不思議な感覚

高校時代の恩師である天理高校柔道部元監督の加藤秀雄先生がお亡くなりになられてから早いもので1年が過ぎた。
いつもは厳しい加藤先生が、私達部員を大層褒めてくれ、そのうえポケットマネーで夕飯をご馳走して下さった事がある。
たしか昭和53年10月頃だったと思うが、近畿各種団体対抗柔道大会という大会が京都の武徳殿であった。その大会は強豪社会人実業団も参加している大会だったのだが、前評判を覆して我々高校生のチームが優勝することが出来た。
加藤先生はたいへん喜んで、寮への帰り道に、近鉄奈良線西大寺駅前の中華料理店に連れて行ってくれた。

その大会で私は、実業団の中でもトップクラスの選手で階級別では日本一も取られたMという大先輩の柔道家と対戦することになった。
実力の差は歴然で、会場中の誰もが当然のように私が負けるものと思っていた。
私自身も勝てる気がしなかった。
適切な表現が見つからないが、それは天理高校に来て初めて「負けても許される試合」であった。「絶対に勝たなければならない」というプレッシャーが無いために、私は初めて「勝ったら儲けもの」ぐらいのリラックスした状態で試合に挑むことが出来た。
この時、不思議な感覚を体験した。
自分の心臓の鼓動だけが聞こえていて、まわりの声が消え、試合をしているという意識さえない、試合中にまるで白昼夢を見ているような感覚になった。
もの凄く緊張した時も人はそのようになるが、そのような場合は体が固くなって動かなくなるのに対し、この時は体が軽やかに自然に動き、体が勝手に試合を続行しているような感覚があった。
その結果、自分でも驚いたことに皆の予想を覆し、私が大先輩に勝った。

 

この不思議な感覚を前記の食事の中の歓談で加藤先生にお話しすると、先生も同じような経験があるとおっしゃられ、その正体は「究極の集中であり、究極のリラックス」だと教えてくれた。
「プレッシャーや緊張が無かった為に、体の余分な力が抜けて動きがスムーズになれ、また脳や筋肉がリラックスしていた為に、日頃の反復練習で身体が覚えていた事を正確に出せたのだろう。また金メダリストや全日本選手権を優勝するクラスの選手になると緊張を強いられる場面でも、トレーニングにより脳や心をリラックスさせる事が出来る。そのため逆に高い集中力を持続する事が出来る」というような内容のお話を聞かせ頂いた。

 

その話を聞きながら、一番嫌いだった反復練習がいかに重要な事であったか、そしてやはり「技と体」だけではなく「心技体」が揃ってこそ最大限の力が発揮出来るのだと当時の私は理解した・・・かどうかは定かではないが、上機嫌の加藤先生や、部員たちの嬉しそうな顔、そして目の前に並べられた山盛りの唐揚げとラーメンが、高校時代の幸福な日の思い出として、印象深く私の心に残っている。