2016年3月のページ

2016年

3月

27日

冒険か無謀か

シニア事業部を立ち上げ、サービス付き高齢者向け住宅・フラワーホームを開設すると、色々の方から「こんなご時世に社長は冒険者ですね!」と言われる機会が多くなった。

しかし決して私は冒険者ではないのだが、でもそう言われると「冒険者」という言葉の響きに男心がくすぐられ少し嬉しい感じがする。

 

ところで、過去に2度訪ねたことがある兵庫県豊岡市の『上村直己冒険館』を思い出した。

ここは、世界初の5大陸最高峰登頂を無し遂げて国民栄誉賞を受賞した植村直己さんの冒険を支えた装備品や遺品などを数多く展示または収蔵しており、様々な写真や説明パネルを多用してテーマ別に分けて「冒険」を紹介しているところである。

また豊岡市で生まれ育った生い立ちから始まり、厳冬期アラスカの北米最高峰マッキンリーの登頂を果たした翌日の下山途中に、その快挙もつかの間、消息を絶ち行方不明になられたまでを忠実に解り易く、時系列を追って展示してある施設である。

 

さてその展示パネルで、植村直己さんは

「登山家として最大に必要な資質は、臆病者であること!」と語っている。

私はこの一文を読んだ時に衝撃を受け、胸が痛くなるほど共感した。

功績の大きさから、私は植村さんという人物は勇猛にどんどん猛進して行くタイプの人だと想像していた。

しかし実際には、「石橋を叩いて渡る人で、十分な計画と準備を経て、必ず成功するという目算なしには決して実行しなかった人物だ」というようなことが書かれていた。

意外であったが確かに、自分を過信して裏づけなく猛進して行く人であっては、世界初の「五大陸最高峰登頂者」になど、なることは出来なかっただろう。

冒険とは、行く先に待ち受ける困難を予想し、自分の力量と身の丈を客観的に確かめながら、「これならだいじょうぶ」と幾度も幾度も臆病なまでも確かめ、一つずつ不安を打ち消しながら進むことによって初めて成功に向かう、そういうものなのであろう。

月並みな言い方だが、失敗を恐れていては何もできないし、またリスクを恐れていても何もできないが、しかし冒険という言葉の中に潜在する本来の意味とは、想定される全てのリスクと困難を予想し、その為の準備を整えてから初めて挑戦することが、本来の冒険の意味であると思う次第である。

準備もなく果敢に進んで行くのは、「冒険」じゃなく「無謀」なのである。

 

また別の展示パネルには「過程が苦しければ苦しいほど、それを克服して登り切った喜びは大きい」と植村氏の言葉が書かれていた。

これは私も講道館柔道に青春を掛けていた高校柔道部時代に感じたことだが、確かに、それまでの練習が苦しければ苦しいほど、試合で勝利を手に入れた時の喜びはとても大きいし、感動する。

なにより自信になる。

反面、苦労せずに手にいれたものは、その一時は嬉しくても、ただそれだけである。

仕事でもスポーツでも、「あぁしんどいなぁ」と息を吐いてしまう度に、「でも、この努力の先に在るものを得た時の感動は大きいだろうなぁ。その日が楽しみだな。」と思えば、また頑張れるのではないだろうか。

 

2016年

3月

20日

104歳!現役理事長

2年程前に、新聞で見つけた聖路加国際メディカルセンター理事長 日野原重昭(ひのはら しげあき)氏のコラムを読んで、その並外れたパワーや御寿命にあやかりたく、氏の長生きの秘訣を私なりに考察させて頂き、このブログで書かせて頂いた。(詳しくみる>>)

最近また久しぶりに氏のコラムを新聞で見つけて、今回は「若々しくいられる秘訣」を書かれていたので、今回も自分なりに読み解いた内容を書いてみたい。

 

さて前回、このブログに書かせて頂いた時点で氏は102歳であったが、今は御年104歳になられている。

そして驚くことに現在も現役であり、肩書は聖路加国際大学名誉理事長に変わられているが、今も執筆活動をはじめとし医学会発展の為に海外にまで講演に行かれることもあるそうで、今なお走り続けていらっしゃるのである。

