2015年
6月
28日
日
信念のない仕事は空疎である
先般、『南海難波駅で陸上自衛隊が大型不発弾を撤去!』という記事を新聞で見かけた。
第2次世界大戦中に米軍が落とした不発弾の中でも強力な部類であり、1トンもある爆弾であるらしい。
破片は半径1キロメートルの範囲で飛散する可能性があり、半径300メートルに渡り立ち入り禁止にし、住民を一時避難させた状態で撤去作業が行われたと記事に書かれていた。
過去にも不発弾の記事は何度も見かけたことは有るが、今回はいつも市内に出る時に利用する南海電車いうこともあって関心をひかれ、紙面を読んだ後、ネットで詳細を調べてみると、驚きの事実を知った。
まず信管は経年劣化により生きてはいないと思うが、爆発の可能性はゼロではないこと。
そしてもしこの1トン爆弾が爆発したら地面に数十メートルの大穴が開くこと。
過去5年間だけでも256.7トンの不発弾が全国各地で見つかり処理されたこと。
防衛省の推計であるが、まだこの他にも全国で未発見の不発弾が2,000トン以上有り、今後も全国各地で処理が行われること。
また過去に不発弾処理中に爆発して、負傷者が出たことがあること等である。
幸いにも不発弾処理は陸上自衛隊 第103不発弾処理隊 猪原卓也隊長の指揮と隊員の方々のご尽力のもと無事に回収された。
が、不発弾処理は自衛隊員の任務といえ、地面に大穴が開くほどの爆弾の処理とは何と危険な命がけの仕事であろうか!?
昨年、「仕事とは」でも書いたが、自衛隊や消防隊員や警察官の方々は、命を落としかねない状況の中でも自らの危険を顧みず、自分の職務を遂行されている。
この歳になって考えることだが、自分自身がもしこの立場になったら命を顧みず勇気を持ってこのような仕事に従事することが出来るであろうか?と思った。
その時、頭に浮かんだのが「信念」という言葉である。
「国民の安全を守る。そのことにより社会に貢献する」という信念。
この「信念」なしには、いくら命令されても、いくら給料をもらったところで遂行できないだろう。
信念が無ければ仕事は単なる労働である。
自分の人生の大半の時間を費やす仕事が、「単なる労働」で「単に生計を立てる手段」とは虚しい。
信念のない仕事は空疎である。
では信念とは何なのだろうか?
自分が仕事を通して何をしたいのか?そのマクロ的な目標。
それが信念だと私は考えている。
私自身の信念は「三方良し」である。
自衛隊員の方々のように「命を顧みず」とまでは出来なくても、私は私の仕事と役割に信念を持って邁進し、少なからず社会に貢献出来るよう精進を重ねて行かなければならないと、この度のニュースを見て、改めて誓った次第である。
今回、色々調べた中の余談だが、不発弾処理を行った場合の特殊勤務手当は出動1回につき5,200円と定められているそうだ。
崇高な信念をお金の金額に換算するのは良くないとは考えますが、あまりにも安すぎるので国会議員の方々・防衛省の首脳の方々。
特殊勤務手当の増額を要求いたします。
中小企業庁の「平成26年度補正 ものづくり・商業・サービス革新補助金」の採択事業に、
当社の新規事業計画(前切り自動梱包機の導入による土木用フェルトの製造コストの低減)が採択されました。
2015年
6月
21日
日
全員営業
「不確実性」という言葉が、現在の激しく変化する経営環境の代名詞として多用されるようになる中、この厳しい環境を乗り切る為の「生き残り施策」として、「全員営業」という言葉が、規模の大小を問わずどこの企業でも、以前にも増して益々声高に叫ばれるようになってきた。
ご多分に漏れず、当社でも社員数が増え始めた10年ほど前より、色々な形で取り組みを行っている。
そこで今回は、「全員営業」について今後の深化を重ねるため、現状を考察してみたいと思う。
<社長の営業>
まず「全員営業」と言うからには、社長である私が自らの汗で先頭に立つことはもちろんで、金額ベースでも目下私が当社のトップセールスマンである。
以前にも書いたが、人と人の関係には「真実の付き合い」と「実用の付き合い」があると私は考えている。用件が有っても無くても顔を出したり、連絡を取ったりして、相手のことを心に掛けるのが「真実の付き合い」、反対に用事がある時にだけ付き合いをするのは、私の造語だが「実用の付き合い」と呼んでいる。
営業の基本は「真実の付き合い」だと考えているので、もうお取引が無くなってしまった会社の方々、廃業された方々、退職された方々にも、現住所の解る範囲で年に約1~2回、手土産やパンフレットを持参し、感謝を込めて現状報告をしに行かせて頂いている。
亡くなられた方にはそのご家族に、命日の月に毎年お花を送らせて頂いている。
これらの行為が直接的な利益に結びつくわけではないが、困っていた時に力添えをしてくださったり、助け舟を出してくださったりした事もあり、あちらこちらに「繋がり」があるというのは会社を経営して行く上で心強いものである。
また、たった一言でも当社を評価する言葉を外側に向けて話して下さった方たちのことを、不肖失礼ながら当社の「営業マン」「営業ウーマン」だと思わせて頂いている。(スミマセン!)
