ー2017年ー

2017年

9月

21日

提出期限

昔、役所に提出する重要な書類を、やむにやまれぬ事情により期限ギリギリに出してしまい、しかもその書類に間違いがあることが後から連絡をもらって判明し、期限になんとかまにあわせる為に、予定を色々と変更して、大慌てで役所まで修正をしに行ったことがある。

もう肝を冷やすのは御免である。

期限の初めに提出すれば、ミスが発覚しても余裕を持って対応することが出来るのに、期限ギリギリだと追い込まれる。

だから普段はそのような事がないように、期限のあるものは、提出期間の「初日」に出すようにしている。また社員や職員にも「期限初日が最終リミットだと考えてください」と言っている。

そもそも期限ぎりぎりに出せばいいという考えは、学生が授業開始時間のギリギリに登校して「滑り込みセーフ!」と言っているようなものだと思う。何か少しでも問題が発生すれば、すぐにセーフからアウトに転じてしまう。

学生ならば遅刻しても叱られるだけで済むかもしれないが、企業はそういうわけにはいかない。提出期限に間に合わなかった事が運営や信用に関わって来る場合もある。

「提出すればいい」、ではなく、「問題があった場合に修正する時間があるよう配慮して提出する」という一つ先の事態まで考えるのが基本であると思う。

人間なのだから「絶対にミスしない」のは無理である。しかし「ミスがあるかもしれない」という事を前提にして、ミスした場合にも軌道修正が出来る余裕を持って早め早めに提出することは可能だと思う。

 

また、冠婚葬祭の招待状は、目にした瞬間にスケジュールを確認し、必ずその日のうちに出すようにしている。

以前、「担任の先生が毎日家にやって来る!>>」の回で紹介した恩師から、とある会の出欠確認のハガキが届いた時には、その場で受話器を取り、先生のご自宅の電話番号を暗記していたので、すぐさま連絡を入れたら、あまりに早さに笑われた次第である。

しかし幹事という役目を負うと無意識のうちにも出欠の連絡が揃うのを気にして待ってしまうものだし、返事が遅い人がいると予定を進めることが出来ずジリジリとしてしまうものであるから、幹事のそのような気持ちを慮り、また幹事という手間のかかる仕事をしてくださっている先生に対して、私なりの気づかいの一つが「一番乗りの返事」だったのである。

 

2017年

9月

09日

「死に病と仕事ほど苦しいものはない」

「死に病(しにやまい)と仕事ほど苦しいものはない」

この言葉は、母方の祖母、亀田マツおばぁちゃんの言葉である。

私が子供の頃から度々、祖母は私に言って聞かせた。

その言葉の通りに生きた祖母は70代前半で病に倒れたが、倒れた日も母方の実家が営む建設業の社員宿舎で、社員の洗濯物を夏の暑い日に干している最中の出来事であった。

当時、祖母が倒れたと連絡を受けた時、不謹慎にも体の心配よりも先に、「さすが祖母らしい」と思い、弁慶の立ち往生を連想してしまった次第である。

 

さて以前にも書いたが、私が生後8か月目で母が腎臓結核にかかり闘病生活を余儀なくされた関係で、6歳頃までの約5年間、私は母方の実家で祖父母の手によって育てられた。

一言で言うと、祖母は、とても厳しい人間だった。

母方の従兄妹たちと皆で集まった時に、祖母の思い出話になるのだが、決まって皆それぞれの「怒られた話」を披露し花が咲く。

今になって思えば「怒られた」というより、「生きて行く術を真剣に教えてくれた」と言った方が的を射た表現であるかもしれない。

私の知る限りでは祖母が私より先に寝たのも、私より後に起きたのも、病に倒れる日まで1度も見たことが無い。旅行や観劇さえも行っていた記憶がない。「ご飯は楽しみでも何でもなく、働くための燃料補給」と平然と言ってのける。「男から仕事を取ったら何も残らへん」が口癖。

それと女性でありながら、化粧をしている姿は祖母が生きている間に1度も見たことが無かった。ある日、祖母に「おばぁちゃんはお化粧はしないの?」と単純に聞いた思い出がある。

「化粧は今まで1回きり、結婚式の時だけ。次は葬式で棺桶に入る時かな!?」と言った祖母の言葉が印象深い。

祖母が残してくれた言葉は「二人のがばいばぁちゃん>>」で書いたように色々とあるが、最近になって冒頭の「死に病と仕事ほど苦しいものはない」という言葉をよく思い出す。

祖母が生きた時代は、働くために生きていたような時代だったかもしれない。

しかし、世の中の価値観は変わった。

ネット上には「楽な仕事」「たのしい仕事」「のんびり働ける仕事」などといった言葉が並んでいる。

けれども、楽な仕事など本当に世の中にあるのだろうか?あるのなら皆がやりたいだろう。

私は仕事が苦しい。祖母が言う「死に病」レベルの苦しい境地には達せていないが、それでもやはり苦しい。会社経営は苦しいことの連続と言っても過言ではないと思う。

それでも、そんな毎日の中から喜びを感じることも色々ある。お客様の満足、会社の利益、社会への貢献、社員やスタッフの成長、そういったものを感じる時、普段の苦しさが一瞬帳消しになる。

仕事とは苦しいものだと思う。もちろん経営者だけじゃなく、社員もパートさんだってそれぞれに苦しいだろう。

けれどもその苦しい中から、社会に参加している喜び、必要とされる喜び、自分の成長の喜び、感謝される喜びetc・・・なんでもいいから「喜び」を見つける事が出来たら、仕事はもっと充実したものになり、長いこと続けていけるのではないだろうか。

 

(関連記事:仕事は楽しい51% 仕事は苦しい49%>>

 

2017年

8月

29日

大学助教と中学生の風変りな付き合い方

当時、中学生だった私と、同志社大学哲学科で助教をされていた北出寧啓(やすひろ)という先生との付き合い方が、今思えば風変りだったので、今回は、そのことについて書いてみたい。

まずその前に、父子共にお世話になり、母の命の恩人でもある金田半三郎先生という方を紹介したい。

金田先生は、京都大学医学部の元準教授(のちに金田医院を開業)をされていた医学博士(当時 血液腫瘍学)で、父がサラリーマン時代に在籍していた会社の産業健診医であったことから、父と親しくしてくださった。

また私の幼少期の主治医でもある。そして私の中・高校生時代の柔道私設後援会会長もしてくださった。

また亡き母の腎臓に潜伏していた結核菌の存在を最初に発見してくれた先生でもある。先生の発見が無かったら、単なる風邪引きからの腎盂炎と考えてしまい、結核菌に対する治療が遅れて、母の人生はさらに短いものになっていただろう。

金田先生は数年前にお亡くなりになられたが、認知も無く90歳という天寿を全うされた。

(合掌) 

 

その金田先生のご紹介で、私が中学生の時に、クラブ活動(柔道・少林寺拳法)に専念し過ぎるあまりに遅れてしまった勉強を取り戻すべく、中学3年間に渡り、週1回のペースで自宅に来て英語・数学を教えてくれていた先生がいた。

その先生が冒頭で紹介した当時27歳、同志社大学哲学科で助教をされていた北出寧啓(やすひろ)という先生で、のちに市民運動家として泉南市議会議員を3期に渡り勤められた方である。

前置きが長くなってしまったが、学問を教わる以外にも、北出先生が金田先生の付き人のような感じで、当時の私の自宅によくみえられていた。

父と金田先生が話している間、必然的に北出先生と私が共有する時間も増えて行った。

そんなある日、北出先生は中学生の私に向かって、こう言い放ったのである。

「私は、人とたわい無い話で時間を潰すような刹那的な時間の使い方はしたくない。付き合うからには、君と僕とでもっと文化的・建設的な議論をしよう!」

そう言うと、鞄から、ヘミングウェイの「老人と海」を取り出し、

「次回、会うまでにこの本を読んでおきなさい。そしてこの本についての感想を議論し合おう」と一方的に言われたのである。

私は先生の身勝手な言い分に、心の内では憤慨していた。

しかし本を読まずに済ますことは、勝負から逃げたような、そして北出先生に負けたような気がしたので、しぶしぶ本を読んでみることにした。

私は歴史が好きだったので、歴史関係の本はよく読んではいたが、文学作品はまるで興味が無いどころか、「男が読むもんじゃない」とバカにして毛嫌いしていたのである。

しかし読み始めると面白くて堪らない!老人とカジキとの闘い、また老人と若者の遣り取りが痛快でハマりにハマりまくった!あまりの面白さに何度も繰り返し読み返した。

それから暫くして北出先生と議論し合う機会が訪れた。

私が「待ってました!」とばかりに一連の感想を得意顔で語り終えると、

「確かに物語に書かれた表面上の事柄は理解し読み込めている。しかしそれではダメだ!行間に書かれている作者が言いたかった事が読み取れていない!」と叱咤された。

「そんな事はこの本のどのページにも書かれていない」と私が怒ると、

「当たり前だ!そんなことは作品のどこにも書かれていないが、それを読み取れるようになることが文学を嗜むということだ。その為には、たくさんの文学作品を読み込んで行くしかない!」と仰られて、その後、次々に本を渡されるようになった。

「走れメロス」「破壊」「人間失格」「吾輩は猫である」「城崎にて」「雪国」「羅生門」etc・・・・、中学卒業まで北出先生との文学作品を通した暗闘は続いた。

正直、当時は北出先生を敵だと思っていたが、いま考えると私の偏った読書の改善と教養を広げるためにお付き合い頂いていたのだと思う。

北出先生との出会いがなければ、数々の有名な作品を食わず嫌いし、軽んじたまま過ごしてしまうところであった。

 

2017年

8月

20日

忘れることを前提にする

・営業に必要な資料を会社に忘れた

・頼まれていた仕事をウッカリ忘れた

・レンタカーを借りたのにETCカードを持って来るのを忘れた

・ガソリンを入れ忘れ、残りが少ない

上記のような失敗の経験は、多かれ少なかれ、誰でも経験があるのではないだろうか?

