2013年
4月
28日
日
人間、やれば出来るもんだな

私は珍しい特技を持っている。
驚異の唱法とも言われている「ホーミー」というものを知っているだろうか?
これはモンゴルの伝統的な歌唱法で、うなり声のような低い声(ドローン音)と, 非常に甲高い声(メロディー音)の2つの音を同時に発声する歌唱法である。
この動画を見て頂ければ、分かるだろう。
笛のように聞こえる音も、低い唸り声も一人の男が同時に発声している。
もちろん私はプロではないので動画の彼のレベルには到達してないが、これに近い域のホーミーが出来る。
私が初めてホーミーを聞いたのは、今から40年近く前の私が小学4年生の頃だったと記憶している。
イベント会場内に出来た人垣の中を覗くと、見たこともない民族衣装を着た日焼け顔のオッチャンが、風変わりな琴を弾きながら不思議な発声法で歌を歌っていた。
その当時は「ホーミー」という名前さえ知らなかったが、初めて聞く神秘的な音色は、私の脳裏に強烈な印象を残した。
私は、家に帰るとすぐに練習に取り組んだ。
しかしウーウーと人前で唸るのは流石に恥ずかしかったので、登下校の途中に人気が無いのを見計らったり、学校の裏で誰も居ないのを確認したりしながら、練習をしていた。
しかし6年生の終わり頃に、担任の古谷登美子先生に見つかった。
掃除当番だった為、放課後に学校の裏の焼却場でゴミ焼きをしながらホーミーの練習をしていた。
自分の世界に入ってウーウー唸っている最中に突然肩を叩かれ振り向くと、古谷先生の心配そうな顔があった。
「あんた何しているの?お腹でもいたいの?」と聞かれた。
きまりが悪い思いをしながら、イベント会場で見たオッチャンの話をし、二年前からずっと練習していると説明すると「それがもし出せたら、あんたは今後、何をしてでも生きて行けるし、食べて行けるわ!」と先生は感心したように笑ってくれた。
・・・と記憶しているのだが、もしかしたら呆れて笑っていたのかもしれない。
結局は中学生になり声変わりをした後、まもなくして私はホーミーが出来るようになった。
そうなると人に聞かせたい気持ちが沸いて来て、私が初のお披露目の聞き手に選んだのは、中学1年の担任の滝本二郎先生であった。
この先生は英語の先生であるから普段から発音に対しては熱心で、「舌を巻いてー」などと言っていたので、私は先生をからかうために、わざと先生の近くでホーミーをしてみた。
すると先生は「お前凄いな!」「変わっているヤツとは思っていたけどホンマにけったいな奴やな」と目を丸くしながら期待通りの反応をしてくれた。
それで満足して、このあとは20年近くホーミーの事は忘れて時を過ごした。
再び私がホーミーの事を思い出したのは、あるテレビ番組だった。
調べてみると約20年前の1996年11月23日(土)にNHKで「ユーミン、モンゴルを行く、幸福を呼ぶ ホーミー」と題して歌手の松任谷由実さんがモンゴルを旅するドキュメント番組。
その番組の中で初めて、自分が子供の時にひたすら練習していたものは「ホーミー」であるという事を知った。
記憶の糸を探りながらホーミーをやってみると、すぐに出来た。
それ以来、気分転換や気が向いた時に、人知れず一人でホーミーをしている。
ただし、今もホーミーを人前でするのは恥ずかしくてx100たまらない!!
数十年に渡り、お付き合いさせて頂いている方々の中でもほとんど知られていない。
だから私を見かけても「ホーミーをしてみろ!」と言わないでほしい!
もし強要するならば、美味しい酒と肴を存分にごちそうしてくれた後、私が酔っ払ってからにしてほしいのである!(大爆笑)
2013年
4月
21日
日
ひらめきは情報を蓄積してから

