地獄掃除

2017年 新年あけましておめでとうございます。 

旧年中は大変お世話になり誠に有難うございました。 賜りましたご厚情に深謝致しますと共に、 本年も変わらぬお引き立て、尚一層のご高配賜りますようよろしくお願い申し上げます。

 

さて、年が明けて第一回目のブログは「地獄掃除」について書いてみたい。

私は掃除については異常なほど細かく厳しい人間だと思う。

窓に拭き跡が残っているなんて我慢出来ないし、桟の掃除には爪楊枝を使う。

徹底的に掃除をする時は、会社の前の道路にも掃除機とコロコロ(粘着クリーナー)をかけるぐらいである。

毎日掃除をするが、それでも掃除が行き届いていない!と感じた時は、皆の仕事の手を止めさせて、社員全員で徹底的に掃除に取り組む。掃除による筋肉痛で半泣きになる社員もいるぐらいである。

「尋常じゃないレベルの掃除」という意味で、本当は「地獄掃除」よりも、もっと酷い呼称で皆が呼んでいるのだが自粛した。

社員に対して口うるさく「掃除!掃除!」と言うぶん、私自身が先頭に立って、誰よりも掃除をしている。

会社の顔である玄関と、トイレは、重要な場所なので、私の担当で一日に何度も掃除をする。私が訳あって掃除出来ない時は幹部社員が掃除をする。

本社の中には空気清浄機が8台あるが、月に1度そのフィルター掃除をするのは私で、会社の風呂場でパンツ一丁になって分解掃除をする。

社員たちが掃除した場所を見て回り、不行届を見つけると自分が先導して一緒にやり直す。

私が、社員たちに求める掃除の水準は、かなり高いレベルなので、入社して日が浅い社員達などは戸惑い、ウンザリしていたことだろうと思う。

ここまで徹底した掃除を求めるのならば、プロに頼めば良いのでは?と思われるかもしれないが、それでは意味が無いのである。

 

土俵と同じ

私は小学生の頃、少林寺拳法を習っていたが、練習時間の半分以上の時間は道場の掃除をさせられていた(2時間の練習時間で実際に拳法の練習をするのは40分くらい)。父親から「お前は拳法じゃなくて、掃除を習いに行ってるんか?」と揶揄されたほどで、生徒同士でも「そうじんじ拳法」と呼んでいた。

高校では、柔道の畳の目に詰まった汚れを、爪楊枝でほじくり返してするような厳しい掃除を学んだ。

相撲の土俵もそうであるが、大げさに言うと自分の命を掛けたやり取りをする場所だから、清浄に保ちたいという思いが働く。

それと同じで、仕事は生活(人生)の土俵でもあるのだから、職場は常に清浄に保ちたい。

 

協調性を育む

心のこもった掃除は、「自分だけ良ければいい」という個人主義な考えの人には出来ないだろう。

しかし、最初は嫌々でも皆で力を合わせて、同じ目標に対して同じ事をすることで、次第に協調性が生まれて来ると思う。

最初のうちは「掃除をしたという既成事実を作ること」が目的かもしれないが、やり直しが発生したり、慣れてくるうちに「綺麗にすること」自体が目的になる。そうなって来ると「自分だけ良ければいい」という考えは自然と消えているのではないだろうか。

 

習慣化しスキルアップ

常に職場を綺麗に保っていると、少しの汚れでも目につき、気づきやすくなる。

気づくことが出来るだけでも1歩成長、次に、見て見ぬふりをせず綺麗にすることが出来るようになると、大きな成長。

汚れに気づいて綺麗にするには、「気付ける力」「実行力」「奉仕の精神」が必要である。

その行動が習慣化すると、自然と日ごろの業務にも「気付ける力」「実行力」「奉仕の精神」が表れるものである。

 

工夫する力

はっきり言って掃除に関しては、「私が一番掃除をしている」ことを免罪符にして、私は社員スタッフ達に過大な要求をしていると思う。私の要求する水準にまで掃除をしようと思うと、時間が足らなくなることは自覚している。

しかし、ただ漠然と掃除をするのではなく、より良い方法を工夫して欲しいと考えている。

これも前記と同じように、工夫する事が習慣化すると、自然と日ごろの業務にも「工夫する力」が発揮されて来るものである。