか、自身の評価を上げる為などが大半であろう。
私は経営者なので上記の理由に加え、会社を存続させ続けるために努力するし、社員たちに対する責任があるので彼らの暮らしを守って行く為にも一生懸命に働いている。
経営者は会社を考え、社員は自身自分の将来の事を考え、最大限の努力をする。
それで良いと思う。
しかしより会社を磐石なものにするには、この会社が社会に存続する価値が必要である。
また報酬以外にも、社員がこの会社で働く価値が必要である。
その為に必要なのが企業理念である。

会社とは個と個の集合体である。
集合体になると、組織の秩序を保ち方向性を示すためには、理念が会社の大小に関わらず必要となってくる。
また理念を示す事によって目標意識が明確となり、共通の目標を持つことで全員が一丸となり、チームワークが生まれてくる。
チームワークが生まれると次にはプラスのスパイラルが起こり始め、良い意味での個と個の切磋琢磨が生じ、組織の更なるポテンシャルアップにつながるのである。
また理念を社員に示すことにより、自分の会社は社会にどのように役に立っているのかが見え、この会社で働く意味が見えてくる。
私自身も、なぜ会社を存続させたいのかを再認識出来る。
しかし経営者一人が理念を唱えたところで、社員に浸透しなければただの空理空論である。
何度も何度も繰り返して伝えることが、社長の役割であろう。
そして社員がポテンシャルを最大限に発揮できるように手助けすること、その環境を作ること、そして社員がこの会社で働くことにより社会的存在価値を感じられる会社にする事が社長の任務なのであろう。

 

 

<当社の企業理念> 

 

丸竹COの最大の目的は、すべての社員が物心両面で豊かな生活を送り、自分の将来に安心感を持てるようにする事である。
それには会社の経営を安定化させ永続的に繁栄させなければなりません。
そのためには4つの義務があります。

1、信頼される会社でなければならない。
その為に我々は、安心され信頼される物づくりを行うこと。
「三方良し」の精神を原則とすること。


2、社会から歓迎される会社でなければならない。
その為に我々は、人と地球の未来を考え、環境に優しい物づくりを行うこと。
障害者を多数雇用し社会福祉の向上に努めること。
事業活動を通じて地域社会の発展に貢献すること。

3、自社だけではなく、自社に関わる全ての人達の繁栄を追求しなければならない。
その為に我々は、業界全体がこの先100年存続出来るよう切磋琢磨すること。
ビジネスモデルとして業界をリードする会社で在り続けること。
事業は1社だけでは成り立たず、取引先や下請けの協力があってこそ可能と肝に銘じること。

4、すべての社員が自分に社会的価値を感じられる会社でなければならない。
その為に我々は、誇れる物づくりを行うこと。
社会的価値のある会社、働く価値のある会社にすること。
潜在能力を発揮でき、成長でき、働きがいのある環境の整備に努めること。

以上は丸竹COの目的である「すべての社員が物心両面で豊かな生活を送り、自分の将来に安心感を持てるようにする」ための方法であり義務です。
誠実に物づくりをし、社会に貢献し、他者を思い遣ることが、結局は自分たちの為になるのです。

それが丸竹COの精神「三方良し」の根幹です。

 

2013年

8月

16日

明日死ぬ・永遠に生きる

私は仕事を翌日に持ち越すことが、嫌いだ。
その日の仕事を翌日に持ち越すと、「怠惰な自分」に「経営者である自分」が負けたような気分になる。
終業時間が「仕事の終わり」ではなく、夜中の1時2時になろうともその日するべき仕事を全て終えた時が「仕事の終わり」だと私は思っている。
もちろん社員たちには労働基準法が適用されるので、そんな理不尽な事は要求しないが、私は社長であるが故、終わりでないことも終わらせてしまうことが出来る危険性がある。
だから自分を律する為にも、その日の仕事はその日に終わらせる事を自分に課している。
そんな風に生活していると、仕事と睡眠以外の事は何もしてないような気分になって焦燥感に駆られるのだが、それは私以外にも多くの人が感じている事だろう。

昔に比べて現代は様々な技術革新に伴い進歩した結果、非常にやることが増え、現代の社会は多忙になったと思う。
しかし、この忙しい現代社会において時間をいかに有効に使うかが、人生を成功に導くかどうかの決め手になると言っても過言ではないと思う。

まさにことわざ通り「時は金なり」である。

 

ところで私が仕事と睡眠の次に時間を多く費やしているのは読書である。
私は高校時代に柔道を頑張りすぎて、授業中は寝て過ごしたので(笑)、その反動もあってか、知識に対する欲が人より高いと思う。
会社を繁栄させ、100年先にも続いているような長期安定経営を実現させる為には、もっともっと多くの知識を吸収し、色んな事に精通しなければならないと考え、出来るだけ読書をするように心掛けている。
ある本の中に書いてあったアメリカの哲学者の言葉に、「毎日一時間、学習(読書を指す)するだけで、一年たてば彼はその専門家になれる」という言葉があった。

一日にたとえ一時間でもいいから毎日、自分にプラスになる知識を吸収しようとする努力は、人を成長させるであろう。

毎日忙しいとはいうものの、無駄に過ごしている時間はだれしも絶対にあるはずである。
無駄に過ごす時間が多ければ多いほど、平凡に人生は終わってしまうのではないだろうか。
私は自分自身の人生を平凡には終わらせたくないと考えている。
けれども何もしたくない気持ちになる時もあり、そんな時にはこの言葉を思い出す事にしている。


「明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい。」
マハトマ・ガンジーの言葉である。

 

2013年

8月

07日

お知らせ

日本最大の経営者ウェブTV「大阪の社長TV」に取材をして頂きました。

番組では「母に教わった不安の哲学」「製造業に付加価値を付ける」「自ら示す社員教育を」「百年続く会社へ」
以上の4つのテーマについて、お話をさせて頂きました。
本来このような緊張する場は苦手なのですが、「これからの日本経済を支える熱く有望な若者と地域に対して企業トップのビジョンや価値観を直接発信できる唯一の地場メディア」だという事、そしてこの番組に私を推薦して下さった方々がいらっしゃるとの事をお聞きし、出演させて頂きました。

 

推薦して下さいました方々、取材して下さいました社長TVスタッフの皆様、ありがとうございました。

 

※画像をクリックすると番組に飛びます。

2013年

8月

02日

お節介な人ほど有難い

約30年に渡り事業をさせて頂いてきた中で、特別思い出深い営業マンがいる。
「仕事に関して言えば、お節介な人ほど有難い存在なのだ」と、私が思い至るようになったきっかけの人だ。

25年ほど前だろうか。
私が駆け出しの社長だった頃、その人もまた入社まもない駆け出しの営業マンだった。
インターネットなどまだ無い時代である。
例えば仕様書やパンフレットなどを作成するにしても、外注する資金は当時の我が社にはなく、素人同然の私一人の構成で、ワープロとコピー機を使い作成し、一社一社に郵送していた。現在の何倍もの時間と労力をかけた、まさに「手作り」の資料だった。

そんな資料を私が発信する度に、例の営業マンはすぐさま電話を掛けて来た。
「社長!また間違ってるで!!」と。
数度の話ではない。
何回×100も電話を掛けて来るのである。
それは誤字脱字や表現の間違い、見解の相違など、過去に発行したパンフレットに至るまで何かを発見する度に、電話を掛けて来てご指摘を下さるのである。
電話が鳴るたびに「またあの人か!?」と思わず身構えてしまうほどである。
誰も気付かないぐらいの小さな間違いをわざわざ連絡して来て「ほんまにお節介な人や」と迷惑に思っていた。
それどころか、もしかしてミスを指摘するのが趣味なんじゃないのか?!と疑ってすらいた。
かと言って、指摘された箇所をそのまま放置するのは、彼から逃げたような、そして彼に負けたような気がするから絶対に嫌であった。
彼から指摘の電話があると、私はほとんど戦いに挑むような気持ちになりながら、その日のうちに夜を徹して資料を作り直す。
そんな事を幾度と無く続けていたのである。
だからその営業マンに対して「なにくそ!!負けるものか」と執念を燃やしても、感謝の気持ちはどうやってみても持てずにいた。

 

ところがである。
彼は、次々と当社の商品を売ってくれるのである。
そして数年経たずして、彼は当社の製品のトップクラスのバイヤーとなった。
彼は当社が発信する資料を徹底的に精読し、製品を完璧に把握していた。
だから彼はお客様のどんな質問においても、即座に正確に回答することができた。
そうして次々と信頼を得て、おのずと売り上げも向上して行ったのである。

なぜ気付かなかったのだろう!彼は私の手作り資料を誰よりも熱心に読み込み、真摯に向き合ってくれていたのだ。そして中途半端なものをお客様の前に出したくないというプロフェッショナルな想いから、何度も何度も私に指摘を続けていたのだ!
それに気付いた時、私は初めて心の底から彼に感謝をし、彼の行為を迷惑だと思っていた自分を恥じた。

 

出会った頃は駆け出しの営業マンだった彼は、昇進を重ね現在は役員となられた。

当社の有力なお取引先である。
今でも年に1、2度、お話をさせて頂く。
いつも会話の最後はこの話になり「私の訂正要求や指摘もかなりしつこかったけど、食い下がってすぐに更新してくるあんたも、しつこかったなぁ!」と昔を思い出して笑い合うのである。

 

2013年

7月

26日

仕事は楽しい51% 仕事は苦しい49%

ちなみに上の数字は私の心を数値化したものである。

仕事が楽しいと思える時は、まず思い浮かぶのは「三方良し」が実感出来た瞬間である。
お客様の満足、会社の利益、社会への貢献、この三つを実感出来た時はやはり嬉しいし胸を張って「仕事が好きだ!仕事が楽しい!」と言える。

 

仕事が苦しいと思う時は、経営者にとって当たり前の事だろうが、計画通りに売り上げや利益が上がらない時だろう。


2番目は、やりたい企画が沢山有り過ぎて、時間がいつも足りないことである。
お蔭様で近年は恒常的に忙しいのだが、仕事が暇だった時期も何とかしようと思って動き回っていたし、今後もそうすると思うので、とにかくいつも時間に追われていて苦しい。

 

3番目が一年中、寝不足であることが苦しい。
寝不足の原因は、柔道で鍛えた肉体に対する過信とオーバーワーク、そして私自身の時間配分の下手さが原因である。

 

何もかも順調な時だって不安で苦しくなる。
順調であればあるほど、手抜かりがないか?落とし穴はないか?と、暗雲が立ち込めるように不安が追いかけてくる。
その結果、いつも心が晴れることは無い。でもこれも経営者ならたぶんほとんど全員がそうだろう。

