2019年5月
2019年
5月
25日
土
変容し続ける会社へ
おかげさまで、当社は今年で創業67年目になります。
会社HPに載せている沿革>>からお分かりいただけるように、時代の変化とともに取扱商品の付加価値を高めてまいりました。
例えば難燃毛布の製造開始や、エコマーク毛布の製造開始、その延長線上に毛布の真空パック加工業の開始や、クリーニング業の開始があります。
近年は、国際規格であるISO9001品質マネジメントシステムや、ISO14001環境マネジメントシステムの認証取得、
また、太陽光発電の導入や、次亜塩素酸水を使用したクリーニングを導入し、環境負荷低減による付加価値の向上へ取り組みを行っています。
また2013年からは、社会のニーズに合わせ、災害備蓄用衛生用品の取扱を開始いたしました。
近年では、高齢者住宅事業、介護サービス事業、医療事業へも進出させて頂くようになってきました。
単なる多角経営にならないように、各事業部を相互に連携し、相乗効果を生むビジネスモデルを創出し、身の丈を超えない規模内で、毎年のように様々な変革を繰り返しながら、会社を成長させて来ました。
しかし今、これまでの経験が役に立たないほどの大変な変化の時代を、日本は迎えようとしています。
「新しい時代へ>>」でも書きましたが、日本はこれから凄まじい少子高齢化×人口減少社会へと向かって行きます。
資料によると2030年には人口の3分の1が65歳以上になるそうです。また2060年には日本の人口は30%も減少し、8700万人ほどになると予想しているメディアもあります。
これまで多くの企業は、大量消費や人口増加を基にした「売り上げ規模の追求の経営」を行って来たと思いますが、人口減少により経済の前提が変化して行くため、これまでの経営をそのまま続けて行くと、いずれ行く先に暗雲が垂れ込める事になると思います。
経営者は脳みそを「人口減少時代の経営」にガラリと変化させなければなりません。
少子高齢化×人口減少社会を、世界で初めて経験する国は日本です。
皆、初めての経験です。歴史や他国から学ぶことが出来ません。
こんな時代に、私のような田舎の経営者はどんな風にして会社を持続させて行けば良いのだろうか?と悩みます。しかし全員が未知な世界だからこそ、既成概念に囚われず、また恐れず、新しい事や良いと思う事を、スピードを持って次々と実行して行ってやろう!と思っています。
当社が運営するサ高住での「入居者様アルバイト制度>>」も、その一つです。
また労働人口の減少で、人材の確保が年々難しくなって行くでしょう。その為には生産性を上げなければなりません。
生産性を上げる為には自動化領域の拡大や、AIやロボットの導入なども考えて行かなければなりません。
スマホもろくに使いこなせていない私がAIなど可笑しな話ですが、世界はもう電力や車やインターネットの無い時代に戻れないのと同じように、デジタル化の流れは不可逆的に拡大して行くのみでしょう。
社会の変化から取り残されないように、会社も私も変容し続けて行かなければなりません。
2019年
5月
14日
火
甲子園
先月、45年来の親友だったN君が亡くなりました。
彼とは地元中学校の同級生で、同じクラスになったことは一度もありませんでしたが、中学1年生からの付き合いでした。
友人になったきっかけは、校内体育祭で騎馬戦をすることになり、隣のクラスにいた体格の良い彼に私の方から「騎馬戦の馬を一緒に作ってくれへんか?」と声を掛けたことが始まりでした。
あと一人、I君という同じくらい体格の良い子にも声を掛けて3人で土台の馬を作り、その上に学年で一番体重の軽かったU君に乗ってもらいチームになりました。
結果、校内体育祭で私たちの馬は3年間負け知らずでした。
当時のスポーツ少年の誰もが「巨人の星」や「柔道一直線」を観て憧れていたように、中学卒業後は、N君は当時の野球強豪校 和歌山県箕島高校の野球部で甲子園を目指し、私は奈良県天理高校の柔道部で日本武道館を目指しました。
学校は違いましたが共に一流選手を目指して頑張る者同士として、互いに励まし合いながら、高校生になっても付き合いは続きました
その後、彼は肘の怪我と肝炎を患い、甲子園出場の夢は断念しましたが、社会人になって以降も野球を続け、地元の強豪草野球チームでピッチャーとして大活躍しました。
卒業後の数年間、彼は父が営む精肉店を手伝っていましたが、平成元年にその関連性を生かして、泉南市で焼き肉店を開業しました。
その名もずばり、青春の夢を託した「焼肉 甲子園」です。
持ち前の何事にも一生懸命で明るく優しい人柄は、多くのお客さんに親しまれました。
また、精肉店に生まれ育ったこともあり、肉の品質に関してはたいへんな目利きでもあった為、あっという間に近隣の市町村からも大勢のお客さんが押し寄せる泉南で一番の繁盛店になりました。
ある日、こんなことがありました。
当社に東京から来客があり、その日の夕食(接待)を甲子園に予約させてもらいました。
予約時間に甲子園に行かせてもらいました。が、不思議な事に本来なら予約なしでは座れない繁盛店なのに、ましてや夕方の最繁時だというのに客は私達だけです。
そこで私は、「今日はお客さんが少ないから、飲食時間120分を超えてもいいか?」と聞くと、「明日の朝までかめへんで!今日の客はタッチャン達だけやから! 今日は定休日やから、久しぶりに誰も来ないから、ゆっくり食べてや!」と言うのです。
私はその言葉を聞いて初めて、この日が定休日だったことを知りました。
定休日にもかかわらず、私の東京からの来客の接待と聞いて、一言も定休日には触れず、予約を受けてくれていたのでした。
帰りに店先を見ますと、確かに、のれんが掛かっていませんでした。
申し訳なさと、そしてN君の人柄と、親友としての気遣いに頭が下がりました。
後日、N君に尋ねると「つれの仕事の接待やったら、店しめれるかいな!」と話してくれました。
この一つを取ってもN君の人柄が偲ばれますが、他にも沢山のエピソードが思い出されて、胸が一杯になります。
最後に「焼肉 甲子園」に行ったのは1月の末頃だったのですが、帰り際に店先で、N君が「タッちゃん、握手しよう?」と声を掛けて来ました。
体調の悪さを年末から聞いていたので、私は親友を励ます意味で、「お前が病気を克服して元気になったら、記念に握手しょうや!病気がなんぼや!野球の練習に比べたら軽いもんやろ!」と断わると、「ホンマやな!箕島の練習に比べたら屁でもないわ!よっしゃ分かった!待っといてくれ!」と返ってきました。
その後も何度か携帯電話では話しましたが、会ったのはこの日が最後になりました。
訃報を夜に聞いて翌日の朝に自宅へ伺い、静かに眠るN君の布団の中に手を入れて握手をしました。
N君は、野球で甲子園に行くという少年時代の夢は叶いませんでしたが、平成の始まりから終わりまで30年間の長きに渡り、野球を経営に置き換えて「焼肉 甲子園」と命名した自分の店を繁盛させ続けたことによって、その夢を達成したように思いました。
N君、長い間お疲れ様でした。そしてありがとう。