苦しい方を選択し続けていたら・・・

昨年、天理大学の理事長とお話させて頂く機会があった。

その時にお聞きした「理事長が小学生だった時の『担任の先生の贈る言葉』」がたいへん印象深いものだったので、ブログに書いてみたい。

(記憶を頼りにブログを書かせて頂くので、若干の差異はご容赦願いたい。)

 

昭和20年代、理事長がまだ小学校6年生の時のこと。

午前中に卒業式があり、午後はクラス単位で集まって「お別れ会」が各教室で催されたらしい。

その席上で、担任の先生が生徒を送り出すとき掛けた「贈る言葉」のお話である。

 

『先生が初めて出くわした人生の大きな岐路は、大学生活の終わり頃の話であるが、①軍隊へ行くか?学校の先生になるか?であった。

その当時の日本は戦時色のまっただ中で、国を挙げての戦闘態勢であった。

それでも先生は考えてみると軍隊へ行くのは苦しいから嫌だと思った。でも、よくよく考えてみるとそれは「苦しさから逃げること」だと思い、軍隊に入隊することにした。

次に戦争も末期に差し掛かった頃、②先生は特攻隊に志願するか?しないか?という岐路にここでもまた立った。先生はやはりしばらく考えたが、ここでも死ぬ為に飛行機乗りになるのは嫌だと思った。が、自分自身の「苦しさから逃げない」という信念の通りに特攻隊に志願し飛行訓練を受けた。

その次の岐路が特攻飛行訓練後のことである。

今度の岐路は、③誰が一番に突撃して行くか?である。ここでも死ぬのは嫌で、なるべく最後の方が良いと考えたが、やはり自分自身の信念に従い「一番に突撃」を申し出た。

 

しかしである!今、私は教師として君たちの前に立っている。

人生の岐路の度に、教師になるという自分の夢とは反対の「苦しい方」を選択したにも関わらず、結果は教鞭を取っている。

①軍隊に入らず先生になった同期の何人かは、各地の本土空襲で亡くなられた。

②先生は鹿児島の知覧に居たが、特攻隊に志願しなかった同僚の何人かは本土基地で空襲を受け、ここでも数人が亡くなられた。

③出撃の朝、先生の乗る戦闘機のエンジンが故障して飛び立てず、出撃順位が一番後ろ回しになり、飛び立たない内に終戦を迎えた。

この話は、戦後の今の日本で、話して良いのか悪いのかは先生も判らない。

また死ななかったことを偶然だと片づける人もあると思う。

しかし先生は決して偶然だとも思っていない。自分自身の信念に基づき選択してきた道であり、決して死から逃げた訳でもない。むしろ覚悟を決めて前に出た。

戦争で亡くなられた人は戦後の「日本の礎」となられた立派な名誉ある英霊の方々である。また、戦争で死ななかったことを恥じる人もいるが、先生はそう思わない。

あの激戦を生き残ったということは「日本の国を再び立て直す」という役目と責任を背負い生きて行くということだと思う。

そして「苦しい方」ばかりを選んできたからこそ、こうして生きて、最初になりたかった先生になり教壇に立っている。

極端な例の私自身の話になってしまったが、今後、戦争がまた無い限り、君たちに「死を覚悟するほどの苦しい選択はまず無い」と思う。

しかし「人生でどんな難関に出会っても苦しさから逃げない」「何事も挑戦して乗り越えて行く」という気持ちを持って生きて行ってほしいと思う。

そのことを忘れそうになったら先生のこの話を思い出してほしい。』

というような内容の話だったらしい。

 

色んな受け取り方の出来る話であると思う。

先生は死に近い方の選択ばかりをして来られていたのに、生き残ることが出来たのは、教師になるという役割(運命)を与えられていたからだろうと私は思う。

勝手な想像だが、卒業後すぐに先生になられていても空襲からも生き延び、教師を続けられていたかもしれない。

しかし先生は苦しい道をご自分で選んで、多くの辛苦と能動的に立ち向かわれ、その経験を糧にしたからこそ、より奥行のある経験豊かな逞しい先生になられたのだと思った。

また特攻隊など生死に関わる選択であっても「苦しさから逃げない」という己の信念を貫かれた姿勢は、現代の平和な日本では到底考えられず、男として「その生きざま」に心震えるものがあった。