2017年3月のページ

2017年

3月

29日

雑談力

いつの頃からか「雑談力」という言葉を時々耳にするようになった。

雑談力セミナーなども各地でしきりに開催されているらしい。

私も「雑談」を大切にしている。

雑談は人間関係作りに必ず必要なものである。

 

たとえば当社のサ高住(フラワーホーム)に入居の見学で来られた方に、分かりやすく施設のご案内をするのは勿論だが、緊張されている見学者様を雑談でほぐし、何でも気軽にご相談いただけるような雰囲気を作ることが大事であると思う。

事務的な話だけでは、人間関係は深まらない。

自分の話をすることで自分を知ってもらうことがコミュニケーションの第1歩、つぎに話やすい雰囲気を作り、相手にも沢山話していただく事が第2歩目。

自分を知ってもらい相手のことを知り、相手にも「この人は私のことを分かってくれているな」と思っていただいて初めて信頼関係は築かれる。

フラワーホームの入居相談に際して私自身がご対応させていただいた時、雑談からの流れで資産整理や遺言状の作成までご相談をいただき、その結果、当社の顧問弁護士や銀行をご紹介した事例が有る。

 

ところで私は日頃、各事業部の各所を巡回しているのだが、元来「おしゃべり」という事もあり、社内社外の枠にこだわらず目に入る人ほぼ全員と、なるべく会話するように心がけている。

私の話す内容の95%くらいは仕事に関係ない雑談であろう。

時には社員から、「ちょっと社長!雑談はいいから仕事の話を聞いてください!」と言われるほどである。

雑談は社長と社員の垣根を低くしてくれる。雑談で雰囲気が和らげば、社員も本音や懸案事項を口から出しやすくなる。

「懸案事項が社長の耳に届くのは一番最後」のような環境になると会社は危ない。

また情報は取り込めば取り込むほど、何か問題が発生した時の解決に役立つ。

一見なんの繋がりもないような一つ一つの情報が当該の問題に関連していて、ジグソーパズルのピースを嵌め込んでいくように一つ一つの情報を繋げれば問題の全体像が浮かび上がってくることもある。

 

ここまで雑談力について綴って来たが、実は私の雑談力は高くない。

というのも、本当に雑談力のある人というのは、相手に沢山喋らせる人なのだそうだ。

私の場合、私の方が断然喋ってしまうのである。 笑

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2017年

3月

15日

45年間育て続けている花月

本日は、私が約45年間育てている『花月(カゲツ)』について書いてみたい。

この花月は私が小学校4年生(昭和46年)の時に、我が家にやって来た。

当時、父の友人であった華僑系日本在住外国人のEさんから父が頂いたものである。

「縁起の良いサボテンで、玄関に飾って育てると金運もよくなる」

とEさんが父に説明するのを、私も一緒に聞いた。

しかし父は縁起や迷信の類は気にしない質だったので、あまり興味を持たなかったようである。

日夜 働いていた父は植物の世話をする余裕はなく、母は入院で不在がちだった為、花月は玄関にポツリと放置されたままになっていた。

3~4か月もすると枯れ始めてきた。

ある日、私はそれを見つけて、「これは縁起が悪い!このままでは我が家の金運がダメになってしまう!」と思い、すぐに水を与え世話を始めた。

それ以来、ずっと今日まで連綿と約45年間育てている。

ちなみに私は、例えば「遠足に行く方角が悪い」とか「その日は仏滅で日が悪いので授業参観を取りやめたほうがよい」などと言って、担任の先生を困らすほど縁起を気にする少年であった。(現在もそうである)

 

この花月という植物は、実に繁殖力が旺盛である。

鉢植えだと1.5mぐらいの大きさになれば、土の量の問題もあり養分を吸いにくくなって、寿命が尽きて枯れてしまうが、しかし落ちた1枚の葉っぱが、そのまま土に着床し、すぐに新芽を出し始める。また伸びすぎた枝を間引きした後に、挿し木をしてもすぐに根を張り成長し始めるのである。

 

