二宮金次郎と母

新聞の記事で見かけたのだが昨今、二宮金次郎氏(本名 尊徳)の社会的功績に改めて光が当てられ、再評価されているらしい。また記事には、一度は銅像を取り払った学校も再設置したり、無かった学校は新調したりと、全国で様々な形の動きが起り始めているとあった。

それに伴い書店でも関連書籍が目立つようになり、文部科学省も昨年から全国の小学校に配布している道徳の教科書に二宮金次郎氏を再登場させたらしい。

 

さて15年ほど前の話であるが、当時、入会させて頂いていた都内の異業種交流会で、同年代の者ばかりを集めた世代別の分化会が有った。

その席上、「各々が通った小学校に二宮金次郎像が有ったか?無かったか?」という話題になった。

都会生まれの会員が冗談交じりに、

「田舎の学校には有ったらしいけど、都会の学校には無かった」と言い出した。

そこで、有ったか?無かったか?挙手することになった。

私は迷わずに「有った」に挙手した。

“田舎の学校には有った”という先ほどの会員の言葉通りの展開に、「やっぱり!」というような顔でみんなが私に愛嬌のある笑顔を向けてきた。

垢抜けた都会の人達は、だれも「有った」に手を挙げていなかったので、私自身も「やっぱり!!」と笑った。

 

私が通った小学校は、大阪府の南部に位置する泉南市立樽井小学校という所である。

今でこそ関西空港が設置され、新しい道路や高速道路、各種インフラも整い大規模商業施設も多くあり、俗にいうところの「田舎」ではなくなったが、私が小学生だった頃(昭和40年代初頭)は、海や川も近くにあり、見渡すばかり茄子やキャベツ、玉ねぎ畑の「ド田舎」であった。しかしその分、海、川、山野を遊び場とし、伸び伸びと育ったものである。また田舎ならではの「釣り」「蓮華や土筆摘み」「竹の子狩りやまったけ狩り」「秘密基地ごっこ」「川の関止めごっこ」等、楽しかった思い出がたくさんである。

それと今では都市伝説みたいな話だが、小学校の校庭には、立ち入り禁止なっていたが戦争当時の防空壕があった。

ちなみに都会にほとんど金次郎像が無かったのは、戦時中、軍事物資の不足を補うための「金属供出」が原因で、校庭から消えて行ったらしい。

 

「二宮金次郎像」と聞けば、毎回想い出しては笑みが零れそうになる母との記憶がある。

小学校の入学式の日、母に付き添われて初めて校門をくぐった。

すると設置されてある二宮金次郎像がすぐ目に入った。

私はその像を指差し「これ何?」と尋ねた。

すると母は

「これは本を読みながら道を歩いてて、車にひかれて入院した二宮くんの像や!」

「本を読みながら歩いたら怪我するで!」

と教えてくれた。

それを聞いて私は「ヒャッ!」と驚き、絶対に歩き読みはやめておこう!と子供心に誓った。

その後、小学4年生の時に道徳の教科書で初めて本来の二宮金次郎氏の事を知り、その時も

「ヒャッ!!うそぉぉ!!?」と驚いて、面白可笑しい気持ちになった。

「おかん!俺をだましたやろ!」と嬉々として責めたかったが母は入院中だった為に、代わりに父へ事の顛末を報告し、父息子で大爆笑した思い出がある。

母はたぶん本当の事は知っていたとは思うが、「苦労しながら勉学し成功した人よ」と言うより、「本を読みながら歩いてて車にひかれた人」と言う方が、大人の言うことを聞かないうえ、注意力散漫の悪ガキだった私には効果があると考えたのだろう。

さすが母親、効果覿面であった。(笑)

 

ちなみに最近の二宮金次郎は座っているらしい!