仕事で成果を上げるには戦略が必要不可欠であり、戦略を考えるうえで「ひらめき」は重要なものである。
従って今日は「ひらめき」について考えてみた。
「ひらめき」はある時突然、神がかり的な要素をもって天から降って湧いて生まれたように思えるが、そうではない。
では「ひらめき」は、なぜやって来るのか?
まず、自身が視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚などで経験した記憶が、脳内の集積回路に何万何億と貯蔵される。
この時点では、その記憶(情報)の一つ一つは、バラバラのパズルのピースのように雑然と存在しているだけだ。
しかしここに「現在の思考」が作用すると、脳が神秘的かつスーパーコンピューターをも凌駕する機能で、本人の意識とは別に、集まった何の繋がりもない様々なジャンルのピースの中から必要なものを選別して、シナプスがそのピースを突然結びつけ、そして一瞬にして1枚の絵を生み出す。
これが「ひらめき」なのではないか?
そしてこの「ひらめき」こそ、人間の第6感の正体ではないかと思う。
このように考えて行くと、情報を蓄積してからしか「ひらめき」は起きない事が分かる。
ひらめきを起こすには、どんなことでも良いし、どんなジャンルでも良いから、とにかく多岐にわたり出来るだけ多くの情報を、どんどんと脳内の記憶機能という集積回路に入れることが必要だ。
つまり常に感度の良いアンテナを立て、情報を自身の知識とすることが大切だ。
次に「ひらめき」を形にする際の話だが、その際に必要なのはスピードである。
今の社会は弱肉強食の情報戦であると同時に、スピードの時代でもある。
自分がひらめいたという事は、他の誰かも同じ事をひらめいている可能性がある。
二番煎じになっては新鮮味が無いし、新鮮味の無い「ひらめき」は世間から必要とされない。
とは言っても、もちろんスピードだけに囚われずに緻密に計算することも大切である。
・・・などと言ってはみたものの、実のところ私は決断が早い方ではない。
ひらめいても、その事だけに専念して思考する時間はなく、潮流の速い社会のスピードについて行く為に、精一杯走りながら思考している状態である。
現状は日々の業務に追われて余裕が無い。
ひらめきを形にする為の時間が欲しい。
その為には、やはり社内の組織と仕組み作りが、今の私の最重要な課題である。
2013年
4月
14日
日
夜の電話とミシュラン

ある日のこと、夜8時過ぎに会社の電話が鳴った。
その日は社内にはもう私しかいなかった。
仕事の電話にしては時間が遅いので間違い電話の類ぐらいに思い、もう出ないでおこうと思っていたが、鳴り続けるベルを聞いてうちにふと不思議な予感がし電話に出てみることにした。
受話器から聞こえて来た声は、紳士的な話し方のご老人のものであった。
「貴社の毛布をAホテルで使いましたが、すごく暖かく手触りも良い。」と思わず嬉しくなるお褒めの言葉であった。
あまりの丁寧な口ぶりに一瞬、ミシュランのように匿名で何か調査でもしているのか?と怪しんだが、よくよく聞いてみると「ひいては家庭でも使いたいのでぜひ購入したい。1枚だが個人でも販売していただけるのか?」という事であった。
当社の全製品はPL製造物責任法に基づき連絡先を表示しているので、それをメモでもして電話を掛けて来てくれたのであろう。
しかし当社は代理店様に販売をお願いしている関係上、一般の方への販売はしていない。
代理店様を通さず当社から直接販売するのは、一枚であろうとルールを破る事になってしまう。
悩みながらも断るつもりでいたが、その紳士が言葉を尽くして当社の毛布を褒めて下さるので、私の口の方もついつい滑らかになって気がつけば長時間話し込んでいた。
会話の中で相手の男性が80歳前後の年齢であることを知った。
高齢の方がわざわざ毛布を買いに外出するのは難儀であろうし、そもそも当社の毛布は業務用毛布なので、その老紳士が一般商店で手に入れることは不可能であろう。
ルールを破るわけには行かないので販売することは出来ない、しかし差し上げることなら出来る。
私はその趣旨と販売出来ない理由を説明し、翌日プレゼントとして毛布を発送させて頂いた。
しばらくして墨字で書かれた封書が私宛に届いた。
くだんの老紳士からの礼状である。
鮮やかな筆さばきの墨字もさることながら過去仮名遣いで書かれた見事な文章と、律儀な人となりに驚いた。
また別便でミカンも送って来て下さった。
製造業としての冥利に尽きる瞬間であった。
この手紙は今も大切に金庫にしまい、たまに取り出しては読み返えしたりしている。
余談だがこの後すぐに、例のAホテルから「株主様からの推薦が有り」とのことで毛布の見積もり依頼が舞い込んできた。
すぐさま代理店を紹介させて頂き大量受注を頂戴した。
単なる偶然の一致だろうか?
それともやはりあの老紳士が推薦して下さったのだろうか?
連絡をして真偽を確かめたい衝動に駆られたが、無粋だと考え直して心の内で感謝するだけに留めた。
この老紳士との出来事は良い物作り、そして三方良しの商売を改めて考える素晴らしい機会となった。