小学生男子の大雑把な世話であったが、枯れかけていた花月は再び元気を取り戻して成長し、その後、何度も寿命と再生を繰り返しながら、どんどんと増えて行った。

鉢が増えるたびに、私は同級生や近所のかたに、縁起の話と共に花月をプレゼントした。

それでも中学を卒業するころには、50cmほどの株が十数鉢、手元に残っていた。

しかし私は中学を卒業と同時に郷里を離れて、奈良県の高校の寮に入ることになった。

寮に鉢を持って行くわけにはいかず、半分を母方の祖母へ、残りの半分は父に託した。

その後は、柔道まっしぐらで、花月どころではなかったが、3~4か月ごとの帰郷の際には水やりをした。

大学を中退後は愛知県にしばらく居た。

数年ぶりに郷里に戻ってきた訳であるが、花月はかろうじて枯れずに生きていた。

肥料は全く追肥していなかったので、さほど成長していなかったが、水遣りは欠かさずしていてくれたようである。

帰郷後、手元に戻ってきた花月を、独立した事務所の前に並べて、また育て始めた。

その後、花月は幾度となく寿命と再生を繰り返した。

私は、鉢の数が増えれば周りの方たちにプレゼントしながら育て続けた。

39歳の春頃、ある日突然、花月はピンク色の小さな花を幾輪も咲かせた。

何十年も育てていたが初めてのことだったので、とても嬉しかった。

 

今冬も寒い日はナイロンを被せて養生しながら大事に育てているが、もういつの間にやら、季節は早春である。

寒さもやっとゆるんできたし、花月も喜んでいるだろうか。

2017年

3月

07日

嘘でもホンマでも

私が小学生の低学年のころ、母方の祖父母に天王寺動物園に連れて行ってもらった時のことである。

いきなりその帰り道に話は進むが、動物園の出口を出るとすぐ、全身「白ずくめ」の衣装を着た3人の男たちが目に飛び込んできた。

よく見ると一人は松葉杖を横に置いてアコーディオンを弾いている。

またもう一人の人はそれに合わせてハーモニカを吹いていた。

そして3人目は車いすに乗ってうつむいたまま、ただ座っていた。

そして3人の前には缶詰か何かの大きな空き缶が置かれていた。

祖父はそれを見つけると3人の前まで行き、軍隊式の敬礼をしてから、幾ばくかのお金を空き缶に入れた。

私は当時、状況が全く掴めず、帰りの電車の中で祖父に先ほどの出来事の一部始終を尋ねた。

 

まず3人の方は戦争(第2次世界大戦)で怪我をして体が不自由なり、日本に帰って来た後も働くことが出来ずに困っている方(傷痍軍人)であるということを教えてくれた。

また祖父は、自分自身も支那事変(昭和12年)を皮切りに、終戦(昭和20年)まで9年間にわたり従軍したことを教えてくれた。(戦争と平和>>

「たまたまお爺ちゃんは生きて帰ってこれたけど、それはそれは大変な事やった。」

「毎日のように怪我人や死人が出た。部下や同僚や上官も怪我や病気でどんどん死んでいった。」

「一歩違ったら、お爺ちゃんがさっきの3人のうちの1人になってたかもしれへん。お金を入れさせてもらうのは、命あることに感謝するお爺ちゃんの気持ちや!」

と説明してくれた。

するとすぐさま祖母が

「かっちゃん、お爺ちゃんはアホやろ!あの人らはなぁ、暗くなったら、すたこらと普通に歩いて帰るんやで!お金出すのは止めときって、いつも言うてるのに、この人は何回言うても止めへんのや!」

と、ぷりぷりしながら言った。

すると祖父は眉を吊り上げながら

「おまえは孫に何てことを言うてるんや!あの人らが嘘でもホンマでも、俺の感謝の気持ちには関係ないんじゃ!」

と怒鳴った。

後にも先にも、あれほど怒った祖父の顔を見たのはこの時が初めてで、強く印象に残った。

ちなみに当時としては珍しく、祖母の方が祖父より6歳も上の「姉さん女房」であった。

 

私は外出先で、道端の道祖神さま・神さま・お地蔵さま等を見つけると、ほぼ必ず手を合わすし、 行者さま・神名流し・托鉢僧の方々に遭遇すれば、一期一会を感じると同時に、いま自分が在ることに感謝の気持ちを感じて、幾ばくかの小銭を入れさせていただいている。(神頼みの男>>

たとえその托鉢僧が偽物であったとしても、祖父の言葉を借りるならば

「あの人らが嘘でもホンマでも、俺の感謝の気持ちには関係ないんじゃ!」である。

いま自分が在ることに感謝し手を合わす「きっかけ」になってくれたのだから。

お金を入れさせていただくのは、そのお礼である。