朝、外出の用意をしている最中、頭の中ではアレやコレや違うことを同時にいくつも考えていて、そのままパーッと出掛けてしまうので、以前の私は忘れ物が多かった。

そこで、少しでも忘れる事(物)を減らすために日頃から心掛けるようになったことがある。

それは「忘れることを前提にする」のである。

「明日の営業、俺はきっと出かける寸前にバタバタして、この資料を持って行くのを忘れるだろう」と考えるのである。

じゃぁどうするか?答えは簡単で、明日乗って行く車に、今すぐ資料を積んでおくのである。

他のシーンでも、忘れてはいけない持ち物があれば、玄関のドアの前に前夜から置いておく。

レンタカーの際のETC問題も、カードを2枚持ち、内1枚は常に財布に入れておくことで解決した。

ガソリンの入れ忘れは、面倒くさがらず4分の3を切る前に小まめに入れるように心掛けている。

出張先などでコインロッカーに荷物を預けた時は、そのまま忘れて帰らないように、ロッカーのカギを財布の中に入れる。カバンの中に入れると、そのまま奥底で気づかないこともあるが、財布だと帰宅するまでに何度も開くので、絶対に気づく。

数か月先のチケットなども、封筒に入れたままにしておくと、何かの拍子に間違って捨ててしまう可能性があるので「捨てるな!チケット在中」と自分に向けて、その封筒にメモを貼り付けておく。そして予定が近くなって来たら、気づいた時に、もう財布に入れておく。

このように、忘れることを前提とするようになってから、忘れ物は減ったと思う。

「頼まれていた仕事をウッカリ忘れた」を防止するためにしていることは、今すぐすることである。小さな、すぐに済む用事こそ忘れやすい。

「この仕事が片付いてから取り掛かろう」と思っていると、ついウッカリ忘れてしまう。

だから、すぐ済む用事なら後回しにせず、すぐ済ませるようにしている。

私は、しなければならない事を後回しにして、なかなか着手しないでいるのが我慢ならない。自分でもスグやるが、社員やスタッフ達にも、彼らが後回しにしていることに着手するまで、ずっと「すぐ!すぐ!すぐ!今!今!今!」を言い続けるので、きっと閉口している人もいることだろう。

口うるさくて申し訳ない。

と謝りながらも、今後も口うるさいのは変わらないであろう。

 

(関連記事:すぐ!すぐ!すぐ!今!今!今!>>

 

2017年

8月

07日

地獄掃除のその上

以前、地獄掃除>>という題名で、私の掃除に対するこだわりを綴ったが、その地獄掃除を標榜する私が、「もう許してください!」と思わず言ってしまうほど凄まじい掃除を行われる、M社長という方が奈良県にいらっしゃる。

同じ高校の出身ということもあって、私が若い頃からお仕事をくださっている中小企業の社長で、公私とも大変お世話になっている大先輩である。

こんな事があった。

車にて所用で大阪より名古屋に行った帰り道、翌日の商談に必要な商品サンプルを届ける為にM社長の本社に午後7時ごろお伺いした。

すると、本社の窓という窓が玄関扉も含めて1枚も入っていないのである。

理由は全ての窓を午前中から外して、本社横の駐車場で水洗いし、乾かす為に外しているとのことだった。

私も掃除には、かなりの「こだわり」があり、今後の掃除方法の参考にしたいので早速、手伝わせていただくことにした。

さて見渡すと、窓だけでなく同時に、強固なボルトで留まった外側の面格子や網戸も外して、それらまで洗浄して乾かしてる。その上、窓枠の隅々まで爪楊枝でほじくり返えすように掃除してある。おまけにそれらを元に戻す際、すべてに汚れ止めのコーティング処理をして、仕上げ拭きを光り輝くまでするという。

そしてこれらを月毎に年12回繰り返しているらしい。

聞くとその時の終業時間は毎回、午前0時くらいになるらしい。

そして手伝わせていただいたその日も、全ての作業が終わったのは、午前0時を超えてからだった。

 

他にもM社長自らが先頭に立って、

毎月、便座を外しての大掃除、本社内の水回り配管、外側の排水溝の大掃除、廊下の端や壁紙の隙間まで「爪楊枝で掃除」、すべての家具の引き出しの中身の大掃除。

また年3回、定期的に、社内の物をすべて撤去しての床掃除とワックス掛けから始まり、内壁&外壁を磨き上げ、屋上までワックスを掛けて掃除するという。

これが毎日始業前1時間の掃除をしている上に行われるのである。

 

そう言えば、M社長の本社は建築後25年くらい経つが、新築時とほぼ変わらない状態を今も保っている。

さらにまさかのエピソードだが、ゴルフに行った時に、そこのロッカールームとトイレの掃除が気に入らず、その日はゴルフをせずに1日中、それらを掃除して帰ってきたことがあるらしい。

まだまだM社長の掃除ネタは枚挙にいとまがないが、これくらいで、その「凄まじさ!」を想像してもらえると思う。

M社長の会社と当社の掃除を比べると、「やり方」や「こだわり」については、さほど違いが無いが、「掃除の回数」と「かける時間」が違う。

M社長の会社は毎月大掃除があるが、当社は毎朝30分の掃除の他には、大掃除は年に3度と私が「掃除が行き届いていない!」と感じた時ぐらいである。

しかしM社長と同じことを出来ないとは感じない。

「うちの会社では、そんなことムリだな」と諦めてしまうのではなく、工夫して少ない大掃除の回数でも綺麗に保てるようにしたり、短時間で効率よく掃除が出来る方法を考えたりなど、「形を変えた最善」でM社長の会社の清潔さに迫ることは出来ると思うのだ。

何事もそうである。

出来ない・・・と最初から決めつけて諦めてしまう前に、少しでも目標に近づけるように工夫することが大事である。

 

2017年

7月

30日

お中元でチームワークを考える

7月からお中元のシーズンが始まったが、私も例に漏れず、上半期の「感謝」と「御礼」を込め、そして知らず知らずの間に積み重ねてしまっているであろう「御無礼」「御無沙汰」に対して謝意を表す為に、出来る限りの方々に、お中元を送らせて頂いている。

また有り難いことに、多くの方々からお中元の品を賜る。(ありがとうございます!)

当社では、頂いたお中元お歳暮の品は、私が個人的に頂戴したものを除き、その他の品は全て、社員、パート、アルバイト、派遣、下請け企業の従業員の皆さんに、一人まるまる1箱ずつ分配するようにしている。

熨斗と送り状だけを外すと、あとは中身の品の良し悪しや金額の高い低いは全く考慮せず、総務が機械的に、お中元の箱に従業員の名前を順番に記入していき、それを各部署に持って行き配布する。

だから社員に配布された品より、パートさんに配布された品の方が高額の場合もあるので、クジみたいなものなのである。

その事について、毎年のように冗談とも本気ともつかないボヤキが私の元に寄せられる。

「社員と、出勤日数が少ないパートや派遣とが、同じ1箱ずつなのはどうだろうか?出勤日数の少ない人には配らなくてもいいのでは?」

「社員に先に中身を選ばせて欲しい」

などといった内容である。

そのことについて、私なりの想いを書いてみたい。

 

学生時代の柔道部の監督である加藤秀雄先生 (講道館柔道九段)>>が部員を集めて何度となくおっしゃられた話がある

「柔道は一人では出来ない。試合も練習も相手になってくれる人がいるからこそ出来る。だから柔道は練習や試合の前後には必ず相手への敬意を表すための『礼』を行うだろ。

長年、監督をしていて感じることだが、強い選手が揃っていてもチームワークが悪い年は早々に敗退したりする。それとは逆で、一人ひとり見れば強い選手じゃなくても、選手も補欠も関係なく皆の仲が良い学年は良い成績を残している。

選手は練習相手になってくれる補欠に感謝し、補欠は選手に対して、我らの代表として少しでも強くなってほしいという想いが強い年ほど良い成績を残している。

選手も補欠も関係なく全員で『全国優勝する!』という想いを共有している年は強い。」

 

実際に私は、このお話を、身をもって体験した。

仕事でも同じである。一人では部分的な仕事しか出来ない。

社員だけでも、パートだけでも、部分的な仕事しか出来ない。

それに自分一人で目標と対峙するより、チームワークを以って目標を共有する方が、大きな実績が得られる。

「お中元を山分けする!」ということは小さなイベントながら楽しいことだと思う。

その楽しいことに社員もパートも派遣も関係ないのではないだろうか?

良い出来事についても、悪い出来事についても「自分には関係ないことだ」と従業員の誰にも思ってもらいたくない。

皆が皆、丸竹の当事者である意識を持って欲しいと願っている。

丸竹という船に共に乗った者同士、スタメンもサブメンバーも互いの存在に感謝しながら、目標を共有できる「チーム」でいてほしい。

そんな想いから、お中元お歳暮に関しては、先出の方式を取っているのである。

 

2017年

7月

24日

モチベーションが落ちた時

仕事でもスポーツでも趣味でも、モチベーションを保ち続けるのは、すごく難しいと思う。

母校の後輩の、柔道でオリンピック金メダリストに3度なった野村忠宏氏や、オリンピックに5度出場して全て入賞した谷亮子氏のように、長期間に渡り第一線に立ち続けられる人は、天才という才能だけではなく、モチベーションを保ち続けるのが特別上手いのだろう。言い換えればその方法を会得しているのだろうと感じる。

今回は、私なりの、モチベーションが落ちた時の対処方法をいくつか書いてみたい。

 

疲れた時

私の場合、モチベーションが落ちる原因で一番多いのが、寝不足や、体力的に疲れた時である。そんな時、「今日は何もやりたくない!」「何をするのも面倒くさい!」「あぁ!しんどいな!」という思いが頭をもたげてくる。

こんな時は30分ほど、携帯の電源も切って、たとえ仕事中であっても車の中で迷わずに寝るのである。たとえ短い睡眠時間であっても、かなりリフレッシュ出来、やる気にスイッチが入る。

 

失敗した時

物事が予定していた計画通りにいかなかった時や、失敗した時は、そのことを引きずってしまいモチベーションが落ちる。

やる気が起こらず、しかしながら渋々仕事を続けるが、すぐにモヤモヤした感情に支配されて、目の前の仕事がなかなかはかどらなくなる。

こういう時は、仕事の手を止めて、まず徹底的に後悔してみることにしている。

全神経を集中させて後悔するのである。

あの時にこうしていれば!?あぁしていれば!?と思考を巡らし、自分自身を責め続ける。自分を、別の自分が重箱の隅を楊枝でつつくぐらいまで糾弾する。そしてその糾弾に一つ一つ丁寧に回答する。すると上手くいかない原因が掴めてくるのである。

今スグ出来る修正は何か!?今スグとれる行動は何か!?と自分に問い掛けているうちに、思考は「失敗」から「未来」へと移り、やる気が回復するのである。

 

なかなか成果が得られない時

頑張っていても、なかなか具体的な成果が得られない時は、モチベーションが落ちる。

頑張っているのに成果が得られない理由の一つは、その目標が大きいからである。

この場合の解決方法は目標を小さくすれば簡単に回復できるわけだが、私の場合は経営者という立場上、一度決めた目標について、簡単に下方修正出来ない。(手段については、たえず見直しする。)

