2015年

9月

27日

十五夜の告白

先般、土曜日の夕方から関連先も交えた会議が当社であった。

土曜日は女性社員が出勤していないので、手の空いた私が会議用のお茶菓子を買いに出た。

会社の近くにあるいつもの和菓子屋に行くと、入口のガラスに「月見だんご予約受付中」と張り紙がしてあった。

それを見てまた今年も、生涯忘れることが出来ない月見の日の出来事を思い出した。

 

私が物心付いた頃には、すでに母は闘病中だったこともあり、そして母自身が若かったこともあり、我が家では季節の伝統行事はほとんど行われなかった。

しかし何故だろうか、今となっては聞くすべもないが、お月見だけは母が一時帰宅している限りは年ごとに行ってくれており、幼稚園児の時からの月見の記憶がある。

当時、父は12時間隔週昼夜2交代制の工場勤務だったので、昼の勤務の時であっても仕事が終わる時間が遅く、私の起きている時間にはほとんど帰宅出来なかった為、記憶の中の月見は大部分が母と二人きりのものである。

母は一緒に月を眺めながら色々な話をしてくれた。

月の表面の模様がウサギの餅つきに見える話から、自分の生い立ちや子供時代の話まで、私の年齢に合わせた話をその都度聞かせてくれた。

 

中でも小学3年生の時の母と二人の月見は生涯忘れることが出来ない。

今思えば、絵に描いたような月見の風景だったように思う。

満月の見える窓を開けて、小さなテーブルの上に、近所で採ってきたススキを生けた花瓶と月見だんごを盛った皿が飾られた。

当時は今と違い、泉南は大阪の田舎ということもあり空気も澄んで、街灯や照明類も少なかったので、今よりも月が煌々と神秘的に光っていたように思う。

 

母は月を見ながら、私を生んで暫くしてから「重い病気になったこと」から語り始めた。

 

母の入院する病院へ祖母に連れられてお見舞いに行くことが日常的に多かったので、子供ながらに母が簡単ではない病と闘っていることは、漠然と分かっているつもりでいた。

しかし改めて母の口から直接「すごく重い病気に罹っていること」、「物心のつかない内から何度も親戚に預け、私に寂しい思いをさせていること」、「たとえどんなに苦しくてもなるべく自宅に居て私と1秒でも長く一緒に居たいと願っていること」、「これから医学が余程進まない限り、私が大人になる頃まではもう生きていないと思うこと」などを聞かされた。

この世が終わって自分自身も消えてしまうと思えるほどの衝撃を受け、全身が震え出しそうな不安に襲われたこと、哀しみが溢れ出そうになったことを今も鮮明に思い出す。

自身が決壊しそうになり、私は母に

「何も聞きたくない、何も見たくない、何も考えたくない」と言った。

双眸に涙を浮かべ泣くのを堪えている母の顔を見ていると言えなかったが、「母が死んだら一緒に死にたい」と本当は言いたかった記憶まである。

しかし気丈にも母は、泣き出しそうになる私に「男の子は私が死んでも泣いたらアカン」と言い放ち、最後に「ごめんね」と一言ポツリと言って無言になった。

 

この後、母は年々、腎機能が低下して入退院の頻度を増していき、ここから数年先には人工透析を始めるまでに進行して行った。

そしてこれが最後の自宅での「母と二人の月見」になった。

 

2015年

9月

20日

PRしよう!

「良い物や良いサービスを安く提供すれば、口コミだけで、お客さんは自然に集まる。」

という時代は、もう終わったと思う。

それが通用するのは、他社がどうしても真似ることが出来ない独自の商品やサービスを持っている一部のトコだけだろう。

昔は口コミが人々の主たる情報源であったが、現在はWEBにCMに新聞広告、折込み広告、ダイレクトメール、ポスティングやら情報洪水の時代である。また、グローバル化された現代の市場は供給過多である。

そんな中、口コミだけを頼りに慎ましやかに口を閉じたまま、自社の商品の良さを分かってくれるお客様を待つやり方は、もはや通用しなくなった。

せっかく良い物や良いサービスを生み出しても世間に知ってもらわなければ無いも同然。また一度は知ってもらえても忘れられてしまうと、無いも同然。

そう思い、当社はPR活動にも力を入れている。

 

例えば年末になると挨拶を兼ねて出来る限りの皆様方に社名入りの「卓上カレンダー」と一年のお礼の文をご送付させて頂いている。卓上カレンダーならば年初より1年間に渡り使ってもらえるので、効果的に社名をPRすることができると思うからである。

次に初夏前に社名入りの「扇子」をご送付せて頂いている。昔ながらの物ではあるが、近年、地球温暖化が進む中、夏場において結構な人数の皆様方からご好評をいただいている。