ところで、氏のコラムを読み解くと、私なりに以下の5つに分類することができた。

 

①まずどこも悪くなくても、毎年必ず「人間ドック」に行くこと。

年一回の「人間ドック」の受診は私も実践している。>>

何をするにもまず健康であることが「いの一番」であろう。そのためには早期発見・早期治療が欠かせないと思うのである。

 

②たえず色々な人と触れ合うこと。

私はこれを、「色々な情報を常に取り入れること」と読み解いた。

色々な人に出会い、様々な内容の会話や案件の処理をする中から情報も集積して行くわけだが、たしかに人と出会うことは凄く自分自身の高揚感と共に気持ちの刺激になる。

たとえば身だしなみから始まり、会話や商談内容の事前準備に至るまで様々な脳の部位が常に活性化され、脳の代謝が良くなり若さを保つことが容易に推測されるのである。

 

③何にでも好奇心を持つこと。

年齢を重ねるたびに、何かに対して好奇心を持つというのが難しくなって来る。

しかし些細な「疑問」や「気づき」を流してしまわず、探究心を持つことで新鮮な発見に出会うことが出来、それが喜びにもなるだろう。

それに一つの物事に対して突き詰めて考えることで、集中力も鍛えられるであろう。

 

④毎年、新しいことに挑戦すること。

高齢者に限らず若者にとってさえも、新しいことに挑戦するというのは、心身ともに多大な労力が必要である。

現状から一歩踏み出すには勇気も必要であるし、覚えることも一気に増えるし、途端に忙しくなる。

得るものも多い代わりに、苦労も増える。しかし「新しいことをやってやろう」という気持ちを持つことこそが、若々しくいられる源であると思うのである!

 

⑤人はいつでも生き方を変えられることを忘れないこと。

私はこれを、「自分自身を諦めないこと」と読み解いた。

もう今さら手遅れだ、もう今から生き方なんて変えられない・・・など、自分の置かれた環境や自分自身に対して諦念を持ってしまうと、体だけではなく心も老けてしまう。

自分を信じることで希望を持った生き方が出来、そのことが人を若々しくしているのではないだろうか?

 

日野原氏のコラムを1つずつ読み解いてみた訳ではあるが、書き終わって、「さて私自身はどこまで実践出来ているのだろうか?」という疑問符が頭の中をよぎった。

偉そうな事を書いてはいるが、どこまで実践出来ているか自分自身に点数を付けるとするならば、ギリギリ及第点だろうか!?

54歳の私が及第点なのだから、104歳の日野原氏がいかに若々しい精神の持ち主かよく分かる。

 

2016年

3月

13日

会社を変えた出会い 2

前回のつづき。

 

業界の先輩方のご厚情で、なんとか難燃アクリルをカネボウから仕入れることが叶った。また、毛布を製造する一環の過程の各部門の工場も確保することが出来、高校の先輩であるMさんが社長をしている㈱I社からは約2000枚のオーダーを頂き、いよいよ難燃毛布の製造が本格的にスタートした。

そうするとカネボウの難燃アクリル担当者が週に1~2回は当社を訪れて、品質と生産性向上の為に、私と一緒に関連工場の製造工程をチェックしてくれるようになった。

その担当者との物語を今回は書きたい。

 

その方はS・敏雄氏といい、確か昭和6年生まれだったと記憶している。

群馬大学工学部の母体となる桐生工業専門学校を卒業された後、昭和28年にカネボウ株式会社に入社され50歳まではカネボウ管内の各工場を技術者として技術畑専門に歩まれた。その間にも技術研鑽の為に、社費で東京大学に研究生として派遣されるほど優秀な方だった。

50歳を超えたころ、自分の技術のノウハウを営業で試してみたくなったそうで、当時のカネボウテキスタイル(株)の昭和58年の設立に合わせて、自ら伊藤淳二社長(当時)に「いち営業マンとして営業に出たい!」と手紙を書いて、営業畑(実際の着任先は日本合繊株式会社 当時カネボウの繊維原料販売会社)に出られた方である。

