天才たち

今回のブログが2016年の締めのブログとなります。 

本年も多くのご厚情を賜りました上にも、格別のお引き立てを頂戴いたしまして誠に有難うございました。心より御礼を申し上げる次第であります。深謝!

来る2017年も益々の精進を重ねる覚悟でございます。

重ねてのご指導・ご厚情の程、よろしくお願い申し上げます。

 

エジソンの『天才とは、1%のひらめきと99%の努力である』という言葉がある。

努力が最重要だという事を説いた言葉のように伝わっているが、実は、それは誤訳で、本来の意味は「1%のひらめき」の重要性を説いた言葉だったらしい。

「持って生まれた天才としての素質が無ければ、どれだけ努力しても天才になれない」ということだと私は解釈している。

 

ところで私の人生を振り返ってみると、それぞれの年代ごとに、天才と呼ばれる人たちが身近にいた。

当時、神童と呼ばれていた小学校のクラスメイトは、某国立大学を卒業し、現在は製薬会社で世界的な薬の研究員として活躍されている。

天才と呼ばれていた中学校のクラスメイトは、その後、独学でコンピュターソフトを2,000本以上開発した。

高校時代は柔道をしていた関係で、のちに五輪の金メダリストや世界選手権や日本選手権の覇者になった天才が同窓に、あまた居た。

私は、元来 負けず嫌いの性格であるために、彼らが周りの人たちから「天才」と賞賛されるのを目にする度に、密かに悔しい思いをしていた。

小中学校時代は、ただ漠然とやっかむばかりであったが、高校時代の柔道については、努力を積み重ねれば積み重ねるほど、薄々と、そして次第に切実に、天才との差を思い知らされた。凡人の私が血の滲むような努力をして得た技を、天才は1日2日で習得した。

サラリと追い抜いて行かれる度に、「凡人の限界値」を鼻先に突きつけられているような気分であった。

例えば高校野球で日本一のチームになったとしても、プロ野球に入ることが出来るのは、チームの中の天才だけ。「私は、そこへ入る事は出来ないだろうな」と、諦念や嫉妬が何かある度に湧きあがった。

 

17歳の冬に、とある経営者の方と出逢える幸運に恵まれた。

この方を、その後38年間、現在進行形で師事させて頂いている。

最初に師匠に出逢った瞬間から、昂揚し、胸が一杯になり、全身全霊で憧れた。

出会った当時、師匠は社員100名ほどの中小企業の社長であった。

しかし事業を一つまた一つと成功させ、会社を成長させ続け、株式を店頭公開し、その後、東証二部に上場、その1年後には東証一部に上場し、社員数 約6,600名の誰もが知る大企業へと会社を成長させた方である。

そう、私が出会った師匠は、「企業経営の天才」だったのである。

私は今まで天才と出会う度に、努力してもしても超えられない「凡人の限界値」を思い知らされ、やっかんでいた。天才と自分を比べるたびに、諦念が顔を出した。

しかし、師匠という企業経営の天才に出会ってからは、

「天才と同じ場所に立てないからといって諦めたくない。たとえ100分の1でも、それがもっと少なくても、ほんの少しでも努力して近付きたい。」と思うようになった。

 

冒頭でエジソンの言葉の真意を

「持って生まれた天才としての素質が無ければ、どれだけ努力しても天才になれない」と書いたが、べつに、天才になれなくたっていいじゃないか。

凡人でも努力すれば、望む場所に、たとえ少しでも、今より近づけるはずである。

諦めないことで、はじめて物事は動き出すと思うのだ。

 

座右の銘である「諦めず気が遠くなるまで繰り返す!」を胸に現在も精進を重ねているが、来年もその先もずっと、目標に向けて、諦めず気が遠くなるまで走り続けて行く覚悟である。

この覚悟を持って本年の締めのご挨拶とさせて頂きます。

ありがとうございました。