 

そして自分が背負う「責任」を考える苦しくなる。
細かく数え上げたらきりがないが、大きくまとめると、まず製造業であるが故、作った製品に対するPL責任に始まり、出資者や債務・債権者に対する金銭面での企業責任、雇用全般を含む社員や下請けさんに対する生活・仕事の保障、労働環境を含め一人一人の社会的立場と人権に対する配慮、地球環境問題への取り組み、コンプライアンス(順法)の義務等を含む社会的責任、・・・・・果ては地域のコミュニティーや業界団体・同業他社にまで社会的責任と配慮を持って対処していかなければならないのである。
これらのすべての責任を1つでもおざなりにしてしまうと、会社の危機にまで陥るのである。


しかし経営者として生きるからには常々「戒め」と「危機感」を持って歩いていくしか方法はないのである。つまり「苦しさ」を抱えながら生きて行くしかないのである。
それが嫌なら、全てを放り出して辞めてしまうか。

正直な話、私の気持ちは「死ぬまでやるぞ」が51%、「もう辞めて、のんびりするぞ!」が49%というぎりぎりのバランスで成り立っている。
しかしながらこのバランスが逆転する事は、この先も絶対にない。
それは「どんな逆境においても何くそ負けるものか!」「どんな時でも諦めず、気の遠くなるまで繰り返す!」という柔道で培った精神が私にはあるからである。
苦しい事から逃げて楽な道を選んだら、私が私でなくなる。
「もうやめるぞ」という弱気な自分に、「死ぬまでやるぞ」という強い自分が常に勝ち続ける。
この自己闘争の勝利こそ私の「生きる証」と言っても過言ではない。
きっと私は何かと闘っているが好きな人間なのだろう。 笑

 

2013年

7月

18日

祈りが通じた日

高校3年生の夏のインターハイ、決勝戦での不思議な話。
その4ヶ月前の春の全国大会で優勝した私たち柔道部は、春夏連覇の大目標を掲げ皆一丸となっていた。
何度も土俵際に追い込まれながらもギリギリの所で踏みとどまり、決勝戦まで勝ち進んでいた。
皆の興奮や熱気を全身で感じながら、私の心はズシリと負い目を感じていた。
春の大会で切れた靭帯と潰れた半月板が完治せず、それが原因で私の足は思うように動かないでいた。
その為、私は2回戦から準決勝まで3回連続で負け続け、仲間たちに首の皮一枚の苦戦を強いてしまっていた。
いよいよ決勝戦。
決勝戦は5人戦で私が大将だった。
幸か不幸か1勝1敗2引分、しかし内容負けの状態で自分の出番を迎えることになってしまった。
引き分けても負けで、勝たない限り優勝はない。
あの当時の我々には「準優勝」は初戦敗退と同じなのであった。
「全国優勝」のみを手に入れる為に、皆の青春の全てと、練習漬けの難行苦行の日々はあった。
そしてこの試合は私たち3年生にとって最後の試合でもあった。
猛烈に重たいモノが私の肩にかかった訳だが、私の足は怪我で動かず3連敗中。
はっきり言って高校生活最大のピンチ、絶体絶命である。
「えらい事になってしまった・・・」

心臓がドクンドクンと波打ち、拳の中は汗でまみれている。
「死んでもいいから勝ちたい!神様!!」

そんな難局で思い出したのが、天理柔道会の会長をされていた中山正信先生の言葉であった。
「試合でここ一番困ったり苦しんだりした時は、取り敢えず理屈ぬきに心の中で祈ってみろ!」
私は無我夢中に一心に祈った。
ただひたすら一心に念じていたせいか、いまだに夢のようで、祈っていた事以外その間の記憶がない。
私の心の中は不安も恐れも迷いもなくなり、あるのは「祈り」だけであった。

「立花~!」という声援が耳に入り、ハッ!と我に返ると開始線に立っていた。
声の主は応援に来てくれていた左右田社長のものだと判別出来たぐらい頭の隅は落ち着いていた。
試合が始まってみると、どういう訳か足の痛みが消えていた。
準決勝までは満足に動かなかった左足が100%の能力で試合の間だけは動くようになっていた。


そしておかげさまで私は1本勝ちすることが出来て逆転勝ちし、春夏連続全国優勝させて頂く事ができたのである。
試合後に分かったことであるが、柔道部の皆も中山先生の言葉を思い出し、心の中で叫びながら祈ってくれていたそうだ。
のちに見たビデオ映像には、手を合わせながら私を応援してくれている仲間たちの姿が写っていた。

 

<第28回 全国高等学校総合体育大会 優勝決定の瞬間>

2013年

7月

11日

式年遷宮

本年は伊勢神宮の第62回式年遷宮の年である。
20年に1度正殿を建て替え、御神体を新たな社殿に遷す「遷御の儀」が行われる。

 

ところで私が初めて伊勢神宮に参拝させて頂いたのは、40年前の第60回式年遷宮の年である。小学6年生の修学旅行であった。
厳粛で静謐な空気。青々と茂る見事な木々。凛とした真新しい社殿。そこはまるで俗界から隔絶された世界のようであった。
幼少の頃より祖母に連れられて神社・仏閣の類いはたくさん参拝していたから尚更この場所が何か特別な存在であることが子供ながらに感じられた。

 

前置きが長くなってしまったが、実は当社は今回の式年遷宮に間接的にだが、少しだけ関わりを持たせて頂いているのである。
というのは遷宮に際して、3年前より始まった社殿建築に使用する材木の切り出し後の保管養生に、当社の毛布をご使用いただいているのである。
当初、現地の伊勢神宮御用達の代理店さまより、「今回は寝具として使用するのでは無いのだが、丈夫で燃えなくて水分を含んでも腐らず、尚且つクッション性のある真っ白い毛布はありませんか?」とご連絡を頂いた。
毛布を寝具に使用しないのなら一体何に使用するのだろうかと、お話を詳しく伺うと上記の内容をお聞かせ頂いたのである。
そこで当社の難燃毛布はカビや雑菌等に因る生化学分解や腐食性に優れていることに加えて、国土交通省や消防庁の公的機関より正式な認可を頂いた難燃性であること。また色展開に白が有ることをご説明差し上げた。
するとすぐさまテスト用のサンプル毛布の送付依頼を受けた。

日本人にとって伊勢神宮は別格の存在である。

その伊勢神宮の遷宮に当社の毛布を使って頂けるのならこれほど光栄なことはない。
グループ内の「紡績、織屋、起毛屋、ミシン屋さん等」に事情説明の連絡を入れると皆さんも喜んで、「こんな仕事をさせて頂けるだけで有難い。無料でもいい!!」と言い出す始末であった。
サンプルを提出後4~5日してオーダーを頂いたが、この時ほど自分の首がキリンのように長く感じたことは無かった。

 

「無料でいいよ」と言った皆の言葉は本心であったが、しかし無料というのは代理店さまにも失礼にあたるし、生業と為す商いの道にも背くことになり、ましてや神意に背くことになるのではと考えた。
しかし縁あって式年遷宮に係わる仕事をさせて頂け有難く思っている気持ちをどうしても氏神様にお伝えしたかった。
そこで商売とは別の次元で、皆でお伊勢さんに「お供え」させて頂こうと提案しグループ全社から大賛同を頂いた。
一般の参拝の方たちに混じり授与所で名乗らずお供えさせて頂いた。
それですぐ帰るつもりであったが、祈祷を受けに来た者と勘違いされたようで、思いがけずも有難くご祈祷を受けることになった。

御神前に捧げられる高雅な雅楽や舞に見惚れながら、日本人としてまた企業家として、遷宮に係わる仕事を頂けた喜びを噛みしめた。

このような仕事を頂けたのも、創業以来たくさんの方々の支えが有ったからだと感謝し、またこの事は私も含めてグループ内の社員全員の「働きがい」や「励み」にもなると思い、ブログに書かせて頂いた次第なのである。

 

2013年

7月

04日

価格競争には参加しない

昨今、色々な業界において「低価格商品」の拡充が目立つ。
衣料品ではファストファッションが流行しているし、家具は昔に比べるとずっと安い金額で手に入るし、家電製品もどんどん安くなっている。
当社の主要製品は毛布だが、それだって海外から低価格商品が大量に流入して来ている。
「価格競争が大変でしょう?」と聞かれることもあるが、実のところちっとも大変ではない。なぜなら当社は価格競争には参加しないからである。

 

低価格商品というのは、低価格でも利益が出るように、価格に応じた費用で物作りをしている。
昔、「美しい方はより美しく、そうでない方はそれなりに写ります」というカメラのCMがあったが、低価格の商品は、材料にしろ技術面にしろ、それなりのレベルの商品なのである。
「安いから」という理由で商品を選ぶ消費者はそれ以上に安い価格が出た場合、すぐさまそちらへと移行する。その消費者を取り戻す為には、更なる値下げが必要である。
そうなると商品の質は言わずもがなである。
だから当社では低価格を売りにした物づくりはしない。値下げ競争にも参加しない。

 

しかし競争になるのは、他社の商品が当社と同品質で、それが同じ価格帯だった時である。
その場合、品質を落とさずに値下げをするという方法もあるが、製造業者にとって値下げというのは後ろ向きの手段である。

また一度、値下げしてしまうと元の価格に戻すのは至難の技である。もし戻せたとしても、待っているのは「客離れ」のみである。
値下げをせず、シェアを増やすには・・・

 

1、コマーシャルの重要性  
気合や根性で営業をして売れたのは昔の話である。
今は何を置いてもまずメディア戦略である。
少しでも多くの人の目に触れるようにコマーシャルの徹底した拡散が必要である。
それはHP等に始まり、パンフレットや販売に必要なビジネスアイテムの充実、広告宣伝活動の拡大が必要。
2、宣伝活動の継続性
継続は力なりと言われるが、1度や2度のコマーシャルではすぐに忘れられてしまう。
継続することが重要なのである。
余談ではあるが、経営者が営業方針や考えを現場に落とし込む際にも、一度や二度伝えただけで浸透しないことに嘆くことなく、何度も何度も語り掛けなければならない。人間の脳は時間経過した情報は忘却する構造なのだ!と認識し、諦めず繰り返えさなければならない。
3、販売流通経路への気配り
製造業を支えてくださる販売網への細かい気配りを常に心掛け、どんな些細なことでも意見をよく聞きながら日々、修正・改善を行い、少しでも販売店が売り易い環境を提供していくことに最大限の配慮を行うこと。
4、ブランド性の確立
ブランド性とは言わば安心と信頼の浸透である。その為には気の遠くなるほどの時間が必要であるが、1~3を真摯に受け止めて継続することで、結果は歴史が証明してくれることと思う。

 

しかし今この瞬間にも世界は動いている。
1~4だけを忠実に続けていけば会社は存続出来るという時代では、もうない。
京都の職人が何ヶ月もかけて作った工芸品を、3Dプリンターがいとも簡単に短時間で再現してしまう時代なのだ。
1年先には、日本の物づくりがガラッと変化していることだってありえる時代なのだ。
時代の変化に取り残されないためにも経営者に必要なのは「たえず見直すこと・そして次の一手を打ち続けること」であろう!

