2016年

2月

28日

臨機応変か、朝令暮改か

朝令暮改

私は自分のことを「石橋を叩いても渡らず、叩いている内に石橋が割れてしまう程の慎重な性格なのである。」とこれまで書いてきたが、

正確に言うと、それは「大筋の部分についてのみ」である。

旅で例えるのならば、旅をするかどうか、そして「する」と決まれば経由地と目的地は慎重に決めるが、そこに行くまでの手段は『臨機応変』で、「みんな!明日は自動車で行くぞ!準備しておけー!」と言っていても、「あれ?想像していたより道が狭くて運転しにくい!みんな!やっぱり自転車に乗り換えよう!」と言う風にコロコロ変化する。

計画から外れだした部分は、慎重に決めていた経由地であっても変える。

重要なのは目的地に到着することであり、大企業と違って臨機応変に事態に対応出来るのは中小企業のメリットである。

自分ではそれを「たえず見直し」として指針にしているが、朝令暮改に捉えられることも多い。

実際、ある仕事を手掛けた時、仕事の途中で作業効率の良い方法が閃き、手段を変えたのでA社というJV(共同企業体)業者から

「これまで他者と組んだ時とは違うやり方だから、やりにくい」と批判を受けた。

そう言われながらも、この後もう一度やり方を変えた。

「丸竹さんは、やり方が途中でコロコロと変わる!」と呆れられた。

しかし結果、この仕事は「無理して受けた納期が短い仕事」であったが、初期想定の3分の2の期間で納品することが出来た。

当社もA社も「短い期間内に納品する」という目的は同じだったから、たとえスタートを切った後であっても、目的を達成するための最善の方法が見つかったのならば、これまでのやり方に拘らず、見直した方が良いと私は考えている。

「途中でやり方を変えると朝令暮改な人間だと思われるかな」などと考えるようになってしまうと、仕事に対する瞬発力が無くなり、挑戦を躊躇するようになってしまう。

 

余談であるが、私は批判や意見・指摘・クレーム等を言ってくださる人が有りがたい!有り難い以上に感謝してしまう!紙面の都合もあるので、この思いについての詳細はリンク先(お節介な人ほど有り難い)をご参照頂きたい。

 

良いと思うことは全てやってみる

目的を達成するための方法であるが、たとえば「顧客を増やす」という目的を達成する為の方法を3つ考えついて実行し、3つとも成果が出たなんて事は、そうそう無い。

毎回100発100中なんて人は、天才的ビジネスマンだろう。

私は、「目的達成に良いと思うことは全部やってみよう!10のアイディアを実行したとして、そのうちの3つでも成果が出れば良い!」と考えている。

実際やってみて成果が出ないと判明すれば、次からやらなければ良いだけのことである。

 

最善に向けて見直し見直し

今、フラワーホームの目標の1つに「入居して良かったと入居者さまに思って頂ける施設づくり」がある。

そのために毎日、見直し見直しの連続である。ほんの一例を挙げると、

たとえば「グランドゴルフ練習場を作ってほしい」という入居者さまの声には、空きスペースを見直して早速芝生を植えた。

「ドッグランの場所を見直して、大きな花壇を作って憩いの場にする方が入居者さまに喜ばれるのではないか?」との声が上がり、確かに今の入居者さま達の生活状況から考えると、ドッグランより憩いの場の方が最善だと判断したので、その日のうちに必要な備品を発注した。

花壇やグランドゴルフ練習場を作る経費と、目的である「入居者さまの満足」を秤にかければ、すぐに答えが出た。「プールを作ってくれ」と言われれば、それはムリであるが、可能な限り最善を追求して行くつもりである。

 

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2016年

2月

21日

人の意見を聞く

成長するチャンス

「自分の非を認める」という行為は、大人になればなるほどプライドや経験値が邪魔をして、簡単には自分の非を認めることが出来なくなる。

しかし、ちょっとした自分のプライドを守るために、非を認めず問題から目を逸らしてしまえば意固地になるばかりで、人としての成長はストップしてしまう。

逆に、自分に非があれば素直に認めて改善していくという行為は、人生を躍進させてくれるチャンスを内包したものであると思う。

 

また人様からの意見やアドバイスは、最終的にその意見をそのまま採用するかどうかはさておき、伸びるための手がかりや解決の糸口になることも多い。たとえ自分の考えとアドバイスの内容が違っていても、最善の道を選ぶための選択肢が増えたことは、プラスになってもマイナスになることはない。

だから素晴らしいチャンスの場だと捉えて、人様からの意見やアドバイスには聞く耳を持った方が良い。

上司になればなるほど、アドバイスを貰う機会も減って行く。イコール、成長するチャンスを人から貰う機会も減って行くということである。

 

とくに新人は、新人の特権だと思って、受動的ではなく積極的にアドバイスを求めて行くことが成長への近道である。

しかしただ漠然と話を聞いているだけでは、なかなか身に付くものではない。

事前に下調べ出来る内容ならば下調べをして、アドバイスという種を受けるための土壌を「自分で」準備しておかなければ、せっかくのアドバイスも芽が出ない。

ちなみに私自身も高齢者福祉の業界に関しては新人なので、積極的に多くの方に助言や教えを頂戴している。(心から感謝しています!)

 

アンテナを高く

アドバイスや意見は、なにも言葉だけではない。

お客様や入居者様が直接意見を下さることは多くない。けれども、ふと見せる表情や仕草、声のトーンで、その時どんな風に思っているのか察することは出来る。

ある瞬間の「心からあふれた笑顔」や「不安げな表情」など、言葉じゃない意見を汲み取るためには、アンテナを高くし自分自身の感受性を駆使していくしかない。

そして汲み取ったあとは、スピードをもって具体的な行動を起こすことが必要である。

 

2016年

2月

14日

担任の先生が毎日家にやって来る!

