ー2014年ー

2014年

12月

28日

仕事に取り組む姿勢

本日が2014年の締めのブログとなりました。

本年も稚拙なブログにお付き合い下さいまして誠に有難うございました。

来る2015年もご指導ご厚情の程、よろしくお願い申し上げます。

 

さて今年最後のブログは、「仕事に取り組む姿勢」について書きたい。

私は東建コーポレーション株式会社 代表取締役社長兼会長 左右田鑑穂様に、17歳の時に天理高校柔道部監督の計らいで出会い、その後、現在に至るまで約36年間、師と仰ぎ、ご指導を賜りながら、どうにか経営者としての道を歩ませて頂いてきた。

その間には有り難いことに、公式行事だけではなく左右田社長が主催されるプライベートな食事会にも、度々、御同席させて頂く機会を賜り、私のような立場では普通はお会い出来ないような各界の著名な方々とご一緒させて頂けた。

そのような会の中で、強く印象に残る社長のお言葉がある。

 

日本のトップクラスの柔道関係者の方から

「柔道界の参考にさせて頂きたいので、左右田社長が今日のような成功者になられた秘訣を教えて頂きたいです」とのご質問があった。

 

左右田社長は「経営者として私はまだまだだと感じていますが、もし私を成功者だとあなたが言うならば・・・」と本心か謙遜か前置きをされてから、「寝る間も食事する間も惜しいと感じるほど、一心に経営に身を投じることを長年続ければ、私で無くても誰であっても必ずや成功できると思います。」と、仰られた。

私はこのお言葉を聞いた時、ある朝のことを思い出していた。

東建多度カントリークラブ内のホテルで午前0時を過ぎるころまで続いたパーティの翌朝、私は大阪に戻らなければならない用事があり早朝5時半に起きて出発したのだが、ふとホテルの駐車場から左右田社長のいらっしゃる理事長室を眺めると電気が点いており、カーテンの隙間には執務机に向かっている社長の御姿があった。

 

卓越した才能とパワーを持っていても、それに甘んじることなく、人の何倍もの熱量を持って仕事と向き合い、真面目に努力をし続け、時間を惜しんで働き続ける。

この大変な努力が結実して、今の社長の成功がある。

今日に至るまで社長が積み重ねて来られた粉骨砕身の日々を回顧するたびに、私は感動すると同時に、いつも自責の念にかられる。

私が左右田社長のような才能とパワーを持ち合わせてないのは仕方がないとしても、社長ほどの熱量で仕事と向き合って来たか?そう自分に問うと、取り戻せない時間を悔しく感じ、焦りを伴った意欲が掻き立てられる。

 

通常、社員は「仕事に取り組む姿勢」がフラついたり、楽な方に流れたりすれば、上司や先輩から指導を受けるであろう。

しかし経営者は「仕事に取り組む姿勢」を戒められたり、直々に薫陶を受けたりする機会は滅多にないものである。そのため軌道修正するのが難しい。

しかし私の場合は、左右田社長との出会いに恵まれて、いかに成長していくか、いかに仕事に取り組むか、どこを目指すのかなど、「自分自身の姿勢」を構築していく上において、大きな鑑を見ながら歩んで来られたのである。

また現在でも、たとえ一言でも聞き逃さないように、全て吸収するつもりで食事会等に臨ませて頂いている。

その結果近年は、左右田社長の足元には到底及ばないまでも、寝る間も食事する間も惜しいと感じるほど、目標に向かって全力を傾注していると自分で思う。

 

私の目指す「三方よし」の理念は、まず周りの人(お得意様)からの信頼の積み重ねが必要であり、その信頼を得るのは、経営者として真面目に仕事に取り組む姿勢であると考えている。そして周りの人(社員)を物心両面で豊かにする為には、働く価値のある会社を創って行くことだと信じている。

そしてこの精神で歩んで行った先の結実が社会貢献だと考えます。

 

2015年!

仕事には誰よりも真剣に取り組み、多くの信頼を得て邁進していきたいと思う次第であります。

本年も誠に有難うございました。 感謝!!

 

 

2014年

12月

21日

高齢者と寝具

サービス付き高齢者専用賃貸住宅を運営していくうえで、寝具は切っても切り離せない。

人間は一生の約3分の1は寝ていると言われている。

人生を約80年とすると、約25年間を睡眠に使っているそうだ。

年を取れば取るほどベッドの中で過ごす時間は多くなり、寝具は人生の中で益々大きなウエイトを占めるものになって来る。

お年寄りにとって、硬すぎる敷ふとんは腰や背中に無理な力がかかり、重すぎる掛ふとんは、心臓や血管に圧迫を与えてしまう。長い時間を過ごす場所だから、体に合った良いものを使って頂きたいと思う。繊維関係の事業を行っている当社であれば、最適なものを安価で利用者さまに提供することが可能である。

そして高齢者の寝具で大切なのが、衛生的であること。

体が不自由になるとベッドで過ごす時間は多い。

特に寝たきりの方になるとベッドの上で食事をしたりオムツ交換をしたりなど、汚れやすい。

ダニやアレルゲンやウィルスなどから抵抗力の弱いお年寄りを守るという観点からも、シーツやカバー変えはもちろんのこと、乾燥消毒や布団の丸洗いを定期的に行うことが大切だ。

当社では布団の丸洗いが出来るフレスコ部門の工場があるので、その点は問題がないどころか得意分野である。

サ高住の利用者さまが快適に過ごして頂けるように、既存の事業部門とも最大値に連携して邁進して行く予定である。


65歳以上の高齢者と呼ばれる方達は第二次世界大戦後、今の平和で恵まれた日本の社会基盤を作り、苦労して国を支えて来てくれた方々である。

激動の中で日々を駆け回り、忙しさに追われるように生きて来て、一息ついて気が付いてみれば高齢者と呼ばれる歳になっていた、そんな時代の方々だろう。

 

誰だって清潔に整えられた布団に滑り込む瞬間は心地よく、刹那的であっても幸せを感じる。

そのような小さな幸せを出来るだけ多く生み出し、それを感じて頂けることで「長生きして良かった!」と思って頂ける施設を作りたい。

そうすることで、慌しい時代を生きてこられた方々のお役に立ちたいと願う。


2014年

12月

14日

飲みニケーション

師走。お酒を飲む機会が増える季節がやって来た。

お酒と言えば私が柔道部の出身ということもあり、周りは、それはそれは鬼のような酒豪揃いであった。

その頃のみんなの合言葉が「先に帰ると負け!」「飲む量が少ないと負け!」「飲んで倒れたら負け!」である。

だから誰にも負けるものか!と、皆が競って浴びる様に酒を飲むのである。

 

しかし最近はそれが遠い昔であり、他人事と思えるくらいに私も含めて皆がすこぶる大人しくなり、常識の範囲内でしか飲まなくなった。

昔のどんちゃん騒ぎが嘘のように、今では御淑やかで慎ましい飲み会(笑)で納まるようになってきた。若いころに比べて体力的な要因もあるだろうが、皆それぞれに年を取り、近頃は健康の事も気になるお年頃なのである。笑

 

最近は、社員やお取引各社の方たちと飲み会をする時は、みんなでお店まで歩くようにしている。

「健康の為に少しでも運動を」と考えたのと、車の代行代金を削減するために始めたのだが、思いがけない産物があった。

車でスピーディーに移動するよりも、たわいもない話をしながらボチボチ夜道を歩く時間があった方が、仕事モードが抜け、懐も開くから、乾杯をする頃には良い雰囲気に場が出来上がっている。

それともう一つ。

会社内であれば「愚痴」であってもそれは「報告」となり、「では改善策を」となるところだが、飲み会への道すがらという気楽な場であれば、改善策を練るほどではないが、ちょっとぼやきたいという程度の愚痴を聞けるし言える。

案外そんな所にも大事な情報が埋まっている場合もあり、コミュニュケーションを取る良い時間となっている。

 

近年では、「飲みニケーション」は日本の悪しき習慣などと言われているそうだが、人間関係の構築、情報や意識を共有するためには、やはり必要なものだと私は思うのだ。

 

2014年

12月

07日

外国人旅行客VS日本人

先般、特急車ラピートに乗った時のことである。

この電車は、関西空港駅~難波駅を運行する特急のため、空港利用客が多い。

 

その日は、電車に乗り込んだ瞬間から車内の様子が違っていた。

入り口には大型荷物専用のスペースが設置されているにもかかわらず、多くのスーツケースが乱雑に放りだされており、通ることさえ儘ならない。

やっとの思いで客室に入ると、ほぼ満席状態の車内は戦争でも起こっているのか?!と疑いたくなるほどの大声が飛び交っている。

圧倒されながら自分の席に腰を下ろし様子を伺ってみると、どうやら乗客の多くが外国人観光客であるらしかった。車内のアナウンスも聞こえないほどの大声で喋り続け、全席指定の車内を何人もの大人たちが気まぐれに歩き回る。

あまりの傍若無人ぶりとマナーの悪さに、時間が経つにつれて益々苛立ちが募って来た。

両指で耳栓をして目を閉じ、イライラをグッと堪えているのがやっとの状態であった。

 

難波に到着したときに、事件は起こった。

乱雑に置かれていた多数のスーツケースが通路を塞いだのと、外国人観光客が我先に下車しようと同時に出口付近に殺到したせいで、車内は混乱し前に進めないのである。

ジリジリしながら待っていたが、下車出来ない。

向かっ腹を立てていたところに加え、とどめを刺すようなこの事態・・・。

その時である!

「このクソボケ!さっさと、のかんかー!!」「そうや!早よせいゃコラァァ!!」

私の前にいた日本人男性たちが、外国人観光客たちに向かって罵声を浴びせたのである。

幸い、外国人には言葉の意味が通じなかったようで喧嘩などが起こることはなかったが、私は日本人男性の罵声を聞いて、冷水を浴びせられたような気分になり、頭に上っていた血が一瞬にして冷えた。

自分の愚かしい姿を、鏡でまざまざ見せ付けられたような気がしたのである。

罵声を上げる男性を見て、なんてマナーの悪い恥ずかしい人だろうか!?と思った。しかし下車がもっと遅れていたら、罵声を上げていたのは私かもしれなかった。

『人の振り見て我が振り直せ』とは、まさにこの事である。

 

私が子供の頃には、外国人を見かけることは1年に1回も無かった。

しかし関西国際空港が開港し、2011年にビザ発給要件が緩和されてから、とても多くの外国人を見かけるようになった。政府は東京オリンピックの2020年までに、外国人旅行者を現在の倍の年間2,000万人に増やす目標を立てている。

文化も習慣も国民性も違う国の人たちが、これから益々大勢、日本にやって来る。

我々一般人レベルでも、これからもっと外国人と接する機会が多くなるだろう。

 

日本人と外国人の両者が、今よりも少し「お・も・い・や・り」を持つことが出来れば、たとえ文化や習慣が違っても、もうすこし理解し合えるようになるだろう・・・と自省しながら今回のブログを綴った。

 

2014年

11月

30日

酒と高齢者施設

現在当社は、サービス付き高齢者専用賃貸住宅(以下 サ高住と記載)の開設に向けて進行中であるため、必然的に高齢者施設に関する情報には目を止めてしまう。

先般テレビのチャンネルを変えた時に、印象的なシーンに出くわした。

どこかカフェテリアのような場所で、かなりお歳を召されたご老人の男性が、粋なバーテンダーの出で立ちでシェイカーを振っているのである。そのご老人を、これまたたいへんお歳を召されたご老人がたが取り囲み、カクテルが出来上がるのを、顔をほころばせて楽しげに待っているのである。

番組は、そのまますぐ終わってしまったので気になって調べてみると、バーテンダーの正体は、京都市にある特別養護老人ホームに入所する81歳の男性であった。

記事によると祇園の酒場で長きに渡りバーテンダーをされていたそうだ。

俳優の藤田まことさんが京都へ来られた時には、よく来店されて、お互い「ちゃん」付けで呼び合う仲だったらしい。

 

話が横道にそれるが、藤田まことさんと言えば2010年にお亡くなりになられたが、長い間、東建コーポレーション㈱さまのCMに出演されていた。

私が、東建の左右田鑑穂社長に師事させて頂いている関係で、藤田まことさんとはパーティ等で何度もお会いする機会があり、お話させて頂けた。

詳しい記憶は途切れがちだが10数年ほど前、話の流れで京都の話題になった。

その時私が「京都にはおふくろの菩提がありますので、よく参ります。」と申し上げると、「いい酒場があるから、また紹介するよ」とおっしゃって下さった。

結局紹介して頂くには至らなかったのであるが、もしかしたら、それは前記のご老人のお店のことだったのかな?と当時を懐かしく思った。

 

話を戻すと、このご老人は3年ほど前に認知症で入所されたとのことだが、とにかく明るい性格の方で、また職員の方たちに「何か手伝うことはないのか?」と口癖のように尋ねていたそうだ。

そこで職員さんの発案で、時節のイベントなど折々に施設内に酒場を設けて、そこのマスターとして、他の入所者さん達にカクテルを出すことにしてもらったのだそうだ。

酒場は、多くの入所者の方々に「好影響」を及ぼした。

例えば食欲不振の方が、おつまみであればすべて平らげてしまわれたり、今までほとんど寝たきりだった方が車いすに乗ってでも酒場を訪れるようになったり、認知症の進行が抑えられたりなど、数々の良い効果が表れたそうだ。

 

当社でもサ高住を開設するにあたり、入所者さま達のレクリエーションについても意欲的に話し合って来た。

しかし何故だか「お酒」というアイディアは思い浮かばなかった。

それは「酒と高齢者施設とは離れた存在である」と無意識のうちに思い込んでしまっていたからだ。

しかし考えてみれば、若かった時に「楽しい」と感じた事は、高齢者になってからも楽しいと感じる気持ちはある。たとえ昔と同じぐらい「楽しい」と思えなくても、嫌いにはならないだろう。

「昔のようにバーに行ってみたいなぁ」と思っても、高齢者はその機会がなかったり、遠慮があったりするだろう。年寄りは年寄りらしくしなければと、本人や周りが思ってしまうと、体だけではなく心まで老いてしまうのではないだろうか?

体が不自由になって高齢者施設に入所しても、心は若いまま、時にはお酒を飲んでワクワクしたり、面白がったりして欲しい!きっとそんな職員さん達の想いから、この酒場は誕生したのではないだろうか?

高齢者施設と酒という意外な2つを結びつけた職員さん達の創造力と想いが素晴らしい。

そしてもう一つ素晴らしいのが、職員さん達は、個人の出来ることや特技に目を向けて、

老紳士に「役割」を与えたこと。

年を取ると、職場や家庭での自分の役割を失い、自分の存在価値がわからなくなって行く。

しかし老紳士はバーテンダーとして他の入所者さん達に喜びを与え、施設にも貢献している。

お年寄りにとって誰かの役に立つという事は、「生きがい」につながるような大きな喜びなのではないだろうか?職員さん達の気づきとサポートで、一人のご老人の「生きがい」や「喜び」を作り出せたのだ。

 

高齢者たちは、老いと体の不自由と寂しさを感じながら毎日を生きている。

しかし日々の出来事を楽しむ心は、本人と周りの協力次第で持つことは出来る。

心はいつまでも若く、そしてたった一度しかない人生を豊かに味わい尽くす、そんなことが出来る施設を作るのが当社の目標である。

 

2014年

11月

23日

グローバルスタンダードについて

グローバリズムが世界を滅ぼす

先般、当社のお得意さまであるナカノ株式会社の代表取締役 中野博恭社長より「グローバリズムが世界を滅ぼす」という御本を御恵贈にあずかり拝読させて頂いた。

大阪の片田舎の経営者である私にとって世界経済は難解で、自分の知識不足を再認識させられることとなった。

しかし、このままではそう遠くない未来に必ずや日本経済は沈没するのではないか!?という事を読み取ることは出来、将来に対する危機感に襲われた。

その結果、頭に思い浮かんだ文言が「グローバルスタンダード(世界標準=アメリカ型経営)では、日本経済は世界経済に勝てない!生き残れない。生き残るためには日本独自の新しい経営戦術を生かした攻めの経営をしていくべきである」ということである。

 

戦後、幾多の浮き沈みを繰り返しながらも右肩上がりで推移してきた日本経済は、バブル崩壊を境に失速し始めると、その打開策として日本の経営者はこぞってグローバルスタンダードを取り入れ、企業側に一方的に都合のいいように生産効率を上げて、経済合理性のもと利益追求に走った。

行く末を模索しながら新展開(打開策)を図る行為は、経営者として当然の事だと思うし、また企業のすべてを数値化して、経済合理性を追求した戦略を練るのも間違ってはいない。

しかし実際には日本とアメリカでは文化や思想も違えば社会基盤や土壌、国民性、企業と顧客の力関係、会社と社員の関係性、仕事に対する意識など、なにもかも違っている。

それだけ多くのことが違っているのだから、日本企業がただグローバルスタンダードを真似したところで生き残れないのは当然なのである。

 

いま日本に必要なのはグローバルスタンダードをそのまま真似するのではなく、良い所だけを抜き出し自社のシステムに最も適合するように進化させること、それと並行して日本型の経営戦術の強みを追求することなのではないか。

私が考える「日本型の経営戦術の強み」とは、柔軟に、きめ細やかに、迅速に消費者のニーズに応える「需要主導型」である。

日本は織田信長の楽市楽座の時代から、商人たちがネットワークを作って消費者のニーズや評価を集め、製造業者(メーカー)に代弁することによって、製造業者は研究と改良を重ね、顧客や社会に満足して頂けるものを作りだして来たという物づくりの歴史がある。

 

またアメリカ型経営は「効率と利益追求」であるが、日本型経営は「社員の幸福の追求」であり、人を第一に考え大切にすることで社員の結束力を高め、強い組織を作る、

アメリカ型は株価至上主義だが、日本型は長期的観点で会社の存続発展を考えるなど、様々な違いがある。

経営者は日本の歴史の中で培われた経済システムを再認識して、アメリカ型経営と日本型経営の良い部分だけを選択して融合させ、日本独自の新しい経営戦術を作り出して行くことが必要なのではないか。

そして時には、かつての日本企業のように標準から外れた経営、つまり外部から見れば「分けのわからない経営」をしてみるのも戦略だ。

日本企業が世界中の企業を買収してしまうのではないかと恐れられた高度経済成長の時代に、海外の企業からは日本企業の戦略が、どうも理解しがたい「訳の分からない予想出来ない戦略」であったらしい。競合が発生すると利益率を犠牲にしてでもシェア(市場占有率)を、とりあえず取りに行くことなどはその典型的な日本型戦略であろう。