社員が頑張っているのに、なかなか成果が得られずモチベーションが落ちていると判断した時には、私は目標を小さく分割して報奨金を設けるようにしている。

例えば当社のリラクゼーション事業部ではエステサロンを運営しているので、それを例に出して説明してみる。

『半年後までにエステサロンの新規顧客を20名増やす』という目標を立て、最初の1か月目では0名で、社員のモチベーションが下がっている場合。

残りの5か月で20名を割ってみる。つまり月毎4名×5か月という目標にする。そして月の更新に拘らず、たとえ月がまたがっても4名達成ごとに報奨金を設けるのである。

このように分割した目標で成功体験を積めれば、自然にモチベーションは持ち直し、加速度的に上がってくる場合が多い。

 

2017年

7月

12日

定年・終活

先般、同級生のお父上が86歳でご逝去された。

私が子供の頃から、遊びにお伺いすると「おっ!立花君か!勝手に上がり!」と、いつも気さくに声を掛けてくださるお父上であった。

通夜と葬式には多くの同級生が参列し、中には40年以上ぶりに顔を見る旧友も数名いて、まるで同窓会のようになった。

皆そろって齢55歳という事もあり、精進上げでの話題は、第一に「健康状態」・第二に「体力が落ちた」・第三に「定年・終活」といったテーマが中心であった。

図らずも友人のお父上がご逝去されたことにより、人生の後輩である我々に、改めてこれらの問題を再考する機会を与えて頂いたように思う。

本日は上記の3つのテーマについて、私の取り組みを書いてみたい。

 

まず「健康状態」についてだが、50歳になった年から、健康管理のサポートをしてくれる会社の会員になり、精密検査を定期的に受けている。これはズバリ病気への恐怖そして経営者としての社会的責任からである。(関連記事:健康という責任>> 経営者に終わりは無い>>

次に「体力が落ちた」についてだが、若い頃に比べて確実に衰えてきていることは自覚しているので、近年はなるべく体重をコントロールし(難しい・・・)、歩くようにしている。

さて3つ目の「定年・終活」についてであるが、これが本日のメインテーマである。

しかし私は、経営者という事もあり、健康状態が良いという事もあり、「人生の終わりについては、まだ何も見据えていない」というのが現状である。

しかしただ一つ、自分の中で決めていることがある。

経営者としての引き際のことである。

率直な気持ちを書くと、社会が私の経営者としての資質を必要とし、その存在を認め、働かせて頂けるのなら、健康管理に注意を積み重ねながら、頭と体が健全である限りは「必要とされる喜び」を胸に、幾つになっても働き続けて行きたいと考えている。

しかしその想いに反して、いずれは年齢の増加に伴い頭も体も老い、経営者として賞味期限の切れる日が遅かれ早かれ到来するのは避けられない事実である。

そして賞味期限が切れているのに、会社の舵を取り続けることは、まさに「老害」以外の何ものでもないのである。

そこで実は、引き際を見誤らない為に、いつでも株主様の総意に基づいて、経営者である私に引導を授けて頂けるシステムを構築しつつある。

それは私の65歳の誕生日までに、今の私の持ち株比率70%の状態を49%まで下げる事である。

社長を解任する人事権を株主様に委ねることで、

自分が衰えているにも関わらず、それを自覚せず、過信し行動し、会社をあらぬ方向に導いて行く癌にはならずに済むだろう。

人生をかけて、創ってきた、守ってきた会社の癌に自分自身がなるほど悲しいことはない。

また、世代交代が図れず老朽化した組織にならないためにも、「私から社会へ問いかけること」「私に対する査定を社会から頂戴すること」が必要である。

 

数十年ぶり会った同窓生が葬式の帰りに言った「次回、またみんなに会えるのは、病院か葬式か墓くらいやね!?」という言葉に爆笑しながらも不安を覚え、今年の人間ドックの予約をすぐに入れた次第である。

 

2017年

6月

30日

人智を超えたもの

先般、公益法人のAさんがご来社くださった。

業務に関するお話は10分程で終了し、その後2時間近く、超科学・超自然現象の話で盛り上がった。

 

通常は、先ず受付係が応接間にお通してお茶をお出しした後に、ご挨拶・名刺交換・本題へと行くわけであるが、Aさんは違った。

というのは、名刺交換が終わると同時に、応接間に飾ってある写真を見付けられて、

「あっ!阿闍梨!比叡山1,000日回峰行を2度に渡り達成された酒井雄哉大阿闍梨とお知り合いですか?」

と質問を投げかけてこられた。(関連記事:大阿闍梨 酒井雄哉師>>

その眼差しが、場をつなぐ為の質問ではなく本当に興味津々のものだったので、私は同士を見つけたような気持ちになって、思わず膝を乗り出してしまった。

 

最初の10分間だけは業務に関する話をした。

この後、超科学・超自然現象について話が弾んだわけだが、その中でも、

酒井大阿闍梨の「堂入り」に関し、Aさんと最終的に共通認識に到達した事柄を書いてみたい。

堂入りとは、700日の山歩きを終えてから挑む死者も出るような難行で、山中のお堂に籠もり、9日間に渡り食事も水も絶って、また眠らず、横にもならず、一日3回御本尊様の前で火を焚きながら修法し、更に他の時間は、不動明王さまと蔵王権現さまのご真言を各10万遍、数珠と石を使って数えながら9日間唱え続けるというものである。

入堂前には阿闍梨は生きながらにして葬式を行ない、5日目からは一日1回のうがいが許されるが、空の茶碗にうがいで吐き出した水を入れ、それを測り、最初と同じ量の水が入っていないと、そこで行は失敗とみなされるらしい。

 

実は私は、この事実に不思議を禁じ得ず、医師に「こんな事が可能なのか?」と質問したことが過去にあった。Aさんも、私と同じく医師に尋ねたことがあるそうだが、どちらの医師の答えも次のようなものである。

「医学や科学的には、飲まず食わず眠らず横にならず、ましてや火の前では2~3日くらいが限界で、肉体的に不可能である。しかし、今の科学の力では解明出来ない不思議は沢山存在する。」という答えであった。

金縛りが解明されたのは20世紀中頃から後半にかけて少しずつである。それ以前は、金縛りは「科学では解明出来ない不思議」であった。

それと同じように、堂入りの不思議は、「今の、現在の、」科学では解明できないだけで、30年先の科学では証明出来るようになっているかもしれない。

科学史が学問として成立したのは、アメリカ合衆国で科学史専門論文誌ISISが発刊された1912年ごろがその成立と考えられているそうだ。

それからたった約100年間で世の中に存在する不思議全てを解明できるわけがないのは当然で、「科学で証明出来ないこと」イコール「真実ではない」と考える方がナンセンスであると私は思う。

UFO(未確認飛行物体)、心霊現象、UMA(未確認生物)、オーパーツ(場違いな出土品)等も今は単なるオカルト扱いであるが、その内に証明される日が来て、人類は畏敬の念を持って受け入れる事になるだろう

というのが、Aさんとの共通認識である。

私がこのような話を熱弁すればするほど、冷ややかな視線になる人が多い中、この日の談話は大変楽しいものとなった。

 

2017年

6月

24日

私の重いカバン(砲丸入り)

「最近、中学生のカバンが重たくなった!(平均約10㎏)」という話をテレビで観た。

2002年より始まった「ゆとり教育」の学習内容削減に伴う国際学力テストの順位低下やそれらに付随する諸々の弊害に気付いた政府が、2011年頃より今度はそれまでとは真逆の方針に転じ、学習内容を徐々に増加させたことにより、教科書が厚みを増し、副教材が増え、その結果、中学生のカバンが重くなったらしい。

あまりの重さに、一つのカバンに入れるのは無理で、手提げとリユックの2個に分けて通学するそうだ。

 

その番組を観ながら思い出したのは、私の中学時代の通学カバンのことである。

重くなったと言われている現代の中学生のカバン(平均約10㎏)の約2倍の22㎏ぐらいあったのではないかと思う。

私のカバンの中身を羅列すると、「カバン1㎏、柔道着2㎏、弁当1㎏×2食、水筒1㎏×2本、教科書&ノート3㎏、砲丸投げの玉5㎏×2、木製砲丸ケース1㎏×2=合計約22㎏」くらいだったと記憶している。

お分かりのようにカバンが重い原因は、木製のケースに入った砲丸投げの玉2つなのだが、私は約1年弱、毎日このカバンをぶら下げて通学した。

陸上部でもない私がなぜ砲丸をカバンに入れていたのか

この経緯を話すとこうである。

私が中学3年生の時、大阪中学生柔道大会で好成績をおさめたことを聞きつけて、ある日、母の従兄妹が砲丸投げの玉を2個持って訪ねて来てくれた。

母の従兄妹は学生時代、高校・大学と陸上部に入り、砲丸投げの選手として近畿ではかなり活躍した人物である。

母の従兄妹曰く、「人と同じ練習量ではダメだ!」「人より少しでも多く練習しろ」「通学時間中も練習できる」「俺は中学&高校の6年間、カバンに砲丸を入れて通っていた」「そして近畿でも好成績を上げた」と教えてくれ、彼が学生時代に使っていた砲丸を私に譲ってくれた。

何事もすぐにしないと我慢できない単純な性格の私は、「善は急げ!」と翌朝から、木製砲丸ケースに入った砲丸×2個をカバンに入れて通学を始めた。

当時、まだ体も出来ていない中学生だった私にとって22㎏のカバンはたいへん重い物であった。

歩き始めて最初はたぶん200m(もっと少ないかもしれない)も進むと左右の手を持ちかえないと痺れて握力が無くなってしまうほどであった。

しかし3か月くらい経つと通学距離(約2㎞)の半分くらいで1度、左右持ち替えるだけで学校に着けるようになった。

そして迎えた近畿中学生柔道大会では優勝は逃したものの好成績を修めることが出来た。

その後、中学のクラブ活動も引退し天理高校柔道部への進学も決まったが、中学卒業まではこのカバンを毎日持ち、引退後は放課後、泉南市柔道協会の道場へ通い続けた。

卒業間近には近隣(約2㎞)ではあったが、行きは右手、帰りは左手で、手を変えることなく持ち続けられるようになっていた。

最初はとんでもなくしんどいと思った事でも、次第に体力もつき、慣れてくるものである。

その頃に感じていたことは、

「これだけ鍛練したのだから天理高校柔道部に行っても、誰にも負けないかも!?もしかしたら入学と同時に俺が1番強いかも!?」

という、ニヒヒとした自負であったが、入学後すぐさま、その思いは木端微塵に打ち砕かれたのであった。

その後のことは「私の大きな勘違い>>」にて記載。

 

