2016年5月のページ

2016年

5月

29日

懐かしい電話

今年の春先、「ネットで立花を見つけた!ブログも読んだよ!」と言って、約30年ぶりに茨城県の古い知人F氏から電話をもらった。

F氏とは、宅建を取る為に通った社会人向け専門学校の同級生(年齢は私より5歳上)である。

たまたま隣合わせの席だったので、あいさつ程度の話をするようになり、そのうち週に1度ほどのペースで、帰り道に居酒屋へ寄り道するようになった。

専門学校終了の後も1年間ほど、お付き合いをさせて頂いていたが、このF氏の北関東転勤(大手不動産会社勤務)と同時に、どちらからともなく疎遠になった。

 

懐かしい声でF氏は「来年で定年」ということや、「人生ってのは、うまく行きそうで、なかなか行かないなあ」ということを話した。

私も「なかなか思い通りにならないことって、山ほどありますよね」と話した。

それから話は「なんの為に今まで働いてきたのか?」という内容に流れていった。

私が働く理由は、以前にも書いたように「経営が好きだ」というのも大きな理由の一つである。

しかし、「好きなことをする」というのは「欲」であるから、自分の欲の為にだけに働いているとモチベーションが長くは続かず怠けてみたり、思い通りにいかないと放り出してしまいたくなる。

自分の為にだけなら、苦しい思いはなるべくしたくないし、楽な方へ流れてしまうと思う。

仕事とは、やはりしんどいものであるから、そのしんどい仕事を続けていくためには、「自分の欲」よりも強い「働く理由」が必要である。

私の場合、「社員やスタッフ、取引先、お客様なども含め、私の目に入る範囲の人たちが、丸竹という会社を通して幸せになってほしい」という願いが「働く理由」である。

私は、私イコール丸竹と思っているが、「会社は公の器」というのも事実である。

会社という器(うつわ)を通して、いくつもの家庭が生計を立て人生を送っている。会社の業績が良くなれば皆の家庭も豊かになるだろうし、会社がなくなれば社員の家族も含めて困る人が多くいるだろう。

そう考えると、怠けたい、しんどいことはしたくないという心に内包された自分自身の負の欲求を正のエネルギーに変えることが出来るのである。

距離を置いた目線で自分を分析すれば、「周りの人たちの為に」という気持ちに依存することで、自分を奮い立たせているのだと思う。

 

仕事の喜びは、「お金を稼ぐ喜び」「目標達成の喜び」「自分実現や自己成長する喜び」「社員や会社の成長の喜び」などがあるが、私は遅ればせながら40歳を超えてから、「喜んでもらう喜び」「貢献する喜び」というのを理解したような気がする。

そしてこの「喜んでもらう喜び」「貢献する喜び」が社員スタッフ一人一人にまで浸透している会社は、きっと和(なごみ)があり、心に余裕があり、建設的で前向きな意識がある素晴らしい会社なのだろうと思う。

「誰かに喜んでもらう為にした行動は、形を変えてまた自分自身に還って来て幸せを与えてくれる」という事実を、社員スタッフたちに繰り返し伝えて行こうと、懐かしいF氏との会話の中で思った。

 

2016年

5月

19日

苦しい方を選択し続けていたら・・・

昨年、天理大学の理事長とお話させて頂く機会があった。

その時にお聞きした「理事長が小学生だった時の『担任の先生の贈る言葉』」がたいへん印象深いものだったので、ブログに書いてみたい。

(記憶を頼りにブログを書かせて頂くので、若干の差異はご容赦願いたい。)

 

昭和20年代、理事長がまだ小学校6年生の時のこと。

午前中に卒業式があり、午後はクラス単位で集まって「お別れ会」が各教室で催されたらしい。

その席上で、担任の先生が生徒を送り出すとき掛けた「贈る言葉」のお話である。

 