 

2013年

6月

28日

歴史のリーダー達から学ぶ

私は、私の師匠である左右田鑑穂社長の著書はバイブルとしているが、それ以外のビジネス本は読んだためしがない。
なぜならばリーダーの姿や組織作り、戦略などは、失敗も含め歴史本から全て学べるからである。
私の趣味の一つに読書が有るのだが、戦国時代の歴史物を読むことが多い。
中でも特に信長、秀吉、家康、が大変おもしろく学ぶところが多い。
ご存知の通りこの3人の功績により、戦国時代各地に点在していた勢力が統一され、近代日本の基礎が形づくられたのである。
この3人が生きた時代の変化を「会社の形の変化」、そして3人のリーダーを「一人の社長の変遷」に置き換えてみると、社長の役割や組織作りのヒントが見えてくる。
そのことを左右田社長は「成功へのアドバイス」の中で述べられている。

 

まず、何もない所から形(会社)をつくった織田信長。
信長は、自が先頭に立って行動してみせ、強い牽引力で皆を率いて行くリーダーであった。
そして造られたもの(会社)を広げた豊臣秀吉。
協調性があり、根回しや懐柔が得意で人を使うのが上手いリーダーであった。
そして広げたもの(会社)を、より強固なものにした徳川家康。
人を育てるのが上手く、組織作りがうまく、マニュアル化することにより長期安定政権の基礎を築いたリーダーであった。
こうして見てみると、会社の変化と共に、求められるリーダーの形も変化して行くのが分かる。

今の私をこの三人に当てはめてみると、信長に近い秀吉ってところだろうか。
経営者として約30年の年月を経て、体力的な理由もあり、最近ようやく何とか人を使うことを覚えてきた。
しかし秀吉のままでは先細りしてしまう。家康になる必要がある。
家康は、幕藩体制により地方分権をし、地方のことはそれぞれの大名たちに任せていた。
任せられると大名たちも一層責任感を持ったであろうし、自分の藩を発展させようと努力したであろう。
何でもリーダーが決定するのではなく、任し、権限を与え、責任を待たせる。
それが人を育てるということでもあるだろう。
会社が業績を上げて発展していく為には、「人を適材適所に配置して上手に使うこと」、そして会社を永続させるには「人を育てること」が大切である。
また徳川幕府は、拡張主義に奔らず内政の安定に努めることにより、長きに渡り政権を保った。
結論としていま私が考えていることは、今後やみくもに年商を伸ばすことだけに注力するのではなく、長期に渡り安定経営を保つということである。
人を育てる能力が長期安定経営の必須条件であること、そしてそれが我が社の今後の課題であることを私自身が肝に銘じて進むべきであろう。

 

・・・と、ここまで書いた事と相反するかもしれないが、私の経営理念としてはやはり「まず自分が先頭に立って一番働くこと」である。誰よりも働くリーダーの下であるからこそ部下は自ら動くのであり、先頭に立つリーダーの姿を見て部下は育つのである。と私は思っている。

いきなり家康にはなれない。
まずは信長から。そして秀吉、家康へと、私も含め社員一人一人が変化して行かねばならない。

 

2013年

6月

20日

母とピンクと私

母は苦しい闘病生活と向き合いながらも、沢山の愛情を私に与えてくれた。
小さい頃には「悪ガキ」、小中時代には「問題児」、高校時代には「過激派」で、周りの大人達の手を焼かした私だが(笑)、母に対してだけは常に従順であった。
しかし一つ、毎回すごく嫌だった事がある。
それは母がいつも私にピンクやフリフリや花柄の可愛い服を着せようとした事である。
それが嫌で堪らなく、泣きながら押入れの奥に隠れて布団にしがみ付いていた記憶が有る。
そんな事が高校時代まで続いた・・・とかではなく、幼い時の話であるから、今の私のゴリラのような顔で想像するのは、お止め下さい!!

 

母は女の子が欲しかったせいもあって、私に女の子用の洋服を着せていたのだと思うが、母の想いとは裏腹に私の図体はグングンとデカく成長し、私の魂は男男しい物や人に魅かれ、結局15歳で親元を離れ、天理高校柔道部に行き日本一を目指す道に進んだ。

ピンクとは真逆の世界である。

 

高校時代に母が病をおして何度か試合を観に来てくれたことがあった。
後に父から聞いた話である。
母は私の試合を観戦中ずっと、指輪が曲がるほどの力で拳を握りしめていたせいで、指には紫色の指輪の痕が出来、またある時は強烈に歯を食いしばっていたせいで、差し歯が抜けてしまったそうである。
あのひ弱な母の体の何処にそんな力があったのであろうかと思うが、母は客席で体力と気力の限りを尽くして、私と共に戦っていてくれたのであろう。
精根尽き果てた母は毎回、応援から帰ると食事も満足に食べられなくなり、2週間くらいは廃人のように寝込んだそうだ。
母の愛情は海よりも深いと言われるが、こうして思い出すとまさにその通りである。
自分の寿命を縮めてまでも、私を力づけに来てくれていたのである。
母が亡くなってすでに三十数年が経過しているが、今でも思い出すと涙が出そうになる。

そしてピンク色の服に身を包む自分の写真を見て、吹き出しそうになる。

 

 

立花克彦 幼少時の写真

2013年

6月

15日

真実の付き合い、実用の付き合い

ただの知り合いというだけで、安易に物事を他人に依頼しようとする人がいる。
また何か頼み事がある時にだけ、連絡を取ってくる人がいる。
「持ちつ持たれつ」と言う言葉があるがそうではなく、一方的に自分のしてほしいことや、やりたいことばかりを主張する人を多々見受けるようになってしまった。
昨今の日本の風潮を見ると、「侘び」、「寂(さび)」、「控え目」、「謙虚さ」、「礼儀」を美徳とし、またアイデンティティーとして生きてきた日本古来の思想と良さが失われつつあるように思う。

 

ところで、異業種交流会の席で興味深い話を伺った。

世間から「鬼才」と評されるほどの凄腕社長の逸話だ。


その社長は中小規模の出版社の社長なのだが、PCの爆発的な普及により、紙書籍が減少しつつあるこの時代においても、劇的に業績を伸ばしているそうだ。
この話には、登場人物がもう一人いる。
気難しい大物作家だ。
この作家の出版元になるのは、大手出版社であっても至難の業で、入れかわり立ちかわり数多くの出版社が何度も依頼しに来ては、その度に足蹴にされているらしい。
ところが先に紹介した社長は、初めての対面で、しかももほんの数分で、この大物作家の出版元になる了承を取り付けた。
あの気難しい作家を、いとも簡単に「YES」と言わすとは!
世間は驚いて、この話は随分と話題になったらしい。

 

なぜこの社長は、大物作家をあっさりと懐柔出来たのだろうか?
そこには、こんな裏話があった。


社長は、その大物作家がデビューしたての頃から、作品が発売されるたびに購入してはその感想を手紙ににしたためて送っていたらしい。約20年以上に渡り毎回必ずだ。
社長と作家が対面したのは、この時が初めてであったが、きっと二人の間では旧知の親友が如く通じ合っていたのであろう。

 

ここから先は私の想像だが、その社長は「いつか出版元にしてもらおう」との下心があって20年間以上も手紙を書き続けていた訳では無いだろう。利害など関係なく、ただ気持ちを伝えたかっただけだろう。
それこそが「真実の付き合い」だと、私は思う。
反対に、用事がある時にだけ付き合いをするのは「実用の付き合い」とでも呼ぼうか。
用件が有っても無くても日頃からこまめに顔を出したり、、時候の挨拶で近況を伺ったりする。
そうする事で、私はあなたを気にかけていますという気持ちが言葉に出さずとも伝わるものだ。
そのような「真実の付き合い」をしていれば自然と信頼関係も出来上がる。
そういう間柄であれば、何か頼み事をされても、「この人の頼みなら」と、損得なしに快く受け入れる気になるものだ。

 

私は、勉強になる話を聞かせてもらった時や、初対面の人と会って意気投合した時や、忙しくて会えないけれど忘れずにいるという事を伝えたい時など、手紙を書いて送るようにしている。
手紙と言っても、仕事の合間に書くので短い文章でハガキだったりするのだが、とりあえずその時の私の気持ちを書いて送っている。
そうする理由は、「真実の付き合い」をしていたいからである。

 

2013年

6月

06日

体育会系新入社員

昨今、体育会系出身の新入社員の需要が再び高まっているらしい。

私が学生時代に身を置いた奈良県天理高校は全寮制の学校であった。
そして柔道部専用の寮があり、1年、2年、3年生が各1名ずつ計3名の相部屋と決められていた。
その為、柔道の練習中だけではなく、24時間体制で厳しい上下関係の中にあった。
言葉使い、挨拶の仕方に始まり、掃除の仕方、礼儀、団体生活での協調性やマナーまで徹底的に教え込まれる。
また私の所属していた柔道部は全国優勝を目標に掲げている部であった為、誠に厳しい練習の日々であった。
私は2度の全国優勝を経験したが、そこに至るまでには全身全霊で努力をしたし、物凄く苦しかった。
お蔭であの時以上に苦しいことは未だに無いし、社会に出てから心底辛い事があっても「あの当時の練習に比べればマシだな」と思って気持ちを持ち直すことが出来ている。

 

私自身の話に反れてしまったので話を戻すと、体育会系出身者は入社する前からすでに礼儀や、組織の中の上下関係を学んでいるし、目標達成の為に努力する姿勢や、厳しい状況にも挫けない強い精神力など、社会人として必要なものを身につけている者が多いと思う。

また団体スポーツを経験した者はチームワークの大切さをよく知っている。
チームが優勝するためには、1つの目標に対して全員が一丸となって一人一人が我を捨て、いかにチームワークを保つかがカギになる。
レギュラー選手は、プレッシャーと戦いながら皆の想いを背負って戦うし、補欠の選手たちは陽の当たらない環境であってもチームに貢献しようと裏方の仕事を進んで引き受ける。
会社はチームであり組織である。