2017年

6月

17日

失敗の連続

当社は一昨年の11月から、サービス付き高齢者向け住宅「フラワーホーム>>」を開設させて頂いているが、かなり特色のあるサ高住になっている。

業界初の異色な取り組みの1つとして、入居者様アルバイト制度がある。

少し説明すると、無理のない範囲で元気な日限定で、週2回2時間ほど、希望される入居者様をアルバイトとして雇用しようというものである。仕事の内容は、当施設の植物の水遣りや手入れ・共用部分の清掃の補助などである。(取り組みの目的や詳細などは、紙面の都合上こちらをご覧ください>>

そのほか、他の施設にない特色としては、「電子タバコを居室で吸える」というものがある。詳しくはこちら>>

泉南市グラウンド協会と年に2回開催しているグラウンドゴルフの大会詳しくはこちら>>なども、サ高住が行うのは珍しいと思う。

また、同一の建物内にクリニックが併設しているサ高住も数は少ないのではないだろうか。

長年の友人に「なぜ?おまえの会社はどの部門も、よそと違う事ばかりするの?」と不思議そうに尋ねられたことがあるが、その言葉通り、製造部門の事業についても、いくつか、当社が業界で最初に始めたものがある。

例えば近年では、それまでは官公庁向けに販売するだけだった災害用備蓄毛布を、災害が発生して使用された後や保存期限が切れた後に、自社でクリーニングしてから再び真空パックし返却するシステム、

またはペットボトル(PET再生糸)から業務用ポリエステル毛布を製造、

他には10年間の長期保存を可能にした災害備蓄用の生理用品や紙おむつの販売など、当社が先駆けて行った。

誰もやっていないことに自分(自社)が挑戦するのには、やはり度胸も根気もいる。失敗するか、成功するのか分からない。法や条例・JIS規格に違反していないか調べたり、まさに手探り状態からのスタートである。

しかし私は、当社は、失敗を恐れず挑戦していく企業でありたいと常日頃から考えている。

電気メーカーが次々と新しい家電を開発して、人々の暮らしが便利になったように、

また自動車メーカーが環境に優しいECO車や自動停止ブレーキの車を開発して、地球や人に優しい車社会に一歩近づいたように、

現状で良しとせず、少しでも現状より世の中が良いもの(便利・進化・役立つ・環境に優しい・人に優しい・楽しい)となるように挑戦して行くのが企業の務めであると考えている。

今述べた電気メーカーや自動車メーカーと比べると本当に小さな小さな一歩だが、前出の当社の取り組み(挑戦)は全て、「便利・進化・役立つ・環境に優しい・人に優しい・楽しい」が基盤になっている。

 

私が10代の頃より師と仰ぐ東建コーポレーション㈱ 左右田鑑穂社長は、起業された時から現在に至るまで、次々と独自の新しい発想を形にされ、建設業界のパイオニアとなられた。

しかし、ただ斬新な発想というだけではない。

師が度々おっしゃられることだが

「時代の波に先駆けて社会に奉仕することが出来みんなに喜ばれる未だかつてだれも聞いたことのないビジネスの発想」である。

その発想が無ければ企業の成長は無いとご教示頂いた。

左右田社長は、少しでも現状より世の中が良いものとなる「何か」を発想し、その発想を形にする為に挑戦してこられた、その積み重ねがあるからこそ、ツルハシ1本から始められた小さな会社を、今のような大企業にまで成長させることが出来たのだと思う。

 

私は約40年間に渡り、「たとえ少しでも左右田社長の経営者としての有り様に近付いていこう」と日々心掛けながら精進を重ねて来たが、やはり左右田社長のような天才的な経営者とは違い、私は失敗の連続である。

一例をあげれば、「抗菌・防臭」をはるかに上回る「制菌・消臭」の毛布があれば喜ばれるにちがいないと、病院向けに制菌・消臭毛布を開発したり、「難燃」(燃えにくい)をはるかに通り越した「不燃」(燃えない)毛布を開発したりしたが、どちらもコストが高くなってしまい、めったに売れない商品になってしまった・・・

新しいものを作るということにあぐらをかき、コスト計算を甘く見た結果である。

たとえば私の場合、100の発想を形にしたとして、「完全に成功した!」と言える例は5つぐらいであろうか?しかし、そのほとんどが失敗例であっても、一定の期間を経て成功に結び付いたことも多々ある。それらを入れると「まぁまぁの成功」と言える例は100分の20~30くらいだろうか!?

私の経験値から言わせてもらうと、「事前リサーチを重ねた上」で、「自社の身の丈を超えない金額での投資や計画」ならば、2~3割の成功率が有れば、何とか経営は成り立つものである。(関連記事:臨機応変か朝令暮改か>>

 

失敗を恐れず、良いと思うことは全てやってみよう!(身の丈を超えない範囲で!)

が、当社の社風である。

 

2017年

5月

28日

興味を持たせる話術

高校1年生の時に古典の授業で、紫式部の源氏物語に触れる機会があった。

しかしながら、バンカラ学生であった私は、そんな雅な世界の物語には興味が持てず、スグに耳に蓋をしてしまった。

授業で頭に入ったのは「紫式部は源氏物語を書いた人」という1行の情報だけで、源氏物語の内容も、何を教わったのかも、記憶にない。

そしてそこから2年が経過して、今度は高校3年生になって「地学の授業」で再び源氏物語に触れることになった。

この授業を持たれていたのは、四国の理系の大学を出られたTという男性の先生であった。

私の目からは「ザ・研究者」という言葉がピッタリの少し神経質そうに見える先生だったと記憶している。

当時、低気圧や高気圧・偏西風・気圧配置などの単語の説明に始まり天気図の見方を先生は解説されていたが、私は椅子の背もたれに背中をあずけながら、ぼんやりと聞き流していたように思う。

その授業の半ば、

「君たちが1年生で習った源氏物語を読むと、紫式部は気象学者だったことが見えて来る。」と先生がおっしゃられた。

(紫式部が気象学者???なんでや?)

思いがけない言葉に疑問を持ち、そして興味を惹かれた私は、思わず身を乗り出した。

「ザ・研究者」風の理系の先生から紫式部の話が出るアンバランスさも面白くて、皆が先生の話に意識を引かれたようだった。

そのタイミングで、T先生は事前に用意していたプリントを皆に配布してくださった。

そこには、源氏物語の気象について書かれてある部分を幾つか抜き取って箇条書きにしてあった。

当時の事なので完璧には思い出せないが、「春霞、春雨、夕立、秋しぐれ、野分、・・・・」など様々な気象と、気象について書かれた文章を太字にしたものが挙げられていた。

そしてT先生は、「源氏物語に書かれている気象に関する文章は、とても正確で、時系列で読み解けば、その期間の天気図さえ推測することが出来る。

たとえば台風が出てくる章があるが、書かれている文章から台風の特徴や進路まで分かる。」

というような事をおっしゃっていた。

私は知らず知らずのうちに、熱心に耳を傾けていた。

「紫式部」にも「天気図」にも私は興味が持てず聞き流していたが、「紫式部は気象学者」という意外性のあるキャッチフレーズ(掴み)に疑問を持ち、そして意識が引き付けられた。

人と異なる着眼点から話を展開させて行った この時の地学の授業への驚きは、少なからず私に影響を与えた。

経営者になった今でも、社員教育を実施するときに、よくこの手法を使っている。

先日も、車で九州に2日間出張する社員に「安全運転を心がけて下さい」では右から左で意識に留まらないだろうと思い、「虹と安全運転とは同じである」という話をして送り出した。

紙面の都合もあるので内容については皆様の推測にお任せしたい。

 

2017年

5月

21日

全部ダメでヘタだった!

「社長!申し訳ございません。皆は頑張ってくれたのに私は全然ダメで運営もヘタでした!」

これは、私に向かって頭を下げるS部長の言葉である。

話は遡る。

今月の頭、第3回フラワーホームカップ>>を開催させて頂いた。

フラワーホームカップは当社の「社会福祉の向上」と「地域社会への貢献」への取り組みの一環として、昨年度より開催させて頂いているグラウンドゴルフの大会で、毎回約200名の高齢者の方々が参加してくださっている。

本社の役員改選に伴い、フラワーホームカップの責任者を今回から変更することになり、丸竹NO,1のゴルフの腕前を見込んで、本社のS部長を責任者に指名した。

S部長は泉南市体育協会や泉南市グラウンドゴルフ協会の方々との打ち合わせや日程調整に始まり、大会までの約2か月の期間、日頃の業務の合間を縫うようにして東奔西走してくれた。

大会の前日、仕事が終わった後、もう外は真っ暗であったが、私はフト思い立って大会会場である、なみはやグラウンドに行ってみることにした。

横断幕を張る場所やテントのことなど諸々、もし本番で手間取ったら、段取り良く指示が出来るように下見をしておいた方が良いと思ったからである。

しかしグランウンド横の駐車場に車を近づけると、S部長の自家用車が止まっていた。

私はそのまま車を方向転換し、その場を後にした。

 

各協会の役員様やS部長を中心とし、またスタッフ一同の尽力により、事故もなく天候にも恵まれて、今大会も皆様に喜んでいただけた大会になったと思う。

翌日には一般参加者の方が、わざわざ本社の電話番号を調べてお礼の電話を下さった。

その後、S部長の労をねぎらおうと、私の机に呼んだわけであるが、彼は私の目の前に来るなり、

「社長!申し訳ございません。皆は頑張ってくれたのに私は全然ダメで運営もヘタでした!たぶん社長の思い描いていたような形にはなっていないし完璧ではなかったと思います。ほんとすみません。次回はもっと緻密に組み立てます。」というのである。

表情をみるとS部長が謙遜して言っているのではないことが即座に読み取れた。本当に心底落ち込んでいたのである。

私が大会全般を通して気付いた点を具体的に並べて、どれだけ「良かった」と評価しても、S部長の顔は曇ったままだった。

私が「そしたら、どこがダメだったのか?どこがヘタだったのか?」と聞いても、具体的に話せば責任転換や言い訳になってしまうと思ったのかもしれない、

彼は、しばらく押し黙った後「全部です!」と答えるだけであった。

私には分からなかったが、彼が思い描いた理想の形と比べて、満足いく結果じゃなかったのだろう。

実は私は「全部ダメでヘタだった!」と落ち込むS部長を見て、嬉しい気持ちになった。

もし彼が「妥協する人」であったなら落ち込むことも無かっただろう。「もっと良く出来たはずなのに」と思うからこそ、向上心があるからこそ、悔しくて落ち込むのだろう。

失敗して落ち込んでそのまま自信を失ってしまう人も居るが、彼はそうじゃない。落ち込む度に自分の中のマイナスな感情と戦い、省みて、考え、成長して行く人物である。

 

用意はしていたのだが今回は、あえてS部長にありがとうカード>>を手渡さなかった。

理由は、彼自身が満足していないのに、ありがとうカードを手渡すと失礼になるのでは?と思った。そして同時に、彼の今後の伸びしろに期待を掛けたからにほかならない!