<事務職の営業>
情報を共有すれば、事務職員の電話対応一つとっても、「伝言」ではなく「営業」にすることが出来る。実際に当社の総務部長は、注文の電話を同じ担当者から何度も受けているうちに世間話を交えるようになり、そうなれば接待させて頂こうという話になり、そんな訳で営業職に係らず一般職も交際費を使えるように変更した。
<工場職の営業>
当社のよく売ってくれる営業マンたちは各製造部門の責任者でもあり製造業務にも就いているが、工場で働く皆が皆、外に出て営業するわけではない。
例えば、当社には1日に10台以上の入出荷のトラックが工場に来る。
製造事業の目で見ればトラックの運転手さん達はビジネスパートナーだが、サ高住事業の目で見れば、運転手さん達もどなたかを紹介してくれるかもしれないお客様の一人である。
そこで当社に来られる運転手さん達に、汗を拭いてもらうための社名入タオル等と一緒にサ高住のパンフレットを工場の出荷担当者から手渡しさせて頂いている。
また工場の社員が直接お取引先に配達に行かせて頂く場合にも、ちょっとした粗品(今の季節なら扇子など)と共にパンフレットを添えさせて頂く。
また工場に来られたお客様に、気持ちの良い挨拶をすることだけでも、営業マンの後方支援であり間接的営業であると思う。
今月の自分の仕事を遣り終えたからお給料が入るのではなく、お客さまが商品やサービスを購入して下さったからお給料が入る。そう意識を変革することで、社員のすべて誰でもが、心からお客さまに「ありがとうございます!」と感謝して言える、そんな「社内体制作り」が今後の必須課題であり、「全員営業」ひいては企業経営の要諦であると思う次第である。
2015年
6月
14日
日
「牛のよだれ」と「やってみなはれ」
先般、旧知の間柄の元銀行マンの方のご訪問があった。
その方は地元の某銀行を、支店長職を最後に5年前に定年退職され、その後に嘱託勤務で本店管理部に3年間、奉職された方である。
来意は、「40年超に渡りお世話になり育ててくれた地元社会に何らかの形で社会貢献できればという思いから、在職当時、御縁の深かった方々の考えや生きざまや経営方針等をレポートか人物伝の形として残し、後輩行員や新しく事業を始める若い人たちに贈りたい。そのため昨年より取材活動を行っている。」
とのことだった。
私が、そのような大儀のお役に立てるかどうかはさておき、わざわざ訪ねて来て下ったことに感謝して、私の想いを少しお話させて頂いた。
まず前置きとして私の座右の銘は「諦めず気が遠くなるまで繰り返す」であり、みんなから「仕事の仕方も、性格も、嫌になるくらいしつこい」と、よくご批判を受けることからご説明した。
とくに経営幹部にとっては、細事に渡り「かなり口煩くしつこい社長」だと思う。笑。
次に「現状維持は退歩」と考えるが故に、成長意欲を持って常に新しいことを求め続けていること、しかしそれは身の丈を超えないように心掛けていること、変化変革はスピードを持って取り組むようにしていることなどをご説明した。
するとその方は
商売人の知恵の代表である2つの言葉<商売は牛のよだれ>と<やってみなはれ>を引き合いに出して、私を評価してくださった。
- <商売は牛のよだれ> 商売は牛のよだれが切れ目なく長く垂れるように、気長く努力せよということ。
-
<やってみなはれ> サントリー創業者鳥井信治郎の言葉で開拓者精神を示したもの
しかしその方が帰られると、私の気分は次第に塞ぎ始めた。
というのは、自分の日頃の考えや行動であっても、それを言葉にして外に出した途端、説教臭い話になったり、実寸大以上の殊勝なものになったりして、自分で口にした言葉であるのに、自分に見合っていないような居心地の悪さを感じたのである。
居心地の悪さが心につむじ風を起こし、それが台風になり、最後はもう自省の嵐である。
私は口癖のように「たえず見直し!」を言い続けているが、果たして、それがどの程度実行出来ているのか?