初めてお会いした時の印象は、人の3倍は喋ると言われている私がタマゲテしまう程のお喋りで、人の10倍は喋るような方だった。

 

当社が製造する難燃毛布の唯一の販売先である㈱I社は、約2000枚のオーダーの後も、しばしばオーダーを下さるようになっていた。

私が㈱I社に行く度に、カネボウの敏雄氏も同行してくれ、販売促進と品質説明を先方にしてくださった。私が喋る間もないほどに、熱心にトークを繰り広げる方であった。

長年に渡り技術者として培った知識に裏づけされた営業で、繊維業界新入生だった私には、学ぶところだらけであった。

私に、繊維の本質が何たるかを1から叩き込んでくれたのは、敏雄氏である。

当時の私の気持ちはすでに感謝を通り越していた。

 

「㈱I社に販売する毛布の原料分のみ」との約束で、カネボウから難燃アクリルを仕入れさせてもらっていたのだが、約2年が経過した頃、転機が訪れた。

この頃の日本経済はバブル崩壊後の「失われた20年」のまっただ中であり、経済の縮小と繊維産業従事者の高齢化に伴って、倒産や廃業や相次いだ時代であった。

そんなある日、敏雄氏より

「難燃毛布を作っていた会社が廃業するので、立花君のところで売り先を全部引き次いでくれるか?」と連絡があった。

私が一番先に思ったのは「お金」の事である。

当時、カネボウとの契約は、売り先限定の少量仕入れであり、新規取引ということもあって、現金先払いで原料を仕入れさせてもらっていた。

売り先を引き継ぎ、製造量が増えるとなると「多額の運転資金」が必要になってくるのである。生産体制については産地ということもあり、それなりの自信は有ったが、当時の私は20代半ばということもあり銀行からの融資も難しく、正直に敏雄氏に懐事情を説明することにした。

するとどうだろう!

「立花君は2年間の信用がもうあるので、支払いは月末締めの支払日起算120日の手形払いでいいよ」と言ってくれたのである。

こうして一気に売り先が増えたのだった。

この後も数年かけて似たような事情や新規営業(敏雄氏も販売促進で同行)で売り先が次々と増えていった。

敏雄氏が居てくれたからこそ、難燃毛布の製造販売を軌道に乗せることが出来たのである。

 

当時の私はこのような経緯で、諸先輩や業界の皆さまに支えられながら、半ば奇跡的な経緯もあり難燃毛布メーカーとしての創生期を形作ることが出来た訳である。

まさに「感謝」以外の何物でもないのである。

 

敏雄氏は60歳で定年を迎えられ、その後、3年間はカネボウで嘱託営業として勤められ、63歳で退職された。

退職後には当社のコンサルティング(私の指導役)&営業顧問として週2~3回の勤務で2年間、65歳まで来て頂いた。

またその後、オーストラリアに移住し、持ち前の英語力を駆使して携帯電話会社の役員をされていたらしいが、悔しいことに数年前に訃報をお聞きした。

 

会社を変えた出会い1>>

 

2016年

3月

06日

会社を変えた出会い 1

私は20代初め頃、宅地建物取引主任者の資格を取り、不動産仲介業の会社を立ち上げた。会社と言っても社員は私1人である。

その当時父は父で、個人事業で丸竹繊維工業所(丸竹コーポレーションの前身)を営んでいた。

いずれ私が父の繊維業も引き継ぐことになるだろうという心積もりがあったので、不動産業の傍ら、繊維の仕事も手伝いながら勉強していた。

今回のブログは、その頃の話である。

ちなみに、不動産業については30代初め頃にバブル崩壊と共に自然に休眠状態になった。

 

丸竹繊維工業所は、大手アクリルメーカーのアクリル綿をメーカーから直接ではなく3次商社から仕入れて、それを外注の紡績工場で製糸後、泉大津産地の毛布を製造している織屋さんに販売することを主としていた。