 

2017年

5月

12日

障害者について 3

当社が製造事業部門で、障害者の雇用を始めるようになって数年経った頃、たしか平成7年頃の話である。

大阪府立砂川厚生福祉センターの先生の紹介で、大阪府立佐野養護学校(当時)から、I君という20歳の男子卒業生を真空パック工場で雇って欲しいとのご依頼があった。

I君は身体的には何の障害も無いのだが極度の自閉症であり、お母さんとは何らかのコミュニケーションが有るらしいが、母親以外の人とは一言も話さないし、担任の先生とも入学以来、言葉はおろか目も合わせたことが無いという事であった。

その後、I君は担任の先生に付き添われて面接のために来社してきた訳だが、事前に聞いていた通り一言も話さないばかりか、確かに目も合わさない青年であった。

自閉症の方の雇用は初めてだったので不安はあったが、ハンディキャップがある人に対しても雇用の機会を創出していく事が、経営者の「義」であり社会的責任と考えていたので、その場で採用を決めた。

当時の真空パック工場の責任者であったM工場長と対応を協議した結果、「最初は特別なことはせず、すべてに渡りごく普通に接しよう」「その後、状況を見ながら判断して行こう」という事で意見が一致して、いよいよ出勤初日を迎えたのであった。

 

桜の季節、I君はお母さんと共に出社してきた。

「息子が慣れるまで暫くの期間、私も8時間、工場に居ても良いでしょうか?」という事前の申し出があった為、他の社員達にも事情を話し、皆が快諾していた。

椅子を勧めてもお母さんはI君のすぐ傍に立ち、息子の作業に間違いがないか、終業までの8時間、見守り続けた。

このような事は初めてだったので私は少し困惑した。

翌日も、その翌日も、お母さんは椅子を断り、I君の作業を傍で見守った。

途中から気づいたのだが、トイレもI君の休憩時間に合わせて行くほどであった。それほど片時も息子から目を離さなかった。

お母さんのやり方が正しいのか間違っているのか、そんなことは私には分からない。

しかし、悲壮なまでの責任感と全身全霊をかけた愛情を、私は見たおもいだった。

お母さんは5月になっても毎日工場に来てI君を見守り続けた。

この頃には、工場の隅の椅子から彼を見守っていた。

日によっては午前中に家事や用事を済ませてから来る日もあったが、毎日朝から夕方まで工場で過ごすのは大変なご苦労だったと思う。

I君のコミュニケーション能力については1か月経っても何ら代わり映えしなかったが、業務内容については単純作業という事もあり何の問題も無く、他の社員と変わりなく働いた。

お母さんは6月になっても毎日工場に来ては片隅に座っていた。

ある日、私はお母さんに「もう見守る必要がないのでは?」と言うと、

「すみません。家に居ても心配で心配で何も手につかないんです。ここで息子を見守ってる方が、気持ちが楽なんです。」と返ってきた。

 

梅雨が終わって、夏が本格的に始まっても、お母さんは毎日工場に来た。片隅の椅子に座って本を読んだりしながら、合間合間に顔を上げて、I君を見守っていた。

私はその姿を見る度に、母の子に対する慈愛の深さに驚くと同時に、亡き母を思い出して郷愁を覚えた。

 

その年の秋になって繁忙期に差し掛かると、真空パック工場は猫の手も借りたいほど忙しくなった。I君のお母さんは相変わらず工場に通って来ていた。

そこで私は「人出が足りなくて困っています。お母さん、出来れば当社で短期アルバイトとして働いてもらえませんか?」と声を掛けさせてもらった。

人手に困って出た言葉であったが、お母さんは「ほんとにいいんですか!?」と快諾してくれ、その日から一緒に働いてくれた。

この後、数日してI君にある変化が訪れた。

それまでは一日中、たとえお母さんとでも、社内ではほとんど無いに等しかったコミュニケーションが、仕事中にお母さんとは何らかのコミュニケーションを若干しているのである。

私にはそれがI君の小さな進歩に思えた。

秋も終わり、冬が始まり、正月も過ぎ、春の気配を感じる頃、I君はまた少し変わった。

「おはよう」と声を掛けると、今まで完全に固まっていたI君であったが、目は合わせないが小さく頷くようになったのである。

春になり真空パック工場の繁忙期は終わったが、もうそのままお母さんはパートとしてI君と一緒に働いてもらうことにした。

I君は、畳の目を数えるような変化ではあったが、少しずつ少しずつ変わって行った。

それまでずっと無表情だったのが、声をかけると口角を少し上げるようになった。また一瞬ながらも、こちらの顔を見ながら頷くようになった。

2年半が経つ頃には、毎朝「おはよう」と声を掛けると、何らかの唇の動きを見せて、一瞬こちらに視線を向けて若干の笑顔を見せてくれるようになった。

3年が過ぎた頃、I君のお父さんが転勤することになり、I君もお母さんも退職することとなった。

退職する最後の日に、私が一か八か握手を求めると、I君は手を差し出してきた。

たかが握手かもしれないが、最初の頃のコミュニケーションを思えば考えられないことであった。

私が手を握ると、I君はまたうつむいてしまったが、間違いなく握り返してきた。

そのI君の姿を見てお母さんは泣いていた。私も感動して涙が出た。

I君の成長が嬉しかった。最初の頃、きっと不安な気持ちで工場の片隅の椅子に座り続けたお母さんが今喜んでいる姿が嬉しかった。

この時の経験が、今も継続して障害者雇用に積極的に取り組んでいることに繋がっている。

当時、「障害者本人の個性に、周りが寄り添う気持ちさえあれば、その個性は良い方に変化して行く」という事に確信を持つに至った次第である。

 

障害者について 1>>

障害者について 2>>

第3回フラワーホームカップを開催いたしました。

詳しくはこちら>>

2017年

4月

26日

片田舎の経営者が世界情勢について考える

いま新聞・テレビを始めとし、マスコミが朝鮮半島をめぐる緊迫した情勢を連日伝えている。

そこで本日は、第3次世界大戦も起こりかねないと言われ始めている情勢を、私の若干得意とする歴史の知識から、稚拙ではあるが紐解いてみたい。

 

いま金正恩を取り巻く情勢と、過去ヒトラーを散り巻いていた情勢は、似ているところがあると感じる。

それを説明するにはまず、第2次世界大戦について綴ってみたい。

私が学生時代に学んだ世界史の教科書では、ドイツのヒトラーの膨張主義と反ユダヤ主義が原因で、ヨーロッパから世界を巻き込んだ第2次世界大戦は始まったと書かれていた。もちろんヒトラーが危険な主義や発想を持った人物であることに間違いはないだろうが、もう1段掘り下げて考察してみると「ではなぜ?」この主義や発想が生まれて第2次世界大戦の開戦に結びついていったのかが見えて来る。

それは以前読んだ歴史書に書かれていたことだが、第1次世界大戦の責任をすべてドイツに負わせて莫大な賠償責任を課したベルサイユ条約が、ドイツ国民を徹底的に疲弊させ、その疲弊が国民に、ヒトラーの思想は危険だと気づきながらも付いて行かざるを得なくさせた。そして国のすべてを巻き込んだ膨張主義へと突き進み、第2次世界大戦の開戦へと結びついていったと書かれていた。

ここでヒトラーを金正恩に置き換えて今の情勢を考察すると、似ているところがあると感じる。

戦争の大義は双方にあり立場が変われば戦争の評価も変わるので、大義の善悪については横に置いておくとして、過去の朝鮮半島をめぐる対立の歴史を考えてみると、日清戦争は日本と中国による朝鮮半島の取り合いだし、日露戦争だって日本とロシアによる朝鮮半島の取り合いである。そして今なお朝鮮戦争は休戦しているだけで終戦はしていない。

他国の思惑によって振り回され、その結果 国が疲弊し、疲弊から脱却しようとして自分の国家と軍隊の優秀性を国民に信じ込ませ、軍隊によって解決を見いだそうとしたヒトラーが、私には金正恩と重なって見えるのである。

 

しかし戦争の一番の犠牲者になるのは、いつの時代だって一般人なのである。

武力を行使し、互いが傷付け合い殺し合う戦争は絶対にいけない。

日本には「おたがいさま」という言葉がある。

文化も価値観も何もかもが違う者同士が分かり合うのは難しいことだと思うが、各国が「おたがいさま」や「共存共栄」の精神で寛容さを持ち、譲り合えるところは譲り合い、武力ではなく話し合いで解決を図れないだろうか。

綺麗ごとだと言われるかもしれないが、私は心からそれを願っている。

 

2017年

4月

20日

知恵をしぼる

こんな出来事があった。

確か私が小学5、6年生の夏のある日の夕方、母の入院するN病院にお見舞いに行った時の事である。

母の病室のベッドのそばにゴキブリが現れた。

気の強い母であったが虫類にはめっぽう弱く、姿を見た瞬間に悲鳴を上げた。

私は即座に雑誌で叩きのめして退治したが、病室の隅々を見回すと、あちらこちらに小さなゴキブリがいた。

看護師さんに言いに行くと「明日、掃除のおばちゃんが来たら言っとくわ」と、にべもない返事である。

子供心にも怖がる母を思うと、このまま事を放置してはおけないと思った。同時に私は病気の母の「一大事」だと思った。

そこで私は殺虫剤を撒くかバルサンを焚こうかと考えた。

当時、私たち家族は、木造の古い長屋の賃貸住宅に住んでいたので虫の発生が多く、年に数回はバルサンを焚いていた。そのため子供ながらにも使用方法は熟知していたのである。

しかし当時は今のように遅くまで開いているドラッグストアは無く、時間も夕方と遅かったこともあって、今から薬局を探して物を手に入れるのは難しいと思った。

しかしゴキブリに悲鳴を上げた母をそのまま置いて帰るのは忍びない。

なんとかしようと私は知恵を絞った。

考え出したのが、燻煙材を手作りすることであった。

 

まず、病院のお風呂場に行ってアルミ製の風呂桶を手に入れた。そして病院の裏庭に行ってヨモギの葉を風呂桶にたくさん集めた。(ヨモギが虫除けになるのは、祖父の戦時中の話から知っていた。)

