2018年10月

2018年

10月

31日

今さらですが、話し上手より聞き上手

誰もが知っているようなセオリーを、なぜだか知ることなく、この年まで来てしまった。

本日のタイトルでもある「話し上手より聞き上手」のことである。

私をご存知の方はすでに承知してくださっているだろうが、私は人の5倍ぐらいお喋りな人間である。だからビジネスにおいても、コミュニケーションにおいても、会話を重要視していて、会話は他人から評価される事柄の一つだという認識であった。

そのため、会話の中に出て来たキーワードに反応して、はいその事には精通していますと自分の知識を披露してみたり、はい私も同じような事を経験していますと自分の体験談を長々と話してしまったり、不満や悩みを訴える人には、すぐさま解決策を提案したりしていた。要するに、自分が会話の主導権を握り、自分の言いたい事を一方的にマジンガントークする、大阪の社長にありがちなタイプの人間だったのである。

こういう自己中心的なトークをしてしまうようになったのは、元もとガキ大将的な物の考え方があったのと、私の一方的な話をニコニコと聞いてくれていた早逝した母からの溺愛が原因かもしれない。

しかしながら、新規事業でサ高住を運営するようになり、高齢者の方々や女性スタッフ達と接する機会が急激に多くなり、今までの自分のやり方だとダメだと感じるようになった。

私に足りてなかった部分は「共感」なのである。

いや、言い訳すると共感はしていたつもりなのだが、自分の経験や意見を述べる手法で共感していたのだが、しかし今思えば「共感していたつもり」だったのかもしれない。

共感する(相手の立場になって考える)には、まず相手の話に口を挟まずじっくり聞くことである。(←これが不十分であった)。

さらに相手が話してくれた状況や感情を、自分の言葉に置き換えて返すと、「あぁ、ちゃんと伝わった」と相手もひとまず安心してくれる。

こういう部分がこれまで私には欠如していた事を、恥ずかしながら近年知った。

 

最後に一つ、皆さまにクイズです。

Q、下の3つのコミュニケーションは、会話の際に相手に影響を与えますが、その影響の割合を答えなさい。

・言語的コミュニケーション(話の内容等)

・凖言語的コミュニケーション(声の大きさ・声のトーン・話すスピード等)

・非言語的コミュニケーション(表情・姿勢・態度)

 

A、

・言語的コミュニケーション(話の内容等)7%

・凖言語的コミュニケーション(声の大きさ・トーン・スピード等)38%

・非言語的コミュニケーション(表情・姿勢・態度)55%

なんと話の内容以外が93%なのである!

 

2018年

10月

07日

ふと回想

私が始めて格闘競技を習ったのは小学校4年生の時に少林寺拳法の門を叩いたのが始まりである。きっかけは近所の一つ上の友人である石野君が先に習い始めていて、私も話を聞くうちに興味を持つようになり、誘ってくれたからである。

私は小さい頃は、母からの結核の母子感染もあり、病弱であまり健康な方ではなかったような気がする。しかし私がやりたいと言ったことは何でもやらせてくれる両親であった。

少林寺拳法を始めた頃から前後して、結核は偽陽性になり、年々健康になっていった。

中学2年生まで少林寺拳法を習い、柔道に転向する時も両親は「自分の好きなようにしなさい」の一言であった。

今、思い返すと中学を卒業するくらいまでは、私は何事にも中途半端であり、両親もまた、そんな息子に兎や角言うこともなく、自由にさせてくれていた。

しかし天理高校柔道部に進学が決まった時、私は初めて、父から厳しい言葉をもらった。

「母の死に目には会えない覚悟で行け!」(不安の哲学>>)

この瞬間の事は今でも覚えており、はからずも実際そのようになった。

この時初めて「男の人生は中途半端な事ができない」という想いが私の中に湧いた気がする。

その後、高校3年間である程度の実績は残せたが、私は柔道で食べていけるほどの才能は無いという事実を薄々と、そして次第に切実に自覚するようになっていた。

それと並行して、左右田鑑穂社長(現:東建コーポレーション(株)代表取締役社長兼会長)との出会いがあり(天才たち>>)、強烈な憧れがあり、その結果、自分の中で進みたい道が明確になり、「高校を出たら社長の会社に就職させてください」と社長に申し出た。

しかし答えは「NO」であった。「高卒ではこれからの社会では通用しない。まずは大学へ進学しなさい」とのお言葉であった。

その後、大学へ進学したものの、一日も早く社長の下で学んで立派な経営者になりたいという思いが強く、中退し社長の書生をさせていただくことになった。

日本体育大学の寮から父に電話を入れ、大学をやめることを告げた。父から返ってきた答えは「自分が決めたことや。好きなようにしたらいい!」であった。

父は、私が大学を中退するため大学柔道部のH監督のところへの事情説明とお詫びに行くとき同行してくれた。

また、左右田社長と天理高校柔道部で同級生だったH監督も、「左右田に憧れてのことか!よし分かった!」の一言で中退を認めてくださったのである。

今日は徒然なるままに、私の半生を綴ってみた。