現在はアメリカが作ったグローバルスタンダードという土俵の上で、アメリカのルールに従い日本企業は戦わされている。皆がそうしているから自社も・・・と日本人は付和雷同だから皆と同調したがるが、その土俵から勇気を持って一人飛び出て、どうも理解しがたい「訳の分からない経営戦略」で攻めてみるのも、益々グロバール化して行く経済で日本企業が生き残る手段の一つなのでは?!と、大阪泉南の片田舎の経営者は思うのであった。

 

2014年

11月

16日

花を踏む

先日、朝刊に「菊祭り」の広告が載っていた。

この時期になると全国で菊祭りが開催されるのだが、その広告を毎年目にするたびに、私の祖母である「立花きくゑばあちゃん」を懐かしく思い出す。

もう何度か当ブログで紹介させて頂いているが、立花きくゑは、丸竹Corp.の前身である呉服屋「立花屋」の経営者である。

私の母が病気がちだったせいもあるが、祖母と過ごした時間は長かった。

祖母は、どこへ行く時にも私を一緒に連れて行ってくれた。

大人達の集まりにも、呉服の仕入れにも、私の手を引いて連れて行ってくれた。

その中でも毎年必ずと言っていいほど連れて行ってくれたのが、「大菊人形展」なのである。

 

今思うと、祖母は自分の名前に「菊」が付くのもあって、菊がたいへん好きだったのであろう。菊展を見に行くだけでは飽き足らず、庭で色々な種類の菊を大切に育てていた。

ところで私の家系は名字の「立花」もさることながら、「竹松」、「きくゑ」「竹雄」、「もも代」、「種子」など、植物に関係する名前を持つ親戚が多い。

そういう訳もあってか、「たとえ道端に生えている雑草の花であっても、克ちゃんは一生、花を踏んだらあかん!」と祖母から戒められたことがあった。

「なんで?」と私が質問すると、「お花にも命があって生きてるんよ。それにうちの家の名字には『花』が付く。克ちゃんは男の子やから立花の名前と家紋を継ぐ子や。だから花を踏むということは自分の頭を踏んでいるのと同じことやで!」と教えてくれた。

子供だった私は「そりゃ縁起が悪い!」と恐れて、一度も花を踏んだことは無い。

しかしある時ふと、祖母のこの言葉のもう一つの意味に気付いた。

 

花を踏むという行為は、弱い立場のものを大切にせず、粗末に扱ってもかまわないという気持ちの現れであり、そのような男は、回りまわって自分も同じような目にいずれ合う、そんな男になったらアカン!「障害者を、お年寄りを、社員を、下請けを大切にする」と言いつつ、足元の小さな花を踏んづける男を誰が信用出来よう。一事が万事で「花を踏む」という一事を見れば、他のすべての事を推察できる。

祖母は、そう教えてくれたのではないだろうか。

 

きくゑばあちゃんが「菊」を育てていたのを真似て、私も自分の名字にちなんで京都御所でも有名な右近の「たちばな(橘)」を一鉢育てている。

今年もたくさん実をつけて、ほのかな柑橘系特有の香りを楽しませてくれている。

 

2014年

11月

07日

与党と野党

当社の会長であり、また私の親父である立花竹雄は、物心がついた頃から釣竿を握り、齢80歳を目前にした今日になっても、趣味である魚釣りへの情熱は冷めやらず、毎週のように自分で船を操縦し海に出るのである。


ところで先般、「魚釣りに出かけた父が帰って来ない」と私の携帯に妹から連絡が入った。通常なら御昼過ぎには帰宅するのだが、午後3時を回っても帰って来なかった。

会社から海まではそう遠くないので車を飛ばして見行くと、魚釣りの後に地元のなじみの漁師の方とテトラポットで歓談している親父の姿があった。

車から降りて一息つき、妹に「心配ない」と報告の電話を入れた後、ふと空を見上げると、驚くほどの数の鳥たちが大きな群れとなって、同じ方向を目指して飛んで行くのを目にした。

悠然と飛ぶ鳥の群れを眺めながら、その日の朝に見た「政治とカネの問題、重要法案の審議遅れ」の新聞記事を思い出していた。

鳥でさえ一つにまとまって、先導役となるリーダーのもと規則正しく飛んでいくというのに、今の国会はなんて愚かしいのだろうか?バラバラではないか。

国会とは国民の代表である議員が、国民の福利のために法律や予算など重要な事柄を決める場所であって、野党が与党の挙げ足を取ってまわって、閣僚を辞任に追い込む場所では無いのである。

そんなことは国会の会期中ではなく閉会時にやってほしいと、大多数の国民は辟易していることであろう。

足の引っ張り合いに終始するあまり、重要法案の審議に遅れが出ていると文末には書いてあった。

今であれば、消費税問題を中心にした景気対策や円安・株安・災害関連法案などいくらでもやらなければならない法案審議が沢山あるはずである。

野党は、先の総選挙の惨敗以降、従来の「反対の為の反対」体質を脱し、一つ一つの法案に対して与党と歩み寄りながら国民の福利になることならば「是々非々」を貫いていくと標榜していたはずである。その時の決意は、どこに行ってしまったのだろうか!?

野党は与党の失策やアラを探し、ダメな与党というイメージをアピールし、自分たちの支持率につなげたいのではないかと愚推せずにはいられない。

我々国民も馬鹿ではない!

このように国民不在の国会闘争に明け暮れていれば、野党の支持率が伸びるどころか、益々、投票率も下がり無党派層が増えていくだけではないだろうか。

そして国民は(特に若者は)政治に関心を失い、日本という国に対して諦念を抱くようになるのではないか?そうなれば、いずれ国が滅んでしまうのではないか?

このように、国民は日本の将来を憂いながら、今の国会の動静を見ていると思うのだ。


そこで、審議が停滞するならいっそ2~3日完全に国会を止めてしまい、議員全員で海に出かけ、悠然と飛ぶ鳥たちの群れを眺めてみては?!と思わず皮肉を言いそうになった次第である。

 

2014年

10月

31日

攻撃と防御

先般9月に「17回アジア競技大会 柔道競技」が韓国で開催された。

有り難いことにその試合中継を、東建多度カントリークラブ・名古屋にて、各地のトップクラスの柔道関係者の方々と観戦させて頂いた。

その観戦後に、東建コーポレーション㈱ 代表取締役 左右田鑑穂社長(6段)主催の食事会があり、その際に左右田社長が「試合において、攻撃は緻密な計算と戦略であり、防御は経験に裏打ちされた本能に基づくものである。」といった趣旨の御発言をされると、他の出席者からも、賛同する意見が相次いだ。

 

攻撃についていえば、試合前に対戦相手を徹底的にリサーチすることから始める。

リサーチ内容は、まずは相手の得意技と弱点の精査であるが、それ以外の重要なリサーチすべき点を上げると、相手の性格、試合での時間配分の特性(集中して技を繰り出してくる時系列ポイントの精査)、筋肉疲労度の経過とその特性(どのあたりの時間帯から筋肉疲労でパワーが落ち始めるか)、無意識での体幹反応の特性(組手と体捌きでの癖)、技の種類や特性(どの方向やどんな態勢からの技か)と仕掛けてくるタイミングの頻度と特性(どのような連絡変化ののち得意技を出してくるか?)、練習状況(スタミナはあるのか?)、顔色や体調(当日の健康状態)はては柔道着のサイズ(袖口は取りやすいか?)、着用の仕方(技を掛けた時に脱げやすくないか?)、帯の結び位置(位置により脇口を掴みにくくならないか?)や結びの強さ(帯を掴んだ時にほどけやすくないか?)までもリサーチして分析する。

そしてその上で初めて攻撃の戦略を立てるのである。

 

防御については、相手が次に何を仕掛けてくるか分からないし、頭で考えるより体で反応する反射的な事なので、経験(練習に次ぐ練習)に裏打ちされた本能で対応するしか術がないであろう。

たとえば優勝候補の一流選手が実力差のある格下の選手相手に、簡単に投げられて一本負けしたりする例を見受ける。格下相手に番狂わせをちらほら起こす一流選手は、短期間で一流選手の位置に駆け上がって来た選手が多く、決まって柔道の開始年齢が遅いのである。つまり、攻撃力は高いのだが、経験値が低いぶん、本能で反応する「防御」が弱い典型的な例である。

 

それと一つ、忘れてはならない重要なことがある。

得意技を掛けるその瞬間は、得意技であるがゆえに気が大きくなって防御については失念してしまう。相手を仕留めることだけに全神経が集中してしまう。そこに最大の隙が生まれる。

逆方向から考えると、わざと相手が得意技を掛けて来やすい隙と間合いを作り、相手に得意技を掛けさすことにより隙を作らせ、そこを狙って仕留めることが来る。

リサーチで相手の得意技を知っておけば、得意技こそ想定の範囲内の技という事になり、逆に大きなチャンスを呼び込めることが出来る。

これも戦略の一つである。

 

たった数分間の短い試合時間に対して、どれだけ丁寧にリサーチをし、どれだけ綿密な戦略を立てられるが、勝敗を左右するのである。


柔道における「事前リサーチ→戦略→実行力→結果」のプロセスは、人生の縮図であり、私にとっては企業経営の戦略を立てる上においても、参考になることが多数散りばめられているように思うのである。

 

2014年

10月

26日

中国製品への疑心と低価格競争

我が国は長らく続いた鎖国が終焉を告げた明治時代以降、石油などの原料を輸入し、それらを品質管理の行き届いた安全安心な製品にして世界に送り出すことで、技術立国として国の活路を見出し、今日まで歩んで来た歴史がある。

しかしである。グローバル化と一言で言ってしまえば簡単であるが、近年おいてはコストばかりに囚われることにより日本の活路である加工技術を我が国は忘れてしまい、原料のみならず、製品そのものを輸入することによりコストダウンを図り、市場は低価格競争になっているのが現状である。

 

なかでも中国製品が巷にウンザリするほど氾濫している。

7月には某外食産業M社関連で、品質保持期限の切れた鶏肉を使用してナゲットを製造していたことが判明し、かなりの衝撃が世界中に走った。

我々の業界でも、中国製ポリエステル繊維製品において、使用済みのレントゲンフィルム(ポリエステルに銀の被膜を塗ったもの)が材料として使用されていたことが原因で、製品から放射能が検出されたり、また染色工程での洗浄の不備から残留ホルムアルデヒド(発がん性物質)が検出され、オーストラリアでは中国製繊維製品の政府回収命令まで出されたりする始末である。

このような事例は加工食品・繊維製品だけに限らず、過去にも多くの報道等にあるように、それこそ枚挙にいとまがないのが現状である。

中国製品は依然として、すべてが安心安全とは、決して言えないのである。

それでも中国製品は、とにかく桁外れに安い。販売価格やコストを意識するあまり、なり振りかまわず日本の業者は我先にと製品そのものの輸入に走ってしまっている。

中国では経済成長にともなって人件費が上昇しているが、今も昔も世界が中国に対して求めるのは『安さ』である。昔は一目で粗悪品と分かる代物であったが、今は見た目では判別のつかない部分(安全面等)を軽視することによって、人件費が上昇した現在でも安価な商品を提供し続ける事を可能にしているのではないだろうか?

残留ホルムアルデヒド、製品から放射能検出、燃えてしまう難燃繊維、これらは製品をパッと見ただけでは判別がつかない。

 

2012年末、中国製の紙オムツ(メリーズ)を使った乳児のお尻がかぶれたというニュースが中国国内で話題になり、『やはり中国製は信用できない。日本製のオムツが欲しい!』との声が富裕層を中心に高まり、現在に至っても花王のおむつの品薄が続いているらしい。

花王は中国国内にも営業拠点を持っていて、メリーズを販売している。しかし中国人は中国国内で製造されているメリーズは「日本製よりも劣る」と思い込んでいるらしく、中国国内製よりも高い日本を買い漁っているそうだ。

このことから、中国国民ですら中国製品を信用していないのが分かる。

 

と、批判的な事を書いてしまったが、「価格」は企業や消費者が商品を選ぶ際の重要な選択肢であることは間違いない。そのため企業はコスト削減の必要に迫られ、それを実行する為には海外工場は不可欠であり、当社も一部の製品において中国工場を使っている。

しかし中国製品をそのまま輸入し販売するのではなく、当社は国内の原料メーカーから原料を購入し、国内で紡績をし、国内で染めをし、その出来上がった材料を中国へと移動し、そこで織りと縫製を行い、それをまた日本へ移動させ、最後の検品と梱包は、国内で行うのである。

つまり「織り」と「縫製」という目で見て良し悪しを判断出来る工程しか外国には任せないのである。

 

最後の工程である検品と梱包を一枚一枚100%国内で行うことによって、手抜きや、すり替えの有無、品質の違うものが混ざってないかなど、ある程度、防波堤の役割を果たす事は可能だが、更なるコストダウンの為にそれらをも中国に任せてしまうと、性善説に基づき、ほんの数枚を抜き出して検査するぐらいの心細い方法でしか、確認のしようがないのである。

ちなみに不安症の私個人としては、中国製品に性善説は通用しないのではないかと考えている。

 

多くの企業や消費者は、「価格だけ」を選択肢に上げているのではなく、品質と価格の両方を十分に比較検討したうえで、コストパフォーマンスに優れた安心なものを買いたいと考えているはずだ。

安いだけで、品質や安全が伴わない商品はコストパフォーマンスが良いとは言わない。

価格が期待に応えられても、品質が、消費者の期待に応えられないものであれば、企業の信頼は失墜してしまい、次の注文はなくなるだろう。

価格は重要な選択肢ではあるが、「安いだけ」の商品を扱っては企業の未来は無いのである。

中国から「検品梱包済みの完成品」を仕入れるのが、最もコストダウン出来る方法である。

しかしそれは安心安全面を、ある程度犠牲にすることだ。

安心・安全を確保するには手間と時間がかかる。

だから、ある線までのコストが絶対に必要で、それ以上コストを下げようとすれば、見た目では判断のつかない安全安心の部分でコスト削減するしかないのだ。

会社を末永く存続させて行くためには、「安さ」よりも「品質と企業への信頼」が重要だと私は考えている。また安心安全が伴ってこそ、ようやく初めてコストパフォーマンスの良い商品と言えると考えている。

安いだけの商品に、お客様の満足は無い。

だから当社は中国から「完成品」を輸入しない!のである。

 

「安さ」と「安心安全」を同時に求めようとすると、色々なところに無理が発生する。

「とにかく安ければ良い!」という需要が拡大し、「安かろう悪かろう」の輸入製品の大量流入が続くと、真面目に物づくりをしている国内産業の成長が阻害され、国の経済基盤や今後の発展にまで弊害を生み出すのではないかと私は懸念している。

 

2014年

10月

19日

仕事とは??

左の写真は、2014年10月13日付の読売新聞・ 大阪版の朝刊に掲載されていたものである。

戦後最悪の火山災害となった御嶽山の噴火で、行方が分からなくなった7名の捜索をしている隊員たちの姿である。写真の説明では、自衛隊、警察官、消防隊員らで構成された合同捜索隊とあった。

隊員たちの頭上には、今にも落ちて来そうな大岩が、かろうじて留まっているように見える。

いつ命を落としてもおかしくない過酷な状況の中、自らの危険をかえりみず、黙々と捜索活動に携わる方々に、私は畏敬の念を抱かずにはいられなかった。

それと同時に「仕事とは、人にとってどういう存在なのだろう?」と疑問が湧いた。

 

ここ数日、エボラ患者の治療にあたっていた医師や看護師がエボラに感染したというニュースが次々と入って来た。まさに命がけの現場である。

誰だって、そんな危険な仕事をしたくないだろう。

しかし「誰かがやらねば」という使命感、責任感から、本心では恐ろしくても逃げ出さずに職務を遂行し、社会に貢献している人たちが沢山いる。

日本からも女性の看護師が1名、西アフリカに派遣された。

そのかたが「防護服を着ていても、患者の血液や嘔吐物に触れたときは、緊張したし恐怖を感じた」と仰っているのを新聞で見た。

またエボラ患者の遺体を埋葬する仕事についている現地住民の男性は、TVのインタビューに「感染対策が万全ではなく不安だが、自分の国を守るために自ら志願してやっている」と答えていた。

 

多くの人たちの「仕事をする理由」は、お金を稼ぐ為であろう。

しかし、お金を稼ぐために、自らの身の危険を冒せるか?と問われると「NO」と答える人がほとんどだろう。

命がけで働く人たちにとって仕事とは、「生計を立てる手段として従事する労働」ではなく、もっと次元の違う存在なのであろう。

「人を助けたい」という信念や、「自分には助けられる能力があるのだから、行かなければ」という使命感が、命がけの現場に彼らを向かわせるのではないか。

また職務を全うしなければ!という強い責任感が彼らにはあるのだろう。

仕事を通じて自分は社会へ貢献出来ているという充足感も高いであろう。

 

彼らのような特別な仕事とは違って、我々のような一般的な仕事の場合、遣り甲斐や使命感そして信念を持って仕事に打ち込むのは、難しいかもしれない。

しかし一人一人に役割(仕事)があり、その役割を誠実に果たすことによって、大小の差はあれど、何らかの形で社会に貢献出来ていると私は信じている。

私には、彼らのような特別なことは、とてもじゃないが出来ない。

私に出来ることは、危険な環境の中で仕事をする方々に感謝しながら、私は私の職務を人生をかけて遂行することだ。

 

2014年

10月

12日

背伸び

私の曽祖父である「竹松じいさん」は、明治時代に地方村相撲の覇者だったそうで、位は大関(横綱の呼称は当時、プロ力士しか使用が許されていなかった)であった。

地元のお寺の記録によると、竹松じいさんは、6尺3寸、30貫、今でいうと約190cm、120㎏ほどの大男であったらしい。

当時の日本人男子の平均的な身長が約155cm体重約50㎏から考えると、まさに飛び抜けた大きさであっただろう。

私が後援会会長をさせて頂いている全日本柔道選手権準優勝の石井竜太選手がたぶんこれに近いくらいだろうか!?