ユニクロなどは予算達成・経営目標達成のために、週に一度のペースで決算して、その新鮮な数字が示す現状を読み取って、迅速に計画の見直しを行うらしい。
それに比べて我が社は、どうだ?
あれこれ殊勝なことを言い、東奔西走したところで、決算期毎に良い数字を残せなければ、経営者としての存在価値は無いぞ!
と、もう一人の自分が私を責めるのである。
2015年
6月
07日
日
野球場の母
会社の近くに墓地がある。
ご先祖さまのお墓がそこにあるので、休日には、よくお墓参りに出掛ける。
その墓地の隣地は大きなグランドで、学校が休みの日には、野球をする少年達や、指導者、保護者たちの姿があふれている。
そのお墓参りの途中、感動して涙が止まらなくなる情景を見た。
私がお墓の水汲み場で、バケツに水を汲んでいる最中、
野球のユニホームを着た小学校3~4年生くらい少年が、泣きながら走ってきたのである。
どうしたのだろう?と思って見ていると、私と目が合った少年は、
「おっちゃん、助けて!」と言うのである。
変質者でも出たのかと思い、咄嗟に持っていた草刈用のカマを片手に緊張が走ったが、
その後、間髪を空けず2~30m後ろから姿を現し追いかけて来たのは、少年と同じ野球のユニホームを着た中年男性であった。
私自身も小学生時代からスポーツを続けてきたので、状況は瞬間的に理解できた。
この少年は何らかの理由で、練習途中で逃げ出したので、コーチが追いかけてきたのだろう。
私が何かをする間もなく、コーチが少年に追い付き、襟首を掴み、叱責が始まった。
襟首を捕まれてなお、泣き叫びながら逃げようとする少年と、大声で叱るコーチ。
この情景を、子供の頃から私は何度見てきたであろうか!?
自分の少年時代とも重なり、次第に懐かしい気持ちが込み上げてきて、目が離せなくなった。
モンスターぺアレントという言葉が浸透しだした頃から、私が子供の頃は当たり前だったこのような原風景は、もうほとんど見ることがなくなってしまった。
保護者の過敏で過剰な反応を怖れて、このように子供を全力で叱れるコーチも少なくなってしまった。
残念な世の中になってきたような気がする。
しかしこの話には、まだ続きがある。
実はコーチの後に続いてもう一人、少年を追って来た人物がいた。
40代ぐらいの女性で、きっと母親であろう。
その女性は少年が怒られている間、一言も発せず息を潜めて二人を見守っていた。
3分ほどで叱責が終了し、コーチは少年に
「涙を乾かしたらグランドに戻って来い」というような事を最後に言うと、立ち去った。
二人になると母親は、涙をこぼす息子に近づき、何も言わず抱きしめた。
泣く子を抱きしめながら、母親も一緒に泣いていた。
しばらく二人で泣いた後、母親は息子の手を引いてグランドの方へ去って行った。
その母と少年の姿が、亡きお袋と自分の少年時代と重なって、恥ずかしながら墓の前で、私は涙が止まらなかった。
私が見た一連の情景は、時代の価値観の変化に伴い、今の時代においてほぼ忘れ去られてしまった原風景、しかし実は一番理想的なコーチと保護者と子の姿ではないだろうか!?
母親はコーチを信頼して我が子を託し、コーチは責任感を持って少年を預かっているからこそ真剣に全力で叱る。
コーチは情熱で少年を引っ張り上げ、母親は愛情で少年を下から支える。上から叱責されながら、下から慰められながら、その両方の手に助けられながら、少年は高い壁を乗り越えて行く・・・
そんな胸に焼きつく素晴らしい情景であった。