2017年9月のページ
2017年
9月
30日
土
先生の神対応
高校3年生の時、いたずら心で、「生徒みんなの前で、先生を困らせてやろう」と思い立った。
今回は、その時の話である。
もう何度も書いているが、私は歴史が好きで、今でも時間が出来るとあっちこっち書店の歴史コーナーをよく探索している。
高校3年生のある日、立ち寄った書店で、たしか「日本史難問クイズ マニアック編」という本を見かけて手に入れた。
そして帰寮すると早速その本を読み始めたのだが、その本のあまりのマニアックさに好奇心を駆られ、寝るのも忘れて読み耽った。
読んでいるうちに、こんなレアな情報を知っているのは、この本を買った俺ぐらいだろう!?とおかしな自負が芽生え、その自負心が悪戯心に形を変え、火がついてしまった。
つまり「日本史の授業中に、今読んだばかりの難問をN先生に投げかけて困らせてやろう!」と思ったのである。
善は急げ?(笑)と翌日、私は早速実行した。
「先生~!関が原ではなく三方ヶ原の戦いでに家康が信玄に対して敷いた布陣の名前は?」
「鶴翼の陣(カンヨクのジン)。難問でも何でもない!誰でも知っているぞ!」
なんと先生はすぐさま正解を答えてしまった。戦いを挑みに行って瞬殺されたような気分である。このまま引き下がれば、恥かきは私の方である。
「じゃぁ先生!第2問目。伊達政宗の弟の伊達正道の初陣時の名前は小次郎であるが、さて元服前の幼名は?」
「難問だな。分からない!立花、教えてくれ」
私は心の中でガッツポーズをしながら
「竺丸!(ジクマル)」
「よーっし!そしたら3問目は先生から立花に出そう!」
思いがけない展開である。
「日本史自慢の立花でもこれは答えられるかな??
源平合戦 須磨一ノ谷の戦いで源氏側 熊谷次郎直実に首をはねられた平家側 平敦盛の来ていた鎧の色は萌葱色(モエギ色)であるが、その下に着ていた着物の色は?」
「先生、分かりません!教えてください」
「難問だったな。答えは蓬色(ヨモギ色)」
クラスの同級生達からは、「先生!その時、見てたんか!?生きてたんか!?」と声が湧きあがり、笑いが起こった。
「先生も立花も1問ずつ答えられなかったから、勝負は引き分けやな!よし授業を続けるぞ!」
と仰せられて、先生は涼しい顔で授業を再開された。
今考えれば先生の対応は素晴らしいものだったと思う。
私語禁止!と私の質問を遮ることも出来たはずである。しかしもし、先生がそうしていたら、当時の私は「先生は逃げた」と判断し、白けた気持ちになっていたであろう。
また、最後に不正解のままでクイズを終わらず、それ以上の難しい質問をすることで、歴史の先生としての威厳を生徒達に対して示した。
そしてもう一つ、先生の神対応。
私は先生に2つ質問をした。しかし先生は私に1問しか質問をせず「勝負は引き分けやな」とおっしゃりクイズを切り上げた。フェアな勝負ならば、あと1問質問をして私を打ち負かすことが出来たはずなのに、先生はそうされなかった。
私が皆の前で恥をかかなくて済むように図らってくださったのである。
負けず嫌いの生徒だった私は翌日、もう一段掘り下げた「一ノ谷の戦い」の難問を自分で作るために書店に走り、たしか「須磨一ノ谷 敦盛の最後」という本を買って読み始めた訳であるが、読みながら先生の「神対応」に気付き、新たに悪戯を練るのを辞めた次第である。
2017年
9月
21日
木
提出期限
昔、役所に提出する重要な書類を、やむにやまれぬ事情により期限ギリギリに出してしまい、しかもその書類に間違いがあることが後から連絡をもらって判明し、期限になんとかまにあわせる為に、予定を色々と変更して、大慌てで役所まで修正をしに行ったことがある。
もう肝を冷やすのは御免である。
期限の初めに提出すれば、ミスが発覚しても余裕を持って対応することが出来るのに、期限ギリギリだと追い込まれる。
だから普段はそのような事がないように、期限のあるものは、提出期間の「初日」に出すようにしている。また社員や職員にも「期限初日が最終リミットだと考えてください」と言っている。
そもそも期限ぎりぎりに出せばいいという考えは、学生が授業開始時間のギリギリに登校して「滑り込みセーフ!」と言っているようなものだと思う。何か少しでも問題が発生すれば、すぐにセーフからアウトに転じてしまう。
学生ならば遅刻しても叱られるだけで済むかもしれないが、企業はそういうわけにはいかない。提出期限に間に合わなかった事が運営や信用に関わって来る場合もある。
