2014年

10月

31日

攻撃と防御

先般9月に「17回アジア競技大会 柔道競技」が韓国で開催された。

有り難いことにその試合中継を、東建多度カントリークラブ・名古屋にて、各地のトップクラスの柔道関係者の方々と観戦させて頂いた。

その観戦後に、東建コーポレーション㈱ 代表取締役 左右田鑑穂社長(6段)主催の食事会があり、その際に左右田社長が「試合において、攻撃は緻密な計算と戦略であり、防御は経験に裏打ちされた本能に基づくものである。」といった趣旨の御発言をされると、他の出席者からも、賛同する意見が相次いだ。

 

攻撃についていえば、試合前に対戦相手を徹底的にリサーチすることから始める。

リサーチ内容は、まずは相手の得意技と弱点の精査であるが、それ以外の重要なリサーチすべき点を上げると、相手の性格、試合での時間配分の特性(集中して技を繰り出してくる時系列ポイントの精査)、筋肉疲労度の経過とその特性(どのあたりの時間帯から筋肉疲労でパワーが落ち始めるか)、無意識での体幹反応の特性(組手と体捌きでの癖)、技の種類や特性(どの方向やどんな態勢からの技か)と仕掛けてくるタイミングの頻度と特性(どのような連絡変化ののち得意技を出してくるか?)、練習状況(スタミナはあるのか?)、顔色や体調(当日の健康状態)はては柔道着のサイズ(袖口は取りやすいか?)、着用の仕方(技を掛けた時に脱げやすくないか?)、帯の結び位置(位置により脇口を掴みにくくならないか?)や結びの強さ(帯を掴んだ時にほどけやすくないか?)までもリサーチして分析する。

そしてその上で初めて攻撃の戦略を立てるのである。

 

防御については、相手が次に何を仕掛けてくるか分からないし、頭で考えるより体で反応する反射的な事なので、経験(練習に次ぐ練習)に裏打ちされた本能で対応するしか術がないであろう。

たとえば優勝候補の一流選手が実力差のある格下の選手相手に、簡単に投げられて一本負けしたりする例を見受ける。格下相手に番狂わせをちらほら起こす一流選手は、短期間で一流選手の位置に駆け上がって来た選手が多く、決まって柔道の開始年齢が遅いのである。つまり、攻撃力は高いのだが、経験値が低いぶん、本能で反応する「防御」が弱い典型的な例である。

 

それと一つ、忘れてはならない重要なことがある。

得意技を掛けるその瞬間は、得意技であるがゆえに気が大きくなって防御については失念してしまう。相手を仕留めることだけに全神経が集中してしまう。そこに最大の隙が生まれる。

逆方向から考えると、わざと相手が得意技を掛けて来やすい隙と間合いを作り、相手に得意技を掛けさすことにより隙を作らせ、そこを狙って仕留めることが来る。

リサーチで相手の得意技を知っておけば、得意技こそ想定の範囲内の技という事になり、逆に大きなチャンスを呼び込めることが出来る。

これも戦略の一つである。

 

たった数分間の短い試合時間に対して、どれだけ丁寧にリサーチをし、どれだけ綿密な戦略を立てられるが、勝敗を左右するのである。


柔道における「事前リサーチ→戦略→実行力→結果」のプロセスは、人生の縮図であり、私にとっては企業経営の戦略を立てる上においても、参考になることが多数散りばめられているように思うのである。

 

2014年

10月

26日

中国製品への疑心と低価格競争

我が国は長らく続いた鎖国が終焉を告げた明治時代以降、石油などの原料を輸入し、それらを品質管理の行き届いた安全安心な製品にして世界に送り出すことで、技術立国として国の活路を見出し、今日まで歩んで来た歴史がある。

しかしである。グローバル化と一言で言ってしまえば簡単であるが、近年おいてはコストばかりに囚われることにより日本の活路である加工技術を我が国は忘れてしまい、原料のみならず、製品そのものを輸入することによりコストダウンを図り、市場は低価格競争になっているのが現状である。

 

なかでも中国製品が巷にウンザリするほど氾濫している。

7月には某外食産業M社関連で、品質保持期限の切れた鶏肉を使用してナゲットを製造していたことが判明し、かなりの衝撃が世界中に走った。

我々の業界でも、中国製ポリエステル繊維製品において、使用済みのレントゲンフィルム(ポリエステルに銀の被膜を塗ったもの)が材料として使用されていたことが原因で、製品から放射能が検出されたり、また染色工程での洗浄の不備から残留ホルムアルデヒド(発がん性物質)が検出され、オーストラリアでは中国製繊維製品の政府回収命令まで出されたりする始末である。

このような事例は加工食品・繊維製品だけに限らず、過去にも多くの報道等にあるように、それこそ枚挙にいとまがないのが現状である。

中国製品は依然として、すべてが安心安全とは、決して言えないのである。

それでも中国製品は、とにかく桁外れに安い。販売価格やコストを意識するあまり、なり振りかまわず日本の業者は我先にと製品そのものの輸入に走ってしまっている。

中国では経済成長にともなって人件費が上昇しているが、今も昔も世界が中国に対して求めるのは『安さ』である。昔は一目で粗悪品と分かる代物であったが、今は見た目では判別のつかない部分(安全面等)を軽視することによって、人件費が上昇した現在でも安価な商品を提供し続ける事を可能にしているのではないだろうか?

