見知らぬ人からの親切

昭和46年の秋、私が樽井小学校4年生で、遠足の前夜の話である。

 

この頃、母は腎臓結核の療養のため長期入院をしていた。

そのため自宅では父と私の二人暮らしと言っていいような状況であった。

父と私で、掃除・洗濯・食事作りなど家事全般を分担していた。

なかでも食事作りに関しては、腹がへってたまらない年頃だったので、父を待ちきれずに食事は自分で何でも作れるようになっていた。

当時、父の勤めていた会社は昼夜12時間勤務の隔週2交代制の会社であった為、週替わりで朝7時から夜7時まで不在の週と、夜7時から朝7時まで不在の週が繰り返しあった。

つまり月の半分は、夜から朝まで私一人きりであった。

 

話は遠足の前夜に戻る。

その日も父は夜勤で私一人であった。

当時習いに行っていた少林寺拳法の練習を終えて帰宅したのが午後8時を回っていた。

その後、近所の銭湯へ行こうと自宅を出て歩いていると、近所に住んでいた同じクラスの和弘君が入浴を終えて銭湯の方から両親と帰ってきた。

和弘君が「明日の遠足楽しみやな!」と私に声をかけ、通り過ぎて行った。

私は目が点になった。すっかり遠足のことを忘れていたのである。

銭湯を取りやめて慌てて引き返し、すぐさま自転車に飛び乗ってお弁当の食材を買いに走った。

当時、泉南には(日本には)まだコンビニも全く無く、午後8時ともなると開いている店は皆無であった。

いつも通っていた八百屋の前まで行ってはみたが当然閉まっており、ひっそりとしていた。

焦燥感に苛まれながら、自転車を急いで漕いだ。

人の気配が消えた薄暗い商店街を泣きそうになりながら漕いだ。

営業している店を見つけられないまま商店街の出口を走り抜けようとした瞬間、1件のお店の雨戸が半開きになっているのを見つけた。

何を売っている店なのか確認もせず、救いを求める気持ちで飛び込んだ。

後から分かったことだが、そこは「山本青果店」という果物を中心としていたが、野菜など何でも食材を売っている八百屋さんを兼ねたような店であった。

中には60歳くらいのおばさんが一人で算盤を弾きながら本日の集計を入れていたように思う。

明日遠足で弁当の食材が必要だということを説明すると、すぐさま店の電気をつけてくれて「ウインナー」「たまご」「ちくわ」を出してくれた。

お金を払う時になって、「一人で買い物に来たの?お母さんは?」と聞かれた。

母の入院は日常であったから、いつの間にか私にとっては特別なことではなくなっていた。

あっけらかんと「お母さんは入院中やから自分で弁当作るんやけど、遠足のこと忘れてた。」と答えると「僕は頑張り屋さんやな!これは私からのオマケや!」と言って、紅鮭の切り身をプレゼントしてくれたのである。

行きとは違った気持ちで、私は自転車を勢い良く漕ぎながら自宅に戻った。

 

正直言って、お弁当を作れた達成感や味まではもう覚えていない。忘れてしまった。

しかし、「白いご飯の上に、紅色の鮭が乗っていた光景」は色鮮やかに記憶に残っている。

その光景は、これまでにも何度も何度も蘇えって来ては、私を何とも言えない気持ちにさせた。

2012年のある日突然、その弁当の光景が爆発的な感情を連れて、再び蘇えって来た。

私は居ても立ってもいられなくなり、その日のうちに記憶を頼りに「山本青果店」を訪ねた。

「たぶん」とは思っていたが予想どおりに、その方はお亡くなりになられていた。

しかし、お店は青果店ではなくフードショップに名前が変わっていたが健在で、息子さんの代になられていた。

取り敢えず事情を説明させて頂き、出直してお供え物を購入してから改めて訪問し、御仏壇にお供えさせて頂いた。

その後、数日してこの跡を継がれた息子さんが来社してくださって、仏壇のお下がりの「おまんじゅう」を賜った次第である。

 

余談ではあるが、ちなみに先般書いたブログに登場するF谷T美子先生のお蔭で小学校5.6年はお弁当を作らずにすんだ。

平成28年5月2日(月)、泉南市なみはやグラウンドにおきまして、

泉南市グランドゴルフ協会主催「泉南市グラウンドゴルフ大会 第1回フラワーホームカップ」を開催いたしました。

 

当社会長の友人の方や同級生の方、また元社員の方にも会場でお会いでき、皆様方のお元気な姿や、はつらつとしたプレーに私も元気を頂戴いたしました。

多くの参加者の方にもお声をかけて頂き、有難うございました。