無駄な努力はない

少し前の回(秘訣は習慣化)で、「大外刈り」を習得した際の話を書き、「諦めず続けることで、人間たいていの事は出来るようになる!」と書いたが、今回は「大内刈り」を習得出来なかった際の話を書こう。


天理高校時代に「大内刈り」という技を、松本薫先生(当時コーチ5段)から教わったことがある。
ほんの数度の練習で自分の物にしてしまい、試合で得意技として使う同級生も居る中、私はいつまでたっても習得出来ないので、その惨めさから柔道自体を嫌いになりかけた。
同級生が出来るこの技を、何ヶ月経っても、ちっとも出来ない自分は柔道には向いてないのではないか?とまで思う時もあった。
結果を言うと、高校3年間に渡り諦めず「大内刈り」の練習を続けたが、とうとう最後まで自分のものにする事は出来なかった。
結果は「不成功」であったが、では大内刈りの練習に費やした時間や努力が無駄だったか?と聞かれれば、決してそんな事はない。

それは違う形で効果をあらわした。
嫌々でも大内刈りを練習して一年ほど経つと、今まで無かった場所に筋肉が付き始めた。
思わぬ箇所に筋肉が付いたお陰で、相手の出端をくじいたり、相手が技を仕掛けてくるタイミングを外す為くらいにしか使っていなかった「支え釣り込み足」という別の技の精度が格段に増して、試合で決まるようになってきた。

その上、大内刈りの練習で鍛えた筋肉とタイミングで「支え釣り込み足」を掛けるものだから、技を受ける相手も一般的な通常の支え釣り込み足のタイミングとは異なるため、相手の運動神経の反応が咄嗟に追いつかずに面食らってバランスを崩すという効果まで生み出した。

こうなると支え釣り込み足をフェイントに使い、元来の得意技である「大外刈り」や「払い腰」「内また」の精度も格段に向上した。
本来の目的であった大内刈りは習得出来なかったが、諦めず続けていた事により、違う形で努力は実を結んだのだ。

 

他にも、こんなことがある。
もう十数年も前の話だが私は、とある建設会社の土木担当の方に「排水材」の営業をする為に頻繁に通っていた。
毎度つれない態度を取られていたが、腐らずめげずに、沢山パンフレットを抱えて通っていた。

結局その方とは最後まで縁がなかったのだが、私が頻繁に営業しに来る姿を目に留めていてくれた隣の列の緑地造成の担当の方が私を呼び止め、パンフレットを見せるように声を掛けてくれた。

その結果、パンフレットに掲載していた「防草マット」を、ほとんど即決のような形で販売する事が出来た。
土木担当者に「排水材」を営業しに通う私を、緑地製造の担当者が見込んでくれて、「防草マット」を購入してくれたのである。
当初の目的は叶わなかったが、努力は違う形で実を結んだ。

 

上記の柔道の話も営業の話も、本来の目的は不成功に終わったが、意図せず良い結果に結びつく事が出来たという話だ。

しかし一生懸命に努力しても、それが何の結果にも結びつかず、不条理を感じる時も多い。
けれども必ずや「経験値」はアップしている。
それに「努力出来た事実」を自分自身は知っているし、それが自信の素にもなる。
点で見れば、何の結果にも結びつかず終わったかのように見える努力も、線で見れば、現在の自分の糧になっているのである。
だから人生に「無駄な努力」は決して無いのである。