残留ホルムアルデヒド、製品から放射能検出、燃えてしまう難燃繊維、これらは製品をパッと見ただけでは判別がつかない。

 

2012年末、中国製の紙オムツ(メリーズ)を使った乳児のお尻がかぶれたというニュースが中国国内で話題になり、『やはり中国製は信用できない。日本製のオムツが欲しい!』との声が富裕層を中心に高まり、現在に至っても花王のおむつの品薄が続いているらしい。

花王は中国国内にも営業拠点を持っていて、メリーズを販売している。しかし中国人は中国国内で製造されているメリーズは「日本製よりも劣る」と思い込んでいるらしく、中国国内製よりも高い日本を買い漁っているそうだ。

このことから、中国国民ですら中国製品を信用していないのが分かる。

 

と、批判的な事を書いてしまったが、「価格」は企業や消費者が商品を選ぶ際の重要な選択肢であることは間違いない。そのため企業はコスト削減の必要に迫られ、それを実行する為には海外工場は不可欠であり、当社も一部の製品において中国工場を使っている。

しかし中国製品をそのまま輸入し販売するのではなく、当社は国内の原料メーカーから原料を購入し、国内で紡績をし、国内で染めをし、その出来上がった材料を中国へと移動し、そこで織りと縫製を行い、それをまた日本へ移動させ、最後の検品と梱包は、国内で行うのである。

つまり「織り」と「縫製」という目で見て良し悪しを判断出来る工程しか外国には任せないのである。

 

最後の工程である検品と梱包を一枚一枚100%国内で行うことによって、手抜きや、すり替えの有無、品質の違うものが混ざってないかなど、ある程度、防波堤の役割を果たす事は可能だが、更なるコストダウンの為にそれらをも中国に任せてしまうと、性善説に基づき、ほんの数枚を抜き出して検査するぐらいの心細い方法でしか、確認のしようがないのである。

ちなみに不安症の私個人としては、中国製品に性善説は通用しないのではないかと考えている。

 

多くの企業や消費者は、「価格だけ」を選択肢に上げているのではなく、品質と価格の両方を十分に比較検討したうえで、コストパフォーマンスに優れた安心なものを買いたいと考えているはずだ。

安いだけで、品質や安全が伴わない商品はコストパフォーマンスが良いとは言わない。

価格が期待に応えられても、品質が、消費者の期待に応えられないものであれば、企業の信頼は失墜してしまい、次の注文はなくなるだろう。

価格は重要な選択肢ではあるが、「安いだけ」の商品を扱っては企業の未来は無いのである。

中国から「検品梱包済みの完成品」を仕入れるのが、最もコストダウン出来る方法である。

しかしそれは安心安全面を、ある程度犠牲にすることだ。

安心・安全を確保するには手間と時間がかかる。

だから、ある線までのコストが絶対に必要で、それ以上コストを下げようとすれば、見た目では判断のつかない安全安心の部分でコスト削減するしかないのだ。

会社を末永く存続させて行くためには、「安さ」よりも「品質と企業への信頼」が重要だと私は考えている。また安心安全が伴ってこそ、ようやく初めてコストパフォーマンスの良い商品と言えると考えている。

安いだけの商品に、お客様の満足は無い。

だから当社は中国から「完成品」を輸入しない!のである。

 

「安さ」と「安心安全」を同時に求めようとすると、色々なところに無理が発生する。

「とにかく安ければ良い!」という需要が拡大し、「安かろう悪かろう」の輸入製品の大量流入が続くと、真面目に物づくりをしている国内産業の成長が阻害され、国の経済基盤や今後の発展にまで弊害を生み出すのではないかと私は懸念している。

 

2014年

10月

19日

仕事とは??

左の写真は、2014年10月13日付の読売新聞・ 大阪版の朝刊に掲載されていたものである。

戦後最悪の火山災害となった御嶽山の噴火で、行方が分からなくなった7名の捜索をしている隊員たちの姿である。写真の説明では、自衛隊、警察官、消防隊員らで構成された合同捜索隊とあった。

隊員たちの頭上には、今にも落ちて来そうな大岩が、かろうじて留まっているように見える。

いつ命を落としてもおかしくない過酷な状況の中、自らの危険をかえりみず、黙々と捜索活動に携わる方々に、私は畏敬の念を抱かずにはいられなかった。

それと同時に「仕事とは、人にとってどういう存在なのだろう?」と疑問が湧いた。

 