川上から数えれば、5次下請けであった。

私は会社として利益をもっと増やせないかと考え、毛布を直接購入して、それを無謀にも消費者に直接販売しようと試みた。

結果は想像に難くなく、惨憺たるものであった。

若気の至りであったが、一人で材料仕入れ及び製造から直接販売まで出来る訳も無かった。

門前払いで鳴かず飛ばずの状態が続いていたが、不動産業での売り上げがあった為、切羽詰ることが無かったのが救いであった。不動産業の傍ら、諦めず毛布の営業を地道に続けていた。

毛布は全く売れなったが、しかしこの試みで、毛布を製造する一環の過程の各部門の工場に、それなりに知り合いが増えた。

中には、無鉄砲な私を面白がり、「また何かあったら言ってこい」と仰ってくれる方も少なからずいた。

 

そんな中、転機が訪れた。

あまりに毛布が売れないので、出身校である天理高校の先輩で天理市内において当時、天理教の宿泊施設に手広く寝具のリース及び販売を手掛けるI社のM社長の元を訪ねた。

するとM社長は開口一番

「もし君が難燃毛布を作れるなら、仕入れてもよいよ。うちの取引先は大規模宿泊施設だから、(財)防炎協会の認定を受けた難燃毛布しか扱えない」

とお言葉を掛けて頂いた。

私は根拠も何もないのに簡単に考えて

「わかりました!2~3か月待ってください。次に伺う時には難燃毛布を持ってきます。」と意気揚々と答えた。

 

しかし、ここからが大変であった。

翌日、当時の仕入れ先であった3次商社に、「難燃毛布を作りたいから、難燃アクリルを売ってください」とお願いすると、「当社では難燃アクリルは作ってない」との返答であった。

打撃は受けたが有り難いことに、「たしかカネボウさんは作っているはずだ」という情報を教えてもらった。

しかし私のような5次下請けの若造が、いきなり大企業のカネボウに「材料を売ってくれ!」と言っても相手にされるものではない。

そこで私は業界の先輩である故 小島清明氏(小島産業㈱元会長)に

「カネボウを紹介してください!難燃アクリルを買いたいのです!」とお願いした。

小島社長は「よし分かった」と快諾して下さったが、同時に、結果は難しいであろうことも教えてくれた。

ダメで元々ということで、カネボウの難燃アクリル原綿の担当者と懇意にしているU株式会社のKさんという方を紹介して頂いた。

さっそく翌日、Kさんの会社に伺うと、すぐにカネボウの担当者に電話を入れてくれたが、小島社長の予測通りにやっぱり「NO」であった。

当時、難燃アクリルを製造しているのは、カネボウ1社だけであった。

目の前でシャッターが下りた気分であった。

私はココで行き詰ってしまった。

 

しかし数日後、なんとそのKさんから「カネボウが売ってくれるそうだよ」との電話がかかって来た。

大変有り難いことにKさんは、プライベートな酒の席でカネボウの担当者と一緒になった時に、もう一度頼み込んでくれたそうだ。

業界として若手を育ててやろうというお気持ちもあったのであろう。「天理市の㈱I社に販売する分量のみ」という条件で、私は難燃アクリルを売ってもらえることになった。

 

このあと3日程で難燃アクリルが当社へ初入荷し、1か月を経たずして当社第一号の難燃アクリル毛布が完成したのである。

完成の翌日には㈱I社のM社長の元へ、まっしぐらに訪ねて行った。

「君みたいな新参者が、難燃の材料を仕入れるのは難しいだろうと思っていたから、きっと意気消沈して泣きながら来ると思ってたのに、よくやった!」

と誉めていただき、そしてその場で確か2,000枚のオーダーを頂いた記憶がある。

 

このような経緯で、諸先輩や業界の皆さまに支えられながら、半ば奇跡的な経緯もあり難燃毛布メーカーとしての第一歩を記すことが出来た訳である。

 

会社を変えた出会い2へつづく)

 

 

フラワーホームが住宅新報様に掲載されました。

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