当社が製造事業部門で障害者の雇用を始めたのは、今から約20年以上前、1990年頃のことである。
当時、会社の近くにあった大谷繊維工業所の大谷社長(元泉南市会議員、泉南市障害者雇用促進協会会長)の紹介で大阪府立砂川厚生福祉センターの先生が来社され、「生徒の就職をお願いしたい」と頼まれたのがきっかけであった。
今でこそ法整備も進み、各企業は障害者雇用に積極的になりつつあるが、先生曰く、当時はまだ多くの人たちが知的障害者に対して偏見みたいなものを持っており、「就職先をあちこちと探しているが、ほとんど断られるのです。」とのことであった。
当時はまだ今よりも会社自体の経営規模もかなり小さかったので、たった1名でしかなかったが、即座に採用させて頂いた。
この時入社したM君はその後、体力的に働けなくなるまで約20年間に渡り軽作業をお手伝い頂いた。
M君は当社が障害者雇用をスタートさせた1人目の人物であり、丸竹コーポレーション創生期の戦友でもあるので、今も私のデスクマットには彼の写真が挿んである。
会社の経営規模の拡大にともなって「2人ぐらいなら何とかなるかな」「3人ぐらいなら何とかなるかな」と思いながら1人ずつ採用を増やしていき、3年前からは厚生労働省より重度障害者多数雇用事業所の認定を頂いた。
現在は身体障害者3名・知的障害2名の計5名の方が製造事業部に在籍し、そのうちの1名は正社員として働いてくれている。
私は長年、障害者の雇用をさせて頂いている中で、障害者の方たちは、施設で大事に保護されるより、社会に出て働きたいと思っているような気がしている。
なぜならば毎日、体調が悪くても天候が不順でも、施設の先生の制止を振り切ってでも会社に来ようとする。
これは仕事をすることによって他者から認められ必要とされることに「生きがいを感じている!」ことに他ならないと思うのである。
私は経営者として、ハンディキャップがある人でも働きやすい環境を整えることと雇用の機会を創出していく事が、経営者の「義」であり社会的責任と考える。
この思いが、今年よりサービス付き高齢者向け住宅「フラワーホーム」で取組させて頂いている入居者様アルバイト制度にも繋がってきているのである。
今回は働ける力がある障害者のことについて書いてきた。
次回は働くことは出来ない重度な障害者や高齢者について書こうと思う。