病室に戻る途中にあったゴミ箱から覗くミカンの皮もついでに手に入れた。(煙を上げても良い匂いがするかな?と考えた私のアレンジである。)

それらと割り箸や雑誌を細かく引き裂いた物を混ぜ合わせ、新聞で包んだ。

空気が入りよく燃えるように風呂桶に割り箸を敷いて、その上に新聞紙で包んだ自家製燻煙材をセットした。

適当に理由をつけて母を廊下に出した後、自家製燻煙材にマッチで点火したのち、更によく燃えるように残りのマッチも散らばせて一緒に全部入れたのである。(焚火の仕方も、祖父に空き地で何度も焼き芋を焼いてもらったので知っていた。)

何分ぐらいの時間を空けたかはもう忘れてしまったが、結果、母の病室からゴキブリは1匹もいなくなった。

 

今考えると、叫びたいぐらい大迷惑な悪ガキである。

しかしその当時は、なんとしてでも母の病室からゴキブリを駆除したい一心だったのである。

(N病院の皆さま、非常識なことをしまして、今更ながらお詫びいたします。)

 

「知恵をしぼる」で、もう一つ。

私の母方の祖父は若い時から大変なコーヒー好きであった。

祖父は従軍中、戦地でも知恵をしぼってコーヒーを自作し飲んでいたそうだ。

祖父は昭和12年の日華事変(支那事変)から従軍し第二次世界大戦へと続き、昭和20年の終戦まで中国大陸や南方の戦線をあちこち渡り歩いたらしい。

南方のジャングルでは天然のコーヒー豆の木がいくらでも自生していたそうだ。その木から生豆を取り、食料の缶詰の空き缶を使って焚火を利用し焙煎した後に豆を石で潰して、それにお湯を入れて上澄みを飲んでいたのだと教えてくれた。

 

今回は「無いと諦める前に知恵をしぼろう」という事をテーマに書きたかったのだが、それ以前に「非常識過ぎる!」と怒られそうな内容になってしまった。

 

2017年

4月

09日

人生あっという間

つい先日、桜が散るのを惜しんだような気がするのに、いつの間にか、また桜の季節がやって来ていた。

50代になって、ますます時間の流れが速く感じる。

以前読んだある月刊誌の中に書かれていた、フランスの心理学者ジャネーの法則を思い出した。

その説によると「時間経過の心理的感覚は加齢に伴い、その年齢に反比例して短くなっていく」といったことが書かれてあった。

例えば40歳になると10歳の時に比べて4倍、また50歳になると10歳の時に比べて5倍も時間の流れを早く感じるらしい。

今年の誕生日で私は56歳になる。

10歳の時の1年間は、56歳の私にとっては2か月半に感じ、60歳になると2か月に感じ、70歳になると1か月と3週程度に感じ、80歳になると1か月と2週程度に感じるらしい。

そう考えると、「人生あっという間」と皆が口々に言うのも分かる気がする。

日本の男性の平均寿命である80歳まで生きると考えて、私に残された時間は24年。

数字だけ見れば、そんなに短くも感じないが、ジャネーの法則に当てはめて、10歳の心理的感覚で計算すれば『5年弱』が私に残された時間である。

ドキリとするぐらい短い。

過去に戻って、無駄に過ごした時間を取り戻したい気持ちである。

と言っても、光陰矢のごとしで、過ぎ去った月日は決して戻ってこない。

これまで良い事も、悪い事も、一生懸命にやった事も、無駄に時間を過ごした事も、数多くあり、その積み重ねの上に現在の私がいるのだが、過ぎてしまえば何もかも一瞬の出来事だったように思う。

この50代もきっと、あっと言う間に過ぎてしまうのだろう。

60代70代になって、今のこの50代の時間の過ごし方を間違えた!無駄にした!と後悔しないように、「今日という一日は、 明日という日の二日分の値打ちがある」と思いながら何事においても精一杯やっていこう思った次第である。

精一杯やった先の未来と、無駄に過ごした先の未来が同じはずがないのだから。

●当社の社員が還付金詐欺を防止した件で住宅新報様に掲載されました。

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新年度のご挨拶をUPしました。

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2017年

3月

29日

雑談力

いつの頃からか「雑談力」という言葉を時々耳にするようになった。

雑談力セミナーなども各地でしきりに開催されているらしい。

私も「雑談」を大切にしている。

雑談は人間関係作りに必ず必要なものである。

 

たとえば当社のサ高住(フラワーホーム)に入居の見学で来られた方に、分かりやすく施設のご案内をするのは勿論だが、緊張されている見学者様を雑談でほぐし、何でも気軽にご相談いただけるような雰囲気を作ることが大事であると思う。

事務的な話だけでは、人間関係は深まらない。

自分の話をすることで自分を知ってもらうことがコミュニケーションの第1歩、つぎに話やすい雰囲気を作り、相手にも沢山話していただく事が第2歩目。

自分を知ってもらい相手のことを知り、相手にも「この人は私のことを分かってくれているな」と思っていただいて初めて信頼関係は築かれる。

フラワーホームの入居相談に際して私自身がご対応させていただいた時、雑談からの流れで資産整理や遺言状の作成までご相談をいただき、その結果、当社の顧問弁護士や銀行をご紹介した事例が有る。

 

ところで私は日頃、各事業部の各所を巡回しているのだが、元来「おしゃべり」という事もあり、社内社外の枠にこだわらず目に入る人ほぼ全員と、なるべく会話するように心がけている。

私の話す内容の95%くらいは仕事に関係ない雑談であろう。

時には社員から、「ちょっと社長!雑談はいいから仕事の話を聞いてください!」と言われるほどである。

雑談は社長と社員の垣根を低くしてくれる。雑談で雰囲気が和らげば、社員も本音や懸案事項を口から出しやすくなる。

「懸案事項が社長の耳に届くのは一番最後」のような環境になると会社は危ない。

また情報は取り込めば取り込むほど、何か問題が発生した時の解決に役立つ。

一見なんの繋がりもないような一つ一つの情報が当該の問題に関連していて、ジグソーパズルのピースを嵌め込んでいくように一つ一つの情報を繋げれば問題の全体像が浮かび上がってくることもある。

 

ここまで雑談力について綴って来たが、実は私の雑談力は高くない。

というのも、本当に雑談力のある人というのは、相手に沢山喋らせる人なのだそうだ。

私の場合、私の方が断然喋ってしまうのである。 笑

●中小企業庁の「平成28年度補正 革新的ものづくり・商業・サービス開発支援補助金」に採択されました

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●第3回 フラワーホームカップ開催のお知らせ

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2017年

3月

15日

45年間育て続けている花月

本日は、私が約45年間育てている『花月(カゲツ)』について書いてみたい。

この花月は私が小学校4年生(昭和46年)の時に、我が家にやって来た。

当時、父の友人であった華僑系日本在住外国人のEさんから父が頂いたものである。

「縁起の良いサボテンで、玄関に飾って育てると金運もよくなる」

とEさんが父に説明するのを、私も一緒に聞いた。

しかし父は縁起や迷信の類は気にしない質だったので、あまり興味を持たなかったようである。

日夜 働いていた父は植物の世話をする余裕はなく、母は入院で不在がちだった為、花月は玄関にポツリと放置されたままになっていた。

3~4か月もすると枯れ始めてきた。

ある日、私はそれを見つけて、「これは縁起が悪い!このままでは我が家の金運がダメになってしまう!」と思い、すぐに水を与え世話を始めた。

それ以来、ずっと今日まで連綿と約45年間育てている。

ちなみに私は、例えば「遠足に行く方角が悪い」とか「その日は仏滅で日が悪いので授業参観を取りやめたほうがよい」などと言って、担任の先生を困らすほど縁起を気にする少年であった。(現在もそうである)

 

この花月という植物は、実に繁殖力が旺盛である。

鉢植えだと1.5mぐらいの大きさになれば、土の量の問題もあり養分を吸いにくくなって、寿命が尽きて枯れてしまうが、しかし落ちた1枚の葉っぱが、そのまま土に着床し、すぐに新芽を出し始める。また伸びすぎた枝を間引きした後に、挿し木をしてもすぐに根を張り成長し始めるのである。

 

小学生男子の大雑把な世話であったが、枯れかけていた花月は再び元気を取り戻して成長し、その後、何度も寿命と再生を繰り返しながら、どんどんと増えて行った。

鉢が増えるたびに、私は同級生や近所のかたに、縁起の話と共に花月をプレゼントした。

それでも中学を卒業するころには、50cmほどの株が十数鉢、手元に残っていた。

しかし私は中学を卒業と同時に郷里を離れて、奈良県の高校の寮に入ることになった。

寮に鉢を持って行くわけにはいかず、半分を母方の祖母へ、残りの半分は父に託した。

その後は、柔道まっしぐらで、花月どころではなかったが、3~4か月ごとの帰郷の際には水やりをした。

大学を中退後は愛知県にしばらく居た。

数年ぶりに郷里に戻ってきた訳であるが、花月はかろうじて枯れずに生きていた。

肥料は全く追肥していなかったので、さほど成長していなかったが、水遣りは欠かさずしていてくれたようである。

帰郷後、手元に戻ってきた花月を、独立した事務所の前に並べて、また育て始めた。

その後、花月は幾度となく寿命と再生を繰り返した。

私は、鉢の数が増えれば周りの方たちにプレゼントしながら育て続けた。

39歳の春頃、ある日突然、花月はピンク色の小さな花を幾輪も咲かせた。

何十年も育てていたが初めてのことだったので、とても嬉しかった。

 

今冬も寒い日はナイロンを被せて養生しながら大事に育てているが、もういつの間にやら、季節は早春である。

寒さもやっとゆるんできたし、花月も喜んでいるだろうか。

2017年

3月

07日

嘘でもホンマでも

私が小学生の低学年のころ、母方の祖父母に天王寺動物園に連れて行ってもらった時のことである。

いきなりその帰り道に話は進むが、動物園の出口を出るとすぐ、全身「白ずくめ」の衣装を着た3人の男たちが目に飛び込んできた。

よく見ると一人は松葉杖を横に置いてアコーディオンを弾いている。

またもう一人の人はそれに合わせてハーモニカを吹いていた。

そして3人目は車いすに乗ってうつむいたまま、ただ座っていた。

そして3人の前には缶詰か何かの大きな空き缶が置かれていた。

祖父はそれを見つけると3人の前まで行き、軍隊式の敬礼をしてから、幾ばくかのお金を空き缶に入れた。

私は当時、状況が全く掴めず、帰りの電車の中で祖父に先ほどの出来事の一部始終を尋ねた。

 

