
今月5月2日、父が老衰のため、この世を去りました。
享年91歳でした。
なお葬儀は故人の遺志により近親者のみ相営みさせていただきました。ここに謹んでお知らせ申し上げると共に、父が生前賜りましたご厚情に心より御礼申し上げます。
さて、よくある話ですが、父と息子の関係はなかなか複雑です。
私達はいつも互いに腹を立て合い、喧嘩腰になるか、もしくは必要最低限の会話しかしない。そうでありながら、心の隅では互いに心配し、相手の為を思って互いにちょっと口出しをしては、また喧嘩になるようなそんな父と息子でした。
父から、ありとあらゆるものを子供の頃から丸投げされ続けた憤り、しかし父がいたから私という命が生まれたという感謝の気持ち、この憤りと感謝が、私の心の中でオセロのように入れ替わりながら両立している複雑な心境です。
しかし区切りをつけるためにも今回のブログでは、父の思い出を文章にしてみようと思います。

亡き父の家を整理していて、興味深いものを見つけました。
父が柔道着を着た写真です。
くわしく聞いたことが無いので、父の柔道の経歴は何も知りません。
父は生涯で一度だけ私を認めたことがあるのですが、それは私が柔道初段を取った日のことです。
私は中学2年生の時、金村秋男先生にたこ焼き代のツケがたまり過ぎて、先生からの柔道の勧誘を断り切れなくなり、だまし討ちのような展開で柔道を始めることになりました。(関連ブログ:人生のターニングポイント>>)
1か月で1級になり、半年を過ぎる頃には初段を取りました。
父はいつも、子供の私に何かにつけて張り合い、自分の方が優れていると言い続けていました。
そんな父が、私が柔道の初段を取得した時だけは、「俺よりお前の方が強い」と初めて私を認めたのです。後にも先にも人生の中でこの一度きりです。
私に自信を持たせ、柔道を続けるモチベーションになればと考えたのでしょうか。
今となっては分かりませんが。

父と息子の関係ですから、もちろん愛情表現などは一切ありません。しかし父の愛情を感じたことがありました。
亡き父の家の整理をしていて、この階段を見て思い出しました。
写真を見ていただければお分かりのように、この階段は角がノコギリで切り落とされているのです。
柔道初段を取った後、大阪府中学生大会で2位になり、私は奈良県天理高校からスカウトを受け、天理に入学することになりました。その当時の天理は、連続高校柔道日本一の名門中の名門だったのです。
私は中学卒業後に家を出て、天理の寮で暮らしていましたが、夏休みのうち部活が休みの数日間だけは、父の家に帰省して過ごしていました。
当時この階段の下は洗面所がありました。そこで以前と同じように顔を洗い、頭を上げた時、階段の角で頭を切り、数針縫う怪我を負ってしまいました。
急激に身長が伸びたことが原因の事故でした。
そして次の正月に帰省したとき、ふと階段を見ると、私が頭をぶつけた箇所の角がきれいに切り取られていました。
「切ったんか?」と父に尋ねることもなく、父から「切っておいた」と言われることもありません。話題に上ることもありません。
でも確かに父の愛情を感じた出来事でした。

父の家の桐箱から、私のとんでもない作文が出てきました。笑
この作文を書いた時のことは記憶にあります。
確か小学2年生の時、「お友達に手紙を書きましょう」という題目のもと書いたものです。
先生に𠮟られたナリカワくんを励ますつもりだったのでしょうが、書かれていたのはこんな言葉でした。
「先生に文句を言ったらいい」「先生なんかに、びくびくするな」「先生なんか先に生まれただけで偉そばっているだけだ」
目に余る悪ガキですね・・・汗
当然、先生から呼び出しを食らったのですが、その頃、母は入退院を繰り返していたため、学校へ出向いたのは父でした。
しかし帰って来た父から叱られた記憶はありません。
そして何故か、その作文が桐箱に入れられ保管されているのを、父亡き後に見つけました。
母が早くに亡くなり、その後、長い間、父には憤りを感じていました。迷惑をかけられ、振り回され続けたと感じていました。私が未熟であったから、そういう受け止め方しか出来なかったのかもしれません。でもこうして人生を振り返りながら文章を書いていると、感謝の気持ちが湧いてきます。
憤りと感謝が、私の心の中でオセロのように入れ替わりながら両立していますが、
今は―― 感謝の方がほんの少し優勢です。
ありがとう。
さらば反目の父、またいつかきっと会おうな。