ある日、電車の中で見知らぬ人が当社の扇子を使われているのを目にし、思わず「ニャー」っと笑んでしまった経験がある。

もちろん上記以外にも2か月に一度、商品パンフレットを社名入りの「アメニティ」などと一緒にご送付させて頂き、常に皆さまの記憶の中に留めておいて頂けるように努めている。

需要が出来たときに、パッと丸竹の名前が一番に浮かんで頂けるのが目指すところである。

企業PRは継続することが重要であろう。

また更に多くの方々に自社のことを知ってもらうためのPR活動としてHPとブログが欠かせないアイテムである。

HPは情報を求めている人に24時間365日PRをしてくれるものなので、営業所を1つ構えるぐらいのつもりで予算をかけて肉厚の内容で製作している。

(情報量をかなり多くし過ぎてしまい、欲しい情報の在処が見つけにくくなってしまったのが難点だろうか!?)

また企業HPだけでは説明しきれない「社会に対する姿勢や理念」「私の人となりや考え」を知ってもらうのにブログが役立っている。

 

当社のHP等を見て、親切なお得意様から

「こんなことまでに書いてしまうとノウハウを真似されませんか?」と、ご心配を頂くことがよくある。

しかしノウハウを隠すあまりに自社のPRが適切に出来ず、お問い合わせや商談が無かったら意味が無い。

それに同業他社も日々「見直し」や「技術の向上」に邁進しているであろうから、ノウハウを隠していても、数ヶ月、数年で賞味期限切れになるだろう。それならば自社のノウハウを潔く公開して優位性を広くPRした方が良い。

ノウハウを公開した時点で、類似品が次々に出てくるのは覚悟の上なので、さらにその上を行く製品やサービスの開発に次から次へと間断なく取り組んで行かなければならない。

 

それと新規事業のサ高住「フラワーホーム」であるが、今年の春頃に事前案内ハガキを全国発送させて頂いた。加えて進捗状況を都度都度HP上でお知らせさせて頂いている。

進捗状況や建設の過程も含めて、開設に向けての様子を多くの方々に見て頂くことで、少しでも関心を持って頂け、記憶の片隅にでも留めて頂けたら有り難いと思う。


 

フラワーホーム進捗状況のご報告をUPしました。写真を多数掲載しております。


詳しくはコチラ>>


2015年

9月

13日

自分の背丈以上のことはしない

 

「ある面、堅実すぎるのかもしれませんけども、自分の背丈以上のことはしない。大きな多額の投資をしなければいけないような事業には、できる限り参入しない。スケールは大きく計算は緻密に、というのが私の経営の信条だと思います」

 

これは尊敬する師である東建コーポレーション(株)の左右田鑑穂 代表取締役社長兼会長が先般【ナショナル・アントレプレナー・オブ・ザ・イヤー2014】(起業家表彰制度)のファイナリストの表彰を受けられた時の受賞スピーチの一部分である。

 

さて当社は創業60周年を期に、「第二の創業」という命題のもと、新規事業である総合訪問ステーション「フラワーナース」を7月から開始した。

サービス付き高齢者住宅「フラワーホーム」の方は、11月のオープンに向けて現在建設中である。

ところで最近よく皆さまから「土地と建物でいくらぐらいの費用が掛かりましたか?」、「これだけ大きな投資をするにはすごく勇気が必要だったでしょう!?」、「一世一代の大勝負に打って出ましたね!?」等のご質問やご感想をよく受けるようになった。

今回はこれらのご質問にお答えする形でブログを進めたいと思う。

 

まず「一世一代の大勝負」・・・とは、少しも思っていない。

師のスピーチにもあるように、新規事業が上手く行かなかった場合に、会社が傾くような自分の背丈を超える規模の事業はしてはいけないと心得ている。

どう転んでも屋台骨が揺るがない範囲内の経営に納めなければ、お客様や社員、スタッフ、当社に関連する人々への責任が果たせない。

博打打ちは「どのようにして勝つか」としか考えないが、経営者はそれに加え、ウンザリするぐらい負けた場合のことも考えて、その勝負がいくら魅力的であっても企業生命を奪ってしまう可能性のある勝負ならば、してはいけない。「大きくなる」ことより「続けること」の方が大切であると私は考えている。

 

次に投資したことへの勇気であるが、これについては、私にとって全く勇気では無く、むしろ不安からである。

内外の景気動向や市場競合状況で厳しい経営環境になった時のことを考えると、会社の柱となる事業を増やしたいと考えるのは当然で、何もしない事の方が私にとっては不安なのである。

