
先月のブログでは、父にまつわるエピソードを初めて綴りました。今月は、久しぶりに母に関する話を書いてみます。
令和7年現在、大阪万博が盛り上がりを見せていますが、昭和45年の大阪万博でのエピソードです。
私が小学4年生の時に体験した大阪万博は、戦後日本の復興を支えてきた人々が、大戦後初めて世界の未来を夢見る素晴らしいもので、熱気と興奮に包まれていました。
この場所に、母は病と闘いながらも、私に世界の未来を見せてあげようと父と共に足を運んでくれました。
母は、私が生後8か月くらいから腎臓病を患い、その数年後には週3回の人工透析をするようになっていましたが、その辛さに耐えながらも、父や私への深い愛情と、生まれ持った明るさでサービス精神旺盛に周囲の人たちを笑顔にしてくれました。
小学校にあった二宮金次郎像を「これは本を読みながら歩いてて車にひかれた人の像だから、かっちゃんも本を読みながら歩いたら怪我するで!」と言い、私を怖がらせた母であります。(関連ブログ:二宮金次郎と母>>)
万博では、いくつものパビリオンに行く計画でしたが、実際は長蛇の列で、母の体力では厳しかったため、比較的空いている場所を選んで見学しました。
そして今でも記憶の中に鮮明に残っているのが、インドネシア館での出来事です。
当時の人工透析の影響で、母の肌は土色で、インドネシア館を訪れた際、現地のスタッフの方に顔の黒さからインドネシア人だと思われ、インドネシア語で話しかけられたのです。
少し驚いた様子の母でしたが、すぐににっこり微笑んで「私の肌の色は東南アジア系やね」と返しましたが、おそらく言葉は通じていなかったように思います。
すると母はユーモアたっぷりに身振り手振りを交えながら「ハローハロー!アイムジャパン」などと英語もどきで明るく応じました。
私たち家族は思わず3人で顔を見合わせ、次の瞬間にはお腹が痛くなるぐらい大爆笑してしまいました。スタッフの方も間違いに気づき笑いだし、周囲のお客さん達も私たちの笑いの渦に巻き込まれるようにして笑い声を上げました。皆が笑顔でした。とても楽しい瞬間でした。
その思いがけないやり取りの後、インドネシア人のスタッフの方から母は特別に記念品(マグカップ)をプレゼントしてもらったのです。
人工透析による肌の黒さが原因でインドネシア人に間違えられたわけですから、ともすればネガティブな反応を母が取っていてもおかしくありません。そうなれば周りは居た堪れません。
しかし母は持ち前の寛容さとユーモアを持って応対し、周囲を笑顔にしてくれました。
今振り返って思うのは、母のこのような姿勢が、私自身が今を生きるうえで心の支えになっているということです。
母の生き方。
それは、自分の現状が理想とは程遠いものであっても、決して自暴自棄になりませんでした。しかし、どうにもならない事は、ある意味開き直って受け入れるのです。
人生の中で起こってくる様々な困難な物事に対して、前向きに捉え、深刻な場面でも重たくなり過ぎず、「しかたない」と開き直ったり、悲劇を喜劇的に捉えて笑いに変えることで、自分や周りの気持ちを明るい方向に向ける、そういう生き方を私に教えてくれた人でした。
ここ数年の私の人生の中で、「悲劇は喜劇」だと捉えて前向きに乗り切ったのは、台風通過後に自社工場を見ると屋根が見事に無くなり、倉庫2棟は柱だけになっていた時です。(関連ブログ:台風21号>>)
見た時には茫然自失でしたが、笑い話に変えて人に報告して、爆笑を何度もさらっているうちに、本当に前向きな気持ちになっていったから、心というのは不思議です。

インドネシア人に間違えられた母と @大阪万博にて