「提出すればいい」、ではなく、「問題があった場合に修正する時間があるよう配慮して提出する」という一つ先の事態まで考えるのが基本であると思う。
人間なのだから「絶対にミスしない」のは無理である。しかし「ミスがあるかもしれない」という事を前提にして、ミスした場合にも軌道修正が出来る余裕を持って早め早めに提出することは可能だと思う。
また、冠婚葬祭の招待状は、目にした瞬間にスケジュールを確認し、必ずその日のうちに出すようにしている。
以前、「担任の先生が毎日家にやって来る!>>」の回で紹介した恩師から、とある会の出欠確認のハガキが届いた時には、その場で受話器を取り、先生のご自宅の電話番号を暗記していたので、すぐさま連絡を入れたら、あまりに早さに笑われた次第である。
しかし幹事という役目を負うと無意識のうちにも出欠の連絡が揃うのを気にして待ってしまうものだし、返事が遅い人がいると予定を進めることが出来ずジリジリとしてしまうものであるから、幹事のそのような気持ちを慮り、また幹事という手間のかかる仕事をしてくださっている先生に対して、私なりの気づかいの一つが「一番乗りの返事」だったのである。
2017年
9月
09日
土
「死に病と仕事ほど苦しいものはない」
「死に病(しにやまい)と仕事ほど苦しいものはない」
この言葉は、母方の祖母、亀田マツおばぁちゃんの言葉である。
私が子供の頃から度々、祖母は私に言って聞かせた。
その言葉の通りに生きた祖母は70代前半で病に倒れたが、倒れた日も母方の実家が営む建設業の社員宿舎で、社員の洗濯物を夏の暑い日に干している最中の出来事であった。
当時、祖母が倒れたと連絡を受けた時、不謹慎にも体の心配よりも先に、「さすが祖母らしい」と思い、弁慶の立ち往生を連想してしまった次第である。
さて以前にも書いたが、私が生後8か月目で母が腎臓結核にかかり闘病生活を余儀なくされた関係で、6歳頃までの約5年間、私は母方の実家で祖父母の手によって育てられた。
一言で言うと、祖母は、とても厳しい人間だった。
母方の従兄妹たちと皆で集まった時に、祖母の思い出話になるのだが、決まって皆それぞれの「怒られた話」を披露し花が咲く。
今になって思えば「怒られた」というより、「生きて行く術を真剣に教えてくれた」と言った方が的を射た表現であるかもしれない。
私の知る限りでは祖母が私より先に寝たのも、私より後に起きたのも、病に倒れる日まで1度も見たことが無い。旅行や観劇さえも行っていた記憶がない。「ご飯は楽しみでも何でもなく、働くための燃料補給」と平然と言ってのける。「男から仕事を取ったら何も残らへん」が口癖。
それと女性でありながら、化粧をしている姿は祖母が生きている間に1度も見たことが無かった。ある日、祖母に「おばぁちゃんはお化粧はしないの?」と単純に聞いた思い出がある。
「化粧は今まで1回きり、結婚式の時だけ。次は葬式で棺桶に入る時かな!?」と言った祖母の言葉が印象深い。
祖母が残してくれた言葉は「二人のがばいばぁちゃん>>」で書いたように色々とあるが、最近になって冒頭の「死に病と仕事ほど苦しいものはない」という言葉をよく思い出す。
祖母が生きた時代は、働くために生きていたような時代だったかもしれない。
しかし、世の中の価値観は変わった。
ネット上には「楽な仕事」「たのしい仕事」「のんびり働ける仕事」などといった言葉が並んでいる。
けれども、楽な仕事など本当に世の中にあるのだろうか?あるのなら皆がやりたいだろう。
私は仕事が苦しい。祖母が言う「死に病」レベルの苦しい境地には達せていないが、それでもやはり苦しい。会社経営は苦しいことの連続と言っても過言ではないと思う。
それでも、そんな毎日の中から喜びを感じることも色々ある。お客様の満足、会社の利益、社会への貢献、社員やスタッフの成長、そういったものを感じる時、普段の苦しさが一瞬帳消しになる。
仕事とは苦しいものだと思う。もちろん経営者だけじゃなく、社員もパートさんだってそれぞれに苦しいだろう。
けれどもその苦しい中から、社会に参加している喜び、必要とされる喜び、自分の成長の喜び、感謝される喜びetc・・・なんでもいいから「喜び」を見つける事が出来たら、仕事はもっと充実したものになり、長いこと続けていけるのではないだろうか。
(関連記事:仕事は楽しい51% 仕事は苦しい49%>>)