会社を変えた出会い 2

前回のつづき。

 

業界の先輩方のご厚情で、なんとか難燃アクリルをカネボウから仕入れることが叶った。また、毛布を製造する一環の過程の各部門の工場も確保することが出来、高校の先輩であるMさんが社長をしている㈱I社からは約2000枚のオーダーを頂き、いよいよ難燃毛布の製造が本格的にスタートした。

そうするとカネボウの難燃アクリル担当者が週に1~2回は当社を訪れて、品質と生産性向上の為に、私と一緒に関連工場の製造工程をチェックしてくれるようになった。

その担当者との物語を今回は書きたい。

 

その方はS・敏雄氏といい、確か昭和6年生まれだったと記憶している。

群馬大学工学部の母体となる桐生工業専門学校を卒業された後、昭和28年にカネボウ株式会社に入社され50歳まではカネボウ管内の各工場を技術者として技術畑専門に歩まれた。その間にも技術研鑽の為に、社費で東京大学に研究生として派遣されるほど優秀な方だった。

50歳を超えたころ、自分の技術のノウハウを営業で試してみたくなったそうで、当時のカネボウテキスタイル(株)の昭和58年の設立に合わせて、自ら伊藤淳二社長(当時)に「いち営業マンとして営業に出たい!」と手紙を書いて、営業畑(実際の着任先は日本合繊株式会社 当時カネボウの繊維原料販売会社)に出られた方である。

初めてお会いした時の印象は、人の3倍は喋ると言われている私がタマゲテしまう程のお喋りで、人の10倍は喋るような方だった。

 

当社が製造する難燃毛布の唯一の販売先である㈱I社は、約2000枚のオーダーの後も、しばしばオーダーを下さるようになっていた。

私が㈱I社に行く度に、カネボウの敏雄氏も同行してくれ、販売促進と品質説明を先方にしてくださった。私が喋る間もないほどに、熱心にトークを繰り広げる方であった。

長年に渡り技術者として培った知識に裏づけされた営業で、繊維業界新入生だった私には、学ぶところだらけであった。

私に、繊維の本質が何たるかを1から叩き込んでくれたのは、敏雄氏である。

当時の私の気持ちはすでに感謝を通り越していた。

 

「㈱I社に販売する毛布の原料分のみ」との約束で、カネボウから難燃アクリルを仕入れさせてもらっていたのだが、約2年が経過した頃、転機が訪れた。

この頃の日本経済はバブル崩壊後の「失われた20年」のまっただ中であり、経済の縮小と繊維産業従事者の高齢化に伴って、倒産や廃業や相次いだ時代であった。

そんなある日、敏雄氏より

「難燃毛布を作っていた会社が廃業するので、立花君のところで売り先を全部引き次いでくれるか?」と連絡があった。

私が一番先に思ったのは「お金」の事である。

当時、カネボウとの契約は、売り先限定の少量仕入れであり、新規取引ということもあって、現金先払いで原料を仕入れさせてもらっていた。

売り先を引き継ぎ、製造量が増えるとなると「多額の運転資金」が必要になってくるのである。生産体制については産地ということもあり、それなりの自信は有ったが、当時の私は20代半ばということもあり銀行からの融資も難しく、正直に敏雄氏に懐事情を説明することにした。

するとどうだろう!

「立花君は2年間の信用がもうあるので、支払いは月末締めの支払日起算120日の手形払いでいいよ」と言ってくれたのである。

こうして一気に売り先が増えたのだった。

この後も数年かけて似たような事情や新規営業(敏雄氏も販売促進で同行)で売り先が次々と増えていった。

敏雄氏が居てくれたからこそ、難燃毛布の製造販売を軌道に乗せることが出来たのである。

 

当時の私はこのような経緯で、諸先輩や業界の皆さまに支えられながら、半ば奇跡的な経緯もあり難燃毛布メーカーとしての創生期を形作ることが出来た訳である。

まさに「感謝」以外の何物でもないのである。

 

敏雄氏は60歳で定年を迎えられ、その後、3年間はカネボウで嘱託営業として勤められ、63歳で退職された。

退職後には当社のコンサルティング(私の指導役)&営業顧問として週2~3回の勤務で2年間、65歳まで来て頂いた。

またその後、オーストラリアに移住し、持ち前の英語力を駆使して携帯電話会社の役員をされていたらしいが、悔しいことに数年前に訃報をお聞きした。

 

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