ということは対外的に厳しい競争社会を企業として生き残るために必要なのはやはり第一がチームワークである。
スポーツを通して集団生活を経験した者は、組織としてのチームプレイ全般をほぼ全て身に付けているのである。

従って学生時代にスポーツで切磋琢磨した人間は社員教育をすでに済ましてきているのと同じで、即戦力として戦線に立てる貴重な人材である。
昨今、体育会系学生が再び脚光を浴びだしたのも、厳しい経済情勢と相まって必然的な流れであろう。
とは言っても会社という組織は多種多様な人材によって構成されなくては柔軟になれず、社会の変化に対応出来ない。
様々な能力を持った人材が集まり、それぞれが自分の力を最大限発揮出来てこそ会社の成長はある。
組織作りとは、誠に難しいものである。

 

2013年

5月

30日

神様からの定期便

私は自動車運転免許の更新で、今度こそ「ゴールド免許」だと思い更新申請を毎回楽しみにしている。

しかし未だに「ブルー免許」である。
自慢できる話ではないが、ゴールド免許の制度が出来て以来、未だに1回もゴールドになった事が無い。
何故かというと4年おきくらいに必ず交通違反を犯してしまうからである。
「ゴールド免許」が近づいてくると必ず取締りを受けるので、その頃になるとどこかで誰かに見られているのかなぁとさえ毎回思う。
毎回毎回、更新期限ギリギリに取締りを受けるのである。

記憶をさかのぼると前回は携帯電話だったし、その前は信号無視、その前はスピード違反で、そのもう一つ前はシートベルト。
この偶然の一致、この規則性は、いったい何なのだろうと?とある時、考えたことがあった。
そこで自分なりに思いついたことが有る。
この偶然の一致は、私が前回の違反を忘れて気が大きくなった頃に、神様が警察の方を通して、「気を抜くなよ!安全運転しろよ!」と教えてくれているではないだろうか?
そんな風に頭で考えながらも、アクセルを踏んでしまうのが私の悪い所であるので、
やっぱりこの度もゴールド免許を目前にして、また捕まってしまった。
高速道路での22キロオーバーのスピード違反である。
やはり神様は私を見ていた。
神様は私を見逃してはくれず、「これぐらいだいじょうぶ」と思う私の甘い考えを叩きのめしてくれた。
違反切符を書きながら、この「神様からの定期便」の話を警察官の方達に話すと、「そう言って貰うと大変嬉しい。遣り甲斐がある。」と大層喜んでもらえた。
最後は敬礼で車を送り出して貰った。

捕まったというのに私自身も嫌な気分ではなかった。
考え方一つである。
不愉快なこともその不愉快な事が起きる理由を考えて、自分への戒めだと思うことで感謝出来る。

 

余談だが「大切にしていた物をなくした」「記念のお皿が割れた」だから「不吉だ」と言うような話を聞く度に、私は「本来なら怪我をしていたかもしれないところを、その大切なものが身代わりになってくれた」「だから縁起が良い」と言っている。
考え方一つである。

正解のない答なら、良い方に考えるほうが上手くいく。

 

2013年

5月

23日

20年越しの「いたずら」

天理高校に在学当時、倫理社会担当で益田多鶴子先生という女性がいた。
その先生の3学期最後の授業は私の中で生涯忘れがたいものとなった。
それは松尾芭蕉の「奥の細道・月日は百代の過客にして・・・」の解説を折り込んだ授業だった。
簡単に書くと、世の全てのものは移り変わり、いつまでも同じものはないという「無常」についての内容だったと思う。
そしてその授業の最後に先生は「人の心は移ろい行くものなので、今日こうして授業を受けたことも、きっと皆さんは忘れてしまうでしょう。もし忘れてなければ20年後私に手紙を下さい。でもきっと手紙は来ないでしょうね。」と先生がおっしゃった。
それを聞いて私の「いたずら心」に火が付いた。
20年後の1999年に必ず手紙を書いて先生をビックリさせてやると、ほくそ笑みながら決意した。

 

天理高校の校章が梅の花だったので梅の花が咲くころになると必ず先生との約束を思い出した。
月日が流れ、なめ猫とやらが流行したり、バブル景気が始まったり、冷戦が終結したりしながら1980年代が終わったが、私はあの日の決意を忘れなかった。
1990年代に入りバブルが崩壊したり、「のぞみ」の運転が開始されたり、阪神大震災が起こったりしながら時代は移り変わっていったが、私はあの日の決意をまだ覚えていた。
特に最後の365日は、「あと何日」と待ち遠しいほどであった。


そしてついに待ちに待った20年目!
18歳の少年だった私は20年の月日を経て、すっかり中年のオヤジに変貌していたが、先生の反応を想像し、あの授業の日と同じように心の内でほくそ笑んでいた。
学校に先生の消息を確かめると退職されていたが、住所は分かったので手紙を出すことが出来た。

返事はすぐに来た。
「そういわれると確かにそのような事を申したような記憶が有ります。」
「驚きました。あなたのような生徒は初めてです。」と書いてあった。
先生からの手紙を何度も読み返しながら、ようやく20年越しの達成感を得た。

 

そしてその後、何度か文通するうちに「1度お会いしましょう」ということになった。
20年振りに再会し、互いの近況を報告し合った。
先生は「スリランカの教育を支援する会」を立ち上げ、熱心にボランティア活動をされていた。

私も協力させて欲しいと申し出て、その一端に入れて頂いた。
その年から10年後
スリランカに内戦が勃発して渡航できなくなり、また先生が親の介護を行う立場になられたことも有って、会の解散を決められた。
10年間、微力ではあるが支援させて頂け、会を通して先生と交流させて頂けた。


人の心は移ろい行くものであるらしいが、私の小さな悪戯心は20年間移ろうことはなかった。この話を知人にしたところ、「それはお前が変わり者だから成せた業」という嬉しくない見解をもらってしまった。
ちなみに私の座右の銘は「諦めず気が遠くなるまで繰り返す」である。
ようするに私は、とってもしつこい人間なのである。

 

 

左:先生からのお手紙

右:スリランカの教育を支援する会会報誌


2013年

5月

16日

便座も積もれば山となる

私の師匠、東建コーポレーション(株)の左右田社長とご一緒させて頂いた時、こんな事があった。

東建と一口に言っても全国に支店があるし、工場も沢山あるし、グループ会社も数多くあるし、カントリークラブや温泉だってある。

その中の一つの会社に社長が訪れた時のこと。

社長が幹部社員に注意を与えている場面を拝見した。

夏場だというのにどのトイレの便座にもヒーターが入っていたらしく、社長はその事について苦言を呈されていた。

断じて言うが、社長はケチなお人では決してない。むしろその真逆の代表みたいなお人だ。

それ故その社長が「小さな無駄」に注意を向けていたことに驚いた。

けれども考えてみれば、真夏の便座ヒーターなど無駄の骨頂。

しかも東建グループ全体の便座の数を考えれば1,000ヶ所はゆうに超える。

「塵も積もれば山となる」である。

小さな無駄と思っていたものは、実は相当な金額の無駄であったのだ。

突き詰めて考えれば無駄な費用を使う事は、お客様の買価にも繋がる。

大企業であればあるほど、小さな無駄でも積もって大きな無駄になる。

いや、中小企業であっても「小さな無駄」を毎日毎月毎年見過ごしていると大きな無駄になる。

左右田社長が苦言を呈されるその場面を拝見し、経営者とはこんな細やかな事にまで注意して日々を歩んでいくものなのだなと重ねて感服し、自らももっと細心の注意をはらい精進して行こう!と心に誓った。

それ以来、それまでは小さな事だからと曖昧にしていたことも、そこに「無駄」はないのか?とたえず見直すようになった。

商売とは面白いもので、1000万円の収入があっても900万円の支出があれば100万円の利益であり、110万円の収入でも支出が10万円なら、利益は100万円で前者も後者も儲けは同じなのだ。

まぁ当たり前の話である。

しかし売り上げを増やす事の方にばかり意識が行き、目の前の無駄が見えなくなっている経営者も少なくはないだろう。

いやはや、かって私もその一人であった。

 

2013年

5月

08日

永遠に売れ続ける物なんかない!

今から6年前に、あのシャープの破錠寸前の今の状況を誰が予測できたであろうか?
当時は液晶テレビの普及の全盛時代で、特にシャープの亀山モデルはシェア№1の大人気を博し、手に入れようと思っても数か月待ちの有様であった。

その後、あまりの売れ行きに増産体制に拍車が係り、地デジ化移行時の楽観的な販売予測も相まって、経営陣が完全に市場に対して錯覚を起こして「永遠に売れるもの」と勘違いをしてしまい、総投資額1兆円ともいわれる液晶工場を建設したのである。
しかし液晶工場が完成する頃には、思いのほか地デジ化買い替え需要が伸びないまま地デジ化移行も終了してしまい、さらには海外の低価格商品の国内大量流入もあり、結局は大きな有利子負債を抱えて稼働しないまま身売りを余儀なくされることになったのである。

 


そこで私は経営者の端くれとして、また同じ製造業として、シャープの二の轍を踏まない為にもこの問題を自社に置き換えて、その解を考察してみた。

まず高いシェアは強い販売力を持った代理店網が支えてくれるからであり、その関係で競合メーカーが少ない時には参入障壁やコマーシャルの効果で売り手寡占が進みヒット商品となる。
しかし、それは長くは続かないことを経営者は知っておかなければならない。
今の時代、売れるとみるや数か月を経ずして次々に競合メーカーが新規参入してくる。
グローバルになった昨今においては新興国の台頭は著しいものが有り、低価格商品も参入して来る。
そうして品数も増えて選択肢が多くなると、必然的にシェアは下がる。
よしんば価格競争を勝ち抜いて高いシェアを守れたとしても利益は減少する。

そうなる前の戦略として、右肩上がりに売れている時期に「次の一手」として、その商品の差別化を図り価格を下げずグレードを上げて老舗として王道を歩むか、もしくは新規開発商品の投入や新規事業の展開等のスタートをきるべきである。


そのことから考えても「企画」というのは大変重要である。が、中小企業では大手のように単独の企画部を作るのは難しい。
そこで当社では、現場経験者を営業に、営業経験者を現場に配置転換するなどをし、経験を生かした上で新たな視点で企画検討が出来るよう組織作りをしている。

また事業計画は余力を残して行うべきものであり、社運を掛けるような最大限のパワーを使うことは、よほどの勝算が無い限り自重しなければならない。
またどんなに自信の有る事業計画であっても臨機応変に時代の変化に合わせ、「世間体」や「意地」に捕らわれず中止する決断力や勇気が必要である。