私の小学5年生と6年生の時の担任であるF谷T美子先生は、毎朝、我が家にやって来ては、私の「身だしなみと忘れ物のチェック」をしてくれるのである。

もちろん現在の話ではなく、その当時の話である。

 

私の母が病弱だったせいもあり、またF谷先生のご自宅から小学校までの経路に我が家があったこともあり、F谷先生は出勤前に私の家に立ち寄るのが日課になっていた。

目覚まし代わりになって、起こして頂いた日も何度かあった。

帰り道にも先生が立ち寄り「宿題のチェック」をしてくれるのである。

おまけに母の体調の悪い日には、晩御飯まで作ってくださった。

遠足の日は、出勤前にお弁当を届けてくださったこともあった。

さらに、週末には何度か先生のご自宅に泊まりに行かせて頂いたし、夏休みや冬休みには数日間に渡り連泊させて頂いたこともあった。

 

先生が、ここまで親身になってくださった理由の一つに、実は私の母も、F谷先生の教え子だったというのがあると思う。母だけではなく、母の姉も弟も、F谷先生の教え子だったのである。

F谷先生からしてみれば、かつての教え子だった女子生徒が母となり、闘病生活を送っているのを見かねて、なにかと私の世話をやいてくれていたのだと思う。

私の世話をやくことで、かつての教え子である母を助けてくれていたのだろう。

先生と母が二人で、なにやら長い時間、話し込んでいることが度々あった。今思えば、きっと母の相談に乗ってくれていたのだろう。

母にとって先生の存在は、どれほど大きく有り難いものだったか想像に難くない。

しかし先生にとってみれば、ご自分の家庭や教師の仕事を持ちながら、よその家庭の世話を焼くのはとても骨が折れたはずである。

それなのに当時の私は自分勝手なもので、先生の厚意に甘えながらも、「毎日が家庭訪問」の状態を心のどこかで煩わしくも思っていた。

『孝行のしたい時分に親はなし』ならぬ『孝行のしたい時分に先生はなし』で、私が先生の想いや苦労に気づくことが出来る年齢になる前に、悔しいことに、先生はこの世を去られた。

「面倒なことに巻き込まれたくない」と、様々な問題を傍観するだけの人達が増えた現代では、F谷先生のようなお人は、もうめったに居ないであろう。

これほど素晴らしい先生と、親子2代に渡り出会うことが出来たのは奇跡のように感じる。

F谷先生から数えきれないほどの恩を受けた。

 

しかし私という人間は、沢山の人に多大な迷惑をかけ、多くの人たちに手を差し伸べてもらいながら生きて来たんだなぁと改めて思う。

感謝するだけではいけない。

 

2016年

2月

07日

性善説と性悪説をビジネス目線で考える

長年、経営に携わっていると、年間を通して色々な会社の方から様々な新規案件(提案)が持ち込まれる。

そのような場合の対応の仕方は、一般的に2通りであろう。

一つは性善説で捉えて、好意的に相手と向き合うか、もう一つは性悪説で捉えて、相手を疑ってかかるかである。

前者の場合はビジネスチャンスを掴めるという利点があるし、後者の場合は、騙されたり失敗したりするリスクが少ないという利点があり、どちらの方が良い悪いというものでもないだろう。

私自身は、どちらかと言えば性善説論者である。

ただし、いきなりのテレアポ営業に関しては、まずお断りである。

それ以外の持ち込まれた案件(提案)に関しては、すべて善意と解釈し、その案件の可能性を追求する為に好意的に話を伺い前向きに考える。しかし当たり前の事だが、案件を色々な角度から検証し精査することは怠らない。

その結果、持ち込まれた案件の採用数は、正確に数えたことはないが、持ち込まれた数に対してたぶん100分の1にも満たないだろう。

採用数が少ないのは、精査した結果、相手方が信用に足らなかったという訳ではなく、私の性格からである。

 

私の表層の性格は「すぐ!すぐ!すぐ!今!今!今!」で、せっかちで短気なのであるが、深層の性格は「自分の背丈以上のことはしない」や「不安の哲学」を読んで頂ければ分かるように、石橋を叩いても渡らず、叩いている内に石橋が割れてしまう程の慎重な性格なのである。

案件を検証すれば必ず不安要素は複数出て来るものである。その不安要素をカバー出来る手立てを一つ一つ検証して行くが、カバーできる手立ても無いとなれば見送りとなるので、結局は上記のような採用数になってしまうのである。

 

さて、ここまで読んだ皆さんの疑問はコレであろう。↓笑

「騙されたことはある?」

答えは、お恥ずかしいが若い時に複数回ある。

これは、相手に悪気は無かったが結果的にそうなったという部類ではなく、初めから詐欺を企み近付いてきた相手に騙されたのである。

言うまでもないが、詐欺の輩ほど不安要素の無い良い話を提案して来るのである。

人を見る目が養われていなかったのが騙された原因であるが、これで私が性悪説に宗旨変えしていれば、私の場合、今は無かったように思う。

 

それと最後になったが、廃案にした案件については出来る限り、持ち込んでくれた相手方と面会して、お断りする具体的な説明を行うようにしている。

なぜならば、お断りするにしても善意で持ち込んでくれたのだから最大限の敬意を払うのが礼儀であるし、丁重にお断りしないと次に何かあっても声を掛けて頂けず、チャンスを逃してしまうかもしれない・・・と考えるからである。