 

母は生前、前記のご先祖さまの話を私に聞かせてくれながら、「毎日、最低2回は背伸びをしなさい。そしたら、あなたも必ず180cmを超えて、竹松じいさんのように相撲の強い男になれる。」と言っていた。母は、よほど私に竹松じいさんのような男になってほしかったのか、それは私が幼稚園児から中学生になるまでの間、幾度も聞かされた。

私は気が向いた時にしかその言い付けを守らなかったが、遺伝子の影響もあってか、中学3年生の身体測定で180cmを少し超えることができた。

きっと母は大喜びすることだろう!と勇んで報告に行くと、母は、少しばかり微笑みながら一言だけ褒めてくれたあと、今度は逆に厳しい顔を作って「体も態度も、もう充分大きくなったし、もう背伸びはしなくていい。これからは、人間として背伸びをしなさい」と言ってきたのである。

中学生の私は、母のその言葉の真意を即座には理解できず、意味を聞いてみると、以下のようであった。


自分の能力の範囲内のことだけをしていると、人は成長出来ない。

大人から見たら、背伸びをしているように見えても、若いうちは沢山恥をかいたら良い。

人は背伸びをすることによって成長出来るのだから、自分の能力以上のことだと思っても「出来ません」じゃなくて「出来ます」と言いなさい。

そう言ってしまえば、本当に出来るようにならないと面目を失ってしまうから、カッコつけのお前は一生懸命にやるだろう。

知らないことでも「知っています」と言いなさい。そして、そう言ったからには、そのあとには図書館に調べに走りなさい。そうしたら、嫌でも一つ賢くなれる。

こんな事が出来るのは若者の特権。若いうちは、知ったかぶりがバレても、謝ったら許してもらえる。

だから、いつも自分の能力以上に背伸びをしなさい。・・・と説明してくれた。

 

これは社員教育にも通じるだろう。

成長を期待出来る社員には、現在の能力以上の背伸びが必要な仕事を任せ、上司は、それを支援して行くほうに回ることで、社員の潜在能力を引き出すことが出来る。

背伸びをしている間は、本人もそれを支える周りも大変であるが、いつしか身の丈が伸び、足底がピタリと地に付くようになるだろう。それが人としての成長だろう。

 

今この記事を書きながら、自分の若い時代を振り返ってみれば、母の言葉通り?!、常に背伸びをしており、身の丈に合わないような大きな言動をする生意気で憎たらしい人間だったように思う。

沢山の方々に迷惑と不快感を与え続けて来たような気がする。

正直言うと52歳になった現在でも日々、背伸びをしている状態である。しかし、この背伸びで自身を成長させ、これまでに私を支えてくれた皆様に「恩返し」が出来るよう、粉骨砕身の覚悟で励んでいる次第であります。


2014年

9月

28日

不安と風水

私は、このゴリラのような外見から、なんでも勢いで突き進むようなタイプに誤解されがちなのだが、実際は不安症で、この石橋を渡っても安全なのか、何人も専門家を呼んで検証してもらってからしか渡れないようなタイプの人間なのである。

であるから、事業についてもリサーチと検証を繰り返して、裏付けを怠ることはないし、不測の事態への準備(保険等)も欠かさない。

そうして一度「やるぞ!」と決めたことは、座右の銘の「諦めず気が遠くなるまで繰り返す」の如く「命のあらん限りは」の覚悟で取り組んでいる。

しかし、それでも多岐の項目に渡り、不安が絶えず私の胸をよぎる。

不安が現実とならないように対策をして、一つ一つ不安の芽を摘み取っているが、対策を全て遣り尽くしても、不安が消える日はない。


そんな私の気持ちを一時でも解消してくれるのが「風水」や「げんかつぎ」なのである。

げんかつぎの例を一つ挙げてみると、日光東照宮陽明門では柱12本の内1本だけを逆さにしているそうだ。古来では完璧なものには魔が潜むとされていた。それに「建物は完成した瞬間から崩壊が始まる」と昔の人は考えていた。だからあえて未完成の部分や間違いの部分を造ることにより「いまだ未完成である」とし、難を逃れ益々の発展を遂げれますようにとの願いが込められているのである。

 

当社の新規事業である「サービス付き高齢者向け住宅」であるが、おかげさまで関係各位さまのご協力を得て事前書類もほぼ整い、来年の節分明けの着工に向けて邁進させて頂いている。

これを建設する際にも縁起を担いで、屋根の隅の一部分(もちろん安全基準、保安基準に一切抵触しない部分)を、あえて未完成にする予定である。

 

ちなみに下記の写真に写っているのは顔色の悪い私ではなく、当社の裏庭の様子である。

大黒様の周りに置いてある瓦を見て頂きたい。これは本社事務所を改装の為に取り壊した時に出たものなのであるが、それを片付けずに置いておくことで工事はまだ終わってないですよ、未完ですよとして、縁起を担いでいる。(屋根の上には安全上、設置出来なかった)

また、この竹は植えたのではなく、この土地を買った当初から生えていた。

竹は強靭な繁殖力を持つために管理するのが大変だから抜いた方が良いと勧められたのだが、社名である「丸竹」の中に入っている竹を抜いてしまうのは、縁起が悪いと思ったし、竹自体は延命・長寿の意味がある縁起の良い植物なので、かなり面倒なのだが抜かずに定期的に手入れしている。

 

思いつく全ての具体的な対策を講じて、風水で験まで担いだら、よし!人事は尽くしたぞ!後は天命を待つのみ!と開き直って、少し心が軽くなれるのである。

 

2014年

9月

21日

人間万事塞翁が馬

私が好きな中国の故事で「人間万事塞翁が馬」というのがある。

【読み】  にんげんばんじさいおうがうま 

【意味】  人生における幸不幸は予測しがたいということ。幸せが不幸に、不幸が幸せにいつ転じるかわからないのだから、安易に喜んだり悲しんだりするべきではないというたとえ。

 

今回は、「人間万事塞翁が馬」を地で行くような経歴の持ち主、Y先輩の人生をご紹介したい。

このお方は、私が公私に渡りお世話になっている方で、天理柔道の大先輩なのである。

この先輩はスペインに移住され、現地で日本料理店を6店舗展開されるなど大変ご活躍されている先輩である。また、バルセロナでは日本人会会長まで歴任されている方なのである。

ここからは私の記憶を辿ることになるので、若干の内容の差異やブレをお許し願いたい。

 

まずこの先輩は天理大学柔道部を卒業されるときに、事情があって希望する職種に付けなかった。

結果、就職浪人となり、希望する職種を来年度に再度目指すことになった。

しかし卒業後、1年間無職というわけにもいかず、大学教授の計らいもあり、文部省と講道館からの推薦で、1年間の約束でフランスへ「柔道の海外普及と発展」を目的として、講師として派遣される事になった。

けれども当時の待遇は充実したものではなく、その上、知っているフランス語なんてボンジュールぐらいである。まあ何とか苦心惨憺の1年が過ぎて日本に帰国し、日本で就職できると思った矢先、今度は国際郵便の不都合で就職試験願書が日本に到着していなかったのである。

そこで再度、今度はスペインへ2年間、講師として派遣されて行くことになった。

少しばかりフランス語が話せるようになったと思ったら、また今度は一からスペイン語を勉強しての生活である。ここでも苦心惨憺の2年間が過ぎたようだ。

これでやっと日本に帰れると思った矢先、今度は日本から就職に際してなかなか快い回答が返ってこない。理由は、当時まだ公務員の定年退職年齢が58歳の時代に3年間の就職浪人期間があれば難しいという事であった。

なんていう事だろう!

ここまで続くと、普通は自暴自棄になりかねないであろう。

しかしY先輩は凡人とは違った。

帰っても仕事がないなら、ここスペインの地で何とかやってやろうと考えたらしい。

語学も充分ではなく、後ろ立てのない自分に何があるのだろう?と考えた時、思い浮かんだのが「料理の腕」であった。

当時の天理高校や天理大学の柔道部は、一年生の時には当番制で週に2回、寮の食事当番が回って来て、賄いのオバちゃんと一緒に炊事をするのである。その結果、私もそうだが、料理の腕が身につくのである。

Y先輩は、柔道の講師としてスペインで過ごされていた時に、宿舎に来られた方に、何度か、自分なりの日本料理を御馳走したらしい。その時の反応と喜びようが、すこぶる良く、その時から何らかの感触を持っていたらしい。

異国であるが故、言葉の壁、文化の違いなどを筆頭に、はかり知れないほど多くの困難や紆余屈折が有っただろうが、柔道で養った持ち前の精神力と執念で歩まれて、その後、苦労の末なんとか日本料理店を立ち上げられた。

「まさに右も左も分らない状態のまま走っていたが、その当時、スペインでは日本料理店はほとんどなかったから、物珍しさも手伝って、何とか今日まで潰れずやって来れた。」はご本人の弁である。


またほかにも、同じように「柔道の海外普及」という立場でフランスへ派遣され、その後、現地に残り、現在は日本の大手航空会社の現地マネージャーとして大変ご活躍されているH先輩という方もおられる。


この方々は知り合いの中でも、特に「人間万事塞翁が馬」の方々である。

しかし、これに近いことやこのような出来事は、ことの大小は別にして、誰にでも何度でも人生の中で起こりうることである。

こういう出来事には、人智を超越した何か大きな力が働いて、人の一生を導いているような気がしてならない。

超自然的な大きな力の前で、ヒトが出来る事と言ったら、思わぬ不運に襲われたり、窮地に陥っても、「これぐらいの事は大した事ではない!」「この悪い事は、次ぎ起こる良い事の前触れだろう!」と前向きに生きること、諦めないこと。上手く行っている時は、奢らないこと、感謝することぐらいではなかろうか。


2014年

9月

14日

おしゃべり

私は無口な男だ。

と書いたら、私を知る人達から「どこがやねん!!!」と一斉にツッコミが入りそうほど、ハイ、私は口は堅いが、おしゃべりな男です。


「今日も暑いですね」と一言、気候の話を振られれば、「昔と天候が変わって来ましたね。私の子供時分は、お盆前後の数日間が暑いだけで、こんな暑さじゃなかった。クーラーなんて自宅に無かったですからね。でも高校は私学でしたから、35年ほど前でも教室にはクーラーが付いてたんです。ウンタラカンタラ~」と、懐かしの昭和時代をあれこれ語ったあと、相手の反応を待たずに、「最近のゲリラ豪雨は、まるでシンガポールのスコールみたいですねぇ。そうそう!シンガポールと言えば、税金対策で移住する日本人が増えているようですけど、それって私は反対ですね。なぜならですね~ウンタラカンタラ~」とまた自論を展開した後、「そういえば鎌倉時代の元寇は、日本は台風に助けられたと言われてますが、元寇のあった11月と6月に台風が来ると思いますか?私の見解としてはですね~ウンタラカンタラ~」と大好きな歴史の話を喋りまくった後、自分ばかりが延々と喋っていた事にハッ!と気が付いて「そう言えば、今日は、どのようなご用件で??」とようやく問う。

毎回こんな感じなのであるから、私は相当なおしゃべりである。


私のマシンガントークは、聞いてる方が窒息しそうになるのか、私が話を終えると、「はふぅぅぅぅ」と溜息や深呼吸をこっそりされる方が少なくない(笑)

「息、吸ってる?」と聞かれるぐらい、私の話には「間」というものが存在してないようで、先日仲の良い友人から以下のような苦情が来た。

 

「お前がAの話をしてる時に、俺もそれについて意見があって言おうと思ったけど、お前は立て板に水だから俺の入る隙間が無い。仕方が無いからお前の話が一旦途切れるのを待ってたら、いつの間にかBの話に変わってて、気が付いたらCの話まで話し始めてる始末や!Cまで話が進んでるのに、Aまで話を戻して意見するのは、なんだか鈍重な感じがするから、結局自分の意見は言わないままその場は終わる。そんな事が毎回続くとストレスが溜まるねん!!

 

友人の訴えを聞いて、私は「悪かった!いつでも割り込んで来てくれ!割り込みにくい時は手でも上げてくれ!そしたら黙るから!」とお願いしたが、きっと彼と同じような被害者は他にも沢山居らっしゃることだろう。

私が絶好調で喋っていても、どうぞ遠慮なく、割って入って、ご自身のストレスを溜めないようにして下さい。

私も反省して、彼とその後電話で話した時、トークの「間」を空けるように気を使っていたら、「間」のたびに「もしもし?もしもし?おい立花?」と彼が通話を確認するので「聞こえてるよ」と答えると「お前が無口だと、電話が繋がってないんか?と不安になるから、いつも通りの間で話してくれ!」とまた苦情が来た。

いったいどうしたらいいのだ!笑

 

「立花と電話で話してる最中にトイレに行きたくなったから、こっそり受話器を置いて、トイレして戻って来たら、立花まだ一人で喋り続けてたことあるぞ。」

と冗談とも本気ともつかないような事を言われるほど、私はおしゃべりで、そしてこのおしゃべりは、きっと今後も変わる事がないだろうから、どうか皆様、呆れずお付き合いのほど宜しくお願い致します。

もう一度繰り返しますが、私が喋り倒していても、どうぞ遠慮なく、割って入って、ご自身のストレスを溜めないようにして下さい。

 

2014年

9月

07日

異常気象

近年、気候がおかしい。

毎年のように国内最高気温の記録は塗り替えられて行くし、今年の6月には東京に雹が降って来た。2月には20年ぶりの大雪が関東に降って大混乱となった。

観測史上最多の記録的豪雨が各地を襲い、数十年に一度レベルの差し迫った災害に出される特別警報は、この一年ですでに4回も出された。

8月20日には広島市で大規模な土砂災害が発生し、多くの尊い命が失われた。


(お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りさせて頂くと共に、今後の復興に際し当社と致しましても微力ではありますが応援させて頂く所存であります。取り急ぎ、赤十字社に義援金を寄付させていただきました。)

 

私が子供の頃には、毎年同じような気候の繰り返しで、今と比べれば随分気象状況は安定していたように記憶している。

と言っても私が経験して知っている気候は、たかだか50年程である。

約46億年前の地球誕生から現在までの大きな時間の中で考えれば、気候は常に変化のうねりの中にあって絶えず大きく変動してきており、地球からすれば、この「異常気象」は、なんてことはない「通常の状態」なのだろう。

 

ちなみに地球誕生から現在までの46億年の歴史を1年365日のカレンダーに置き換えると、6500万年前の恐竜全滅が12月26日、ホモ・サピエンスが登場した20万年前は12月31日午後11時37分なのだそう。そして現在の我々の近代文明は、1年の最後の2秒間に当たるらしい。

地球にとってみれば、氷河期が来て恐竜が絶滅したのは、たった5日前のことなのだ。

そう考えれば、地球の気候は常に変化のうねりの中にあるという事が分かる。

 

しかし今現在生きている我々にとっては、異常気象を経験するのは初めてのことである。

日本はもはや、四季の変化を楽しめる『温帯気候』から、『亜熱帯気候』に変化して行っているのではないだろうか。

『温帯気候』の雨量を前提とした今の日本国のインフラでは、最近の『亜熱帯気候』のような雨の降り方には対応出来ず、想定許容量を超えてしまい、今後益々、災害がその頻度を増して発生すると考えられる。

しかし国土のインフラ整備(河川の護岸や山岳地帯の崖の整備や砂防工事、下水道や低地の排水)は今すぐに始めても、完成するには何十年もの長い期間を要する。

今、我々に出来ることは、「転ばぬ先の杖」で避難対策をし、自己防衛するぐらいしかないのである。

「大げさ」と言われても万全に備えることを心掛けて、もしそれが空振りに終わっても「良かった」とするくらいでなければならないだろう。

 

歴史を振り返れば、天候不順や異常気象の長期化が凶作と飢餓を呼び、飢餓が疫病を呼び、それらが政情不安を呼び、その結果、戦乱をも起こして来たように、現代人が経験したことのないような最近の異常気象は、少なからず経済にも悪影響を及ぼし、「誰もが経験したことのないような推移と環境」と言われる昨今の世界の経済環境とも色々なプロセスを経て密接にリンクしているような気がしてならない。


■参考資料 地球カレンダー http://www.ne.jp/asahi/21st/web/earthcalender.htm

 

2014年

8月

31日

敗者から学ぶ

勝者のマネを完璧にしても、自分も勝者になれるとは限らない。

なぜなら勝者は「運と偶然」をも見方にしていた場合が多く、その不確定なものを自分も同じように呼び寄せられるとは限らない。


しかし敗者が敗者になったのには、必ず原因がある。

その原因を探ることで、自分が敗者にならないように予防する事が出来る。

 

過去に何度も書いたが、私は歴史本が好きだ。

その中でも特に鎌倉から安土桃山にかけての戦国時代や三国志が好きだ。

リーダーの姿や組織作り、戦略や戦術、外交術、内政などは企業運営の参考になるものが多く、ビジネス本として読んでいる。

 

まず、ほとんどの勝者には、一心不乱の絶え間ない努力とブレることのない信念がある。

そして勝因として、きめ細やかな情報収集、巧みな戦略の立て方、入念な根回し、周到な事前準備、自己反省、葛藤、改善、進化の繰り返しが根底にある。

そして、それだけではなくプラスαの「偶然と運」が味方したという複合的な要素があって、勝者となった。

逆に敗者は肉体的、心理的な失速(病気等含む)、妥協があり、少ない情報で立てた場当たり的な戦略やヒュ-マンマンエラーに起因する負の連鎖等、負けるだけの何らかの複合的な原因が必ず潜む。

そしてプラスαのはずの「偶然と運」が味方をするどころか、逆に足を引っ張るというマイナスの事実が見えてくる。

 

史実の中の敗者が敗者となった原因を知ることで、今後、自分自身が企業運営をして行く上において、同じ轍を踏まないように、気をつけることが出来る。

歴史本は勝者の華やかな部分や、勝つための戦略だけが片方の視線からだけ強調されて書かれている場合が多いが、敗者の負けた原因や心理描写・葛藤を探りながら読むことで、敗者に共通する法則が見えて来る。それは企業運営にも通じるものがあり、経営戦略を立てる上で役立つのである。

 

敗者の法則の一つは、敵に襲われることは想定していても、不運、災難に襲われることは想定していないところである。

「偶然と運」が悪い方の目で出ることを想定し、保険をかけておくこと(リスクを分散しておく、代替案を用意しておくなど)をしておけば、勝者になれなかったとしても、再起不能なほどの敗者になることはなかったのではないだろうか。


2014年

8月

24日

天秤の上の「投資」と「数字」

少しでも決算書を良く見せたい、というのは、どの経営者にとっても本音であろう。

経営者としての見栄やプライドもあるし、金融機関からの資金調達を有利に進めたいという気持ちもあるし、取引先への信用力を強化したいという思いもあるだろう。

それらに加え、大企業であれば、株主総会対策もあり、経常収支と業績アピール度も計算に入れながら自社の株価の動向を鑑み、決算発表に対処していかなければならないという理由がある。

 

ところで長期的な業績の向上と永続的な繁栄を追求するためには、「将来を見据えた投資」が必要不可欠である。具体的には設備投資や、研究開発への投資、人材育成への投資だ。

しかし「将来への投資」は「今、無くては困る!」というものではないので、そのぶん容易に削りやすい。特に中小企業では経営者の一存で物事が決定しやすいので、黒字の額が前年度より減少した場合や赤字に転びそうな場合には、上記への投資を削減して、良い決算書を作ろうと思えば、たやすく出来る。

しかしそれで短期的に利益が出たとしても、あくまでも只の一時凌ぎであり、単なる延命措置に過ぎないのである。よしんば一時的に延命できたとしても、この施策を一時的であるにせよ取ってしまうと今後の成長を阻害することになり、また長期的展望による投資が行われ無かった期間の発生から起因する取り返しのつかないさまざま弊害を呼び込むことになる。

その上、正常な状態に会社を戻すには、その期間の数倍の期間を必要とすることになるであろう。

 

現在、収穫が出来ているし、収穫するのに手がいっぱいで、種植えまでする余裕は無いからと言ってそれを怠れば、数年後、十数年後には、収穫するものが何もないという状態に陥ってしまう!