経営者は今の時代を生き残るために、事業全体のマクロ的な事から、例えば備品費の節約などのミクロ的なことまで取りこぼしなくたえず見直す遂行力が必要である。
たとえ主力商品であっても、利益を上げている部門であっても、たえず見直す事。

そして永遠に売れ続ける物は無い!と自覚して、「次の一手」を打ち続けることが会社を存続させる為の策なのである。

 

2013年

4月

28日

人間、やれば出来るもんだな

私は珍しい特技を持っている。
驚異の唱法とも言われている「ホーミー」というものを知っているだろうか?
これはモンゴルの伝統的な歌唱法で、うなり声のような低い声(ドローン音)と, 非常に甲高い声(メロディー音)の2つの音を同時に発声する歌唱法である。


この動画を見て頂ければ、分かるだろう。
笛のように聞こえる音も、低い唸り声も一人の男が同時に発声している。

 

もちろん私はプロではないので動画の彼のレベルには到達してないが、これに近い域のホーミーが出来る。

 

私が初めてホーミーを聞いたのは、今から40年近く前の私が小学4年生の頃だったと記憶している。
イベント会場内に出来た人垣の中を覗くと、見たこともない民族衣装を着た日焼け顔のオッチャンが、風変わりな琴を弾きながら不思議な発声法で歌を歌っていた。
その当時は「ホーミー」という名前さえ知らなかったが、初めて聞く神秘的な音色は、私の脳裏に強烈な印象を残した。

 

私は、家に帰るとすぐに練習に取り組んだ。
しかしウーウーと人前で唸るのは流石に恥ずかしかったので、登下校の途中に人気が無いのを見計らったり、学校の裏で誰も居ないのを確認したりしながら、練習をしていた。

しかし6年生の終わり頃に、担任の古谷登美子先生に見つかった。
掃除当番だった為、放課後に学校の裏の焼却場でゴミ焼きをしながらホーミーの練習をしていた。
自分の世界に入ってウーウー唸っている最中に突然肩を叩かれ振り向くと、古谷先生の心配そうな顔があった。
「あんた何しているの?お腹でもいたいの?」と聞かれた。
きまりが悪い思いをしながら、イベント会場で見たオッチャンの話をし、二年前からずっと練習していると説明すると「それがもし出せたら、あんたは今後、何をしてでも生きて行けるし、食べて行けるわ!」と先生は感心したように笑ってくれた。
・・・と記憶しているのだが、もしかしたら呆れて笑っていたのかもしれない。

 

結局は中学生になり声変わりをした後、まもなくして私はホーミーが出来るようになった。

そうなると人に聞かせたい気持ちが沸いて来て、私が初のお披露目の聞き手に選んだのは、中学1年の担任の滝本二郎先生であった。
この先生は英語の先生であるから普段から発音に対しては熱心で、「舌を巻いてー」などと言っていたので、私は先生をからかうために、わざと先生の近くでホーミーをしてみた。
すると先生は「お前凄いな!」「変わっているヤツとは思っていたけどホンマにけったいな奴やな」と目を丸くしながら期待通りの反応をしてくれた。

それで満足して、このあとは20年近くホーミーの事は忘れて時を過ごした。


再び私がホーミーの事を思い出したのは、あるテレビ番組だった。
調べてみると約20年前の1996年11月23日(土)にNHKで「ユーミン、モンゴルを行く、幸福を呼ぶ ホーミー」と題して歌手の松任谷由実さんがモンゴルを旅するドキュメント番組。
その番組の中で初めて、自分が子供の時にひたすら練習していたものは「ホーミー」であるという事を知った。


記憶の糸を探りながらホーミーをやってみると、すぐに出来た。
それ以来、気分転換や気が向いた時に、人知れず一人でホーミーをしている。

ただし、今もホーミーを人前でするのは恥ずかしくてx100たまらない!!
数十年に渡り、お付き合いさせて頂いている方々の中でもほとんど知られていない。
だから私を見かけても「ホーミーをしてみろ!」と言わないでほしい!
もし強要するならば、美味しい酒と肴を存分にごちそうしてくれた後、私が酔っ払ってからにしてほしいのである!(大爆笑)

 

2013年

4月

21日

ひらめきは情報を蓄積してから

仕事で成果を上げるには戦略が必要不可欠であり、戦略を考えるうえで「ひらめき」は重要なものである。

従って今日は「ひらめき」について考えてみた。

 

「ひらめき」はある時突然、神がかり的な要素をもって天から降って湧いて生まれたように思えるが、そうではない。

では「ひらめき」は、なぜやって来るのか? 

まず、自身が視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚などで経験した記憶が、脳内の集積回路に何万何億と貯蔵される。

この時点では、その記憶(情報)の一つ一つは、バラバラのパズルのピースのように雑然と存在しているだけだ。

しかしここに「現在の思考」が作用すると、脳が神秘的かつスーパーコンピューターをも凌駕する機能で、本人の意識とは別に、集まった何の繋がりもない様々なジャンルのピースの中から必要なものを選別して、シナプスがそのピースを突然結びつけ、そして一瞬にして1枚の絵を生み出す。

これが「ひらめき」なのではないか?

そしてこの「ひらめき」こそ、人間の第6感の正体ではないかと思う。

 

このように考えて行くと、情報を蓄積してからしか「ひらめき」は起きない事が分かる。

ひらめきを起こすには、どんなことでも良いし、どんなジャンルでも良いから、とにかく多岐にわたり出来るだけ多くの情報を、どんどんと脳内の記憶機能という集積回路に入れることが必要だ。

つまり常に感度の良いアンテナを立て、情報を自身の知識とすることが大切だ。

  

次に「ひらめき」を形にする際の話だが、その際に必要なのはスピードである。

今の社会は弱肉強食の情報戦であると同時に、スピードの時代でもある。

自分がひらめいたという事は、他の誰かも同じ事をひらめいている可能性がある。

二番煎じになっては新鮮味が無いし、新鮮味の無い「ひらめき」は世間から必要とされない。

とは言っても、もちろんスピードだけに囚われずに緻密に計算することも大切である。

 

 ・・・などと言ってはみたものの、実のところ私は決断が早い方ではない。

ひらめいても、その事だけに専念して思考する時間はなく、潮流の速い社会のスピードについて行く為に、精一杯走りながら思考している状態である。

現状は日々の業務に追われて余裕が無い。

ひらめきを形にする為の時間が欲しい。

その為には、やはり社内の組織と仕組み作りが、今の私の最重要な課題である。

 

2013年

4月

14日

夜の電話とミシュラン

ある日のこと、夜8時過ぎに会社の電話が鳴った。

その日は社内にはもう私しかいなかった。
仕事の電話にしては時間が遅いので間違い電話の類ぐらいに思い、もう出ないでおこうと思っていたが、鳴り続けるベルを聞いてうちにふと不思議な予感がし電話に出てみることにした。


受話器から聞こえて来た声は、紳士的な話し方のご老人のものであった。
「貴社の毛布をAホテルで使いましたが、すごく暖かく手触りも良い。」と思わず嬉しくなるお褒めの言葉であった。
あまりの丁寧な口ぶりに一瞬、ミシュランのように匿名で何か調査でもしているのか?と怪しんだが、よくよく聞いてみると「ひいては家庭でも使いたいのでぜひ購入したい。1枚だが個人でも販売していただけるのか?」という事であった。
当社の全製品はPL製造物責任法に基づき連絡先を表示しているので、それをメモでもして電話を掛けて来てくれたのであろう。
しかし当社は代理店様に販売をお願いしている関係上、一般の方への販売はしていない。
代理店様を通さず当社から直接販売するのは、一枚であろうとルールを破る事になってしまう。

悩みながらも断るつもりでいたが、その紳士が言葉を尽くして当社の毛布を褒めて下さるので、私の口の方もついつい滑らかになって気がつけば長時間話し込んでいた。

 

会話の中で相手の男性が80歳前後の年齢であることを知った。
高齢の方がわざわざ毛布を買いに外出するのは難儀であろうし、そもそも当社の毛布は業務用毛布なので、その老紳士が一般商店で手に入れることは不可能であろう。
ルールを破るわけには行かないので販売することは出来ない、しかし差し上げることなら出来る。
私はその趣旨と販売出来ない理由を説明し、翌日プレゼントとして毛布を発送させて頂いた。

 

しばらくして墨字で書かれた封書が私宛に届いた。
くだんの老紳士からの礼状である。
鮮やかな筆さばきの墨字もさることながら過去仮名遣いで書かれた見事な文章と、律儀な人となりに驚いた。

また別便でミカンも送って来て下さった。
製造業としての冥利に尽きる瞬間であった。

この手紙は今も大切に金庫にしまい、たまに取り出しては読み返えしたりしている。

 

 

余談だがこの後すぐに、例のAホテルから「株主様からの推薦が有り」とのことで毛布の見積もり依頼が舞い込んできた。

すぐさま代理店を紹介させて頂き大量受注を頂戴した。
単なる偶然の一致だろうか?
それともやはりあの老紳士が推薦して下さったのだろうか?
連絡をして真偽を確かめたい衝動に駆られたが、無粋だと考え直して心の内で感謝するだけに留めた。

この老紳士との出来事は良い物作り、そして三方良しの商売を改めて考える素晴らしい機会となった。

 

 

2013年

4月

05日

人生のターニングポイント

私は、中学校を卒業したら高校には行かず働こうと決めていた。

 

仕事が忙しく殆んど家に居ない父親と、入退院を繰り返す母親との家庭だった為、私は少しでも早く働いて自分でお金を稼ぎたいと思っていた。

実際小学5年生の時から知り合いの店を手伝って、少なくは無いお金を貰うようになっていた。そうなると益々仕事を得て自立したいと思うようになっていた。

 

話は一旦変わるが、私が小学6年生のころ泉南市に初めて泉南市柔道協会が出来た。

先生の名は金村秋男先生 (当時4段)といった。

金村先生は、町でうろついている体の大きな私を見つけては「おい!柔道習ってみないか?」とよく声をかけて来た。

しかし悪ガキだった私はその度に「柔道は突きや蹴りが無いからケンカの役に立たん。興味もない!」と失礼にも先生に暴言を吐いていた。

そのうち先生は「今日は柔道の話やない、何か食わしたろか」と言って、ジュースやたこ焼きをよくご著走してくれるようになった。

先生がたまに思い出したように私を柔道に誘っても、相変わらず断り続けていた。

そんな事が約3年に渡り続き、私は中学2年生になっていた。

そのころには、もうかなり先生にジュース代やたこ焼き代のツケがたまり、勧誘を断りきれなくなり始めていた。

そこで「1回だけで良いから道場に来い!」言われ、「1回だけ行く」という約束で道場を訪ねることになった。

 