まず3人の方は戦争(第2次世界大戦)で怪我をして体が不自由なり、日本に帰って来た後も働くことが出来ずに困っている方(傷痍軍人)であるということを教えてくれた。

また祖父は、自分自身も支那事変(昭和12年)を皮切りに、終戦(昭和20年)まで9年間にわたり従軍したことを教えてくれた。(戦争と平和>>

「たまたまお爺ちゃんは生きて帰ってこれたけど、それはそれは大変な事やった。」

「毎日のように怪我人や死人が出た。部下や同僚や上官も怪我や病気でどんどん死んでいった。」

「一歩違ったら、お爺ちゃんがさっきの3人のうちの1人になってたかもしれへん。お金を入れさせてもらうのは、命あることに感謝するお爺ちゃんの気持ちや!」

と説明してくれた。

するとすぐさま祖母が

「かっちゃん、お爺ちゃんはアホやろ!あの人らはなぁ、暗くなったら、すたこらと普通に歩いて帰るんやで!お金出すのは止めときって、いつも言うてるのに、この人は何回言うても止めへんのや!」

と、ぷりぷりしながら言った。

すると祖父は眉を吊り上げながら

「おまえは孫に何てことを言うてるんや!あの人らが嘘でもホンマでも、俺の感謝の気持ちには関係ないんじゃ!」

と怒鳴った。

後にも先にも、あれほど怒った祖父の顔を見たのはこの時が初めてで、強く印象に残った。

ちなみに当時としては珍しく、祖母の方が祖父より6歳も上の「姉さん女房」であった。

 

私は外出先で、道端の道祖神さま・神さま・お地蔵さま等を見つけると、ほぼ必ず手を合わすし、 行者さま・神名流し・托鉢僧の方々に遭遇すれば、一期一会を感じると同時に、いま自分が在ることに感謝の気持ちを感じて、幾ばくかの小銭を入れさせていただいている。(神頼みの男>>

たとえその托鉢僧が偽物であったとしても、祖父の言葉を借りるならば

「あの人らが嘘でもホンマでも、俺の感謝の気持ちには関係ないんじゃ!」である。

いま自分が在ることに感謝し手を合わす「きっかけ」になってくれたのだから。

お金を入れさせていただくのは、そのお礼である。

 

2017年

2月

27日

「これが私の生きた証や!」

先般、当社シニア事業部のサ高住「フラワーホーム」の駐車場に車を停め、玄関へ向かうと、車いすに乗ったご高齢の女性の入居者さまと向き合うスタッフがいた。

入居者さまは「家がこいしい」「家に帰りたい」と涙ぐまれていた。

スタッフは入居者さまの手を握り締めながら話を聞き、真摯に慰めていた。

私はこの姿に、高齢者施設としてフラワーホームが目指して行かなければならない原点を見る思いがして胸が一杯になった。

入居者さまのホームシックが少しでも癒えるお手伝いになればと、私も一緒にお話をさせてもらった。

 

さて私が柔道に青春を費やしながら暮らしていた高校は全寮制だったため、ホームシックにかかった人達を、これまで数えきれないぐらい見てきた。

入学当初の1年生は「ホームシック」の雨あられどころか嵐か台風状態である。

私は、母が病気がちだったため、幼少期から生家で過ごす時間よりも、両祖父母宅や親戚宅で過ごす時間の方が長かったので、小学生時代ぐらいまでに既にホームシックは卒業していた。

しかし実家を離れて暮らすのが初めてだった皆は、たとえ全国の各都道府県で中学生チャンピオンになった者が集まる柔道部においてでも、練習と規律の厳しさも相まって、ほぼ全員がホームシックにかかり、憂いに沈んだ。

そんな彼らを慰め元気づけるのは、伝統的に同じクラブの上級生たちである。

なぜならば自分も同じ思いをしたから、同じ苦しさを分かち合える。

私も上級生になってからは、ホームシックに沈む後輩たちと時間を掛けてじっくりと向き合ってきた。

ホームシックの原因は複合的な要素が複雑に絡み合い、何らかの事柄が引き金になってパンデミックを起こす訳であるが、後輩の気が済むまで、まずはじっくりと時間をかけて話を聞くことが大切である。

この「じっくりと時間をかけて聞く」という行為の中で、ふたたび前を向いてもらう糸口が見えて来る訳である。

 

今回の場合でも、スタッフが先行して入居者さまのお話を、じっくりと時間をかけて聞いていたおかげで、会話に途中参加してすぐに糸口を見つけだすことが出来た。

そしてキーワードは「寂しい」であった。

しかしご家族様も、よく訪問してくださっているのだが、高齢の為に若干の認知も見られるので、訪問があった事を忘れがちになられているのだろう。

 

話を伺う中で、子や孫や曾孫様の話題になった。

さらに、この入居者さまは玄孫の方までいらっしゃるという。

そして子孫の人数は70人を優に超えていらっしゃるらしい。

私はその人数の多さに驚愕を覚えると共に、そして純粋に素晴らしいと思った。

その思いを率直な言葉でお伝えしたところ、

「そうや!私には、この地球に同じ血が流れている人間が70人も居るのや!」

「そう思うと、寂しい事も何もないわ!」

「これが私の生きた証や!」

とおっしゃられて笑顔になり、そして

「玄関で居たら寒くなってきたから部屋に帰るわ。車いす押して!」とスタッフにおっしゃり、自信に満ちた顔でお部屋に戻られたのである。

言うまでもなく私はすぐさまスタッフに「ありがとうカード>>」を手渡した次第である。

 

2017年

2月

22日

思いがけない巡り合せ

人生には多くの巡り合わせが存在する。

過去、事前リサーチを繰り返したうえで新しい企画に挑戦をしてみるも、思い通りに成果が出ないことも多くあった。

しかし思い通りに行かなかったことも、諦めず継続さえしていれば、のちに思いがけない巡り合わせで素晴らしい芽が出たことも往々にしてあった。

 

先般、当社フェルト事業部の部長から、ある商材について「仕入れ値と販売価格の差が数パーセントしかなく利益がほとんど出ないので、取り扱いを続けるか止めるか」の相談を受けた。私は即座に「収支がマイナスではないのなら続けよう」と答えた。

 

たとえば官公庁向けの毛布などは、一度に何千枚・何万枚という数の毛布を販売する。

それに比べて、1枚2枚単位の販売だと手間がかかるだけで、ほとんど利益が出ないのである。しかし当社は今も1枚単位からの販売をさせて頂いている。

というのは過去に、こんな事があったからだ。

 

今から20年以上前、毛布1枚の販売からお取引が始まったSテキスタイルという会社があった。

S社からの注文は多い時で20枚ぐらい、あとは1枚~数枚単位の注文がちらほらあって、年間を通じても計100枚くらいのお取引であった。

そんな状態が数年続いた訳であるが、ある年、長野県で冬季オリンピックが開催されることになり、このS社が選手村の寝具を一手に引き受けることになったのである。

細々とだが途切れることなく関係が続いていた当社も協力工場として数千枚の毛布を入れさせて頂けることになった。

 

このように、たとえ薄利でも切れてしまわず継続さえしていれば、思いがけない巡り合わせから芽を出す時期(チャンス)が来るのである。

ほとんど利益が出ないお取引が数年続いていたが、その期間の信頼があったからこそ大きな仕事も頂けたのである。

収支がマイナスでない限り、商流が切れてしまわないように、たとえ細々とであってもお付き合いを続けて行く。細々としたお付き合いであっても、それが葉脈のように何百社と広がっていけば、その中から、またチャンスが生まれて来ると私は思っている。

 

2017年

2月

12日

嫌煙権及び喫煙権の尊重

当社が運営するフラワーホームでは、これまで受動喫煙・健康維持・火災対策・臭気及びヤニ対策等の観点より、館内1Fの「喫煙室」を除いて、禁煙とさせて頂いていた。

 (床面積の5倍の能力がある大型空気清浄器、衛生殺菌・消臭水生成装置を喫煙室にはもちろんのこと、その他共用部分にも隈なく配し、臭気対策を施している。)

 しかし入居者様の中には、身体機能の低下により、喫煙室までの移動が円滑ではない愛煙家の方もいらっしゃる。

また医師の指導を受けながらどんなに努力を重ねても、紙巻き煙草の喫煙を止めることの出来ない方もいらっしゃる。

また、老後の楽しみの一つとして喫煙されている愛煙家の方もいらっしゃる。

 

嫌煙権に対し最大限に配慮を行うことを前提でならば、

嫌煙権も喫煙権も等しく尊重されるべきだと私は考えている。

 

また一部の自治体では、もうすでに、紙巻タバコの喫煙が禁止されている路上であっても新型電子タバコ(IQOS)アイコスの使用が認められているらしい。

また禁煙スペースであっても新型電子タバコ(IQOS)アイコスの使用を認めている飲食店等もかなり増えて来ているらしい。

先般、大阪府の松井知事が、新型電子タバコの全面解禁を提案された報道も見かけた。

http://mainichi.jp/articles/20170126/k00/00m/040/090000c 

そこで当フラワーホームでは、「受動喫煙・健康維持・火災対策・臭気及びヤニ対策・嫌煙権及び喫煙権の尊重」を考慮した結果、

新型電子タバコ(IQOS)アイコスのみ個人居室でご使用して頂けるようにしました。

 

(共用部分は不可)

ここでアイコスの紹介を少しさせて頂きます。

 

・煙が出ないので、周りの人に迷惑をかけない(白いのは水蒸気です)

*受動喫煙がないので周りの方に迷惑がかかりません。

 ・火を一切使わないので、火災発生の心配がない

*万が一、喫煙中に寝てしまっても絶対に火災発生の心配がないので安心です。

・臭いが格段に少ない

*若干の臭いは存在しますが、紙巻き煙草に比べたら格段に少ないです。

・タールが発生しないので、ヤニがつかない

*壁紙や窓ガラスがヤニで汚れません。

・灰が発生しないので、部屋が汚れない

*灰が落ちる等の心配がありません。

・身体への害が少ない可能性が期待できる

*公表されているデータでは、発がん性物質や発がん促進物質等を含め、その有害物質の90%が削減できるそうです。

 

フィリップモリス社HPより>>

IQOS を使用する際は、たばこ製品の使用に関する各地のルールに従って頂くようお願い致します。一部の自治体では、紙巻たばこの喫煙が禁止されている路上の場所であってもIQOS の使用が認められています。また、禁煙スペースであってもIQOS の使用を認めている飲食店等もあります。但し、いずれの場合も使用する際は常に周りの方々、特にお子様に十分お気遣い頂くようお願い致します。