単一事業に特化して専門性を高めながら事業展開をして行く道もあるが、どの業界にも必ず「回復、拡大、後退、悪化」の景気のサイクルがあるので、一つの分野の事業収益の低下をその他の事業が支えることのできる多角経営の方が、不安症の私はより安心できる。

また新規事業であるサ高住の方の視点から考えると、既存事業の収益があるぶん軌道に乗せるまでの期間も余裕を持って構えることが出来るし、想定外の事態にも広い度量を持って対応することが出来る。また建築基準法で定められている基準以上の高層マンション並の耐火性能を備えたり、ストレッチャーに対応できる大型エレベーターを設置するなど、お金をかけるところにはシッカリかけて、ご利用者様の安全面や満足度に努めることが出来る。

 

この新規事業が、低迷してしまった既存事業の打開策としてのものや、自分の背丈を越えた事業であったならば、今ごろ私は不安だったかもしれない。

しかしそうではなく、より一層堅実に経営し、私の信念である三方良しを体現化して、「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」で当社に関連する全ての人々の幸せを追求して行くためである。

8年来の計画が実を結び、いよいよ11月からはサ高住が本格スタートする。

身の引き締まる思いでありながらも、いま私は新たな船出を前に希望に燃えている。

 

2015年

9月

06日

戻りたくなぁい~!!!

先月、私の出身校である天理高校のプチ同窓会があった。

柔道部だけの集まりならば年に数回はあるのだが、今回はラグビー部も合同でということで、卒業後に初めて再開する同級生も多数いた。

20名ほどの小さな集まりではあったが、懐かしさが込み上げ、学生時代の昔話や近況報告に大輪の花が咲いた。

私の記憶の中の皆の顔は、ニキビ面、脂顔、赤ら顔の「青年の顔」だったが、

35年ぶりに会った皆は、しっかり「オッサンの顔」になっており、めいめいに味のある皺が刻まれていた。

各々の人生の道のりを語り合えば合うほど、その皺の1本1本が、卒業後に皆がそれぞれに活路を探し求めながら、多くのものを背負いながら、真剣に人生を歩んで来た証であるように思えた。

自分が経験しなかった道も、同窓だからこその飾らないアリのままの話を聞けて、教わることや考えさせられることも多かった。

 

物故者への黙とうから始まった会であったが、幹事の「乾杯!!」の掛け声と同時に参加者全員が18歳に舞い戻り、まるで高校の休み時間のような雰囲気となった。

大人になってから付き合い始めた者同士では絶対に使用できないような当時の酷い「あだ名」が飛びかい、また失礼な言い回しの連発であり、言いたい放題であり、「究極の無礼講」という表現がぴったりの状態へと突き進んで行った。

しかし一人として怒り出すような洒落っ気の無い者は無く、誰からともなく

「傍目から見たら、疑問に思うくらいの仲の良いオッサンたちの集まりだろうな!」と言い出す始末であった。

しかし年齢とは残酷なものである。

自然の摂理で、一次会の2時間を過ぎるころには、53歳の男たちの体力とテンションには陰りが見え始め、2次会からは酒がお茶に変わり、爆発したような大騒ぎも消え失せ大人しくなり、2次会はカラオケボックスに行ったが、誰ひとりとして一曲も歌わなかった。

そして近くに座った者同士で、3歩進んで2歩下がる状態の四方山話となった。(笑)

その時、誰かが皆に向かって

「学生時代に戻りたい人いる~?!」と声を上げた。

もちろん・・・

「絶対に戻りたくなぁい~!!!」

見事に全員が声を揃えた。(大笑)

 

しかしこの皆の「絶対に戻りたくなぁい~!!!」という答えには、自分自身の学生時代を否定する意味合いは皆無といってよい。

「クラブの練習より辛い仕事は未だかつてしたことはない」とか、「試合のプレッシャーに比べれば仕事のプレッシャーは軽いものだ」と皆が本気とも冗談ともつかない調子で言い合っていたが、その言葉通り、厳しさや苦しさの凝縮と言って過言ではなかったクラブ活動をやり遂げたことが自負と自信になり、それがあるからこそ今現在の自分があると皆が感じているのである。

そしてその環境を与えてくれた母校に感謝する気持ちを皆が持っている。

「絶対に戻りたくなぁい~!!!」は、卒業後、皆それぞれに信念を持ちながら歩んで来たこれまでの道のりと今現在の自分自身を最大限に肯定する言葉なのである。

 

この後、体力がまだ少しながら残っていた者が数名(笑)、老体に鞭を打ちながら3次会に「赤ちょうちん」へと向かった。

そこでの話題も、もっぱら学生時代の話であったが、最後は「健康」についての話で締めくくられた。

 


*この度の会を発起し、お世話頂いた幹事の皆様に深謝申し上げます。ありがとうございました。