しぶしぶ道場へ訪ねて行くと、柔道着に着替えるように言われ、訳も分からないまま着替えると、今度はいきなり初段相手に試合をするように言われた。

対戦相手は偶然にも同じ中学校の同級生であった。

射手矢 岬君というその同級生は、私より20cm以上も小さく体重もずっと軽い。

柔道は知らないが力ずくで射手矢君に勝てると思った。

 

しかし結果は悲惨なもので、私は立つ暇もないないくらいに射手矢君に徹底的に投げ飛ばされ続けることになった。30分後には呼吸もままならず、疲労困憊でもう立っていることさえ出来なくなった。

実際には、もっと短い時間だったかもしれないが、とにかく私はボロ雑巾のように畳に放り出されていた。

自分の頭すら上げられないほどクタクタであったが、心の内では火が付いていた。

惨敗したまま終わるのは絶対に嫌であった。

私は倒れたまま「俺は高校には行かん!だから中学卒業するまでの間、俺に柔道やらせてください!!」「射手矢に勝つまでやります!!」と叫んだ。

先生は「おう!」と手を上げてこちらを見てにっこりと笑った。

その顔を見た瞬間、まんまと先生の戦略に乗せられた事を知った。

 

後で知ったことであるが、金村先生は全日本柔道選手権優勝者の松阪猛先生と競い合い「幻の全日本チャンピオン」と言われていた凄い先生だったのである。

ちなみに私を投げ飛ばし続けた射手矢岬君は、現在では東京学芸大学教授で全日本柔道連盟強化委員(五段)をされている。

 

中学2年の6月頃から始めた柔道だが、1か月で1級になり、半年を過ぎる頃には初段を取った。中学3年になり6月に大阪府中学生大会で決勝まで進み2位になった。

近畿大会にも出場することになりベスト8になった。

近畿大会が終わると近畿圏内の有名校や強豪校から、あちこちとスカウトが来た。

しかし私は中学を卒業後は働くつもりでいたし、そうは言っても柔道を続けて自分を試したい気持ちもあり、どちらにも踏ん切りがつかないでいた。

そんな時、柔道の名門 岸和田市立春木中学監督 曽田幸雄先生(当時5段)の紹介で奈良県天理高校からスカウトの加藤秀雄先生(当時6段)が自宅に来られた。

その当時の天理は、連続高校柔道日本一の名門中の名門であった。

日本一の学校で柔道をやれるのならばと思い、私の心は決まった。

こうして天理高校へと進学することになり、その後人生最大の厳しさと不条理、柔道の奥深さを学ぶことになった。

 

今、自分の周りを見渡せばプライベートでも仕事関係でも、柔道が縁となって結んでくれた人たちのなんと多いことか。

その縁の中には、私の人生に大きな影響を与え、私が人生の道しるべとしている人もいる。

もしも金村先生が、あんなにも熱心に柔道へと誘ってくれなければ、私はきっと当初の考え通り中学を卒業後に働きに出て、きっと今とは全然違う人たちと付き合い、全然違う人生を歩んでいただろう。

もっと考えれば、私がたこ焼きのツケを溜めてなければ、柔道場に行くことも無かっただろう。

 

人生とはなんと奇妙で面白いものだろうか。

 

2013年

3月

28日

川柳は頭のトレーニング

私の趣味の一つに、川柳作りがある。
いま世間では川柳ブームだそうで、川柳本が大ヒットしていると先日テレビが紹介していた。
例えばシニア世代の川柳を集めたシルバー川柳本。
「目覚ましの ベルはまだかと 起きて待つ」

 
他には、薄毛をネタにした毛髪川柳本なども売れているそうだ。
「落ちていた 俺の名刺の 裏に「ハゲ」」

 

私は、どちらかと言うと自分で川柳を作るのが好きだ。満足いく句が出来た時の達成感にはまった。
題材は、慣れ親しんだ柔道に関する川柳を作ることが多い。

ここで一句。
「勝ち方も 礼儀作法の ひとつかな」

この句は第一回ホームメイト川柳の柔道部門に投稿させて頂いた句である。
国際試合などを見ていていると、中にはマナーの悪い勝ちをする選手も居て、腹立たしく思う時がある。その鬱憤を皮肉に変えて詠んだ。
・・・と、そんな事を言ってる私だが、高校生の時には「どんな勝ち方でもイイから勝ってやる!」と思って、碌でもない勝ち方をした事もある。それも一度や二度じゃない。
そんな自分への反省も込めているので、私の高校時代を知ってる人は「お前が礼儀を言うか!!」とは言わないで欲しい 笑

 

川柳は、たった17文字の文章である。
その17文字に思いの丈をぶつけ、しかも読み手にイメージを伝えないといけないのだから、川柳を考えている時は頭の中はフル回転である。
詠みたい事柄のイメージを頭の中で膨らませ、その事柄をどのように捉えるかを考え、次々に思い浮かぶ言葉を取捨選択する。
まさにイメージ創出トレーニングであり、脳の活性化トレーニングである。
これは当社比ならぬ私比であるが、川柳の投稿を趣味とするようになってから、頭の回転がスピードアップしたように思う。


私の趣味が川柳作りだと聞いて、爺臭いと思った人もぜひ力作の一句を詠んでみてほしい。
きっと脳が生き生きとして来るのを感じられるだろう。

 

2013年

3月

19日

不条理を学べ

スポーツとは誠に不条理なものである。
血の滲むような努力をしても、その努力が結果に反映されるとは限らない。
スポーツの中でも特に相手と直接対戦し勝敗を決める対人競技は、不条理の極みと言ってもいいぐらいだ。
私が学生時代に取り組んでいた柔道などもその典型的な例だ。


努力の積み重ねで、確かにある一定のところまでは登って行ける。
けれども血の滲むような努力を重ねた者同士の戦いでは「運」が勝敗を分けたりする。
運は自分でコントロール出来るものではないのに、運が結果を決めるだなんて、誠に不条理な話である。

けれどもそれでいいのだ。


学生時代に熱心にスポーツに取り組む者は数多く居ても、プロのスポーツ選手になる者はほんの一握りである。
学生スポーツで重要なのは、努力が実る喜びを知る事はもちろんとして、自分の限界まで努力をし「心」「身」ともに厳しく鍛えることにある。
そしてその最大限の努力が結果に反映されない不条理さを学ぶことも重要な事じゃないだろうか。

 

一歩社会に出れば不条理なことだらけである。
現代の社会は激烈な競争社会。グローバル化も相まって社会はまさに戦国、弱肉強食の時代である。
そんな中でも私が何とか中小企業の態を為し、どうにか今日までやってこれたのは、学生時代に柔道の厳しい修錬を経験したことや、社会で通用する不条理を学べたことが大きな一因になっていることは自分自身にとって疑う余地がない。
つまり柔道により競争社会を生き抜く「心」が作られたのだ。

 

偉そうな事を書いている私だが、もちろん学生時代は勝つことのみが目標で、それ以外の意義を見出すことは頭に無かった。
優勝して自己目標を達成するという第一の意義以外にも、社会を生き抜く心を作るという第二の意義がスポーツにはあるという事を、社会に出てからようやく色々な場面で自然に、また必要に迫られて気付くことになった。

 

この記事を書きながらこんな言葉を思い出した。
「精力善用」(精力最善活用)
「自他共栄」(自他融和共栄)
講道館柔道の創始者・嘉納治五郎師範の言葉である。

 

2013年

3月

12日

困った時はお互い様

未曾有の災害であった東日本大震災から約2年の月日が経ちました。
お亡くなりになられた方々に深く哀悼の意を捧げると共に、被災地の皆様におかれましては、まだまだ大変な状況に変わりはないと思いますが、一日も早い復興をお祈り申し上げます。微力ではありますが、今後も継続して復興支援させて頂く所存です。

 


さて、私は震災関連の仕事をさせて頂いている関係もあり、ボランティアや支援活動などに参加させて頂くことが度々ある。
東日本大震災では、外国人ボランティア達との会話で印象的なことがあった。

 

3月11日の震災後、世界各国からボランティアの方々が日本に訪れてくれたが、その当時は関東より北の空港が使えなかった。その為に多くの外国人ボランティアが関西国際空港経由で東北入りをした。
私は、その方々の送迎と陸路乗り継ぎのお手伝いを異業種交流会の皆さんとさせて頂くことになった。
航空会社の方から引き継いだ後、切符を手配しJRのボランティアの方と同行し駅まで案内するというものだった。
私は日本語以外ろくに話せないので普段の饒舌は鳴りを潜めていたし、外国人ボランティア達も移動の疲れや緊張があったのか互いに口数少なく、ただ漠然とお弁当やサンドイッチとお茶・コーヒーをお渡しして、簡単な挨拶をかわして見送るだけの繰り返しであった。

 

しかし帰路の際は違った。
飛行機の出発時刻の関係で、時間に余裕があったのも要因だが、一様に同じ質問をほとんどの外国の方から受けた。


「なぜ日本はこのような事態でも略奪や暴動、窃盗、治安悪化が起こらないのか?」
「世界各地にボランティアに行ったが、こんな事はこの国だけだ。」と。

 

私は、どう答えて良いのか悩んだが、とっさに
「日本の精神文化とアイデンティテーの中に、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌という概念があり、そのうえ農耕民族であるが故に共同体意識が高く、昔から相互扶助という文化が有り、それから起因する道徳性の高さからです。」と答えた。
先にも書いたように私は英語は出来ないので、通訳の方を通しての会話である。
その通訳のかたは専門の方ではないのだが、何とか私の言葉を伝えてあげようとかなりの時間と全精力を費やしして、身振り手振りを含めて挑んでくれた。
しかし完全には伝わらなかった。
通訳の方の「何か簡単な言葉で説明できる日本語は無いですかねぇ?」という問いかけに私も必死で考えた。
そこで苦し紛れに思いついたのが「困った時はお互い様文化」という言葉だった。
通訳の方はまたもや必死で全精力を注ぎ、忘れている単語も思い出さんばかりに奮闘してくれた。
外国人たちが、うんうんと頷きながら耳を傾けている。
どうやら通訳の方の頑張りの甲斐があって 、通じたようだ。
胸を撫で下ろしていると、話を聞き終えた外国人の方が満面の笑顔で私に握手を求めてきた。
そうして突如「オ・タ・ガ・イ・サ・マー!」と口にした。
私も丁寧に頭を下げ「サンキュウベリーマッチ」というと、「ア・リ・ガ・ト・ウ」と返事が返ってきた。
そして一同、爆笑に包まれた見送りとなった。