2013年
4月
05日
金
人生のターニングポイント

私は、中学校を卒業したら高校には行かず働こうと決めていた。
仕事が忙しく殆んど家に居ない父親と、入退院を繰り返す母親との家庭だった為、私は少しでも早く働いて自分でお金を稼ぎたいと思っていた。
実際小学5年生の時から知り合いの店を手伝って、少なくは無いお金を貰うようになっていた。そうなると益々仕事を得て自立したいと思うようになっていた。
話は一旦変わるが、私が小学6年生のころ泉南市に初めて泉南市柔道協会が出来た。
先生の名は金村秋男先生 (当時4段)といった。
金村先生は、町でうろついている体の大きな私を見つけては「おい!柔道習ってみないか?」とよく声をかけて来た。
しかし悪ガキだった私はその度に「柔道は突きや蹴りが無いからケンカの役に立たん。興味もない!」と失礼にも先生に暴言を吐いていた。
そのうち先生は「今日は柔道の話やない、何か食わしたろか」と言って、ジュースやたこ焼きをよくご著走してくれるようになった。
先生がたまに思い出したように私を柔道に誘っても、相変わらず断り続けていた。
そんな事が約3年に渡り続き、私は中学2年生になっていた。
そのころには、もうかなり先生にジュース代やたこ焼き代のツケがたまり、勧誘を断りきれなくなり始めていた。
そこで「1回だけで良いから道場に来い!」言われ、「1回だけ行く」という約束で道場を訪ねることになった。
しぶしぶ道場へ訪ねて行くと、柔道着に着替えるように言われ、訳も分からないまま着替えると、今度はいきなり初段相手に試合をするように言われた。
対戦相手は偶然にも同じ中学校の同級生であった。
射手矢 岬君というその同級生は、私より20cm以上も小さく体重もずっと軽い。
柔道は知らないが力ずくで射手矢君に勝てると思った。
しかし結果は悲惨なもので、私は立つ暇もないないくらいに射手矢君に徹底的に投げ飛ばされ続けることになった。30分後には呼吸もままならず、疲労困憊でもう立っていることさえ出来なくなった。
実際には、もっと短い時間だったかもしれないが、とにかく私はボロ雑巾のように畳に放り出されていた。
自分の頭すら上げられないほどクタクタであったが、心の内では火が付いていた。
惨敗したまま終わるのは絶対に嫌であった。
私は倒れたまま「俺は高校には行かん!だから中学卒業するまでの間、俺に柔道やらせてください!!」「射手矢に勝つまでやります!!」と叫んだ。
先生は「おう!」と手を上げてこちらを見てにっこりと笑った。
その顔を見た瞬間、まんまと先生の戦略に乗せられた事を知った。
後で知ったことであるが、金村先生は全日本柔道選手権優勝者の松阪猛先生と競い合い「幻の全日本チャンピオン」と言われていた凄い先生だったのである。
ちなみに私を投げ飛ばし続けた射手矢岬君は、現在では東京学芸大学教授で全日本柔道連盟強化委員(五段)をされている。
中学2年の6月頃から始めた柔道だが、1か月で1級になり、半年を過ぎる頃には初段を取った。中学3年になり6月に大阪府中学生大会で決勝まで進み2位になった。
近畿大会にも出場することになりベスト8になった。
近畿大会が終わると近畿圏内の有名校や強豪校から、あちこちとスカウトが来た。
しかし私は中学を卒業後は働くつもりでいたし、そうは言っても柔道を続けて自分を試したい気持ちもあり、どちらにも踏ん切りがつかないでいた。
そんな時、柔道の名門 岸和田市立春木中学監督 曽田幸雄先生(当時5段)の紹介で奈良県天理高校からスカウトの加藤秀雄先生(当時6段)が自宅に来られた。
その当時の天理は、連続高校柔道日本一の名門中の名門であった。
日本一の学校で柔道をやれるのならばと思い、私の心は決まった。
こうして天理高校へと進学することになり、その後人生最大の厳しさと不条理、柔道の奥深さを学ぶことになった。
今、自分の周りを見渡せばプライベートでも仕事関係でも、柔道が縁となって結んでくれた人たちのなんと多いことか。
その縁の中には、私の人生に大きな影響を与え、私が人生の道しるべとしている人もいる。
もしも金村先生が、あんなにも熱心に柔道へと誘ってくれなければ、私はきっと当初の考え通り中学を卒業後に働きに出て、きっと今とは全然違う人たちと付き合い、全然違う人生を歩んでいただろう。
もっと考えれば、私がたこ焼きのツケを溜めてなければ、柔道場に行くことも無かっただろう。
人生とはなんと奇妙で面白いものだろうか。