『先生が初めて出くわした人生の大きな岐路は、大学生活の終わり頃の話であるが、①軍隊へ行くか?学校の先生になるか?であった。

その当時の日本は戦時色のまっただ中で、国を挙げての戦闘態勢であった。

それでも先生は考えてみると軍隊へ行くのは苦しいから嫌だと思った。でも、よくよく考えてみるとそれは「苦しさから逃げること」だと思い、軍隊に入隊することにした。

次に戦争も末期に差し掛かった頃、②先生は特攻隊に志願するか?しないか?という岐路にここでもまた立った。先生はやはりしばらく考えたが、ここでも死ぬ為に飛行機乗りになるのは嫌だと思った。が、自分自身の「苦しさから逃げない」という信念の通りに特攻隊に志願し飛行訓練を受けた。

その次の岐路が特攻飛行訓練後のことである。

今度の岐路は、③誰が一番に突撃して行くか?である。ここでも死ぬのは嫌で、なるべく最後の方が良いと考えたが、やはり自分自身の信念に従い「一番に突撃」を申し出た。

 

しかしである!今、私は教師として君たちの前に立っている。

人生の岐路の度に、教師になるという自分の夢とは反対の「苦しい方」を選択したにも関わらず、結果は教鞭を取っている。

①軍隊に入らず先生になった同期の何人かは、各地の本土空襲で亡くなられた。

②先生は鹿児島の知覧に居たが、特攻隊に志願しなかった同僚の何人かは本土基地で空襲を受け、ここでも数人が亡くなられた。

③出撃の朝、先生の乗る戦闘機のエンジンが故障して飛び立てず、出撃順位が一番後ろ回しになり、飛び立たない内に終戦を迎えた。

この話は、戦後の今の日本で、話して良いのか悪いのかは先生も判らない。

また死ななかったことを偶然だと片づける人もあると思う。

しかし先生は決して偶然だとも思っていない。自分自身の信念に基づき選択してきた道であり、決して死から逃げた訳でもない。むしろ覚悟を決めて前に出た。

戦争で亡くなられた人は戦後の「日本の礎」となられた立派な名誉ある英霊の方々である。また、戦争で死ななかったことを恥じる人もいるが、先生はそう思わない。

あの激戦を生き残ったということは「日本の国を再び立て直す」という役目と責任を背負い生きて行くということだと思う。

そして「苦しい方」ばかりを選んできたからこそ、こうして生きて、最初になりたかった先生になり教壇に立っている。

極端な例の私自身の話になってしまったが、今後、戦争がまた無い限り、君たちに「死を覚悟するほどの苦しい選択はまず無い」と思う。

しかし「人生でどんな難関に出会っても苦しさから逃げない」「何事も挑戦して乗り越えて行く」という気持ちを持って生きて行ってほしいと思う。

そのことを忘れそうになったら先生のこの話を思い出してほしい。』

というような内容の話だったらしい。

 

色んな受け取り方の出来る話であると思う。

先生は死に近い方の選択ばかりをして来られていたのに、生き残ることが出来たのは、教師になるという役割(運命)を与えられていたからだろうと私は思う。

勝手な想像だが、卒業後すぐに先生になられていても空襲からも生き延び、教師を続けられていたかもしれない。

しかし先生は苦しい道をご自分で選んで、多くの辛苦と能動的に立ち向かわれ、その経験を糧にしたからこそ、より奥行のある経験豊かな逞しい先生になられたのだと思った。

また特攻隊など生死に関わる選択であっても「苦しさから逃げない」という己の信念を貫かれた姿勢は、現代の平和な日本では到底考えられず、男として「その生きざま」に心震えるものがあった。

 

2016年

5月

08日

見知らぬ人からの親切

昭和46年の秋、私が樽井小学校4年生で、遠足の前夜の話である。

 

この頃、母は腎臓結核の療養のため長期入院をしていた。

そのため自宅では父と私の二人暮らしと言っていいような状況であった。

父と私で、掃除・洗濯・食事作りなど家事全般を分担していた。

なかでも食事作りに関しては、腹がへってたまらない年頃だったので、父を待ちきれずに食事は自分で何でも作れるようになっていた。

当時、父の勤めていた会社は昼夜12時間勤務の隔週2交代制の会社であった為、週替わりで朝7時から夜7時まで不在の週と、夜7時から朝7時まで不在の週が繰り返しあった。