 

後で聞いた話だが「日本人のほとんどは聖書を読んだことが無いはずなのに、ちゃんと聖書に書いてあることが出来ている・・・。お互い様の文化は聖書にも通じる素晴らしい文化だ・・・。」みたいなことを、外国人の彼らは言っていたそうだ。

 

それを聞いて、先年亡くなったインドのある高名な宗教家の言葉を思い出した。
「神は一つ、あなたの信じる神に手を合わしなさい。」
信じる神は違えども、信じて祈る気持ちは皆同じ・・・・と私は勝手に解釈をしている。

またこの時の事は、共通言語を踏まえて人と人が語り合い、互いの理解を深め合うことがいかに大切かを再認識させられた出来事であった。
人は「違い」にばかり目が行きやすいが、「共通する部分」「通じ合える部分」も沢山あるだろう。
そちらの方へ目を向け、互いに理解し合えれば「助け合い」や「お互い様」で、地球上から紛争や戦争、外交・領土問題も無くなり、きっと平和な地球になるのではないだろうか?
理想論だろうか?
しかし、そうなって欲しいと祈るばかりである。

 

 

2013年

3月

04日

トイレ掃除を侮ることなかれ

私は運気を上げる為にも掃除、その中でも特にトイレ掃除を心がけている。
ある時、そのことを知人に話すと、「風水とか迷信のたぐいですか?そういうのは、あまり信じられないなぁ」と言われたことがあった。

しかし風水や迷信は荒唐無稽なものではなく、きちんと理にかなったものが多い。
例えば風水では家の中心や北東に浴室を設けるのは凶と言われているが、衛生面 から考えると納得できる。北東に浴室を置くと早朝ぐらいしか日光が当たらないため、1日中ジメジメしていてカビや雑菌が繁殖しやすい。家中に菌が蔓延すると家族の健康状態が悪くなる。
こういった具合だ。

 

私のトイレ掃除にも理由がある。
例えば美味しい料理を出すレストランに行ったとして、そこのトイレが汚れていると、客の目に触れない厨房では、どんな具合に衛生管理されているのか不安になる。
何事も一事が万事だからだ。
トイレを清潔に出来ないレストランが、厨房を清潔に出来るはずがない。
それと同じことが、製造業である我が社にも言えるから、私は掃除に拘っている。

最も汚れるであろう場所のトイレを清潔に保つ、職場を清潔に保つ、そうして毎日掃除をし手を掛けている物には自然と「丁寧に扱おう」という気持ちが沸いて来る、そういう気持ちが芽生えた者は、商品や材料、器械も丁寧に扱うようになる。
我が社から送り出す商品だけを結構にするんではなくて、取引先からは見えない部分もおろそかにしない。
わずか一つの行動が、全てに繋がっているのだ。
人が見ていようが見てまいが、精一杯する。
人が嫌がる仕事ほど進んでやる。
この事は回りまわって、きっと幸運と言う名のチャンスを運んで来るだろう。

 

トイレの汚れに気づけない者も居れば、気づける者も居る、気づいて知らぬふりをする者も居れば、綺麗にしようとする者も居る。
その差は極めて大きい。
自ら進んでするトイレ掃除には「気付ける力」「実行力」「奉仕の精神」が必要なのだ。

たかがトイレ掃除と侮ることなかれ!

2013年

2月

26日

社長の役割

社長の役割とは何だろうか?
大企業の社長の役割と、中小企業の社長の役割とは、同じ社長という肩書きであっても大きく違うだろう。
同じ中小企業の社長であっても、成長期の会社と成熟期の会社とでは、社長の役割は違うだろう。

 

「社長さん自らそんな事までするの!?」
私が周りから、よく言われる言葉である。
それはトイレ掃除に始まり一般業務、営業、機械操作、社長業に渡るまで私は会社のすべての内容を把握している。だから、いついかなる時に欠員があっても即戦力として全ての業務に携わることが出来る。
また、常に先頭に立って走るように心掛けている。
このような姿勢を学んだのは、私の師匠である左右田鑑穂社長からである。
今から35年ほど前、東建コーポレーション(株)が東名商事(株)という中小企業の時代に、私はすぐそばで師事させて頂いた。
その際に、どんな仕事にも自ら先頭に立ち、誰よりも働く左右田社長の姿を日々目の当たりにし、成長期の中小企業の社長の姿というものを学んだ。

だから私の信念は、「社長自ら先頭に立って仕事をさせて頂く!」である。


以前、とある来客が当社を訪れた際に「ここの社長はいつ来てもいない!」と恨み言を残して帰ったことがあった。私はそれを聞いてかなり腹が立って、来客に電話を入れた。
「中小企業というものは、社長自ら先頭に立ちトップセールスマンとして営業に歩くものであって、会社に居ないことの方が当たり前であり、いつも社長が会社の椅子に座っているのは、今の厳しい時代にこの先、倒産する会社だ!」と。

 


しかし年月が流れ、会社の規模や、私自身の年齢や体力も変化して来た。
今はまだ自分が先頭に立ち機関車のように会社を引っ張っているが、私もいずれ歳には勝てなくなって、先頭に立てなくなる時が来るだろう。
師匠からも、「機関車型の組織から、新幹線型の組織へと移行していけ」と助言を頂いている。
新幹線型というのは、複数の車両に動力を備えた「動力分散方式」のことだ。
動力を備えた車両を増やすには、人材育成そして組織作りに一層取り組んで行かなければならない。
それが今の私の重要な仕事の一つだろう。

 

会社の成長によって社長の役割は変わって行く。
会社の成熟が進めば、社員一人一人の抱える責任が重くなるだろうし、判断を任される機会が増えて悩んだりするだろう。
けれども、そのようにして社員も会社も成長して行くのだと思う。

 

先にも書いたように私の信念は、「社長自ら先頭に立って仕事をさせて頂く!」だ。
いつまでもそうしていたいと思う願望と、いつもでもこのままじゃいれない現実との狭間に、今私は居る。

 

2013年

2月

16日

二人のがばいばあちゃん

「驚愕するほどの凄まじい生きざまのおばあちゃんの物語」
・・という広告に魅かれて、何年か前に漫才師・島田洋七氏の「がばいばあちゃん」を読んだ。
驚愕する気持ちは起こらなかったが、懐かしい想いが湧いた。
私の祖母も、近所の悪ガキをほうきを持って追い掛け回したり、男達に混じって働くような、がばい(すごい)ばあちゃんだった。

 

私が幼い時に預けられていた母方の祖母は、とにかくお金と仕事には厳しい人だった。
その時代の皆がそうであったように、兄弟の多い貧しい家庭で祖母は育ったそうだ。
 人一倍の働き者で、私を背負って家業の大工仕事を手伝ったり野良仕事をしたりするものだから、お蔭で祖母が背中を曲げる度に私は胸が圧迫され苦しかった記憶がぼんやりとある。

「男から仕事を取ったら何も残らへん」「男の金の無いのは首が無いのと同じやで」などと幾度も聞かされた。
そんなわけで、男にとって「仕事」「金」は必要不可欠なモノなのだと、子供ながらに理解した。
祖母のその言葉は、今も私の衷心になかなかの存在感を放ちながら常駐している。

 

私を躾ける際にも「金」の話が出て来た。
「子供の時にゴミ拾ろたら、拾た分だけ大人になったらお金ひろうで」「朝早く起きたら道にお金が落ちてるで」など。
今考えると笑ってしまうが、その当時は本当に一人で早起きをして、誰にも取られまいと目を皿のようにしてゴミを探し歩いていたので、私の本来の目的を知らない第三者が見れば良い子だったかもしれない。

 

一方、父方の祖母である丸竹COの前身立花屋を創業したきくえばあちゃんは、優しく大らかで信仰深い人であった。

年長の子供に、「お墓の下には人骨があるんや」と聞かされて怖がる私に、「恐ないから墓参りに付いておいで、ご先祖様の骨があるからアンタが生まれて来たんやで」と話してくれたり、「神様も仏さまもほんまに居てるで、見てるで」と教えてくれたりした。

 

こんな事があった。
骨董屋の店先に飾ってあった大きな壷を、私がやんちゃを働いて割ってしまった。
驚きと後悔と罪悪感で泣き出した私を祖母は「だいじょうぶやで。この世であったことはこの世で納まる」と慰め、何の愚痴も言わずに弁償金を支払ってくれた。

「この世であったことはこの世で納まる」
これは祖母の口癖であった。
祖母に相談に訪れた大人たちも「この世であったことはこの世で納まる」と言われると、皆どことなく安堵の表情を浮かべて帰って行った。
私自身もいつもこの言葉を思い出し、心のより所にしている。

 

こうして思い出せば二人の祖母から、お金のこと、仕事のこと、心がけや信仰心、感謝の気持ちなど沢山のことを教えてもらった。
自分が教えてもらったことを、私はちゃんと次の世代に継げられているだろうか?
心の中で問いかけてみると、「まだまだアカンわ」「そやな。アカンな」と笑ってるばあちゃん達の姿が見えた気がした。

 

2013年

2月

03日

天下人に学ぶ

いきなりだが徳川家康が天下を取れたのは、家康が信長や秀吉よりも長生きであったからだ、と私は思っている。

もちろんそれ以外の要因があったのは言うまでもないが。

 

日本人の平均寿命が35歳の時に家康は75才まで生きたそうだから、抜群の長寿だ。
家康は運に恵まれていたから、長寿を手に入れることが出来たのか?と言えばそうではない。
実は家康は非常に健康に気を使っていたようで、医薬の勉強を熱心にしたり、当時最先端の薬をいろいろと取り寄せたり、足腰の鍛錬はもちろんのこと、驚いたことにダイエットまでしていたそうだ。


そのように健康の追求をした結果が、人並みはずれた長寿だったのだろう。
家康は健康に長生きしたからこそ、沢山の時間を手に入れ、多くのことを実現して来た。

 

時間というものは、皆に平等に与えられているようでいて、実はそうではないかもしれない。
人より長く健康に生きれば、そのぶん多くの時間が手に入る。
多くの時間が手に入れば、その分やりたいことが出来る。

 

私は長年、仕事の忙しさを言い訳に必要最低限の健康管理しかして来なかった。
ずっと勧められていた人間ドックも「時間がない!」と断っていた。
自分の体を懸念しつつも、健康管理の優先順位をいつも後回しにしていた。


