追悼 東建Corp. (株)左右田鑑穂代表取締役会長

令和7年7月24日、東建コーポレーション株式会社 左右田鑑穂代表取締役会長がご逝去されました。

先日、社葬に参列し、多くの方々とともに、深い感謝と敬意を胸に刻みました。

式場にはメモリアルコーナーが設けられており、写真や愛用品や日常使われていた品などが展示されてありました。その中には私が毎年お送りしている「感謝」と書かれている弊社のカレンダーもあり、「いつも社長デスクの脇に置かれていましたよ」とお聞きし、有難さで目頭が熱くなりました。

全国大会で天理高校が優勝した際の写真も大きなパネルで展示されていました。若い頃の社長、高校生の私、そして仲間たち。色々思い出して言葉も出ませんでした。

 

出会いから47年間、社長はずっと私の憧れの人であり、経営の師でしたので、心にポッカリと穴が開いてしまったような寂しさです。

本日は追悼の意を込めまして、左右田社長との思い出を綴ろうと思います。

(ずっと社長とお呼びしていましたので、会長ではなく、あえて社長と書かせていただきます)

社長との出会いは私が17歳の冬でした。

ある日、天理高校柔道部寮の敷地内に目を引く大きな車が入って来ました。

紺色のアメリカ車、マーキュリーです。

それに生徒達が注目していると、紺地に白の縦縞のスリーピースに身を包んだ背の高い男性が中から降りて来ました。

そう、この男性が31歳の左右田社長です。

社長は監督たちに迎えられ、すぐに監督邸内に消えて行きましたが、威風堂々とした社長の様子に思わず惹き込まれるものがありました。

驚いたことにその日の練習後、社長は寮の私の部屋に突然やって来たのです。

「お前が立花か」

力が満ちた鋭い眼光で、一瞬とも笑顔を見せずに力強く話しかける社長に、私はたじろきました。

その日、社長と交わした会話はたった1、2分だったと思いますが、それは深い驚きと感銘を受ける内容でした。その時の会話の詳細をここに書くことはやめておきます。

現在の価値観では理解してもらえない少年漫画の世界のような会話の内容とでも言いましょうか。

しかし、この日のことは憧れと尊敬をともなって、今に至るまで鮮やかに私の心に残ることになりました。

 

社長のことを詳しく知ったのは、後からでした。

天理高校のOBであること、柔道部の元副主将だったこと、学内の舵取り役の生徒だったこと、破天荒な学生だったこと、今は中小企業の社長であること、そして実は私のお目付け役を監督から頼まれてやって来たということ。

その当時の私は、母の死がいよいよ近いということが常に頭の中にあって、諦念、焦燥、悔しさ、苛立ちから、ささくれ立っていました。それに加え、若気の至りもあり、ずいぶん反抗的で悪い問題児でした。

教師達もきっと手を焼いていたのだと思います。そこで天理高校柔道部元監督の加藤秀雄先生(※関連ブログ:恩師 加藤秀雄先生を偲んで>>)が頼ったのが、OBである左右田社長でした。

教師とはやはり生徒のことをよく知っているもので、私はその一回の出会いで社長に強烈に心惹かれてしまいました。

社長が天理高校を訪れ監督たちと歓談しているのを見つけると、私はすぐさま駆け寄って行き、社長が話し掛けてくれるのを心躍らせながら待っていました。

 

社長は訪れる度に、柔道部への差し入れを沢山持って来てくれました。

そしてそれをいつも私に手渡してくれるので、私は皆にイイ顔が出来たし、頂いた小遣いで同級生や後輩たちを食事に連れて行って格好をつけることも出来たのです。

すごい車に乗ってやって来る、見るからに立派な社長からのご好意は、嬉しいを通り越して光栄の極みでした。

 

大学を中退後、社長のもとで勉強させていただきました。(関連ブログ:ふと回想>>

社長は、仕事の仕方や考え方、経営者の姿を、私のような者に惜しみなく教授してくれました。

社長の一挙一動のすべてが勉強で、私の血となり肉となりました。

社長のもとで生涯働かせて頂くという選択肢もありましたが、私は社長と同じように経営者になりたかった。社長も「お前は個性が強いから、自分が長になって人生の道を切り開く方が向いている人間だ」と言ってくれました。

「今後も何かあったら、いつでも訪ねてこい」と言ってくれた言葉が、心の拠り所でした。

 

今あの当時の事をこうして振り返ってみると、私が憧れの眼差しで見つめていた社長は、スコップ1本ツルハシ1本から、わずか3人で始めた個人事業が数年を経て、独創的なビジネススタイルを生み出し株式会社となって、まだ4、5年目の時分だったのだなぁと驚きました。

しかしこの後、社長は持って生まれた度胸と不屈の精神、そして並外れた努力と才覚によって、次々と事業を成功に導き、会社を着実に成長させていかれました。

十数年の間にプロゴルフツアーの自社カップを開催し、株式を店頭公開するまでに会社を押し上げたのです。

社長は歯を食い縛りながらも走り続け、皆が目を見張るようなスピードで更に会社を成長させ、東証二部に上場するまでになりました。複数の子会社や工場を持つ企業へと成長させていったのです。

東証二部に上場したわずか1年後、ついには東証一部上場を果たされました。

高校柔道部を応援していてくれた社長は、全日本柔道連盟のオフィシャルパートナーになられました。全国どこに行っても東建の「ホームメイト」を見かけます。従業員数は5000名を越えました。

ゼロから始まった会社は、社長の卓越した手腕と情熱によって、やがて誰もがその名を知る大企業へと成長を遂げました。

私は還暦近くなっても社長とお目にかかる時には緊張し、青二才に戻ったような気持ちで背筋を伸ばし、経営者の在り方についてのお話を一言一句逃さないように聞かせいただきました。

若い私が自分の未来を描く時、いつも社長の背中を想像していました。

しかし社長は、私の想像が追いつかないほど高いところまで、どんどん階段を駆け上がられました。

社長は経営の天才でしたが、寝ても覚めても会社の事を考えている努力の人でもあったと思います。厳しさと同時に人々に対して深い愛情を湛えた人でした。

 

私は現在64歳になりました。社長が79歳まで現役で奮闘されたのですから、私も頑張ります。教えていただいた「七転び八起き」の精神を持って、人を大切にしながら、諦めず前へ進んでいきます。

どうか見守っていてください。

左右田社長、出会いから47年間、長きにわたりご指導いただき、心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

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