経営者にとって本当に恐ろしいことは、赤字に転じることではなく、将来の展望が無くなることである。

年月が経過すれば、当たり前だが設備は老朽化し、今の技術は時代遅れのものとなり、社員たちは高齢化する。

しかしその当たり前の事を今現在、血管が凍る思いで切実に実感するのは難しい。

だから将来への投資は後回しにしてしまい易い。

しかし、「将来を見据えた投資」を永続的に行って行かなければ、企業の未来はないと思うのである。


2014年

8月

10日

無茶な要請

前回、「出来ませんと言うのが一番難しい」というブログを書いたが、今回はたった2日で5千枚の毛布を納品してほしいという要請が来た時の話である。

 

伊豆大島の中心にある三原山が大噴火を起こし、全島民1万人が島外に緊急脱出したニュースをご記憶だろうか?

噴火が起きた当初は、その珍しい風景を見に、全国から観光客が殺到し、お祭りムードであったが、突然 予想していなかったような大噴火が起き、迫り来る溶岩流から逃れるために、全島民1万人を島の外に逃そうという、空前の脱出作戦が行われたのであるが、その避難者たちへ毛布を提供するために2万枚(一人当たり2枚)の毛布を用意してほしいとの要請が当時の政府から当泉州産地内の泉大津市役所を通して、岸和田市、忠岡町、泉大津市、和泉市の商工会にあった。私が所属する組合(当時は忠岡町に所属)では、5千枚の毛布が求められた。

「毛布であれば何だっていい!」とのことであったが、しかし納品の期日はたった2日後である。

その当時の当社は、今よりもずっと会社の規模が小さく、そのため在庫の毛布は少量しかない。今から製造すると言っても、5千枚の毛布を作るとなると通常約30日はかかる。

はっきり言ってムチャクチャな要請なのである。

しかし私の口は「用意出来る!」と言ってしまったのである。

「出来ません」と諦めてしまうのは嫌であった。

11月末の寒い避難所で不安な日々を過ごされる島民の方々に、暖かい毛布を用意したいという想いがあったし、今現在困っている人たちの為に毛布が用意出来ないで、なにが毛布屋だ!という自負もあった。それに、5千枚の毛布をきっちり用意出来れば、名前が売れる!という計算もあった。

当時、私は20代だったこともあり、素人にちょっと毛が生えたぐらいの半人前に思われていたであろう。これは私にとっては名前を売るチャンスであり、ここは赤字を出してでも、何としてでも、絶対に毛布を用意してやろう!と青い私は息巻いた。

私は、過去に当社が備蓄用毛布(当時はまだ消防毛布と言われていた)を販売した問屋さんや代理店さんなど何箇所にもお願いして、当社が販売した価格に上乗せした価格を支払って、毛布を買い戻した。

当たり前だが断られたり、すでに在庫がなくなっていたりしている所も多かった。想定外の価格を言われることもあった。

しかしこちらはもう採算度外視の必死のパッチである!

「こうなったら、いくらでもいいわー!」と買い戻して、買い集めて、他の物件の納入予定を遅らせてもらって、そちらの毛布を伊豆用に回して、外注工場さんにも徹夜で毛布を作り続けてもらって、運送屋さんにも徹夜で送り続けてもらって、そうしてようやく約束の5千枚を期日までに用意出来たのであった。

 

そんな騒動の中、こんな粋な方もいた。

伊豆用に買い戻しをさせてもらったA社から送られて来た請求書を見ると、なぜか当社からお願いした買い取り価格より安く請求されているのである。しかも当社がA社に販売した際の原料価格より安くなっているのである。

これだとA社はまるまる赤字である。

間違ってるやん!と思ってU社の社長のUさんに電話をすると、「お前、赤字覚悟で毛布そろえたらしいなぁ。丸竹一人でエエかっこするなよ!」と笑って電話は切れた。

なんとも粋で男前な対応に、若造だった私は痺れて、唸ってしまった。

 

他にも安い金額で買戻しをさせてくれたところがいくつもあり、赤字を覚悟していた私であったが結局はプラスマイナスゼロぐらいですんだ。

名前を売ってやるー!と一人息巻いていた青い私であったが、結局は多くの人たちに助けられ支えられていることを改めて痛感したし、ベテラン勢のカッコ良さに舌を巻き、「やっぱり、かなわへんな」と頭を掻いた、20代の経験である。

 

 

伊豆大島のこの体験で経験値を上げることが出来、その後に続いた阪神淡路大震災では約8千枚、東日本大震災では約3万枚の毛布を2日ほどで関連先と連携して緊急に納品することが出来た。

 

2014年

8月

03日

「出来ません」と言うのが一番難しい

新幹線を作った男、島 秀雄(しま ひでお)さんという方をご存じだろうか?

話は20数年前に遡るが、テレビ番組に出演された島さんは、記者の「次代を担う人たち伝えたいことは?」という質問に次のように答えられた。

 

「出来ない」と言うより、「出来る」と言う方がやさしい。

何故なら「出来ない」と言うためには、何千何百とある方法論の全てを「出来ない」と証明しなければならない。しかし、「出来る」と言うためには、数々ある方法の中からたった一つだけ「出来る」と証明すればいいからである。

 

私は島さんのこのお言葉を聞いて、深く感銘を受けた。

 

20年程前、京都の料亭の夏の冷房対策に使うということで合成繊維の膝掛けの注文がお得意様に舞い込んで来た。そこでお得意様から当社に、「この色の膝掛けを納入して欲しい」ということで生地の端切れを色見本として受け取った。

そこで私は早速、膝掛けを織る原料の糸を染色工場さんに持って行き、染めてもらうように依頼した。

しかしテストで上がって来た糸は、見本の色とは似ているけども違う。何度かやり直しをお願いしたが、結局これ以上は無理との事だったので、他の染色工場さんを当たることにした。

しかし、2件目の染色工場さんでも、近いところまでは行くのだが、やはり見本と同じ色合いは出せなかった。その後も3件目、4件目と染色工場さんを回り歩いたが、どこでも結果は同じだった。

注文の糸量は小ロットであり、これ以上 時間を割いて染色工場さん周りをするのは、有益ではなかったが、「諦めず気が遠くなるまで繰り返す」を信念としている私は、ここで「出来ませんでした」と諦めるのは、自分に自分が負けてしまったような気がして、男として嫌であった。

その当時、泉州地域には大小含めて9件の染色工場さんがあったので、「まだあと5件あるでー!」と気持ちを立て直した。しかし5件目も6件目もその次も結果は同じであった。

そして8件目を訪れた時、どうして見本の染め色が再現出来ないのか、ようやく判明した。

8件目の染色工場さんは、大手さんの子会社という事もあり、研究室まで備えた会社であったのが幸いした。見本に貰った生地の端切れは、公害問題で近年では使用が禁止されている六価クロム系の薬品を使用した染料で染められていたものだったのである!見本で渡された端切れは、きっと使用禁止の法規制がされる以前に製造されたものであったのだろう。

これでようやくお得意様に対して「出来ないことを証明する」ことが出来る!と、私はホッと肩の荷を降ろした。

 

以上のように私は簡単に「出来ません」というのが嫌いである。過去に、出来ないことがもう証明されているものや、どう考えても物理的に無理なものは、「出来ません」と言うが、仕事の依頼は、出来る限り、簡単に断りたくはないと考えている。

だから、当社はたとえ毛布1枚からでも仕事の依頼は受けさせて頂いている。

枚数が少なければ少ないほど手間が掛かるだけで、生産性を考えれば赤字になる場合も少なくない。

しかし、生産性にだけ拘るのでなく、非効率であっても、どこも引き受け手のない依頼を受けることで、次の大きな仕事に繋がる場合も多い。

また面倒な仕事でも断らず挑戦すれば、経験値をアップする事が出来るので、その経験を別の場面で生かせることもある。

 

 だから当社は簡単に「出来ません」とは言わないのである。

 

2014年

7月

27日

掃除とおもてなし

私は掃除魔である。社内でも先頭を切って掃除をする。特にトイレと玄関を念入りに掃除することを心掛けている。(トイレ掃除を侮ることなかれ)

私は大きい図体に似合わず、案外に神経質な部分もあるので、テーブルの上の物の向きも気になるし、誰かが物を引きずって移動している場面などを見てしまえば、注意せずにいられない。

 

思い出してみれば、私のこの性質は、どうやら祖母の影響がある。

祖母は、丸竹コーポレーションの前身である呉服屋「初代立花屋」の経営者で、神経質なほど綺麗好きであった。

井戸から釣瓶で汲んだ水を一日に何度も店の軒先に撒いていたのをよく覚えている。

「幸福や金運を呼ぶ神様は綺麗なところにしか降りてこないし、汚い所には貧乏神しか降りてこない。お客様も一緒のこと。清潔にしてるお店には良いお客様が入って来てくれるけど、汚い店に入って来るのは押し売りか泥棒くらいや。」

「神様もお客様も、まず見るのは玄関や。玄関が汚かったら、入って来てくれへんよ。」などと祖母はよく私に話してくれた。

「生きてたら、良いことも悪いこともある。なんでそうなるかと言うと、神様が家に住んでる時と居ない時とあるからや。神様の居てない期間は、あんまりええ事ない。神様は綺麗好きやから、家が汚くなってきたら居心地が悪くなって出て行ってしまう。だから神様に気持ち良く過ごしてもらう為に、いつも清潔にして、神様!家に来てくれてありがとうございますって、おもてなしせなアカンよ。」

祖母は子供の私が理解しやすいように、そのように話してくれたが、目に見えない神様をおもてなしする気持ちで、いつでも清潔にしていれば、それは結果的に、お客様をおもてなしすることに繋がり、お客様が気持ちよく過ごしてくれれば、その後イイことも起きよう、という事だったと思う。

 

先日、当社へ東京からのお客さまがあった。

お得意様の仕入れ部長が定年退職されることになり、新任の仕入れ部長との引き継ぎに来られたのである。

本来なら当社よりお伺いするべきところなのを、わざわざ飛行機に乗って大阪までお越しいただけるのだから、まさに恐縮の極みである。

私は感謝の気持ちを表したくて、いつもよりも念入りに社内全体を掃除し、特に玄関とトイレは磨き上げて、心ばかりの手土産を準備して、ご来社の時間を待った。

 

遠くからわざわざ来社して下さるお客様に、少しでも気持ち良く過ごして頂きたいという私なりの「お・も・て・な・し」である。

 

2014年

7月

20日

決算書と経営戦略

当社は半期に一度決算を行っている。

会社法や税法で決められている決算は、当社のような中小企業は年に1回だけで良いのに、半期に一度 決算を行うとなると、そのぶん時間と手間が余計にかかる。しかし決算は、人間ドックの診察結果表のようなものなので、不安症の私は、自社の健康状態や体力を、的確に把握しておきたいのである。

 

ところで中小企業の企画経営とは、経営者として自分自身が立てた経営戦略をいかに遂行していくかにある。そしてこれを行動に移した結果が決算書の数字となって表れてくるので、その数字を精査し、自身の経営戦略の結果もしくは途中結果を検証することが必要不可欠である。

それにより、「よし!このままこの戦略を続けていけば良い」という時もあれば、軌道修正が必要になる時もある。もしくは、その戦略自体を抜本的に見直さなければならない場合もある。

半期に1度のペースで人間ドックを受診(決算)していれば、それだけ早く、弱っている部分を発見でき、早期に改善することが出来る。

もちろん経営は、中長期的な視野を持たねばならず、短期的な数字に左右されて経営戦略をコロコロ変えて良いわけではない。

自社の現状をしっかり把握した上で、広く長い視野で、「たえずの見直し」と「次の一手」を最重要課題として考える。

それが継続的な繁栄を創り出すためには、必要不可欠なのではないだろうか。

 

また当社では、確定決算の時には、税務署印の押された決算書類を、要望がなくても取引先様等に送付している。

たとえ業績が芳しくない年であったとしても、それを積極的に開示することで、信用を得ることができ、次に繋げられると考えている。

 

決算書は税務署や銀行に提出するためだけのものではない。

自社の企業経営の見直すべき点と、先の予測、次の戦略、それらについてのヒントが隠されている羅針盤のようなものである。

だから事業の舵取り役である経営者は、「景気動向」、「経営環境」、「顧客志向」という3つの大海の「現状の把握」と「その先の予測」を行いながら、神経を集中させて羅針盤と向き合い、自社が進むべき正しい道を見つけ出さなければならないのである。

 

 

2014年

7月

13日

さんずの川は渡らない!

おかげさまで25年度の税務申告、決算発表を先月末に無事済ませ、一つの区切りを終えたところで、経営者として初心に返る意味も含めて、松下幸之助翁の著書に書かれてあった 大阪商人の「さんずの川は渡らない」という心得に言及してみようと思う。

いろいろな解釈があると思うが、ここから先はあくまでも私の解釈としてお許し頂きたい。

 

まず「さんず」とは、冥途にある三途の川のことではなく、「役つかず」「判つかず」「金貸さず」の3つの事である。

 

①    「役つかず」

中小企業経営者は、たとえ経営が軌道に乗り始め少しばかり余裕が出来たからといっても、事業に関係のない会合の役職に就いてはイケない。

事業外の役職に就けば、そちらの方に時間を取られ、経営者としての時間がおろそかになる。

事業外の事にまで、心を砕いたり、責任を持ったりせねばならず、肝心の自社の事業に専念出来なくなる。

 

②    「判つかず」

これはずばり「保証人にはなるな!」ということである。

他社や個人の保証人を安易に引き受けてしまえば、連帯してその債務を等しく負うことになる。

たとえば自社の経営が順調であっても、不幸にも倒産するような会社の債務を保証してしまえば、万事休すである。

 

③    「金貸さず」

余程のことが無い限り、貸借関係は持つものではない。

但し、生命に係る「命銭」という事態もあるにはあるので、ともに命を掛ける覚悟のある関係ならば別である。しかし金を貸す場合は、返って来なくても良いと思える額までにするべきである。

 

自分は借りても、人には貸さないとは、いかにも大阪商人らしい心得であるが、大阪商人の気質として、そうは言っても価値があれば金を払い、付き合いを大切にしているから、役職を頼まれれば断れずにハリキってしまう・・・。そんなお調子者の大阪人であるからこその、この戒めであろう。

 

ところで私にとって、大阪商人と並んで、忘れてはいけないのが近江商人である。

近江商人の「三方良し」という、「売り手と買い手がともに満足し、社会貢献もできるのがよい商売である」というこの言葉は、商売の基本であり、当社の企業理念の中にも明記されている。

 

今後TPP条約の締結がなされれば、社会構造が大変革し、益々 経営環境の厳しさはその度合いを増していくであろう!

近代商社の原型を作った商人たちの経営哲学からヒントを得て、今一度 己の兜の緒を締め直すつもりで、本日はこれを綴った。

 

 

2014年

7月

05日

むしろ肩の力が抜けた

天理柔道部は、数名のオリンピック金メダリストを輩出している。

お名前は伏せておくが、とある金メダリストの先輩から、こんな話を伺ったことがある。

酒席での話なので、私の多少の記憶のブレはお許し願うこととしよう。

 

「立花よ、俺はな、ある時まで自分のことを柔道の天才だと思っていた。

しかし大学3年の全日本強化合宿で、今まで勝てた選手になかなか勝てなくなってしまった。なぜ勝てなくなってしまったのか、それが分からず悩み苦しんでいた時に、コーチから思いがけない事を言われた。『お前は柔道の天才ではないぞ』と。『人には進歩のスピードというものがあって、それは人それぞれ違う。お前は人より進歩のスピードが速かったから、これまではトップで居続けることが出来た。けれど進歩の遅い選手もコツコツ稽古を積み重ねて実力を付け、今や、その差が縮まって来ている。お前の肉体的なポテンシャルは、もう天井まで来ている。今のように真正面から戦うだけでは、近いうちに追い越される日が来るぞ。』と言われたよ。でも俺は、それを聞いてフッと肩の力が抜けた。

それまでは只々、強くなりたい一心で、やみくもに練習に取り組むだけだったけど、自分が天才で無いと分かったからには、試合で勝てるように色々と戦略を立て、工夫するようになった。

例えば、わざとスキを作り相手を油断させたり、泥臭い戦い方も厭わないようにした。そうしたら、数か月たったころから、たとえ試合で1本勝ち出来なくても負けなくなった。そしてその後、オリンピック選手に選ばれて、金メダルを取ることが出来たんだ。」

 

以上が、某先輩から聞いた話である。

 

天性の身体能力、才能、勘を兼ね備えた怪物のような天才も世の中にはいる。

この先輩は、そういった部類の天才ではなかったのかもしれないが、努力することにかけては天才であったのだろうと私は思う。

小学4年から柔道を始められ、言葉に尽くしがたい地獄の練習の歳月を重ね、極限まで自分を磨き追い込んで、大学3年の時に初めて自分の限界が見えて苦しんだ。

しかしそこで諦めることなく柔道漬けの生活を続けられ、「戦略の見直しと更なる工夫」を繰り返すことにより、自分の限界を押し上げ、さらに極めて行き、ついにはオリンピック金メダリストとなった。

 

普通ならば、自分は柔道の天才だと信じているところに、『お前は天才ではない』と否定されたら、落胆するだろう。

しかし先輩は「落胆」ではなく、「フッと肩の力が抜けた」とおっしゃった。

その心境を想像してみると、やれるべき事の全てをやりつくして、これ以上何をどうしたら自分は進化出来るのか?それがもう見つけられないほど限界まで自分の能力を極めていた。それなのに、今まで勝てた選手相手に、勝てなくなって来る。

それは出口の無い袋小路にいるような気持ちだったのではないだろうか。

そんな時に、「お前は天才ではない」と告げられ、目から鱗が落ち、見えなかったことが見えるようになった。

天才でないならば、これまでとは違う方法でやればいい!と、今やるべき新しい事(出口)を見つけ、安堵して肩の力が抜けたのではないだろうか。

 

このような心境に到達するまでには、いったいどれほどの凄まじい試練と、それを乗り越える努力が、先輩にあっただろう。

やはり、先輩は、世界一級の努力の天才であると、私は確信した。

 