つまり月の半分は、夜から朝まで私一人きりであった。

 

話は遠足の前夜に戻る。

その日も父は夜勤で私一人であった。

当時習いに行っていた少林寺拳法の練習を終えて帰宅したのが午後8時を回っていた。

その後、近所の銭湯へ行こうと自宅を出て歩いていると、近所に住んでいた同じクラスの和弘君が入浴を終えて銭湯の方から両親と帰ってきた。

和弘君が「明日の遠足楽しみやな!」と私に声をかけ、通り過ぎて行った。

私は目が点になった。すっかり遠足のことを忘れていたのである。

銭湯を取りやめて慌てて引き返し、すぐさま自転車に飛び乗ってお弁当の食材を買いに走った。

当時、泉南には(日本には)まだコンビニも全く無く、午後8時ともなると開いている店は皆無であった。

いつも通っていた八百屋の前まで行ってはみたが当然閉まっており、ひっそりとしていた。

焦燥感に苛まれながら、自転車を急いで漕いだ。

人の気配が消えた薄暗い商店街を泣きそうになりながら漕いだ。

営業している店を見つけられないまま商店街の出口を走り抜けようとした瞬間、1件のお店の雨戸が半開きになっているのを見つけた。

何を売っている店なのか確認もせず、救いを求める気持ちで飛び込んだ。

後から分かったことだが、そこは「山本青果店」という果物を中心としていたが、野菜など何でも食材を売っている八百屋さんを兼ねたような店であった。

中には60歳くらいのおばさんが一人で算盤を弾きながら本日の集計を入れていたように思う。

明日遠足で弁当の食材が必要だということを説明すると、すぐさま店の電気をつけてくれて「ウインナー」「たまご」「ちくわ」を出してくれた。

お金を払う時になって、「一人で買い物に来たの?お母さんは?」と聞かれた。

母の入院は日常であったから、いつの間にか私にとっては特別なことではなくなっていた。

あっけらかんと「お母さんは入院中やから自分で弁当作るんやけど、遠足のこと忘れてた。」と答えると「僕は頑張り屋さんやな!これは私からのオマケや!」と言って、紅鮭の切り身をプレゼントしてくれたのである。

行きとは違った気持ちで、私は自転車を勢い良く漕ぎながら自宅に戻った。

 

正直言って、お弁当を作れた達成感や味まではもう覚えていない。忘れてしまった。

しかし、「白いご飯の上に、紅色の鮭が乗っていた光景」は色鮮やかに記憶に残っている。

その光景は、これまでにも何度も何度も蘇えって来ては、私を何とも言えない気持ちにさせた。

2012年のある日突然、その弁当の光景が爆発的な感情を連れて、再び蘇えって来た。

私は居ても立ってもいられなくなり、その日のうちに記憶を頼りに「山本青果店」を訪ねた。

「たぶん」とは思っていたが予想どおりに、その方はお亡くなりになられていた。

しかし、お店は青果店ではなくフードショップに名前が変わっていたが健在で、息子さんの代になられていた。

取り敢えず事情を説明させて頂き、出直してお供え物を購入してから改めて訪問し、御仏壇にお供えさせて頂いた。

その後、数日してこの跡を継がれた息子さんが来社してくださって、仏壇のお下がりの「おまんじゅう」を賜った次第である。

 

余談ではあるが、ちなみに先般書いたブログに登場するF谷T美子先生のお蔭で小学校5.6年はお弁当を作らずにすんだ。

平成28年5月2日(月)、泉南市なみはやグラウンドにおきまして、

泉南市グランドゴルフ協会主催「泉南市グラウンドゴルフ大会 第1回フラワーホームカップ」を開催いたしました。

 

当社会長の友人の方や同級生の方、また元社員の方にも会場でお会いでき、皆様方のお元気な姿や、はつらつとしたプレーに私も元気を頂戴いたしました。

多くの参加者の方にもお声をかけて頂き、有難うございました。