2015年

7月

26日

二宮金次郎と母

新聞の記事で見かけたのだが昨今、二宮金次郎氏(本名 尊徳)の社会的功績に改めて光が当てられ、再評価されているらしい。また記事には、一度は銅像を取り払った学校も再設置したり、無かった学校は新調したりと、全国で様々な形の動きが起り始めているとあった。

それに伴い書店でも関連書籍が目立つようになり、文部科学省も昨年から全国の小学校に配布している道徳の教科書に二宮金次郎氏を再登場させたらしい。

 

さて15年ほど前の話であるが、当時、入会させて頂いていた都内の異業種交流会で、同年代の者ばかりを集めた世代別の分化会が有った。

その席上、「各々が通った小学校に二宮金次郎像が有ったか?無かったか?」という話題になった。

都会生まれの会員が冗談交じりに、

「田舎の学校には有ったらしいけど、都会の学校には無かった」と言い出した。

そこで、有ったか?無かったか?挙手することになった。

私は迷わずに「有った」に挙手した。

“田舎の学校には有った”という先ほどの会員の言葉通りの展開に、「やっぱり!」というような顔でみんなが私に愛嬌のある笑顔を向けてきた。

垢抜けた都会の人達は、だれも「有った」に手を挙げていなかったので、私自身も「やっぱり!!」と笑った。

 

私が通った小学校は、大阪府の南部に位置する泉南市立樽井小学校という所である。

今でこそ関西空港が設置され、新しい道路や高速道路、各種インフラも整い大規模商業施設も多くあり、俗にいうところの「田舎」ではなくなったが、私が小学生だった頃(昭和40年代初頭)は、海や川も近くにあり、見渡すばかり茄子やキャベツ、玉ねぎ畑の「ド田舎」であった。しかしその分、海、川、山野を遊び場とし、伸び伸びと育ったものである。また田舎ならではの「釣り」「蓮華や土筆摘み」「竹の子狩りやまったけ狩り」「秘密基地ごっこ」「川の関止めごっこ」等、楽しかった思い出がたくさんである。

それと今では都市伝説みたいな話だが、小学校の校庭には、立ち入り禁止なっていたが戦争当時の防空壕があった。

ちなみに都会にほとんど金次郎像が無かったのは、戦時中、軍事物資の不足を補うための「金属供出」が原因で、校庭から消えて行ったらしい。

 

「二宮金次郎像」と聞けば、毎回想い出しては笑みが零れそうになる母との記憶がある。

小学校の入学式の日、母に付き添われて初めて校門をくぐった。

すると設置されてある二宮金次郎像がすぐ目に入った。

私はその像を指差し「これ何?」と尋ねた。

すると母は

「これは本を読みながら道を歩いてて、車にひかれて入院した二宮くんの像や!」

「本を読みながら歩いたら怪我するで!」

と教えてくれた。

それを聞いて私は「ヒャッ!」と驚き、絶対に歩き読みはやめておこう!と子供心に誓った。

その後、小学4年生の時に道徳の教科書で初めて本来の二宮金次郎氏の事を知り、その時も

「ヒャッ!!うそぉぉ!!?」と驚いて、面白可笑しい気持ちになった。

「おかん!俺をだましたやろ!」と嬉々として責めたかったが母は入院中だった為に、代わりに父へ事の顛末を報告し、父息子で大爆笑した思い出がある。

母はたぶん本当の事は知っていたとは思うが、「苦労しながら勉学し成功した人よ」と言うより、「本を読みながら歩いてて車にひかれた人」と言う方が、大人の言うことを聞かないうえ、注意力散漫の悪ガキだった私には効果があると考えたのだろう。

さすが母親、効果覿面であった。(笑)

 

ちなみに最近の二宮金次郎は座っているらしい!

 

2015年

7月

20日

あともう少しだけ若いころ働いておけば・・・

「立花、若い頃はいくら遊んでもいい。どんな事にチャレンジしてもいい。しかしなぁ~、あともう少しだけ若いころ働いておけば良かったなぁ~と、最近になって時々思う」

 

これは、師である東建コーポレーションの左右田鑑穂社長に、この春お会いさせて頂いた時に掛けて頂いたお言葉である。

 

ここで左右田社長のエピソードを一つ、紹介させて頂きたい。

すでに何度か書いているが、私が左右田社長に御縁を賜ったのは、天理高校2年生、17歳の時である。その後、大学を中退し、刈谷市にあった左右田社長のご自宅で、しばらくお世話になっていた時期がある。

左右田社長が30代前半、私が20歳ぐらいであった。

その頃、左右田社長はギター(確かギブソンとかリッケンバッカー)を嗜まれていて、毎晩のように仕事の後にはスタジオに練習をされに行き、そしてその後には決まって何軒も飲み歩きをされ、私も、そのどちらにもお連れ頂いていた。