2014年

6月

25日

自分で自分の限界を決めてしまうな

「自分で自分の限界を決めてしまうな」

この言葉は天理高校柔道部時代に恩師の野村基次監督当時5段(五輪金メダル3連覇・野村忠宏の父)から、練習中に度々言われた言葉である。

当時の天理高校柔道部は、高校柔道界屈指の練習量であり、午前6時から朝練が始まり、午後10時の点呼後の自主トレまで分刻みでスケジュールが組まれ、まさに柔道漬けの毎日であった。

このようなスケジュールの中で、練習も終盤に近づくと、動作も緩慢になり、意識も朦朧となって、体力的にも精神的にもヘトヘトになって来る。

「もう無理!もう限界!」と、へたり込んでしまう、そんな時である。

「自分で自分の限界を決めてしまうな!」と、野村先生から一喝が飛ぶのであった。

当時のことなので正確には思い出せないが、概要はこんな感じである。

「限界までの練習は全国どこの強豪校でもやっている当たり前ことだ。全国優勝するためには、限界を超えたあとに、いかに練習するかだ。」

「そもそも、お前たちが勝手に限界だと思い込んでいるだけで、わしから見ると、まだ限界を超えてないぞ!」

そんな叱咤に(うるさいわ!オッサン!)と向かっ腹をバネに、満身創痍の体を起こし、最後の力を振り絞って練習を再開するのが常だった。

 

学生時代には腹を立てながら聞いていた野村先生の言葉が、真に心に響いたのは、経営者になって倒産の危機に襲われた時である。

どちらも20年以上も前のことだが、過去に2度、大きな不渡りを食らって倒産の危機を迎えた事があった。

一度目の時は、駆け出しの経営者だったこともあり、不渡りを食らうという初めての経験に面食らい、思いのほか動揺した。

感謝などと言う言葉では言い尽くせないが、結果的には巨星に二つ返事で救って頂き、窮地を脱することが出来た。

人間とは面白いもので、二度目の時は、一度経験済みということもあり、こんな事態でも気持ちには幾分余裕があった。

再び巨星に頼るという情けない事は出来るはずがない!との思いに至れるぐらいには、肝を据えて事態を受けとめることが出来ていた。

その日から金策に走り回った。

次の支払い期日までに自分が発行した手形の額面金額を用意せねば、今度はうちが不渡りを出してしまうかもしれない状況であった。

最初は「どうにかなる。どうにかしてみせる。」と気持ちを張っていても、一日一日と期日が近づくにつれて疲労困憊になり、体力的にも精神的にもヘトヘトになって来る。

「もう無理かも・・もう限界なんじゃないか・・・」と、へたり込んでしまう。

そんな時、野村先生の「自分で自分の限界を決めてしまうな!」の一喝が思い出された。

柔道部時代、もう無理だと思いつつも、満身創痍の体を起こし、最後の力を振り絞って、練習を再開すれば、バテバテながらも体は動いた。

「お前が勝手に限界だと思い込んでいるだけで、わしから見ると、まだ限界を超えてないぞ!」

野村先生の言葉を思い出し、その後も死に物狂いで金策に駆けずり回った。

結果、ぎりぎりのラインで苦境を乗り切り、会社を存続することが出来た。

 

経営者として約30年以上に渡り人生を歩んで来たが、この間には他にも色々な苦難が待ち受けていた。それを何とか乗り越えてくることが出来た理由の一つは、天理柔道の精神が心に宿っていたお蔭である。

 

「限界・・・」は、苦しい事や辛い事から、もう逃げ出し降参しようとする時に使う「自分自身への言い訳」であろう。

人間とは「もう限界!」と嘆いた以降にも、まだ余力が残っていることを、私は柔道から教えてもらった。

 

2014年

6月

19日

端境期に赤字を出さない社員数

当社の社員数(パート・アルバイト含む)は「端境期に赤字を出さない人数」が基本である。

言い換えれば「一番暇なときに、ちょうどよい人数」ということになる。

という事は、繁忙期には必ず人手が足りなくなるのだが、そこは残業で乗り切る。それでも足りなければ、派遣社員や短期アルバイトを入れて乗り切るという経営方針で長年、社業を営んでいる。

これは中小企業の製造業の経営としては基本中の基本であるが、たぶん「残業が多くて嫌だなー!」と思っている社員はいるだろう。

社員にしてみれば、一年中では無いにしろ、たとえ繁忙期の3か月間でも休みが通常より少ないのは苦しい限りであろう。

しかしである。

繁忙期(1-3期)にちょうどよい人数の社員を雇うとなると、端境期(4-6期)には人員が余るうえ、人件費が経営を圧迫することになる。

当社の場合、たとえば端境期に1か月の赤字期間を出すと、平均実績で試算して、最低でも取り戻すのに約3か月の黒字の期間を必要とする。もし端境期の3か月赤字期間を出してしまうと、9か月の黒字期間を必要とするが1年は12か月(黒字9か月+赤字3か月)しかないので、その年の決算はイーブンか赤字に転落してしまう。

もし、はからずも赤字になってしまうと融資格付けが低下し、たちどころに色々な面で企業運営がスムーズに行かなくなる。

たとえば運転資金の調達が厳しくなると、会社を維持するには支出を抑えねばならず、そうなると経費の半分以上を占める人件費の削減が必要不可欠になり、まずはボーナスカット、それでも苦しい場合は、給与の削減を行わざるを得ない。それでも経営困難な場合は、社員のリストラを行わざるを得なくなる。それを数年に渡り重ねてしまえば自転車操業に陥り、最悪の場合「倒産」の2文字も視野に入って来るようになる。

 

当社は「一番暇なときに、ちょうどよい人数」で運営しているために、社員の皆さんには常々忙しい思いをお願いすることになっているので、「もっと社員数を増やして欲しい」と不満に思う時もあるだろう。

しかし事業というものは一年のうちでも繁忙期もあれば端境期もあり、もっと長い周期で考えれば、好調な時期もあれば必ず低迷する時期も来る。

「一番暇なときに、ちょうど良い人数」で運営を行っていれば、低迷な時期が予想外に長く続いたとしても、それで通常運転なので給与の削減やリストラを行わずに済む。

赤字を出さないようにするためには、やはり余剰人員を抱えないことなのである。

 

当たり前のことであるが、残業時間は、もちろん労働基準法内で行っている。

申し訳ないが、管理職の社員たちは法定労働時間の適用除外者であるため、繁忙期には骨を折ってもらっているが、サービス残業は決してさせないので、「繁忙期は自分の蓄えを増やす期間」と考えて、たくさん残業代を稼いでほしいと思っている。

 

では社員数を増やすタイミングであるが、忙しい時期が長く続くと、このままずっと繁忙期が続くのではないかと錯覚して社員数を増やしたくなるものだが、社員数は「現状」よりも「先を見据えて」決めるべきだと思っている。

現在好調であっても、それがいつまでも続くとは限らない。現状が好調で忙しいからという理由だけで、安易に社員数を増やしてしまうと、業績が落ちたら余剰人員が発生し、簡単に赤字に転じてしまう。

地デジ移行時の家電メーカーが良い例だ。

社員数を増やす決断をするには、自社だけではなく業界や景気の動向、国際競争なども含め、長期的な視点で考えなければならない。

仕事は人生を左右するほど大きなウエイトを占めるものであるから、簡単に雇って、簡単に切り捨てるわけにはいかない。

 

当社の経営方針は、「社員数は端境期に赤字を出さない人数で、そして繁忙期は残業で乗り切れる会社に成ること。」である。

そのため残業が多く、社員の皆には骨を折らせているが、しかしそれは、当社の企業理念である「すべての社員が物心両面で豊かな生活を送り、自分の将来に安心感を持てるようにする」を実現するためなのである。

 

2014年

6月

10日

「チップ」と「心付け」

先般、新聞で気になるこんな記事があった。

欧米の中でも特にチップ大国であるアメリカの話である。

サービス業等の基本的な給与形態において、貰えると予測されるチップ分をあらかじめ想定して、その分の金額を差し引くことで給料を安くしていることへの是非を問う議論が昨今、行われ始めたという内容の記事であった。

給料をアップし、実際にチップがなくなり始めているところもあるというようなことも書かれてあった。

しかしながら今のところアメリカではサービス業、特にホテル関連のドアマン・ボーイ、ウエター・ウエートレス、ルームキーパー、タクシードライバーなどチップを受け取ることのできる職業は、あらかじめ給料が安く抑えられているのが通常であるらしい。

 

高額のチップを払いそうな客と、チップの少なそうな客では、おのずと担当者のモチベーションは著しい上下の変化を伴い、安定した顧客サービスは期待できなくなるのではないだろうか?そうすると満足した客がいる一方、不満を持つ客も増えるわけで、客は無限にいるわけじゃないから、その結果、来店するお客さんも徐々に減って経営が成り立たなくなっていくのではないだろうか?などと、日本人の経営者の私は思ってしまう。

また労働者側にとっても、これほど不安定な要素を含む給与形態では、生活も気持ちも安定せず不安であろう。

いまさらに議論が遅すぎたのではないか?と、違和感を禁じずにはおれなかった。

 

ところで「所が変われば文化も変わる」であるが、日本には「心付け」というものがある。

報酬としてシステムに組み込まれているチップと違い、心付けは「感謝」や「お世話になります」という気持ちを表現するものである。

 

私は仕事柄、出張や旅行、外食が多いほうである。ゆえにサービス業の方々と接する機会も多い方であろう。そんな中で、素晴らしさを感じる瞬間がある。

そんな時、私は幾ばくかではあるが「心付け」を渡させて頂くようにしている。

去年、出張先の都内で食事をした時、素晴らしい店員さんと出会う機会があったので、その事を書きたい。

その店員さんは、とにかく気持ちが良い接客をするのである。

細かいことを上げるときりがないが、客が求めている物事を察知する能力が高く、例えば手に醤油が飛べばサッとオシボリを渡してくてたり、追加の注文をしたいが忙しそうなので店員さんを呼ぶのを躊躇ってると、それを察して、用がないかすぐさま自分から聞きに来てくれたりと、そんな風なのである。

ただ料理を提供するのが店員の仕事ではなく、お客様達が快適に過ごせるようにサービスを提供するのが店員の仕事なのです・・というような想いが伝わって来るような接客態度であった。

声のトーンや話し方、笑顔、声かけのタイミングなども、単に「労働」ではなく「情熱を持って働いている」ように見えた。

私は思わず、「オーナーの息子さんですか?」と聞いてしまったが、答えはアルバイトで2年の男子高校生であった。

私は思わず自身の名刺と心付けを包んで手渡した。そして勤務態度に感激した事と感謝の気持ちを伝えた。また大学卒業後に就職を考えるときは、ぜひ当社を訪ねてみてくれないか?と声をかけておいた。

どんな内容の仕事であっても、自分の仕事に情熱を持って一生懸命に働く人間は社会的価値があり、そのような人物は最高の人材である。

 

2014年

6月

01日

新規事業について

私が診療介護サービス付き高齢者専用賃貸住宅(以下 サ高住)を事業として展開しようと思ったきっかけを今回は少し書こうと思う。

 

ところで当社のメイン事業は「繊維」と「土木資材」である。

しかし経営の安定、企業の成長、リスク分散の為には、メインの柱をあと一つ増やして三本柱にし、大きな揺れに襲われても崩れない強固な骨組みを作りたいと常々考えていた。

そんなおり、十数年ほど前に、とある経済雑誌に『このままの人口推移で進んで行くならば、少子高齢化に拍車がかかり2030年を過ぎる頃には人口の約3分の1が65歳以上の高齢者になると推計される。』と書かれてあったのを目にした。

私自身も2030年には68歳である。その当時この記事を読んで、少なからず衝撃を覚えた。

他業種に参入するのならば、人口密度が最も高い世代向けの商品もしくはサービスの分野にするべきだとの考えはあったものの、この時はまだ具体的なアイディアは浮かばなかった。

その後、新規事業に関心を寄せつつも進展は無く、本業に特化し専門性を高めることで、生き残りを模索しながら事業を展開して行った。

 

そして今から8年ほど前、テレビの報道で初めて「サ高住」の存在を知り、強く心が惹かれた。

家族の手を煩わすことなく、お年寄りが安心した暮らしをおくれる賃貸住宅とサービスの提供、これはまさに現代そしてこれから先の時代のニーズに沿う事業である。

それに地元に住み続けたいと願うお年寄りは多いはず。そこで初代立花屋から数えると61年間、地元に根をおろさせて頂いている当社が、地元のお年寄りに向けてサービスを提供させて頂こうと考えた。

しかし新規事業に進出するにはタイミングと情報の量が重要である。

この時点では人・モノ・金・情報などの経営資源を考慮すると、時期尚早だと判断し、時期が来るまではリサーチ期間とする事にした。

空き時間を見つけて大阪府内のサ高住を視察し、話を聞いたりする中で、高齢者向け施設で大変なものの一つが、排泄などで汚れるリネン関係であることを知った。

リネン類、特に布団の丸洗いなら当社の得意中の得意である。もし当社が「サ高住」の事業を始めたら、お年よりの方々に、いつでも清潔な良い布団で寝てもらう事を約束出来る。

そのように本業との相乗効果が期待出来る部分もある事が分かった。

 

新規事業進出には既存の事業が好調な時に進出する「前向きな進出」と、本業不振の打開策として進出する「後ろ向きな進出」があるが、後者の場合だと焦りが出るし、後にひけないし、軌道に乗せるまでに体力が切れてしまう場合もある。

前向きな進出の場合でも、業界内の法律や制度など規制緩和、規制強化の流れ、経営資源(人・モノ・金・情報)を考慮しなければならない。

現状を分析し、「時期が来た」と私が判断したのが、今から2年ほど前である。

ちょうどそのタイミングで土地購入の話が来て、地元泉南の土地を購入することが出来た。また幸運にも、医療福祉に約30年携わり、豊富なノウハウと経験を持った専門家と再会する縁に恵まれた。

長時間に渡る面談・相談を何度も繰り返すうちに、志が同じであることに互いに理解を深め、方向性の摺合せを重ねた結果、執行役員として参画してもらうことになった。

また長年当社ISOコンサルティング業務に携わりご指導頂いている先生の参画と事業連携が実現した。

 

以上が現在まで流れである。

新規事業の構想を持ってから、実行に移す良いタイミングが来るまでが長かったが、現在はスピードと最大限のレスポンスを持って準備進行中である。

 

ここからは理念的な話になるのだが、当社の企業理念の一つに『社会から歓迎される会社でなければならない』というものがある。

皆から愛され歓迎してほしいー!というよりは、私は会社を長く存続させたいと考えているし、お金儲けだけが目的の会社が社会に歓迎されるはずがなく、そのような会社が長年に渡り存続出来るはずもないので、結果「三方良し」が信条となった。

現在、泉南市の高齢者はどんどん増加して行っているのに、「サ高住」はたった1件だけなのである。

現在準備を進めている「サ高住」は、年金だけでも入れるような低料金の部屋の設定も予定している。

費用面が理由で、これまで介護を受けることができなかった方々や自宅介護で苦労されている方々に利用して頂き、喜んで頂きたいと考えている。

また地域の活力が失われてしまえば、企業の繁栄はないと私は考えている。

「サ高住」を開始すれば相当な数の雇用が地元で発生する。

また常日頃よりそうしているが、「サ高住」の建設に際しても地元大阪の業者さんにも参加してもらっている。

企業と地域が密着することにより、少しでも地域が活気づいてくれれば、それは巡り巡っていずれは自社の利益となると思うのだ。

 

当社の新規事業が福祉関係という事で驚かれる方も多いのだが、実は当社は福祉と元より関連が深い。

力不足であるが私は、府立砂川厚生福祉センターの雇用促進協力会の役員をさせて頂いてたし、当社は1995年から障がい者の雇用を開始し、現在は5名の障がい者(身体・知的・精神)の方が勤務してくれている。

障害者の方たちと共に働いているこの経験ノウハウは、「サ高住」に活かせる部分が多い。

 

サ高住は、当社の3本目の柱としての事業でもあるが、地域への貢献という側面も持っている。ここから先は、読み流して頂いたら結構なのだが、私は「人のためになる事なら、天にも歓迎されるはず」と常々思っている。

サ高住を建てる土地を買えたのも実は奇跡的な展開であったし、さまざまな協力者の方や支援者の方たちとの巡り合せや、福祉の専門家との再会も幸運であった。

なんだかまるで天が「世の中の役に立たせてもらえ!」と、私の背中を押してくれているような気がするのである。

 

2014年

5月

25日

クレーマー学生

天理高校に在学当時、年に数回「ひのきしん」という行事があった。漢字で書くと「日の寄進」である。

簡単に内容を説明すると、感謝の気持ちを表現するために、今日1日は自分の都合を捨てて奉仕活動に専念するというものである。

平たく言えば「ボランティア活動」である。

 

入学後の初めてのお正月に、「日の寄進」で私は餅を焼く役目を与えられた。

当時の私の正直な気持ちを書くと「なんで俺が正月に、こんな事をせなアカンのや!!」と憤りを感じ、嫌々サボりながらやっていた。

そんな時、正月気分を満喫中の通りがかりの人から「君らは時給いくら貰ってるんや?」「正月返上やし、結構もらえるんか?」と聞かれた。

その人達は悪気があって聞いたわけではないのだろうが、元から不機嫌だったところに、貰ってもないお金目的で働いているともとれるような発言をされたわけだから、私の堪忍袋の緒が切れた。

しかしさすがに見ず知らずのその質問者たちに直接怒りをぶつけるわけにもいかず、私は、たまたま傍にいた教義科の北野博先生に怒りの矛先を向けた。

「なんで正月から俺がこんな事をせなアカンねん!!」と、食って掛かった。

するとどうであろう。

私の煮えたぎった思いとは裏腹に、北野先生は満面の笑顔で「素晴らしい!」というのである。

そのうえ先生は、こう続けたのである。

「君が、さっきの人達に文句を言わず、私に言ってくれたことが先生は嬉しい!」

「さっき君がした我慢は、将来の糧となる。」

「君が私を選んで文句を言ってくれたので、私は教師になって良かったと感じた。」

予想外の先生の反応に、私は拍子抜けしてしまった。

怒りがぶっ飛んだところで、先生は奉仕活動について丁寧に説明して下さった。

当時の私は天邪鬼だったこともあり、素直に「納得出来ました」とは言えず、「ふーん」で済ましたが、その後3年生になって、好きな講義を選択できるようになった時に、北野先生の講義を選択した。

 

私がこの事を今回書いたのは、奉仕活動について述べたかったからではなく、「先生の姿勢」である。

当時の私は、ガラが悪く、態度も口も悪いまさにクレーマーの学生であったろう。

そのクレーマーを煩わしがらず、怒ることなく、見捨てることなく、実に丁寧に、北野先生は説明(指導)してくれ、私の鬱積した心を解きほぐしてくれたのである。

 

実は私が事業を始めて間もない頃の話だが、

有名な口煩い部長さん(貫野さんごめんなさい! <(_ _)>笑)が居た。

その方は完璧主義者で、普通なら見逃すような些細な点にまで要求があるため、どこの業者さんも苦心していた。

そのような方と取引するのは、通常よりも多くの時間と労を要するゆえ、もちろん私も積極的に取引したいわけはなかったのだが、取引先の選り好みを出来るほどの余裕は無かったし、一つでも多くの仕事をしたいと思っていたので、取引を開始した。

案の定、物凄く細かい点にまで要求があり、やはり本音では難儀した。

しかし仕事であるからもちろん一つ一つ対応し、誤解があれば納得していただけるまで説明を重ねた。そうするうちに、どんどん取引量が増えて行き、軽口を言い合えるまでの仲になり、その当時の当社の一番のお得意様となった。

 

クレームをおざなりにかわすのではなく、真正面から受け止めた時、相手はどんな風に気持ちが変化するのか、北野先生との出来事を通して身をもって体験させてもらった事が大きな一因となっているのは言うまでもないのである。只々感謝!!

