2016年6月のページ

2016年

6月

28日

激痛の日々は突然やって来た

5月13日の夜11時を過ぎた頃、何の前触れもなく突然に右肩に違和感を覚えた。

その20~30分後には、右腕がほとんど上がらなくなった。

深夜12時を過ぎる頃には、右腕全体が腫れ上がり、熱(38度)も出始めた。安静にしていても心臓の鼓動に合わせて右肩右腕がズキンズキンと疼き始めた。

脳梗塞か心筋梗塞の前ぶれだろうか?と不安に波立った。

痛みは治まる気配がなく、ついに我慢が出来なくなくなり、自分で救急車を呼んだ。

近所の夜間診療に行き検査を受けると、不幸中の幸いというのか、「たぶん五十肩だと思います」とのことであった。

痛み止めの点滴とシップを処方してもらった。点滴やシップの効果もあり、症状はある程度緩和された。

翌日約30年通っている鍼灸治療院に行った。

マッサージと電気治療・置き針を約100本(鍼灸針を刺しっぱなしにする)をしてもらうと、幾分か腕が動かせるようになり、痛みもいくらか緩和できた。

1日でも早く肩を治したかった私は、連続して通えば早く治ると考えた。

翌日も夕方から通って今度は200本の針を打ってもらった。

 

その日の深夜になって、かつて経験したことのない気を失いそうな痛みが訪れ、脂汗にまみれた。

右腕全体が少しも動かなくなり、指の一本一本が腫れ上がり、手を握ることさえ出来なくなった。

ただの五十肩で、このように、のたうち回るような激しい痛みが起きるとは思えなかった。

膠原病やギランバレーではないだろうか?昨夜はレントゲン検査だけの診断だったから、もっと詳しい検査を受ける必要があると遠くなりそうな意識の中で思った。

詳しい検査を受けるため、移動の時間はかかるが梅田にある会員契約している病院の救急外来まで急行してもらった。

バイタルチェックで血圧は180を超え、熱を測ると39度になっていた。

すぐに検査(血液・CT・MRIその他)が始まり約2時間かけて徹底的に調べてくれた。

結果はただの「五十肩」である。ほんと私は人騒がせな奴である。

「急性期に自己判断で治療して、針・電気・マッサージを連続して施術することで肩関節の炎症を全体に広げ劇症化してしまっている。発症期から急性期にかけては絶対安静であり針やマッサージはリハビリが始まった段階からですよ!」とのご意見を頂いた。

痛みが酷いので、癌の痛みを抑える点滴を処方してもらい、地元の整形外科に紹介状を書いてもらい、早朝 帰路に着いた。

17日朝から、シップ・痛み止め・ステロイド注射を3日間施し、4日目からはヒアルロン酸注射に切り替え2日間治療してもらった。

約10日間に渡る急性期を皆に助けてもらいながら、何とか乗り越えることが出来た。

その後も、何度か低気圧が近づく度に小さな急性期を繰り返してはいるが、約一か月半たった今はやっと安定期に差し掛かり始めたと思う。

 

ところで今回このブログを書いたのは、実は皆さんへのお詫びと事情説明の為である。

約一か月近く会合等をキャンセルしたり、連絡の返事もろくに出来ず、その他、不義理の連続であった。

誠にすみませんでした。

五十肩は何の前触れもなく突然来たので、びっくりでした。

泉南市に災害用備蓄毛布を寄贈いたしました。

2016年

6月

18日

幼稚な男

「感謝」近年私はこの言葉が好きで、手紙の最後などに自分自身の慚愧の念も込めて大きく記すようにしている。

慚愧の念を込めるワケ、それは・・・

40歳頃までの自分を振り返ると、世の中の常識を、今思えばまったく理解できていなかったように思う。

自分が生きているコミュニティの常識が世の中の常識だと勘違いし、自分の中のルールを絶対のものとしていた。また自分が色々な方々に多方面から支えられている事にはほとんど意識を向けず、自分一人で何でもやれているような気になっていた。

視野が狭く、想像力が足らず、一方的な人間であった。おまけに大きな図体の持ち主であるから、ますます皆さんに横柄で態度のデカい印象を与えていたかもしれない。そのくせ「誰にも負けたくない」と勝った負けたに強く関心が向き、幼稚であった。

いろんな方に出会い、教えられ、少しずつ視点が変わったし、少しずつ視野が広くなったと思う。

そうしたら今頃になって「よくぞ皆さま、見捨てずにいてくださってありがとうございます。」という心境になり、過去の物知らずで無礼な自分の振る舞いを思い出して、背筋に冷たい物が走るのである。また、私にウンザリして離れて行かれた方もいらっしゃる。