そんな一見いつも通りの日々が続いている中、左右田社長は、自身の体調の異変を感じられたのか、体温を計ってみると39度~40度近い高熱であった。

学生根性が抜け切っていない私は、「熱があれば仕事は休み」くらいにしか考えていなかったが、高熱が出ていると判明したその後も、左右田社長は普段と変わらず仕事を続けられ、なんとその後もいつものように「ギター」と「飲み歩き」に私をお供に出かけられた。

その後も熱の下がらぬ日が続いたのだが、左右田社長は、いつも通りの日々を続けられ、傍目にもいつもと変わらぬように見えた。

しかし2週間ほど経っても熱が下がらないので、2~3日検査入院をされることになった。

入院中も病室には会社から書類の山を持ち込み、仕事をされていた。

色々な検査が行われたが、結局どこも悪い所は見つからず、熱が下がらないまま社長は退院され、会社に戻られた。

 

当時、東海ラジオ局の方が、左右田社長が番組を提供されていた関係で、本社をよく訪ねて来られていた。

ラジオ局の方の「大丈夫ですか?」の質問に、左右田社長は高熱があるにもかかわらず笑って

「知恵熱ですよ!薬代わりにお酒を飲めば治りますよ!」と御答えになっていた。

 私は、社長のその返答を聞いて、なんてカッコイイのだろうか!と、大変昂奮した。

もともと精力的で並外れた体力があったから寝込まずに済んだという事もあるのだろうが、40度近い熱が出てしんどくない人間なんていない。

しかし左右田社長は、本当はしんどく苦しくても、なんてことないように振舞うことが出来る精神の強靭さも持っていた。

寝込む間も惜しんで豪快に遊んで、人の何倍も働く強靭な男!

ここ一連の社長の姿を間近で拝見していたハタチの私は、左右田社長が「超人」か「ヒーロー」に見え、ますます憧憬の想いは高まり、左右田社長のような男になりたい!と単純に心から思った。

青二才だった私は、それ以上のことについては思考が及ばなかったが、50代の経営者となった今、改めて私が想うことは、

経営者というのは、入院をしている最中も、遊んでいる最中であっても、どんな状況に置かれようとも、会社のことが常に頭から離れず、会社と自分とは切り離すことの出来ない一体のものになっているという事。

入院中ぐらいゆっくり休んだ方が良いと頭では分かっていても、仕事をせずにはおれない経営者の性(さが)。

会社を成長させればさせるほど、自身の肩に背負う多くのモノは重さを増し、気を緩め精神を解き放つことなど会社を辞める日まで来ないのである。

そして「己に対する厳しさと信念」を持っていれば持っているほどジッとしておれず、仕事と向き合わずにはいられないのである。

私が50代近くになってようやく至った心境に、左右田社長は遙かに若い時から到達され、今日に至るまで一度も仕事に対して力を抜くことなく、信念にブレが生じることもなく、邁進され続けているのである。

 

冒頭の「あともう少しだけ若いころ働いておけば良かった・・・!」は、このようにして一分の隙も無いほど猛烈に生きて来られた左右田鑑穂社長のお言葉である。

 

(結局高熱は、確か1か月は掛からなかったように思うが自然に治癒された。)

 


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2015年

7月

12日

大人の精神 子どもの精神

 先月17日、選挙権年齢を「20歳以上」から「18歳以上」に引き下げる改正公職選挙法が、参院本会議で全会一致で可決、成立した。

実に約70年ぶりの改定だそうである。

しかし少年法の規定はそのままで、あくまでも20歳以上が成人であり、19歳以下は未成年である。19歳以下の飲酒や喫煙は、健康被害と非行化防止の理由から見送ったとの記事を新聞の一面で見た。

私はこの記事を読んでいて、あることを思い出した。

 

話は約35年前に遡るが、天理高校3年生の時に同じクラスに、アメリカからの留学生がいた。

彼の名は(故)森下二郎ジェームスといい、アメリカ国籍でロス生まれロス育ち。そして実は彼の父親は、ロサンゼルスの天理道場創設者 森下 敬吾(7段)であった。

3年生で同じクラスになるとすぐ、彼の片言の日本語と、ほとんど通じない私の英語で話すようになり、一月も経たない内に打ち解けて、気が付くと仲間になっていた。

休み時間に毎日のように話題に上るのは、「アメリカの女の子」の話で、私の数々のアホな質問に彼は付き合ってくれた。笑 

青春の1ページである。 

彼は、私の18歳の誕生日が近いことを知ったある日、

アメリカでは18歳から選挙権があること、そして飲酒も喫煙も18歳から出来ることを教えてくれ、

「タチバナはアメリカだったら、モウおとなダヨ!」

と笑顔を向けてくれた。

その時、私は、日本では選挙権が貰えるのは20歳からだと話し、

「18歳で酒飲んで、タバコ吸えば、アナタもワタシもポリスにツカマリマス!」

と返答し、二人で大笑いした記憶がある。

このように親交を深めて行った訳だが、ただ一つ、私が何度聞いても答えてくれなかった質問があった。

それは

「アメリカ人の二郎ジェームスから見て、当校の英語の先生の発音はどうか?下手くそではないか?」という質問であった。

英語の成績が悪かった私は、本場の発音で話すジェームスが先生の発音に低評価を付けるのを聞いて痛快な気分を味わいたいという よこしまな心があったのだが、いつ聞いても、彼は眉を上げてニコリと笑うだけで、決して先生を否定するような事を最後まで言わなかった。