 

2014年

5月

18日

臥薪嘗胆

私には、学生時代から現在に至るまで30数年に渡り憧れ続けている方が居る。

その方の生きざまや理念、経営者としての手腕に傾倒しているし、また人間性に魅了されている。

先般その方と、いつもより長い時間お話させて頂く機会に恵まれた。

その時の話を今回は書かせて頂くのだが、その前にこのブログの題名に付けた「臥薪嘗胆」について簡単に辞典より引用し説明させて頂く。

 

*臥薪嘗胆の意味

臥薪嘗胆の「臥薪」は、薪(たきぎ)の上に寝ること。

臥薪嘗胆の「嘗胆」は、苦い胆(肝)を嘗めることで自身を苦しめ、志を奮い立たせることを表す。

転じて、目的を達成するために苦心し、努力を重ねる意味で用いられるようになった。

 

さて私の人生はたくさんの方に応援して頂き、また支えられて今日が在る。

いつも感激と感謝の念に堪えることない。そして特に前記のその方からは天理高校柔道部の学生時代の出会いに始まり、人生の岐路の度に多くのご指導・ご意見・ご厚情を未だに賜っている。賜ったご指導・ご意見を手がかりにしながら人生を歩んでこさせて頂いる。その結果として、また今日が在る。

 

少し前置きが長くなってしまったが、先日お会いさせて頂いた時に衝撃的なお話を聞かせていただいた。

というのは、この方はかれこれもう10数年以上に渡り執務室で寝起きをされ、そのうえ毎日の睡眠はベッドでは取らずに、ソファーで寝られているのである。

理由をお聞かせいただくと、「服のまま寝れば、起きて直ぐに仕事ができる。」

「ベッドだとグッスリと眠り込んでしまうので起きてスグに仕事ができないからソファーで寝ている。」

「出張先以外は、もう思い出せないくらいベッドで寝てない。」

「仕事を始めると、食事をとることさえも忘れる」と仰った。

そういえばこの方の執務室の電気が消えているのを、たとえ早朝でもほとんど見たことがない。

その奮励努力の賜物で事業は年々大きくなり、基盤は益々強固なものになったのである。

20代前半でスコップ1本から創業され、その後株式を公開する大会社に成長させ、60数歳になられた今日においても、たった一部の隙も無く「戦い」を常とされ、寝る間や食べる間も惜しんで思考を巡らせて、挑戦し続けておられるのである。

 

私は30数年来、この方とお会いさせて頂くたびに胸が一杯になると同時に、自分自身にかなり深い猛省を覚える。

自分なりには「頑張った」と思っていても、この方にお会いすると、それは「頑張ったつもり」であった事に気付かされる。

都度々々に深い猛省をしながら、「気を引き締め直し改めて襟を正す」を繰り返えすことにより、今日が在るわけである。

この方からの御恩とご指導に少しでも報いるためには、私自身が経営者として精進を重ねて、自社を社会・お客様・社員にとって価値あるものにすることだと思うのである。

このことを胸に、日々邁進していく覚悟である。

まさにこの方の生きざまは現代版の「臥薪嘗胆」なのである!

 

2014年

5月

11日

諦めなかったらどうなる?

この「立花克彦ブログ」を始めて約1年半が過ぎた。

さすがに㈱中広の後藤一俊社長のように数年来に渡り、欠かすことなく毎日更新出来るほどの豊富な話題を私は持ち合わせていないのだが、それでもおかげさまで読者の方が徐々に増えてきた。

それにともない様々な方から色々な感想や批評・質問を賜れるようになってきた。

皆様からご意見を頂戴することは、自分自身をたえず見直し、時代環境に即して再構築する上において大きな利益になっている。

本当に有り難いことである。

 

ところで先般、私の座右の銘である「諦めず気が遠くなるまで繰り返す」について質問を受けた。

「諦めず気が遠くなるまで繰り返したら、その先には何がありますか?」との質問であった。

確かに「継続は力なり」や加藤先生の「続けることの喜び」であれば、続けていれば「力」や「喜び」を得ることが出来るという「結果」が句の中に含まれているが、私の座右の銘は過程のみであって結果が含まれていない。

その質問には「私は、経営者という道のまだまだ半ばに居るため、諦めず続けた結果どうなるのか、実は私自身も分からないんです」と答えた。

しかし、「諦めず続けていれば、何かしらの成果が現れ、その成果が未来を切り開く力になる」という確信的な気持ちは、たえず心の中に持っている。

それは一番多感で何でも吸収することのできるポテンシャルを持った青春時代に学ばせて頂いた「天理柔道」が礎にあるからに他ならない。

 

また柔道の話になってしまうが、当時の天理柔道の練習時間は膨大で、とにもかくにも「練習に次ぐ練習」であった。

特に1年生の入学当初は、親元より離れて寮生活に移行するという生活環境の劇的変化もあり、只々、訳も分からず、道場と寮と学校の3箇所の行き来を繰り返すばかりである。

1年生の時はレギュラー選手でもなかったので、試合に出て達成感を味わうこともなく、とにかく「練習に次ぐ練習」のみである。

自分はレギュラーになれるのか?そしてこの練習を続けていれば本当に日本一になれるのか?何も先が見えないのである。

ただただ一日一日がもう精一杯なのである。

逃げ出したい辞めたいという気持ちが大きく、実際に「辞める」と先生に願い出たこともあった。

しかし嫌々でも辞めずに続け2年生になると、徐々に実力も付き始めて、生活環境にも慣れ、後輩もでき、精神的にも少し余裕ができ、自覚も生まれ始めてきた。

その頃には試合に出場する事も出来るようになり、新人戦(第19回近畿高等学校新人柔道大会)の団体戦で優勝することができ、個人でも5戦5勝の戦績により優秀選手に選んで頂けた。

これまでは練習をこなす事だけで精一杯で、その先に何があるのか見えていなかったが、この時にようやく初めて、「諦めず練習を続けていけば必ず強くなれる。全国優勝も夢じゃない!」と確信することができた。

そして3年生の時には、先生方の指導や、支えてくださる方々の応援もあり2度日本一という結果にも恵まれた。

また「自分は最後まで諦めず努力することが出来た」という自信が、その後、経営者として事業をする上で重要なものになっている。

この経験があるから、「嫌でもなんでも、諦めることなく続けていれば、日々の成果は微々たるものであっても、必ず何かしらの成果が現れ、その成果が未来を切り開く力になる」と確信が持てるのだ。

 

私にどんな未来が待っているのかは分からない。

けれども、無抵抗で受け入れた未来と自分で切り開いた未来とでは、違う未来が待っていると思うのだ。

 

2014年

5月

04日

中小企業の生き方

会社組織の良し悪しは、売上高や利益、会社の資産内容及び社内留保金、社員数などだけを一概に一括りにして、容易に論ずる(判断する)ことが出来るものでもない。

それならば、会社組織の良し悪しの判断基準とはいったい何だろう?

これは、あくまでも私見であるが、会社組織全体が一つの目標に向かって、いかに心を一つに合わせて結集し、一丸となって突き進んで行くことが出来るか否かが一つの判断基準になるのではないだろうか!?

その点においては、中小企業は少人数であるが故、一人一人のポテンシャルを結集することが容易で、目標に対して一丸となることが大企業ほど難しくは無い。

 

中小企業には中小企業の長所がある。

当社には、商品開発だけを専門にしているチームはないが、私だけでなく社員全員がいつも「見直すべき点はないか?」「ビジネスチャンスはないか?」「世の中のニーズは何だろうか?」と社内外にアンテナを張っている。

そこで新分野を見出した場合、スピーディーに意思決定し、素早く新商品の投入を図る。

中小企業は組織の規模が小さい分、経済環境の変化にも素早く柔軟に対応が出来るのである。

昨今の当社の場合であれば、新商品は『災害備蓄用生理用品』であり、新規事業は『診療介護サービス付き高齢者専用賃貸住宅』である。

 

中小企業の本質と特徴を理解し、「環境変化への適応力の高さ」「結束のしやすさ」「スピーディーさ」など中小企業の長所を活用し、また伸ばしていく事が生き残る道であると思う。

自社の社会性・方向性を見極めながら、大局に立って自社が置かれている経営環境を加味し、適時適切な状況判断をしながら運営していかねば継続と発展はないと思うのである。

そして中小企業であっても、企業は社会の公器であるのだから、決断の判断基準や運営の目的を「利潤追求のみ」にしてはいけない。

そのためには、自分はどんな視点で経営を行っているのか、常に自問自答を繰り返すことである。

そして、自分自身の経営理念や目的・方針を明確にして、同じビジョンを持つ集団をつくり上げることが重要であると思うのだ。

 最後に、経営の目的と手段を、自分自身と社員たちに再認識させるために、下記のものを明記しておく。

 

当社の企業理念

丸竹COの最大の目的は、すべての社員が物心両面で豊かな生活を送り、自分の将来に安心感を持てるようにする事である。

その為には

1、信頼される会社でなければならない。

2、社会から歓迎される会社でなければならない。

3、自社だけではなく、自社に関わる全ての人達の繁栄を追求しなければならない。

4、すべての社員が自分に社会的価値を感じられる会社でなければならない。

>>>全文を見る

 

経営方針

(1)独自で開発した商品を持ち、その商品の価格決定権がある会社になること。

(2)社員全員が一丸となって、すべてに渡り「たえず見直し」のできる会社になること。

(3) 社員数は端境期に赤字を出さない人数で、そして繁忙期は残業で乗り切れる会社に成ること。

 

※私は「従業員」という言葉が嫌いな為、使用していません。当社では「社員」という言葉の中に、契約社員、パート、アルバイトも含まれています。

 

2014年

4月

27日

無駄な努力はない

少し前の回(秘訣は習慣化)で、「大外刈り」を習得した際の話を書き、「諦めず続けることで、人間たいていの事は出来るようになる!」と書いたが、今回は「大内刈り」を習得出来なかった際の話を書こう。


天理高校時代に「大内刈り」という技を、松本薫先生(当時コーチ5段)から教わったことがある。
ほんの数度の練習で自分の物にしてしまい、試合で得意技として使う同級生も居る中、私はいつまでたっても習得出来ないので、その惨めさから柔道自体を嫌いになりかけた。
同級生が出来るこの技を、何ヶ月経っても、ちっとも出来ない自分は柔道には向いてないのではないか?とまで思う時もあった。
結果を言うと、高校3年間に渡り諦めず「大内刈り」の練習を続けたが、とうとう最後まで自分のものにする事は出来なかった。
結果は「不成功」であったが、では大内刈りの練習に費やした時間や努力が無駄だったか?と聞かれれば、決してそんな事はない。

それは違う形で効果をあらわした。
嫌々でも大内刈りを練習して一年ほど経つと、今まで無かった場所に筋肉が付き始めた。
思わぬ箇所に筋肉が付いたお陰で、相手の出端をくじいたり、相手が技を仕掛けてくるタイミングを外す為くらいにしか使っていなかった「支え釣り込み足」という別の技の精度が格段に増して、試合で決まるようになってきた。

その上、大内刈りの練習で鍛えた筋肉とタイミングで「支え釣り込み足」を掛けるものだから、技を受ける相手も一般的な通常の支え釣り込み足のタイミングとは異なるため、相手の運動神経の反応が咄嗟に追いつかずに面食らってバランスを崩すという効果まで生み出した。

こうなると支え釣り込み足をフェイントに使い、元来の得意技である「大外刈り」や「払い腰」「内また」の精度も格段に向上した。
本来の目的であった大内刈りは習得出来なかったが、諦めず続けていた事により、違う形で努力は実を結んだのだ。

 

他にも、こんなことがある。
もう十数年も前の話だが私は、とある建設会社の土木担当の方に「排水材」の営業をする為に頻繁に通っていた。
毎度つれない態度を取られていたが、腐らずめげずに、沢山パンフレットを抱えて通っていた。

結局その方とは最後まで縁がなかったのだが、私が頻繁に営業しに来る姿を目に留めていてくれた隣の列の緑地造成の担当の方が私を呼び止め、パンフレットを見せるように声を掛けてくれた。

その結果、パンフレットに掲載していた「防草マット」を、ほとんど即決のような形で販売する事が出来た。
土木担当者に「排水材」を営業しに通う私を、緑地製造の担当者が見込んでくれて、「防草マット」を購入してくれたのである。
当初の目的は叶わなかったが、努力は違う形で実を結んだ。

 

上記の柔道の話も営業の話も、本来の目的は不成功に終わったが、意図せず良い結果に結びつく事が出来たという話だ。

しかし一生懸命に努力しても、それが何の結果にも結びつかず、不条理を感じる時も多い。
けれども必ずや「経験値」はアップしている。
それに「努力出来た事実」を自分自身は知っているし、それが自信の素にもなる。
点で見れば、何の結果にも結びつかず終わったかのように見える努力も、線で見れば、現在の自分の糧になっているのである。
だから人生に「無駄な努力」は決して無いのである。

2014年

4月

20日

社長直行便

十数年ほど前のことだが、ある日突然、社員が理由も告げずに退職していったことがある。
社員の数が少ないうちは私が面接を行っていたのだが、その頃にはもう幹部社員採用の面接以外は、各現場の責任者に任せるようになっていた。
だから私は前記の社員のことは履歴書に書かれていることぐらいしか知らないまま、そして、ろくに話しも出来ないままに、彼は退社して行った。
恣意的な理由で退職していくのなら、それは仕方のない事だ。まさに憲法で保障された「職業選択の自由」である。
しかし仕事内容や人間関係もしくは組織全体に何らかの瑕疵があり、それが退職に至る原因であるならば大きな問題である。
彼がある日突然退職した理由は何だったのだろうか?私が、もっと気に掛けておくべきだったのだろうか?と反省もしたが、アンテナを張り巡らせるにしても限界があるし、社員全員と向き合えるほどの時間もない。
私に何か訴えたいことや、相談したいことがあったとしても、私が慌しくしている時は声をかけづらいだろうし、工場によっては、何日も顔を合わさない社員や、パートやアルバイトに至っては、ほとんど顔を合わす機会すらない人もいる。
そこで考えた末、この件のすぐ後に「社長直行便」というポストを設置した。
今ならEメールで良いだろうが、その当時は現在ほど普及していなかったので、誰でも投函出来るようにポストにした。
ポストの鍵は私しか持っていないので誰に遠慮することなく、会社の問題点や改善すべき点、相談、提案、私に対する意見など、どんな内容の事でも書いて投函出来るようにしてある。

無記名でも可であるし、構えず、休憩時間に投函出来るように、屋外にある喫煙スペースの横に設置してある。そこには自動販売機も置いてあるので、タバコを吸わない人でも皆が行き易い場所だ。

 

経営者は会社組織の全体を包括的に、かつ危機感を持って見渡し、全てに渡り細心の注意を払うことを常々から要求されるのである。
おまけに私は元来から不安症であるが故、常日頃はもとより、突然社員が辞めるなどのように何か想定外のことが起こったときには、より一層に不安に駆られて、もしかしたら、社内に問題が在ったのかも・・・?適材適所に配置することが出来なかったのかも・・・?などと、あらゆること事を推測してしまう。
たとえ小さな問題でも放置していると、中小企業はその脆弱性から「アリの一穴でも堤は崩れる」のである。
アリの一穴(弱点・欠点・盲点)は、どこの会社にも誰にもある。
しかしそれを改善しないまま放っておけば、穴はどんどんと大きくなるだろう。
そして最も恐ろしい事は、穴が開いていることに、いつまでも気付かずにいることだ。
私は不安症ゆえ、アリの一穴であってもいち早く気付きたい。

そう思って十年以上前から社長直行便を設置している。

 

しかし一番最近入れられて手紙は「会社で花見をしたいです」であった。笑

 


2014年

4月

13日

業界として若手を育てる

約30年前の話。
師匠である東建コーポレーション(株)の左右田鑑穂会長兼社長のご自宅の4階にしばらくの間、企業家見習いの修行を兼ねてお世話になり、その後、私は不動産業の会社を立ち上げた。
将来的には、いずれ私が父の会社の繊維産業を引き継ぐことになるだろうという心積もりがあったので、不動産業の傍ら、繊維の仕事も手伝いながら勉強することになった。
繊維産業の中で物を作って売るからには、まず繊維材料の仕入れだと単純に考えた。
そこで、仕入れ方法と仕入先を勉強したいと思ったが、将来会社を成長させる為には自社よりも大きな会社、出来れば地元泉州でNO,1の会社の社長のやり方を学びたいと思った。
地域で一番の会社は、当時のカネボウ㈱防府工場を買い取る話が出る程の力を持った会社で、丸竹繊維工業所(丸竹COの前身)より何十倍も大きな会社であったが、幸いなことに父とその会社の経営者である小島社長とは知り合いだった為、私は直接の面識は無かったのだが、思い切って電話をかけて訪ねていった。
不躾なお願いであったが主旨を説明すると有難いことに、「面白い子やなぁ!」「よっしゃ分かった!明日仕入に行くから朝8時に車で来てくれるか?運転手してくれ!」と快諾してもらえた。
翌朝、当時の大阪梅田(ダイビル)にあった日本合繊株式会社へアクリル原料を仕入れに行くのに同行させて頂き、仕入れ方法を教えて頂いた。
その当時の丸竹繊維工業所はアクリル原料をファイバーメーカーから直接仕入れできるような規模の仕事はしていなかったのだが、そうような仕事が出来る会社にしようと若造の私は意欲を高めた。
帰りの車の中で、小島社長は経営について話をして下さった。


① 「社員を持つなら厳しいばかりではアカンで!一人では限界がある。会社の拡大は人材次第やで!」
② 「支払いの信用は大事やで!」
③ 「売り先より仕入れ先の方が大事である!」
④ 「相手を儲けさせんと自分も絶対に儲からん!」
⑤ 「諦めんと長く続けることや!」