けれども最近思うのだ。
健康管理こそ最重要の仕事なのではないかと。
長期的な観点で考えれば、社長である私が健康な身体・健全な精神で居ることが、今目の前にある仕事を片付けるよりも、会社の為、社員の為、延いてはお得意先の為になるのではないかと。

そう思い、仕事の手を止めて時間を無理やりにでも作って、一昨年より4ヶ月に1度の徹底的なドック検査を受けている。


先生によれば、真面目に検査に通って健康管理をすれば、あと30年は寿命を保証してくれるらしい。
まだまだやれるぞ!だから皆、安心して俺について来てくれよ!と胸を張ると
「家康に見習ってダイエットもして下さいよ」と社員から返ってきた。

 

2013年

1月

27日

不安の哲学

私は元気な母を知らない。
元気に振る舞っていても、母は常に病と隣り合わせに居た。


私の、母の記憶は和歌山市にある日本赤十字病院の病床から始まる。
母は私が生後8か月目に重度の腎機能障害に罹り入院を余儀なくされた。
3年後に退院するも腎機能が落ちていたせいか、今度は銭湯で尿路感染による腎臓結核を患い、その後また約1年間、保菌検査が陰性に転じるまで入院した。
父が「あのとき自宅に風呂が有ったなら」と苦しげに呟いたことがある。
その 時の哀れな想いからなのか、父は「貧乏は罪悪だ」としばしば言うようになった。

 

しかし腎機能とは怖いものである。
1度悪くなるともう完全に回復するということはない。
臓器の中でも心臓や肺に次いで治療の難しい臓器だそうである。

 

母は年々、機能が低下していき入退院を繰り返しながら、数年後には腎不全に陥り人工透析を始めるに至った。
これがまた週3回、1回6時間も(亡くなる前は毎日)透析をしなければならず、副作用も酷く、苦しそうにしていた母の姿が、やる瀬ない想いと共に浮かんで来る。
母が亡くなった時、母の姉が傍らで「これでもう透析をしなくてよくなったね」と言ったそうだが、その言葉が忘れられない。

 

私の、母と暮らした記憶は5才前後から始まる。
それまでは母方の祖父母の家で育てて貰った。
幼少ながらその頃すでに、母がいつ死ぬかもしれないという恐怖が常に身近にあり、「死んだらあかん!!」と叫びにも似た感情がいつも内在していたことを、今も鮮明に思い出す。
「幼稚園に行っている間にまた病院に帰ってしまうのでは?」「もしかしたら死んでいるかも?」と考えると怖くて、毎朝なかなか幼稚園に行けずにいた。
それを母は察してか、自宅にいた退院期間中は何かと用事を作って私を早退させ、母子で過ごす時間を少しでも多く作ろうとしていた。
夜は夜でまた母のことを想って不安で寝付けずにいると、布団の中で手をつないでくれたのを思い出す。

 

天理高校に進学し柔道部での寮生活を始めたので、母との暮らしは15歳までとなった。
入寮の日、父に「母の死に目には会えない覚悟で行け!」と言われた。
はからずも実際そのようになった。

 

しかし母とは偉大なものである。
たくさんの愛情と温もり優しさを短い人生かけて私に残していってくれた。
また、「不安」という感情を母は、まざまざと私に教えてくれた。
お蔭で私は、常に危機意識を持つ性分となった。
行く先に不安を持つから何事にも慎重に対処し、綿密に対策を練って歩んでこれた。
母によって作られたこの性分は、社会を生きて行くための強みとなった。

 

今でも毎日あれやこれやと危惧して不安になる。
不安が現実とならないように対策をして、一つ一つ不安の芽を摘み取っている。
それでもまた不安は芽を出す。
どこまでやっても、いくつになっても不安が消える日は無いだろう。
私の人生は生涯、「不安の哲学」と共にあると思う。

2013年

1月

19日

三方良し

「儲けるは欲、儲かるは道」という言葉がある。
たった一文字の違いだが、この両者は違う。
「儲ける」は、儲けることを目的とした商いなのに対し、「儲かる」は、良い商いをしたその結果である。
儲けようと思って作った商品で稼いだ100万円と、買い手の満足を考えて作った商品で稼いだ50万円となら、長い目で見れば後者の方が会社にもたらす利益は大きい。
前者は金額以上の価値は無いが、後者は会社への信用という利益がついてくる。
会社を末永く続けて行くには、「信用」は「儲け」よりも大切なのだ。儲けは後からついて来る。
そのことを、先人の近江商人はこんな言葉で、我々に教えてくれている。
「義を先にし、利益を後にすれば繁盛してもうかる」と。

 

またこれも近江商人の言葉であるが「三方良し」というものがある。
売り手と買い手がともに満足し、社会貢献もできるのがよい商売であるという言葉だ。
丸竹COが目指しているのも、そこである。
商いを通じて地域社会の発展や福利の増進に貢献したい。
・・・と書くとまるで優等生の弁のようでむず痒くなるのだが、事実、お金儲けだけが目的の会社が社会に歓迎されるはずがないのだ。
社会に歓迎され信用され続ける会社である為に、社会貢献をする。

 

そう思い取り組んでいるのが、障がい者の雇用であったり、地域のスポーツ大会への協力であったり、東日本大震災の災害復旧の支援などである。
また最近は地球環境を考慮し、太陽光発電を導入したり、環境に優しい商品開発を心がけている。

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2013年

1月

10日

素晴らしい執念!!

最初に私の師匠である東建コーポレーション㈱ 左右田鑑穂代表取締役社長の御友人で、メディア事業と広告SP事業の展開をされている㈱中広(CHUCO CO.,LTD.) 後藤一俊代表取締役社長をご紹介させて頂きます。 

 

この社長は、スゴイのだ。
何がスゴイのかは、のちほど書こう。

 

ところでご存知の通りだが、私は最近ブログを始めた。
私にとってブログは趣味の延長線上であり、また備忘録の一貫だ。
ほとんどの方もたぶんそうであると思う。
もちろん例外として、芸能人がファンとのコミュニケーションツールとして使ってるブログや、企業がPRの為にしているブログや、他にはアフィリエイトを目的でしているブログなどもあるが、そういう場合を除けば、やはりブログは趣味の延長線上であると思う。
趣味ならば、誰からも強制されることもないし、やりたい時にやればいいし、やりたくなければやらなければいい。
だからこそ、モチベーションを保つのは難しいし、例え趣味だとしても、それを毎日欠かさず続けるのは大変なことだ。

 

しかし、最初に紹介させて頂いた後藤一俊社長は、なんと連続2000日以上、欠かすことなく毎日ブログを更新され続けているのだ。

 

後藤一俊社長のブログはコチラ。
http://www.chuco.co.jp/blog.html

 

2000日と言えば、まる5年以上なのだが、その間には、体調が悪かった日や、てんてこ舞いに忙しかった日や、ブログを書くような気分になれない日や、急な予定が飛び込んで来た日など、言うまでもなくあったはずだ。
それでも毎日ブログを更新され続けていらっしゃるのだ。
「毎日」「一日も欠かすことなく」続ける。どんな体調でも、どんな状況でも、どんな気分の日でも毎日続ける。これは本当に凄いことだ。
一日も欠かすことなく5年以上続けていることって、何があるだろう?と自分を振り返って見るが、なかなか思いつかない。

 

ブログに限らず、「どんな事があっても諦めずやり遂げるぞ!」と決めて、それを実際に実行できる方は、強靭な精神と忍耐、粘り強さと、執念を持っているのだと思う。

 

私の座右の銘は「諦めず気が遠くなるまで繰り返す」であるが、ブログ連続2,000日達成の偉業を前に敬服するばかりである。

2013年

1月

05日

恩師 加藤秀雄先生を偲んで

平成25年1月1日 恩師である天理高校柔道部元監督の加藤秀雄先生が御出直し(お亡くなり)になられた。

 

天理柔道から学ばせて頂いたことは数限りなくあり、それが今の私の礎となっている。
私が柔道を辞めずに踏みとどまることが出来たのは、加藤先生の情熱のお蔭だ。

 

私が高校1年生の6月のこと。
入部して2ヶ月目。
あまりの練習の厳しさ辛さに、私はやる気を無くしていた。
どうやって辞めようか、毎日そんなことを考えるようになっていた。
そんな折、気の緩みもあって、練習中に右耳が縦に裂け、8針縫う怪我を負った。
ちなみに反対側の左耳も練習により、ピンポンボール玉ほどに腫れ上がっていた。
私のそんな姿を見た母親は相当ショックを受けたようだった。
当時、私は学校の寮で生活をしていたので、久しぶりに会った私の姿は、母を動転させるには充分だったようだ。
柔道を全く知らず、耳の潰れた息子の姿に心痛する母、柔道から逃げたい私。
私たち親子は退学することを決意して、加藤先生の元へ出向いた。
「やめさせてもらいます。来年、地元の高校を受け直させます。」と訴える母。
しかし加藤先生は首を縦には振ってくれなかった。
加藤先生は「息子さんは天理が責任を持って預かります。保証します。やる気ない者でも闘志のない者でも育てます。それが天理です。」「夏のインターハイが終わるまで様子を見てください。もうしばらく預けてみてください。」と、私を引き止めて下さった。
母も私も加藤先生の情熱と執念に押し切られる形で、再び柔道を続けることになった。
しかし母はやはり私の事が心配だったようで、ことあるごとに「辞めていいからね」と言い続けていた。

 

夏が過ぎ、たまたま帰省の折りに地元で柔道大会があり(確か淡輪町の町政30周年か・・・?)、私は出場することになった。
その大会で大人も含めた個人戦に断トツの強さで優勝させて頂くことが出来た。
驚いたことに天理柔道に入部してたった数ヶ月で、自分でも気づかぬうちに随分強くなっていたのだ。
母は、その時入院中だった為、大会を観戦することはなかったが、友人から私が優勝した話を聞いたそうだ。
それ以来母は、私が怪我をしてももう何も言わなくなった。

 

母と二人、加藤先生に退学を申し出に行ったあの時、もしも加藤先生が首を縦に振っていたら、私は沢山の素晴らしいことを知らないままで居ただろう。
あの日、踏みとどまれたのは、先生の柔道への情熱と天理柔道にかける執念があったから。
だから私は先生と天理を信頼し、柔道を続けることが出来た。

 

昨年、先生の講道館柔道九段昇段の記念品の湯飲みに
 続けることの よろこび 九段 加藤秀雄 とあった。
「諦めず気が遠くなるまで繰り返す」ことを教えてくれた先生であった。

 

 

今尚、また人生の最後まで先生の御指導は永遠です。
伏して先生のご冥福をお祈り申し上げるばかりです・・・!!