IQOS は火を使わず、灰が出ず、やけどをさせる心配もありません。IQOS が発生させるたばこベイパーは、紙巻たばこと比べて、においが少なく、素早く消えて屋内環境に悪影響を及ぼしません。IQOS のようなたばこ葉を燃やさず加熱する製品が従来の紙巻たばことは大きく異なるということを前提とした規制が今後なされることを期待しています。また、このような成人喫煙者向け製品は、学校のように、主に未成年が使用する場所では禁止されるべきだと考えています。

2017年

1月

28日

きっかけは図鑑

昨年、定年まで公立学校で社会科の先生をしておられたという方とお会いする機会があった。

自己紹介をし合い、いくつか話をした後、話題はおのずと歴史の話に移行して行った。

ツーと言えばカーで話が通じ合うので、思わず先生を前に戦国時代について熱弁をふるってしまい、「本当にお好きですね」と呆れられた。

 

さて私は子供の頃から何事にも好奇心いっぱいで、見るもの聞くもの全てに反応してしまい、まわりに居る大人達を「これは何?あれはどんな仕組み?」と質問攻めにする「不思議だなぁ少年」であった。

小学校2年生のある日、こんな事があった。

学校の帰り道、ある1匹の虫を見つけて家に持ち帰った。そして理科の教科書で調べてみたが、どこを探しても載っていなかった。その後、父にその虫を見せて名前を聞いてみたが、父も名前を知らなかった。

私は父に「大人やのに、こんな虫も知らんの?アホな大人やな!」と言った記憶がある。

しかし父は、私の暴言に怒りもせず何も言わなかった。

翌日、学校から帰ると小学館の「昆虫図鑑」が机の上に置かれていた。

その本を見つけるなり私は夢中になり、夜遅くになって父から「明日も学校やろ!早く寝なさい!」と言われるまで読み耽っていた記憶がる。

それ以降、父は誕生日や記念日ごとに、小学館の図鑑シリーズをプレゼントしてくれるようになり、6年生のころには全巻揃った。

その中でも特に、中国の始皇帝の陵墓発掘やエジプトのピラミッドなど、お宝探し系の図鑑が大好きだった。

というのも、その図鑑が手に入る以前に、シュリーマンの「トロイの発掘」と「ツタンカーメン王の呪い」というノンフィクション本を読み、「僕もどこか外国に行って、お宝を発掘しよう!」と夢を抱いたからである。

しかし暫くのち、私は「子供だから、まだ外国には行けない!?」と考えて、今度は「武田信玄の隠し蔵伝説」や「徳川幕府埋蔵金伝説」など日本史を中心に、あれこれと本を読み漁るようになった。

そして、それらの本を参考にしながら、「もしかしたら??」と近所の山や河原や空き地に穴を開けまくるようになった。

中学生になる頃には、小学生向けの図鑑から脱皮して、今度は古本屋で歴史本を探して読むようになった。

初めは、お宝発掘を目当てで読んでいたが、いつしか歴史上の人物(特に武将の人生)に魅了されるようになり、ますます歴史好きに拍車が掛かった。

ここから現在に至るまで、私の歴史好きは変わらない。

歴史のリーダー達から学ぶ>>でも書いたように、歴史本からリーダーの姿や組織作り、戦略など、失敗も含めビジネスに生かせることが学べる。

歴史好きになったきっかけは、1冊の昆虫図鑑であった。

何がどこでどう繋がるか分からないものである。

 

2017年

1月

17日

経営改革

3年間という期間を定めて「第二の創業>>」をスローガンに経営の改革に着手して今年で3年目を迎える。

どんなに小さい事柄も見逃さず、聖域を設ける事無く、また現状に甘える事無く、

事なかれ主義・前例主義・過去のしがらみ・慣例を徹底排除し「すべてを見直す」ことを目標に順次実行している。

すでに実行したものを一部挙げると、小さなところでは、電話回線の集約化や定期購読紙の見直し、リース物品・損害保険の見直し等のコスト削減。

大きなところでは、サ高住、訪問看護介護ステーション、ケアプランセンター、診療所の開業運営。

同業他社の経営統合。

給与体系や、社員・役員人事の見直しなどである。

実行した項目の中には、私の特性であるすぐ!すぐ!すぐ!今!今!今!>>から、独断専行や、時を待たずして変更したものも多くある。

しかし、私の信念である、お客様の満足、企業の満足、社会への貢献三方良し>>を具現化するため、また企業理念>>である「社員やスタッフが物心両面で豊かな生活を送り、自分の将来に安心感を持てるようにする事。」を実現させるための、将来の企業経営の安定を見据えた改革であるため、関係者の方々にはお許し頂きたい。

 

ところで年末に見かけたある新聞記事の中に、私の心を射抜いた言葉があった。

『会社っていうのは成長したら、ぶっ壊して0から作り直すものだ!』

これは、ファーストリテイリング会長兼社長の柳井正氏の言葉である。

会社組織は大きくなってくると、経営者自身も含めて役員・社員が現状に甘えて、挑戦することが少なくなってくる。また現状をあえて鑑みずに、調子の良い話だけを現実だと思い込み、組織が硬直化し、事なかれ主義・前例主義が蔓延し始める。

これがいわゆる「大企業病」である。これを打破する為、柳井社長は企業経営の刷新を定期的に繰り返すという。

 

この記事を読んで、当初は3年間で一区切りと考えていた「第二の創業」の経営改革を変更することにした。

ファーストリテイリングのような大企業ですら、柳井社長の言葉を借りれば「ほとんどの役員が私の経営手法や意見と合わずに辞めて行った。」ほどの大改革を当然のように行っているのである。

実際には、中小企業である当社には、そこまで大きな改革を行うのは経営体力や人材的にも限りが有り厳しいが、改革を止め現状で良しとしてしまうと、そこから衰退に向かって行くと思うのである。

そこで、当初は3年間で一区切りと考えていた経営改革を永続的に行うことにした。

そのためスローガンを「たゆまぬ経営刷新・挑戦の継続」とすることにした。

変わり続ける経営環境に対してアンテナを高くし、敏感に様々な施策を講じ、時代と共に変化し続けなければ、企業の未来は無いと感じる。

身の丈を考慮しつつも失敗を恐れず、一切先送りせず、経営の刷新を繰り返し、毎年毎年が創業だという意気込みで、精進を重ねてまいります。

 

2017年

1月

07日

地獄掃除

2017年 新年あけましておめでとうございます。 

旧年中は大変お世話になり誠に有難うございました。 賜りましたご厚情に深謝致しますと共に、 本年も変わらぬお引き立て、尚一層のご高配賜りますようよろしくお願い申し上げます。

 

さて、年が明けて第一回目のブログは「地獄掃除」について書いてみたい。

私は掃除については異常なほど細かく厳しい人間だと思う。

窓に拭き跡が残っているなんて我慢出来ないし、桟の掃除には爪楊枝を使う。

徹底的に掃除をする時は、会社の前の道路にも掃除機とコロコロ(粘着クリーナー)をかけるぐらいである。

毎日掃除をするが、それでも掃除が行き届いていない!と感じた時は、皆の仕事の手を止めさせて、社員全員で徹底的に掃除に取り組む。掃除による筋肉痛で半泣きになる社員もいるぐらいである。

「尋常じゃないレベルの掃除」という意味で、本当は「地獄掃除」よりも、もっと酷い呼称で皆が呼んでいるのだが自粛した。

社員に対して口うるさく「掃除!掃除!」と言うぶん、私自身が先頭に立って、誰よりも掃除をしている。

会社の顔である玄関と、トイレは、重要な場所なので、私の担当で一日に何度も掃除をする。私が訳あって掃除出来ない時は幹部社員が掃除をする。

本社の中には空気清浄機が8台あるが、月に1度そのフィルター掃除をするのは私で、会社の風呂場でパンツ一丁になって分解掃除をする。

社員たちが掃除した場所を見て回り、不行届を見つけると自分が先導して一緒にやり直す。

私が、社員たちに求める掃除の水準は、かなり高いレベルなので、入社して日が浅い社員達などは戸惑い、ウンザリしていたことだろうと思う。

ここまで徹底した掃除を求めるのならば、プロに頼めば良いのでは?と思われるかもしれないが、それでは意味が無いのである。

 

土俵と同じ

私は小学生の頃、少林寺拳法を習っていたが、練習時間の半分以上の時間は道場の掃除をさせられていた(2時間の練習時間で実際に拳法の練習をするのは40分くらい)。父親から「お前は拳法じゃなくて、掃除を習いに行ってるんか?」と揶揄されたほどで、生徒同士でも「そうじんじ拳法」と呼んでいた。

高校では、柔道の畳の目に詰まった汚れを、爪楊枝でほじくり返してするような厳しい掃除を学んだ。

相撲の土俵もそうであるが、大げさに言うと自分の命を掛けたやり取りをする場所だから、清浄に保ちたいという思いが働く。

それと同じで、仕事は生活(人生)の土俵でもあるのだから、職場は常に清浄に保ちたい。

 

協調性を育む

心のこもった掃除は、「自分だけ良ければいい」という個人主義な考えの人には出来ないだろう。

しかし、最初は嫌々でも皆で力を合わせて、同じ目標に対して同じ事をすることで、次第に協調性が生まれて来ると思う。

最初のうちは「掃除をしたという既成事実を作ること」が目的かもしれないが、やり直しが発生したり、慣れてくるうちに「綺麗にすること」自体が目的になる。そうなって来ると「自分だけ良ければいい」という考えは自然と消えているのではないだろうか。

 

習慣化しスキルアップ

常に職場を綺麗に保っていると、少しの汚れでも目につき、気づきやすくなる。

気づくことが出来るだけでも1歩成長、次に、見て見ぬふりをせず綺麗にすることが出来るようになると、大きな成長。

汚れに気づいて綺麗にするには、「気付ける力」「実行力」「奉仕の精神」が必要である。

その行動が習慣化すると、自然と日ごろの業務にも「気付ける力」「実行力」「奉仕の精神」が表れるものである。

 

工夫する力

はっきり言って掃除に関しては、「私が一番掃除をしている」ことを免罪符にして、私は社員スタッフ達に過大な要求をしていると思う。私の要求する水準にまで掃除をしようと思うと、時間が足らなくなることは自覚している。

しかし、ただ漠然と掃除をするのではなく、より良い方法を工夫して欲しいと考えている。

これも前記と同じように、工夫する事が習慣化すると、自然と日ごろの業務にも「工夫する力」が発揮されて来るものである。