 

これらは今でも、私の経営の根幹をなす考えだ。
当時、駆け出しの私にとって、これから目指す泉州の社長の姿というものを見せて頂いた。
「まあ詳しくは、これからあんたが実戦で自分自身の道を切り開いて学んで行くことや」
最後に社長は、そう言って車を降りられた。
若さゆえの図々しさで押し掛けて行った私に、小島社長は経営者業について本音でアドバイスをして下さった。

それは自社や他社、敵や見方の関係なく、業界として若手を育ててやろうという心意気だったのではないか?と、今になって思う。

TPP参加や新興国の台頭で、日本の繊維業界が衰退してしまわぬ為にも、若手の成長は必要不可欠である。
私が多くの方々に育ててもらったのと同じように、年長者は自社社員だけではなく「業界の若手」を育てる責任を担っているのではないだろうか?
微力な私が出来る事はそう多くはないが、私が師匠や先輩方に教えて頂いた事や、私の経験、考え方など、失敗も含めブログに記していこうと思っているので、それが誰か一人でもこれから成長して行く若い人の参考または反面教師になればいいと思っている。

 

2014年

4月

06日

秘訣は習慣化

天理高校柔道部には、卒業後に世界選手権覇者や金メダリストになる生徒が沢山いた。
そのような生徒達は優れた才能やセンスを生まれつき兼ね備えている為、新しい技をほんの数日で習得出来てしまう。

それに比べて、私は技の習得が遅い方であった。
なかなか習得できない私を見かねて、ある日、松本薫コーチ(当時5段)から、「学校の授業中に椅子に座ったままでも柔道の練習はできる。」

「お前は左利きだから、まず左足を指先までまっすぐ延ばして、つま先を全力で下向きに曲げる。」

「そして右足も同じくまっすぐ延ばして、今度はつま先を上向きに全力で曲げる。」

「歩くときは、つま先に力を込めながら足を引きずるように歩く」

「この3点を毎日続けてみろ」と教えてもらった。

つまりこの足の形は、「大外刈り」の基本動作である。


早速、翌日から授業中に教わったようにしてみると、すぐに足が疲労のため攣りそうになって長く続かないわ、くたびれて授業に身が入らないわで・・・いや元々授業には身を入れてなかったので、まぁそれはいいとして・・・、先生に言われたような歩き方をすると、何度もつまずき転んでしまうわ、柔道を知らない友人達からは、ふざけていると思われて笑われるわで、散々であった。
けれど先生のアドバイスを信じていた私は、それを毎日続けた。
1か月を超える頃には、私のおかしな歩き方を笑う者が無くなり、気が付けば椅子に座ると無意識に足がその形になっていた。
この頃になると練習で「大外刈り」が少し掛かるようになってきた。
それまでは「払い腰」と「内また」だけでやってきた柔道だったが、3年生になると「大外刈り」が私の得意技の1つになった。

 

人が何か新しい事を習得しようとする場合、慣れてない事に挑戦をする訳だから苦しい。

けれど、苦しい、しんどいと思いながらも、一日一日と挑戦を繰り返していると、いつしかそれは習慣に変わり、特別な行為ではなくて、日常の行為へと変わり、ふと気付いた時には苦しさは薄れ、ある時、習得出来ている自分に気付く。
そういう事の積み重ねで人はステップアップして行くのだと思うが、新しい事を習得出来ない人は、その才能が無いのではなく、習慣化する前に諦めてしまったり、飽きてしまったりしているのではないだろうか?
自分にはハードルが高いと思うような困難な事の習得や苦手な事でも、習慣化させる事により、いつしか苦しさは薄れ、そうして諦めず続けることで、人間たいていの事は出来るようになる!と私は信じている。

 

2014年

3月

30日

ライバル

先日、NHKの「ヒローたちの名勝負」という番組で、講道館柔道「全日本9連覇・ロス五輪金メダリスト」の山下泰裕先生と、「ソウル五輪金メダリスト」斉藤仁先生の数年間に渡る戦いの物語が再放送された。
両先生の凄まじいまでの諦めない執念、そして柔道への情熱が見てとれる素晴らしい物語であった。

その番組の中で、山下先生は斉藤先生が居なかったら、もっと早く引退していたろうし、斉藤先生は山下先生が居なかったらあそこまで強くなっていなかった、と語られていた。
お二人は、切磋琢磨しながら競い合い、また高め合える最高のライバルで有ったのだろう。
とは言ってもライバルが四六時中、隣に居て、一緒に練習して、いつも競い合えるわけではない。
ライバルと戦うのは本番の試合でだけだし、ライバルと競い合うとは言っても、一緒に練習しているわけじゃないから、アイツが10回なら俺は15回!という風にもいかない。
実際にはライバルと顔と顔を合わせて競い合っているのではなく、ライバルの姿を心に写し込み、自分の心の中に居るライバルと戦う。
練習で疲れて、「今日は、もう終わりにしよう」と思った時に、ライバルの顔を思い出し、「やっぱりあと10回やろう」と思いなおす、もうしんどくて立てないと思った時に、ライバルを思い出して立ち上がる。
結局それはライバルと戦っているというより、もうやめようと言う弱い自分と、まだまだやるぞ!負けたくない!という強い自分との戦いなのではないだろうか?
柔道の歌の一説に♪人に勝つより自分に勝てと~言われた言葉が胸に染む~♪とあるが、まさに両先生は、ライバルに勝ったのではなく、最終的には自分自身に勝ったのであろうと感じた。

 

ソウルオリンピック。
期待されていた柔道は最終日まで金メダルがゼロの総崩れ。
何が何でも金メダルを取らなければならないという凄まじい重圧の中、最後の望みを託されたのが斉藤先生だった。
準決勝、対戦相手は地元韓国の選手。

日韓両国の地鳴りのような大歓声の中、斉藤先生得意の投げ技が決まらず苦しい戦いが続く。
相手選手が帯を結び直す間にも、興奮した観客たちの恐ろしいほどの大歓声が響き続ける。

そんな中、斉藤先生が何かを探すように視線を動かす。

実況席に座る山下先生を捕らえると、少しの間、視線を送る。

うなずく山下先生。

実況アナが「今斉藤がチラッとこちらを見ましたか!?山下さんの方を見たんじゃないですか?!」と驚く。

 

ライバルが単なる敵ならば、こんなシーンは見られなかったであろう。
ライバルが居るから自分を磨き高める事が出来る。ライバルが居るから自分自身に勝つ事が出来る。

真のライバルとは、もうしんどくて立てないと思った時に、その顔を思い出せば、立ち上がらせてくれる存在なのだろう。

そして自分の苦しさを誰よりも分かってくれる一番の理解者なのだろう。

私はこの番組を観て、現役時代の感動が蘇ると共に、獅子奮迅して目標達成する喜びを改めて思い出させてもらえ、自分自身を鼓舞する良い刺激になった。

 

斉藤仁先生と。
斉藤仁先生と。
山下泰裕先生と。
山下泰裕先生と。

2014年

3月

15日

魔法の言葉

その昔、ある人に言われた言葉が忘れられない。
少年時代、私には一回り年上の「吉川のアンちゃん」という兄のような存在の人が居た。

スポーツマンでボクシングが得意で相撲も強かった。
吉川のアンちゃんはボクシングをはじめとして、色んな事を教えてくれた。
良い遊びも悪い遊びも教えてくれるカッコイイ年上のアンちゃんであった。
中学生時代のある時、地元で数日間お祭りが開かれる事になり、屋台を出すことになった。

吉川のアンちゃんも屋台を出すというので、私ももちろん一緒に手伝うことにした。
焼きそばの屋台を担当する事になったので、アンちゃんに教わりながら、屋台を設営したり、荷物を運び入れたり、キャベツを切ったりした。そばの焼き方も教えてもらった。
アンちゃんは焼きそば屋だけではなく、他の屋台も手伝いに回っていたので、私がほぼ店主だった。その事が中学生の私には嬉しくて、誇らしくて、張り切って大量の焼きそばを焼いて準備した。
けれども何故か私の屋台が繁盛する事はなかった。はっきり言って全然売れなかった。
時間が経つにつれて気持ちも沈んで行き、心が萎えてしまった。
そんな落ち込んでいる私を見てアンちゃんは、「何をクヨクヨしてんねん!アカン時には下を見ろ!」と怒った。「あの綿菓子屋なんか、もっと売れてないぞ。それにな、今日より売れんかった時なんて今まで何回もある。」
アンちゃんの、その言葉を聞いて私は少し救われたような気がした。
翌日は、どういうわけか次から次へと焼きそばが売れた。嬉しい悲鳴を上げながらソバを焼き続けた。

用意していたキャベツもなくなり、ようやく人が途切れた時、私は「今日は沢山売れたし、もう屋台閉めてもいいんちゃう?」と言うと、アンちゃんは「イケてる時には上を見ろ!あそこのお好み焼き屋は、もっと売れてるで!」と言って、私にキャベツを買って来るように言いつけた。

 

上ばかり見ていては、息切れしてしまうし、自分が上手く行ってない時には落ち込んでしまう。

下ばかり見ていては、進歩出来ないし、向上心が芽生えない。
アカン時には下を見て腐らないように踏ん張って、イケてる時には上を見てもっと頑張る。そういう姿勢をアンちゃんに教えてもらった。

 

私が、この言葉をふと思い出す時は、実はイケてる時よりアカン時の方が多かった。
「上を見ろ」も「下を見ろ」も言葉を変えれば、視線を「自分」から「外の世界」へ移せと言うことだ。上手くいかなかったり、失敗したりして落ち込んだ時、または恥をかいてしまったり、恥をかいてしまうかも・・・と緊張した時には、自分以外の外の世界に考えを巡らせればいい。
凡人のあなたが犯すレベルの失敗や恥ずかしい失態は、現在過去の何千人、何万人が経験したありふれた事だ。とんでもないレべルの失敗なら大いに落ち込むべきだが、そうでないだろ?それに、あなたより、もっともっと悲惨な失敗をした人たちは、数え切れないぐらい居る。
そういう風に考えると、どんなに落ち込んでいる時でも元気が湧いて来て、また前向きな気持ちになって進んで来られた。
私にとってアンちゃんのこの言葉は、魔法の言葉なのだ。

2014年

3月

09日

強い企業の体質作り

昨今、巷の書店では「高体温に体質改善しよう」、「高体温は病気になりにくい」というような類の書籍を多く見かける。
有難いことに、私は子供のころから平熱が37度近くという高体温な体質である。高体温から来る代謝の良さと免疫力の高さから、この歳まで病気らしい病気は、ほとんどしたことが無い。
学生時代に集団食中毒があり全寮生約60名中の内、58名が罹患した時も、私は何ともなかった。寮長の先生からは「お前ら2人は、どんな時代になっても、どんなところに流されても、何を食っても、生きて行けるな!」とお褒めの言葉を頂いた。(笑)

しかし油断は禁物なので人間ドックは欠かさず受けている。

 

前置きが長くなってしまったが、今回は「企業体質」について述べたい。
始めに企業を人間の体に置き換えると、その共通点の多さに驚く。例えば「体格」「体力」「体質」。
まず「体格」は、売上高や社員数、会社の総資産等、すなわち会社の全体規模の大小であろう。

次に「体力」はズバリ金融や経理の状況であり、すなわち総資産経常利益率や自己資本比率であろう。

大きいに越したことはないが、「体格」「体力」が強大だからといって必ずしも企業の存続をこの2つは保証するものではないと思う。
体格も立派で体力のある格闘家が、必ずしも長生きとは言えないのと同じで、長生きするには「病気になりにくい体質」が重要な要素である。
では「体質」とは具体的に何かというと、経営者を含めた全体の人材の質であり、また経営方針・戦略の周智徹底、コストパフォーマンスやリスクマネージメントであろう。
長期安定経営の企業を目指すならば、「企業体質の強化」が必要不可欠だ。
体格の大きい人でも、病にかかれば長生き出来ない。そこに体力があれば、病と闘うことが出来、もしかしたら復活することも出来るかもしれない。
けれども「長生き」を目標にするのならば、体を大きくすることよりも、体力を付け、病気にならない体質を作り、それを維持し続けることが大切だ。
勘違いされやすいのだが、当社が新規事業へ進出するのは体を大きくする為ではなく、経営環境の変化に対応しやすくする為であり、「病にかからない為の強い体質作り」の意味合いが強い。


ところで「体格」「体力」「体質」と並んで重要なのが、「健康に気を配る生活習慣」である。
自分は病にかかる可能性がある事を前提とし、その病を予防する為に、ウガイ手洗い、定期健診を行なうのと同じように、過信や油断をせず「たえず見直し」を行って不安要素を改善することを習慣化することで、企業の長生きは得られるのではないか。
こうして考察してみると、企業も人間も、どちらも生き物であり、やはり同質なのだと改めて感じた。

 

2014年

2月

27日

モチベーション

ソチオリンピックが閉幕した。
4年に一度の大会に、肉体的、精神的なピークを合わせるのは、いかに難しいことだろうと改めて思った。
オリンピックと並べるのは大変失礼だが、甲子園にしろ、インターハイにしろ、全国レベルの大きな大会に出場出来るのは、大抵は3年生になってからだ。だから高校生活の3年を掛けて、その大会を目標に頑張るのだが、そこに3年間のピークを合わせるのは難しい。

しかし天理高校には、モチベーションのピークを、最大目標の全国大会当日に合わせることにおいて天才的な手腕を持つ監督が居た。

このブログに度々登場している故・加藤秀雄先生である。

ちなみに先生のことを簡単に説明しておくと、万年「怒号の鬼」なのである。
決して褒めない!試合で勝っても、勝ち方が悪いと怒鳴りつけられ「正座で長い説教」である。年がら年中、明けても暮れても叱られ続けたので、卒業して何十年も経って、こんなオヤジになってからでも、時折OB会等で先生の前に出ると、アワアワとしてしまい言葉が出なくなっていた程である。

その先生が全国大会の一ヶ月ほど前に、初めて褒めて下さった。
「おまえら!最近、筋力が増してきたようだな。練習を頑張っている成果だな。」と。
私は耳を疑って、逆に怖くなってしまった。
また翌週、「練習の度に技が切れるようになってきているぞ!」と褒めて下さった。
入学して以来これまで一度も褒められた事がないのに、2週も連続で褒められると、さすがに私達もオカシイと感じ、「試合が近いので俺らをおだてているのじゃないか?」と怪しんだ。
また翌週は、練習試合の様子を見て、「いかった!いかった!(良かったの意味)」と先生の出身地である北海道弁で何度も褒めてくださった。
普段、先生は関西弁だ。それなのに思わず北海道弁が出てしまったぐらいだから、おだてではなく本当に俺たちは、かなり良い調子に仕上がっているんじゃないだろうか?と、皆は先生の言葉を信じるようになった。
試合の一週間前になると「お前達を見ていると練習の度に強くなっているような気がするな!羨ましいぐらいだ!」とベタ褒めされ、もう皆が加藤先生の言葉に酔いしれるようになっていた。
「これまでにないぐらい今が一番強くなっている!」そう信じ込む事で、精神面も強くいられた。「鬼の加藤先生が褒めるぐらい俺たちは強くなったのだから、負けるはずがない」という自信満々な気持ちで挑んだ大会は、最高の結果を残せた。

大会翌日。
昨日までと同じように意気揚々と練習に臨んでいると、怒号が飛んで来た。次々と飛ぶ怒涛の怒号。まるで魔法が解けたかのように、先生はまた元通りの鬼監督へと戻っていた。
昨日までの褒め称えは何だったのだ!と私たちは脳天杭打ちを食らったような気分になって唖然としてしまったが、「加藤秀雄劇場」の中で最高潮に踊らされていた事に気付いて苦笑いをした。

 

その時の事を今、経営者の視点で思い返すと、トップの人間の言動は、こんなにもモチベーションと結果に影響を及ぼすのだと驚く。
経営者の言葉で、社員のモチベーションを上げることも出来れば、逆に一気に下げてしまう可能性もある。そう考えるとトップに立つ者の発言の責任は非常に大きく、身が引き締まる。

 

2014年

2月

20日

自信と自惚れは紙一重

東建コーポレーション㈱ 左右田鑑穂会長兼社長から掛けて頂いたお言葉に「自信と自惚れは紙一重だ」というものがある。
不肖ながら私は当社の代表取締役社長である。
社長という立ち位置は当然のことながら一番重い責任を背負う。法的責任、金銭的責任、社会的責任というリスクを最終的には1人で背負わなければならない。
会社が潰れても社員達には責任は及ばないが、社長はただ一人で全責任を負い、個人負債までも抱えることになる。
しかしその代わりとして、最終的な意思決定を下す大きな権限を持っている。
その権限力を履き違えて、「会社は俺の物」だと勘違いして、大きくなったような気になって、また部下の数が増えれば自分が偉くなったような錯覚に陥り、自惚れてしまう経営者や、社内のイエスマンだけを高位に優遇し、傲慢になってしまう経営者を見掛ける。
そういう私自身も、ワンマンで独裁的な部分が多々あるのは重々承知しております。
しかしイエスマンが多くなると、根拠のない自信で間違った方向に進んでしまう危険性がある。
そうならない為にも、私は皆に「NO」の意見ほど言ってもらいたいと思っている。
社員が社長に「NO」を進言するのは大変勇気がいる事であろうと思うが、会社の為を思って言ってくれた意見なら、反対意見であっても、私は本当に嬉しい。
たまに私は社員に「喧嘩しよう」と言って討論を持ちかけるぐらいなのだが、けれども、きっとまだまだ社員達には遠慮があるだろう。
当社では昨年より社員達にも株主になってもらっている。
株主になってもらう事で、自分の会社だという意識と経営への関心を高めて欲しいと思っている。

そしてもう一つ。

社員に株主になってもらう事は、ワンマンになりがちな自分自身への戒めでもある。
社員達に「部下であっても自分は株主の一人。だから会社の利益の為には、社長と相反する意見でも発言する権利がある!」と思って欲しいのだ。

 

ところで自信と自惚れの違いは「根拠」があるか無いかの違いだと思う。
例えば「企画」であれば、「事前リサーチや周到な準備と計画」という根拠が無ければ、それはいくら自信があったところで自惚れの企画であろう。
例えば「まじめに物づくりをした」だけでは、それは自己満足の自惚れた商品かもしれない。
事前に徹底した市場調査をし、さまざまなテストに合格した商品という根拠があってこそ「自信がある商品」と胸を張れるのだ。
「社長業」であれば、企画成功経験(事前リサーチを含む)、目標達成経験、日常業務、危機的状況を乗り越えた経験等、それらの積み重ねが、自信の根拠になるだろう。
しかし社長業の自信については、「企画」や「商品テスト」のように自信の根拠をペーパーにして具体的に証明出来るようなものではない。
だから自惚れを自信と勘違いして、「社長としての直感」に頼って間違った方向に進んでしまう場合もあるだろう。そんな時に社員が会社の為を思って、社長に「NO」の意見を言える職場でなければ、いつかは会社自体の破錠を招いてしまうことになるだろう。