その方々に心より深謝申し上げる次第であります。

すべての出逢いに感謝しています。

 

最近よく聞いている歌がある。

♪いろんな出逢いに感謝しながら 終わりのない夢を抱きしめて どこまでもまだ歩いて行こう 

見上げればはじめての空 どこまでもまだ歩いて行ける 今の君は初めての君なんだ♪ 

(中村 雅俊「はじめての空」東建コーポレーション㈱ イメージソングより引用)

 

新規事業であるサービス付き高齢者向け住宅フラワーホームを開設して今で7ヶ月目である。

異業種から参入した私にとって、まさに毎日が「はじめての空」である。長年、高齢者福祉の業界にいるスタッフから教えられることも多い。入居者さまから教えられることも多い。毎日が学びで、毎日が成長で、毎日が感謝である。

フラワーホームを、もっともっと良い施設にして行きたいし、もちろん既存の事業ももっと盤石にしたい。それに他に挑戦したい夢もある。

健康に留意して長生きして、どこまでもまだ歩いて行こう、どこまでもまだ歩いて行ける。

今の私の心にピッタリの歌である。

 

 

関連記事:経営者意識の覚醒1

     経営者意識の覚醒2

 

 

厚生労働省 渡嘉敷なおみ副大臣がフラワーホームに、政務調査と意見交換会を兼ねて、ご視察に来られました。

 

2016年

6月

09日

たった1000日じゃないか

天理高校柔道部の当時の鬼監督 加藤秀雄先生は、私たち柔道部員を叱ったり励ましたりする時、「高校3年間、たった1000日じゃないか!?」

「たった1000日も頑張れないのか!?」

「1000日間で良いから毎日毎日、今日一日だけと思い必死に練習しろ!」とよくおっしゃった。

しかし高校生だった私は「加藤先生はたった1000日と言うけれど、1日1日がこんなにもしんどくて長いのに、1000日間なんて気が遠くなるほど先じゃないか!到底無理だ!」と心底嫌気が差していた。

思い返してみても、春に入学し秋が終わる頃ぐらいまでが一番辛かった。

毎日振子のように「もう辞める」と「あと少しだけ続ける」の間を行ったり来たりしていた。

それでも、何とか先生・先輩・OB等の方々に支えられながら練習を続けていた1年生の終わり頃(約333日経過)に、ふと考えたことがある。

俺たちは、3年間1000日で卒業だが、しかし先生は、その1000日を幾度となく繰り返している。

ヒヨっ子のような新入生を叱咤激励しながら逞しく育て、全国優勝させ、それで「めでたし めでたし ハイおしまい」ではなく、次の年もその次の年も延々と、ヒヨっ子たちを叱り慰め育てて全国優勝を目指し、そして春には送り出し、また次のヒヨっ子を迎えている。

そのことに気付いてから「あぁ先生に比べたら、1000日なんて短いな」と何とか思えるようになった。

2年生になって力が付いてきたお陰と、苦しいことでもそれが習慣化したせいもあろうか、一日一日がそれほど苦に感じなくなった。

そして卒業する頃になると1000日過ぎていたことさえ忘れていた。

以前にも書いたが、先生は卒業式の日の朝まで私たちに練習をさせた。

それは「全国優勝がゴールではない」という意味や、「この1000日は人生の通過点」という意味もあったのだと思う。

 

私は本来とても飽き性で、人生の中で初めて、毎日3年間続けることが出来たものが柔道であった。そしてある程度、人生の中で最初に結果を出せたのも柔道であった。そして、柔道から学んだものが今の私の経営の礎となっている。

経営とは、月並みな言い方だが、どこまで走ってもゴールのないマラソンレースのようなものだと感じる。

その思いから、私の座右の銘は「諦めず気が遠くなるまで繰り返す」となった。

 

しばしば若い人から相談を受けるので、その時に私が言う言葉がある。

「どんな状況になっても、最低1000日間は続けることだけを考えて、一日一日の仕事を必死に頑張りなさい!」

「昔から石の上にも3年と言われているが、結果を出すにはそれなりの期間が必要。3年続ければ世界観も変わってくる。」

「始めたら最低3年間は続ける覚悟がないなら、やらない方が良い。」

 

最高に苦しかった天理柔道の3年間から、もし私が逃げ出していれば、今とは全く違った人生を送っていたことは間違いないだろう。