母とピンクと私

母は苦しい闘病生活と向き合いながらも、沢山の愛情を私に与えてくれた。
小さい頃には「悪ガキ」、小中時代には「問題児」、高校時代には「過激派」で、周りの大人達の手を焼かした私だが(笑)、母に対してだけは常に従順であった。
しかし一つ、毎回すごく嫌だった事がある。
それは母がいつも私にピンクやフリフリや花柄の可愛い服を着せようとした事である。
それが嫌で堪らなく、泣きながら押入れの奥に隠れて布団にしがみ付いていた記憶が有る。
そんな事が高校時代まで続いた・・・とかではなく、幼い時の話であるから、今の私のゴリラのような顔で想像するのは、お止め下さい!!

 

母は女の子が欲しかったせいもあって、私に女の子用の洋服を着せていたのだと思うが、母の想いとは裏腹に私の図体はグングンとデカく成長し、私の魂は男男しい物や人に魅かれ、結局15歳で親元を離れ、天理高校柔道部に行き日本一を目指す道に進んだ。

ピンクとは真逆の世界である。

 

高校時代に母が病をおして何度か試合を観に来てくれたことがあった。
後に父から聞いた話である。
母は私の試合を観戦中ずっと、指輪が曲がるほどの力で拳を握りしめていたせいで、指には紫色の指輪の痕が出来、またある時は強烈に歯を食いしばっていたせいで、差し歯が抜けてしまったそうである。
あのひ弱な母の体の何処にそんな力があったのであろうかと思うが、母は客席で体力と気力の限りを尽くして、私と共に戦っていてくれたのであろう。
精根尽き果てた母は毎回、応援から帰ると食事も満足に食べられなくなり、2週間くらいは廃人のように寝込んだそうだ。
母の愛情は海よりも深いと言われるが、こうして思い出すとまさにその通りである。
自分の寿命を縮めてまでも、私を力づけに来てくれていたのである。
母が亡くなってすでに三十数年が経過しているが、今でも思い出すと涙が出そうになる。

そしてピンク色の服に身を包む自分の写真を見て、吹き出しそうになる。

 

 

立花克彦 幼少時の写真