ただやはり経営を執行していくには、自分に自信を持たなければやっていけない部分も、データーではなく直感すなわち己の知識と経験に頼って思考し判断しなければならない場面も確かにもある。
だから私は、自惚れるな!だが自信を持て!そして聞く耳を持て!と日々、自分に言い聞かせているのである。

 

2014年

2月

12日

長生きの秘訣

先般、新聞のコラム欄で聖路加国際メディカルセンター理事長 日野原重昭(ひのはら しげあき)氏の記事を見た。ご高名な方なのでご存知のかたも多いと思うが、この方は驚くことに、102歳にして現役の医療法人理事長であり、今も日本医学会発展の為に走り続けておられるのである。

その並外れたパワーにあやかりたく、ここに日野原氏の健康の秘訣を書きとめることにした。

 

まず簡単に記事を要約すると、自らを「走り続ける車輪」に例えられていた。

車輪は休まず走り続けないと止まったら倒れてしまう。休まず走り続ける条件は、健康であること。そして「前向きなビジョン」を常に持つ事だとおっしゃられていた。
日野原氏は二十歳までに腎臓炎と肺結核を患ったが、しかしこれが医師となるきっかけとなり、「病気は神からのお恵み」と断言されている。
とにもかくにも、全てにおいて前向きなのである。

更にそれ以降、病気らしい病気はもう何十年もしていない事実に触れられ、健康の秘訣については記者のインタビューに答える形で書かれていた。

ここからは日野原氏の言葉を簡単にまとめながら自分自身と対比してみた。

 

① あまり食べ過ぎず、余分なカロリーを摂取しない事。
(私:なるべく注意しているのだが食べ過ぎである。おまけにお菓子好き 笑×)
② 出来るだけ歩き、筋肉をなるべく衰えさせず血流を保つ。
(私:最近なんとか守れている。△)
③ 年に2回は精密な高度医療の検診を受ける。
(私:これはクリアーしている。(詳細)◎)
④ 30歳の時の身長と体重を維持する。
(私:身長は183㎝で維持、体重は大幅増加 詳細はマル秘 ×)
⑤ 野菜を多く食べ、蛋白質を大豆(植物性)と脂の少ない肉(動物性)から適度にとる。
(私:野菜も豆も好き。○ 肉はサーロインが好きである。×)
⑥ 歯は消化器官の入り口と考え、常に最善の状態を保ち、よく噛んで食べる。
(私:歯は問題ナシ。○ 性格がせっかちなのでよく噛まない。×)
⑦仰向けに寝ると背骨の上に内臓が乗っかる状態になり、内臓の機能が低下するので牛や馬のようにうつぶせで睡眠をとる。
(私:子供のころから熟睡時はうつぶせ寝である。○)

 

私の場合、上記項目の約半分は×か△である。
現在、私は52歳。人間ドッグの先生は、「真面目に検査に通って健康管理をすれば、あと30年は寿命を保証する。」と言ってくれている。
しかしまだまだ実現させたいビジョンや目標・夢が目白押しであり、30年では足りない。
「企業家としての宿命を私は背負っている」と常々に自負しているからには、夢を実現させてからじゃなければ、くたばれぬ!だから、せめて90歳くらいまでは生きたいと思う!

そうだ!!日野原氏の健康の秘訣を参考にして、健康を維持する為の努力目標を自分に課そう。

そして少しでも元気に長生きして、「三方良し」の精神で、ポジティブに前進して、気が遠くなるまで生きて行こう!!

 

立花 克彦 
立花 克彦 

2014年

2月

04日

賃上げ要請

安倍晋三内閣の経済政策「アベノミクス」は、タイムラグがあったものの株価を上昇に転じさせ、円相場も円安基調に向かい始めて、重苦しい停滞した景気を、それなりに回復方向へ好転させ始めたと思う。
安倍総理が言うように大胆な金融緩和と政府の各種財政投融資額のアップそして五輪招致景気等でデフレを脱却し、物価上昇、景気回復を目指すには、賃金が上昇し国民全体が景気回復を実感する事が必要不可欠だと思う。
しかし実際は景気回復を実感するどころか、物価上昇や消費税増税により負担が増え家計は苦しくなるだろう。そうなると経済は完全に失速してしまう。
そうならない為に政府は4月からの消費税率引き上げを前に、賃上げした企業の法人税軽減の拡充を決め、賃金上昇を経済団体や各種の業界団体を通じて、各方面に要請した。


その結果、当社にも商工会議所を通じて賃上げの要請があった。

 

しかしアベノミクスにより景気回復の動きが強まっていると言っても、我々中小企業や庶民にとっては、まだまだ「実感なき景気回復」と言わざるを得ないのが現状ではないか!?
国内の消費低迷、円安による原材料の輸入価格上昇や、電気料金等光熱費の上昇の影響、そのコストの上昇分を販売価格へ転嫁することの困難さ、金融動向、アジア企業の台頭など、むしろ不安要素の方が大きい。 そもそもアベノミクス自体が虚像なのか実像なのか、まだ分からない状態だ。


そこに来て賃上げ要請だ。
賃金というものは、一度上げれば業績が落ちても下げにくい、また法人税減税は一時的なものと考えると会社の負担も大きい。今後不景気になった時の為に内部留保のことも考えなければならない。
それに賃上げを行い相対的な売価に対する利益率を下げれば、純資産経常利益率や自己資本比率の評価基準ポイントが前年対比で下落するであろうし、そうなると対外的信用の評価までも経理面や会計上においては変わる可能性がある。
このように経営者の視点で考察すると、景気の先行きが見通せない現段階で賃上げに踏み切るには、それなりの覚悟がいる。

 

では一方、社員の視点から考察してみると、どうだろうか?
4月から3%消費税が増税される。という事は給料が政府により減額されるのと同じ事だ。その増税分は我々国民の社会福祉財源の充実と安定化の為に使われるのだが、そうは言っても目の前の賃金が増税分目減りすれば、気持ちも表情も暗くなるのが人ってものだろう。
日本全体が沈んでいれば「仕方ない」と割り切れるだろうが、アベノミクスの恩恵を受けた輸出企業や大手企業では、賃上げがされる予定だ。
そんな中、「当社は賃金UPナシ!」となると、社員の心に会社に対して諦念が生まれ、モチベーションは下がることになると思う。

中小企業では社員1人1人の役割や存在がとても大きいので、社員のモチベーションがそのまま会社の雰囲気となり、売り上げにも反映するだろう。
企業は「社員」があっての企業であるから、社員が元気でない会社に成長は無いと考える。
元気な中小企業であるためには、社員のモチベーションを下げない事が重要だ。
大手企業でも賃上げナシ、もしくは賞与UPに留まる企業がある中、一中小企業である我が社が積極的に賃上げを行えば、その経営者の想いを分かってくれない社員たちではないから、モチベーション維持以上の何かが結果として生まれてくると私は信じて疑わない。
今期当社は新規事業のプロジェクトも控えており、そちらへの資金投入も大きいこの時期に賃上げを行うのは正直言って楽ではないが、敢えてこんな時だからこそ、その先の将来の為に経営者と社員が一丸となって元気に進んで行きたい。

 

よって当社は平成26年4月分から、パート・アルバイトも含めた全社員の基本給を3%アップすることとする。

 

2014年

1月

25日

変わり者

立花克彦 5歳頃
立花克彦 5歳頃

自覚してないのだが、どうやら私は変わり者らしい。
私のどの辺が変わり者なのか?と知人を追及すると、「どこか一箇所、凄く変わっている部分が在るのではなくて、全体的に少しずつ変わっているから、トータルするとだいぶ変わり者」と言われた。
いつから変わり者になってしまったのだろう?と首をかしげていると、親戚の伯父さんが、「あんたは子供の時から変わり者やったで」と、こんなエピソードを聞かせてくれた。


私が2歳の時、母方の亀田家の曽祖父が98歳で永眠した。
そのお葬式の席で聞いた御経に私は大変心惹かれた様子で、目をパチクリさせながら御経に聞き入っていたそうだ。
それからというもの月参りで住職さんが来られると、アイドル歌手を出迎えるがごとく喜んで迎え入れ、住職さんの横という特等席に座って、御経に聞き惚れていたそうだ。
また、たまたま当時は一時期、般若心経のブームだったらしく、テレビやラジオから偶然御経が流れた時などは、寝ていても起き出して耳を傾けていたそうだ。
その他にも偶然どこかでお葬式をしているのを見つけると、まるで遊園地にでも行くように、「俺もお葬式に行きたいー!」とせがみ、「知らないお家だから」と祖母が断っても「連れて行ってくれー!!」と泣きながら手を引っ張っていたらしい。
3歳になる頃にはいろんな宗教の経文の一部と、般若心経の前文後文を含めた全文を暗唱できたらしい。その後、小中学生になっても御経好きは続いて、いつしか気が付けば神主さんの祝詞や祭文、また浄土真宗の阿弥陀経や真言宗のお経も大体一通りは暗唱出来るようになっていた。
まさに「小僧、習わぬ経を読む」で現在でもほぼ記憶が残っているので、法事の際には呼んで頂いたらアルバイトで御経を上げさせて頂きます。 笑

 

その他にも、大工であった母方の祖父の道具箱からこっそり金鎚やらノコギリやら持ち出し、コマ付き自転車の荷台に道具を括り付け、近所中の板塀や壁に釘を打って回ったそうだ。真向かいの安宮さん宅は一番被害が大きく、無断で上がり込んだ私に玄関の敷居をノコギリで切られ、続いて大黒柱に釘を打ち込んでいる私を発見して仰天したそうだ。

あと記憶にあるのが、自分のコマ付き自転車を道路の溝に投げ落とし、その自転車を見つめながら悲しげな顔でたたずみ、大人が声を掛けて来るのを待つ・・・という遊びを気に入ってよくやっていた。
心配した通りすがりの大人が「だいじょうぶか?落ちたんか、拾ってあげよ」と自転車に手を出すと、待ってましたとばかりに「俺の自転車に触るなー!俺は交通事故ごっこをしてるんやー!!」と怒りながら叫ぶのが一通りの流れなのだが、あまりに何回もやり過ぎて、そのうち「あの子の自転車に触ったらアカンで」と先回りして大人に警告するオバさんまで出て来て、つまらなくなって止めてしまった。


うんうん、思い返せば私はやはり変わり者かもしれない。
そしてなんて傍迷惑な悪ガキであろう。ご近所の皆様、謝ります!
しかし大人になった今、あの頃の心境を言い訳すると、母が病気で祖父母の家に預けられ、誰かに構ってほしくて、けれども実際に構われるとどうしていいか分からない天邪鬼であったのだ。ちなみに近所中に釘を打って回ったのは、大工の祖父に憧れて真似をしてみたかったからだし、御経が好きだったのは、リズムや文句が子供心ながらにカッコイイと思ったからだし、変わった事をするにも、一応私なりの理由があるのである。

2014年

1月

19日

不思議な感覚

高校時代の恩師である天理高校柔道部元監督の加藤秀雄先生がお亡くなりになられてから早いもので1年が過ぎた。
いつもは厳しい加藤先生が、私達部員を大層褒めてくれ、そのうえポケットマネーで夕飯をご馳走して下さった事がある。
たしか昭和53年10月頃だったと思うが、近畿各種団体対抗柔道大会という大会が京都の武徳殿であった。その大会は強豪社会人実業団も参加している大会だったのだが、前評判を覆して我々高校生のチームが優勝することが出来た。
加藤先生はたいへん喜んで、寮への帰り道に、近鉄奈良線西大寺駅前の中華料理店に連れて行ってくれた。

その大会で私は、実業団の中でもトップクラスの選手で階級別では日本一も取られたMという大先輩の柔道家と対戦することになった。
実力の差は歴然で、会場中の誰もが当然のように私が負けるものと思っていた。
私自身も勝てる気がしなかった。
適切な表現が見つからないが、それは天理高校に来て初めて「負けても許される試合」であった。「絶対に勝たなければならない」というプレッシャーが無いために、私は初めて「勝ったら儲けもの」ぐらいのリラックスした状態で試合に挑むことが出来た。
この時、不思議な感覚を体験した。
自分の心臓の鼓動だけが聞こえていて、まわりの声が消え、試合をしているという意識さえない、試合中にまるで白昼夢を見ているような感覚になった。
もの凄く緊張した時も人はそのようになるが、そのような場合は体が固くなって動かなくなるのに対し、この時は体が軽やかに自然に動き、体が勝手に試合を続行しているような感覚があった。
その結果、自分でも驚いたことに皆の予想を覆し、私が大先輩に勝った。

 

この不思議な感覚を前記の食事の中の歓談で加藤先生にお話しすると、先生も同じような経験があるとおっしゃられ、その正体は「究極の集中であり、究極のリラックス」だと教えてくれた。
「プレッシャーや緊張が無かった為に、体の余分な力が抜けて動きがスムーズになれ、また脳や筋肉がリラックスしていた為に、日頃の反復練習で身体が覚えていた事を正確に出せたのだろう。また金メダリストや全日本選手権を優勝するクラスの選手になると緊張を強いられる場面でも、トレーニングにより脳や心をリラックスさせる事が出来る。そのため逆に高い集中力を持続する事が出来る」というような内容のお話を聞かせ頂いた。

 

その話を聞きながら、一番嫌いだった反復練習がいかに重要な事であったか、そしてやはり「技と体」だけではなく「心技体」が揃ってこそ最大限の力が発揮出来るのだと当時の私は理解した・・・かどうかは定かではないが、上機嫌の加藤先生や、部員たちの嬉しそうな顔、そして目の前に並べられた山盛りの唐揚げとラーメンが、高校時代の幸福な日の思い出として、印象深く私の心に残っている。

 

2014年

1月

12日

経営環境の変化に対応する

昨今の経営環境は消費税のアップに始まり、TPPへの参加交渉、アベノミクスの不透明さと話題だけの独り歩き、日本政府やアメリカ政府の財政破綻状態(借金まみれ)、またユーロ圏の不安定さ、アラブ諸国の革命や政情不安等を考慮しながら全体像を見渡してみると、その先に待ち受けるのは有史以来の未曾有の不景気か、またその先には第三次世界大戦ではなかろうか?
これまでも「激動の日本経済」であったが、グローバル化や様々な技術の進歩により、これから先の経営環境はもっと激しく変化して行くであろう。

 

ちょっと物騒な事を書いてしまったが、しかし私は悲観もしていないし恐れてもいない。
なぜなら、経営環境が変化するのならば、こちらもそれに合わせて変化すればいいからだ。
今売れている商品が3年後にもニーズがあるとは限らない、今のシステムが1年後にも最適とは限らない、今の技術が5年後にも通用するとは限らない、昨日までと同じ事を続けていても会社が存続出来るとは限らない。
そんな激動の世の中に対応するには、こちらも常にアップデートを繰り替えして最新鋭でいなくてはならない。
そのためには「たえず見直す」ことが必要だ。
ただ「たえず見直す」ことを常々行っていると組織自体の変化が多くなり、組織がどうしても不安定になりやすい。しかし不安定さは新鮮さと引き換えの功罪になるので、多少の部分は気にせず、それよりも時代の変化に適応することの方に重点を置くべきだ。

また世の中の変化に柔軟に対応するためには、単一事業より多角経営だと私は考えている。
経営環境の変動の早さを恐れて、保守的になっていては時代の流れに取り残され衰退してしまう。
従来の事業をアップデートしつつ、その一方で社会のニーズを読み取り、新たな事業分野へも進出することが、激動の今の時代に企業が勝ち残っていく手段ではないだろうか。

この激動の世の中で経営者が新事業への進出を決断したり、会社の改革を行ったり、進むべき道を見つけ出したりするのは大変苦しい事であるが、その点、私は恵まれている。
なぜなら私には「道しるべ」が居て下さるからである。
この30年間、私の師匠である東建コーポレーション㈱左右田社長の経営方針を手本にしてマネさせて頂いたり、また教えを頂いたりすることで、目まぐるしく変化する激動の経済情勢の中なんとか生き抜いて来られている。

 

「時代に取り残されている!」と気付いて困ってから改革しようとしても、すぐにはどうする事も出来ないし手遅れなのだ。

そのためには常日ごろから見直しをし、準備や体制を整えておく事が重要なのだ。

 

2014年

1月

03日

人材 人財 人在 人罪

新年、明けましておめでとうございます。

旧年中、公私ともに賜りました御厚情に深謝申し上げますと共に、本年も変わらぬご愛顧の程、重ねてお願い申し上げる次第であります。

 

さて企業運営の要諦は「人、金、モノ」と言われている。
「人」の字が最初にあるように、やはり「人」が企業の命運や永続性を左右する一番の大きな要素であることに間違いはない。そこで今年の初ブログということもあり、今回は企業運営の要諦の第一義である「人」に焦点をあてて考察してみたい。

 

先般、ビジネス雑誌に「人材 人財 人在 人罪」というものが載っていた。

うろ覚えだが書き記してみると
・人材・・・きちんと仕事が出来る人。これから成長する可能性のある人。
・人財・・・会社の宝のような人。自ら考え行動する人。周りを成長させてくれる人。
・人在・・・なんとなく仕事をしている人。成長意欲がない人。自ら動かない人。
・人罪・・・愚痴を言ったり、規則違反をしたり、周りに悪影響を与える人。会社の足を引っ張る人。

 

ここに一つ、私のオリジナルの「じんざい」を付け足すとしたら「人戝」だ。
辞書で調べると、「戝」は「賊」の異体字で音読みは「ゾク」で「盗むこと」と書いてある。
・人戝・・・上司の技術やノウハウを盗める人。
柔道の稽古の中ででも「教えてもらおうとするのではなくて、目で見て、自分の頭で考えて、技を盗め!」とよく叱られた。

 

以前にも書いたが私の信念は、「社長自ら先頭に立って仕事をさせて頂く!」である。
だから私の背中を見て、そこから色んなものを盗んでほしいと願っている。
しかし背中ばかりを見せられていては、意欲が下がってしまう時もあるだろう。
だから顔を突き合わせコミュニケーションをとり、信頼し、仕事を任せ、結果が出たらしっかり評価する事も平行して重要だと感じている。


最後に私が人材教育の規範としている格言を紹介する。

やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、 ほめてやらねば人は動かじ。
話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。
やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。

上記の格言は、日本海軍 連合艦隊司令官 山本五十六元帥のお言葉である。
この言葉の中には人材教育のすべてが詰まっていると私は常々に考え、机の正面に貼り付けて、日々社員に接するときの規範としている。