ここ数日、エボラ患者の治療にあたっていた医師や看護師がエボラに感染したというニュースが次々と入って来た。まさに命がけの現場である。

誰だって、そんな危険な仕事をしたくないだろう。

しかし「誰かがやらねば」という使命感、責任感から、本心では恐ろしくても逃げ出さずに職務を遂行し、社会に貢献している人たちが沢山いる。

日本からも女性の看護師が1名、西アフリカに派遣された。

そのかたが「防護服を着ていても、患者の血液や嘔吐物に触れたときは、緊張したし恐怖を感じた」と仰っているのを新聞で見た。

またエボラ患者の遺体を埋葬する仕事についている現地住民の男性は、TVのインタビューに「感染対策が万全ではなく不安だが、自分の国を守るために自ら志願してやっている」と答えていた。

 

多くの人たちの「仕事をする理由」は、お金を稼ぐ為であろう。

しかし、お金を稼ぐために、自らの身の危険を冒せるか?と問われると「NO」と答える人がほとんどだろう。

命がけで働く人たちにとって仕事とは、「生計を立てる手段として従事する労働」ではなく、もっと次元の違う存在なのであろう。

「人を助けたい」という信念や、「自分には助けられる能力があるのだから、行かなければ」という使命感が、命がけの現場に彼らを向かわせるのではないか。

また職務を全うしなければ!という強い責任感が彼らにはあるのだろう。

仕事を通じて自分は社会へ貢献出来ているという充足感も高いであろう。

 

彼らのような特別な仕事とは違って、我々のような一般的な仕事の場合、遣り甲斐や使命感そして信念を持って仕事に打ち込むのは、難しいかもしれない。

しかし一人一人に役割(仕事)があり、その役割を誠実に果たすことによって、大小の差はあれど、何らかの形で社会に貢献出来ていると私は信じている。

私には、彼らのような特別なことは、とてもじゃないが出来ない。

私に出来ることは、危険な環境の中で仕事をする方々に感謝しながら、私は私の職務を人生をかけて遂行することだ。

 

2014年

10月

12日

背伸び

私の曽祖父である「竹松じいさん」は、明治時代に地方村相撲の覇者だったそうで、位は大関(横綱の呼称は当時、プロ力士しか使用が許されていなかった)であった。

地元のお寺の記録によると、竹松じいさんは、6尺3寸、30貫、今でいうと約190cm、120㎏ほどの大男であったらしい。

当時の日本人男子の平均的な身長が約155cm体重約50㎏から考えると、まさに飛び抜けた大きさであっただろう。

私が後援会会長をさせて頂いている全日本柔道選手権準優勝の石井竜太選手がたぶんこれに近いくらいだろうか!?

 

母は生前、前記のご先祖さまの話を私に聞かせてくれながら、「毎日、最低2回は背伸びをしなさい。そしたら、あなたも必ず180cmを超えて、竹松じいさんのように相撲の強い男になれる。」と言っていた。母は、よほど私に竹松じいさんのような男になってほしかったのか、それは私が幼稚園児から中学生になるまでの間、幾度も聞かされた。

私は気が向いた時にしかその言い付けを守らなかったが、遺伝子の影響もあってか、中学3年生の身体測定で180cmを少し超えることができた。

きっと母は大喜びすることだろう!と勇んで報告に行くと、母は、少しばかり微笑みながら一言だけ褒めてくれたあと、今度は逆に厳しい顔を作って「体も態度も、もう充分大きくなったし、もう背伸びはしなくていい。これからは、人間として背伸びをしなさい」と言ってきたのである。

中学生の私は、母のその言葉の真意を即座には理解できず、意味を聞いてみると、以下のようであった。


自分の能力の範囲内のことだけをしていると、人は成長出来ない。

大人から見たら、背伸びをしているように見えても、若いうちは沢山恥をかいたら良い。

人は背伸びをすることによって成長出来るのだから、自分の能力以上のことだと思っても「出来ません」じゃなくて「出来ます」と言いなさい。

そう言ってしまえば、本当に出来るようにならないと面目を失ってしまうから、カッコつけのお前は一生懸命にやるだろう。

知らないことでも「知っています」と言いなさい。そして、そう言ったからには、そのあとには図書館に調べに走りなさい。そうしたら、嫌でも一つ賢くなれる。

こんな事が出来るのは若者の特権。若いうちは、知ったかぶりがバレても、謝ったら許してもらえる。

だから、いつも自分の能力以上に背伸びをしなさい。・・・と説明してくれた。

 

これは社員教育にも通じるだろう。

成長を期待出来る社員には、現在の能力以上の背伸びが必要な仕事を任せ、上司は、それを支援して行くほうに回ることで、社員の潜在能力を引き出すことが出来る。

背伸びをしている間は、本人もそれを支える周りも大変であるが、いつしか身の丈が伸び、足底がピタリと地に付くようになるだろう。それが人としての成長だろう。

 

今この記事を書きながら、自分の若い時代を振り返ってみれば、母の言葉通り?!、常に背伸びをしており、身の丈に合わないような大きな言動をする生意気で憎たらしい人間だったように思う。

沢山の方々に迷惑と不快感を与え続けて来たような気がする。

正直言うと52歳になった現在でも日々、背伸びをしている状態である。しかし、この背伸びで自身を成長させ、これまでに私を支えてくれた皆様に「恩返し」が出来るよう、粉骨砕身の覚悟で励んでいる次第であります。


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