今思えば、彼はすでに精神が大人であり、反して私は、精神が恥ずかしいまでに子供であった。

 

「10代は投票するには未熟すぎる」「18歳では、まだ子供で正しい判断能力がない」

こうした意見があるのは、私の18歳の頃を考えれば、もっともだと思うし、ジェームスが見せた思慮から考えれば、18歳は未熟だという声に反対したくもなる。

 

色々と書き連ねたが、我が国では18歳から政治に参加出来るようになった。

若い人たちの間でも政治が身近なものになり、10代の意見を政治に反映するため若者の投票率が上がれば、将来を担う若者の為の長期的な政策を打ち出す人が増えてくるはずである。

こうなれば明るい日本の未来が見えてくだろう

と期待したいところである。 

 

2015年

7月

05日

私について

私は、PDFを天地が逆向きのまま添付してしまったり、洋服のデザインをよく確認しないまま購入し自宅に帰れば全く同じ服を持っていたなど、人並み外れた大雑把な部分もあるが、自分の拘りがある部分については、大変な神経質である。

特に掃除については病的に神経質で、

1か月に何度も空気清浄器やエアコンを分解掃除するし、1日に何度も窓ガラスや机の上を拭く。

「あっ!玄関の前の草が伸びている」と気づき、それが気になりだすと、いても立ってもいられなくなる。

事務所に落ちている髪の毛1本を発見し、それが気になりだすと、どんなに忙しくとも、クルクルローラーを片手に持って歩き回らずにはいられないのである。そうしているうちに、他にも掃除をしなければいけない場所を連鎖的に発見し、そうなるとそのままにはしておけず社員たちを駆り出して、自分が納得するまで掃除をしてしまう。

付き合いさせられる社員の方はさぞかし大変であろうと思う。

特に側近の取締役たちは、気の休まる日が無いのではないかとさえ思う。(感謝しています)


掃除だけに限らず、「何か」が気になり出したらそれを解決するまで気が納まらず、明日までに返信をしなければいけない書類の山に追われている時でも、書類に手がつけられない。

もちろん明日までに書類を仕上げるのは大前提で、それより先に気になる問題を解決し終えて、そこから書類に取り掛かるものだから、仕事が終わったのは明け方だった・・・なんてこともよくある。

計画の瑕疵に気が付くと、例えその瑕疵がほんの些細な事でも、その解決策を見つけられるまで気になって気になって眠れなくなる。

気になることを後回しに出来ないこの性質は、精神的にも肉体的も苦しくて、自分自身でもほとほと嫌になる。

・・・と、このような話を友人にしたところ、

優先順位1位は何か?と考えるようにしたらどうだ?」と言われた。

しかし私にとって、大きな計画を共なった事業も、目の前の書類も、玄関の草抜きも、どれも優先順位1位なのである。

「些細な瑕疵や、今すぐする必要のない掃除にこだわって、そこばかりに神経が行ってしまうと、木を見て森を見ずにならないか?」

と言われたが、『大事は小事より起こる』という「ことわざ」もあるように、小さな事でも気が付いた時にスグ対処せず後回しを繰り返していれば大きなことへ影響するかもしれない・・・と思うと、何も後回しに出来ず、結局は同時進行で時間に追われながら全部ヤルしかない・・・となるのである。

そう嘆くと友人は

「どうしようもないな。体を壊すなよ」と呆れて笑ったが、

よくよく考えてみると、体に無理をしてでも「優先順位 全部1位」を続けてくることが出来たのは、今まで健康であったからだ・・・とハッと気が付いた。

そしてこの性質をすぐには変えることが出来なくても、そろそろ「健康」だけは優先順位1位に考えようと思う気持ちになった。

以前にも書いたが、徳川家康が江戸幕府300年の礎を築くことが出来たのは、家康が健康に気を使う人物で長寿であったということが一因として否めない。

長く健康に生きれば、そのぶん多くの時間が手に入る。

多くの時間が手に入れば、その分やりたいことが出来る。

今年度4月から丸竹は「第二の創業」と位置付けてスタートを切ったばかりである。そのことから考えても、経営者である私が健康な精神と体であることが「丸竹100年の礎」になると確信を持った次第である。

 

ちなみにブログも、書きたいことが同時にいくつも浮かび、どれも後回しに出来ず、ワードを5、6個開けて、それを同時進行で数行ずつ数回に分けて書いている。



 

今月1日より無事、

『総合訪問ステーション フラワーナース』の一般受付を開始いたしましたことを、

お知らせ申し上げます。


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